蕞の戦いは、キングダムでも李信や秦王政の見せ場になっています。
李牧と春申君は函谷関を攻める楚・趙・燕・韓・魏で正面から秦を攻めるように見せかけていました。
しかし、それと同時に別動隊で蕞を攻めていたわけです。
キングダムでは楊端和(ようたんわ)が救援に来たり、秦王政が自ら蕞に赴き民衆を兵士に変えて奮戦しました。
その甲斐もあり死地を脱出し蕞の戦いでは見事に守り切る事に成功しています。
尚、蕞の戦いですが、史記にも載っていますし実際にあった戦いです。
史実では龐煖が合従軍の精鋭部隊を率いて、蕞を攻撃した戦いとなっています。
蕞の戦いの史実
蕞の戦いの史実ですが、史記の趙世家の記録だと一言で終わってしまいます。
龐煖が趙・楚・魏・燕の4カ国の精鋭を率いて蕞を攻めたが抜けなかった
たったのこれだけです。
史実だと春申君の函谷関の戦いと連動しているなども記載がありません。
ただし、同年の出来事になっていますから、春申君と連動して秦を攻めた事は間違いないでしょう。
さらに、楚・趙・魏・韓・燕の合従軍はその後に、兵を返して斉を攻めた記述も史記に載っています。
史実に残っている蕞の戦いの資料はこれしかありません。
尚、合従軍は春申君が主導したが失敗した事で、楚の考烈王の信任が薄らいだとあります。
合従軍の構成
蕞の戦いで重要なポイントなのが、蕞の位置だと言えます。
史記の始皇本紀では、次の記述があります。
韓、魏、趙、衛、楚が秦を討ち寿陵を取った。秦が出兵すると五国の兵は退いた。
この記述を解説すると、秦を討った合従軍の名前の中に衛が入っていますが、燕の間違いではないか?と考えられています。
資治通鑑にも合従軍が秦の寿陵を取った話がありますが、春申君が楚、趙、魏、韓、衛の軍を使って秦を攻撃し寿陵を取った記述になっていました。
しかし、衛は既に魏の属国の様な国でもありますし、衛の名前を入れるのは間違いであり燕が正しい様に感じています。
尚、資治通鑑では寿陵を攻めたのが龐煖ではなく、春申君になっています。
資料によっての記述の食い違いは、史記の内部でも起こっている事であり、我々を混乱させる要因にもなっています。
寿陵の位置
先ほどの記述で合従軍が寿陵を占拠した様な記述があります。
寿陵は生前に建てる王様が入るお墓を指します。
蕞の戦いの当時の秦王は嬴政であり、後の秦の始皇帝です。
これらの事を考えると、寿陵は現在の兵馬俑を指す事になるでしょう。
上の図を見ると分かりますが、現在の咸陽市(秦の首都)と兵馬俑はさほどの距離がない事が分かります。
戦国時代後期と現在では交通の便は確実に違いますが、現在で考えれば徒歩でも12時間もあれば、兵馬俑から咸陽まで行く事が可能です。
それを考えると龐煖が率いた合従軍の精鋭部隊は秦の奥深くまで攻め込んだ事になります。
秦に取って蕞の戦いは危機的な状況だったと言えそうです。
尚、戦国七雄の諸侯にとっては、秦を滅ぼす最後のチャンスだったとも言えます。
合従軍が敗れた理由
合従軍が蕞の戦いで敗れた理由ですが、一つの説として春申君が函谷関の戦いで敗北した事で、龐煖も蕞からの撤退を余儀なくされたという事はないでしょうか。
合従軍の作戦としては、春申君率いる合従軍が秦の本隊を函谷関に引き付ける。
その間に、龐煖が別動隊を率いて秦を攻撃し、秦の首都である咸陽を陥落させる作戦だった様に思います。
合従軍は咸陽を陥落させる事が出来なくても、秦の首都である咸陽間近まで軍を進め土地の割譲を要求するのが狙いだったのかも知れません。
函谷関の前にいた春申君は秦軍が函谷関で守りを固めると思いきや、秦軍が函谷関の門を開け合従軍を攻撃してきた。
不意を衝かれた春申君率いる合従軍は敗走。
函谷関の戦いで春申君が敗れた事で、龐煖は秦の内部で孤立する事を恐れ撤退の決断を下すという流れであったようにも思います。
函谷関の戦い後に春申君は楚の考烈王の信頼を失い自らも自分の領地である呉に移る事になりますが、春申君の函谷関の戦いでの負け方が余りにも酷かった為に、楚王の信頼を失った様にも感じました。
蕞を攻めた龐煖の方は韓非子の記録で、紀元前236年に行われた秦の鄴攻めの年に燕を攻めた記述があり、趙の悼襄王の信頼を失っていない事が分かります。
それを考えると、蕞の戦いでは春申君が函谷関の戦いで敗れた事が大きく原因している様に感じています。
ただし、龐煖は蕞の戦いの後に、斉の饒安を取った記述があり、それを趙の悼襄王に評価され将軍を続ける事になった可能性もあります。
尚、趙世家だと蕞の戦いの後に、慶舎や傅抵を平邑と東陽に配置した記述があり、函谷関や蕞で勝利した秦軍の反撃に備えての対応だったのかも知れません。
蕞の戦いのキングダムだけのシーン
キングダムの蕞の戦いでは、様々なドラマチックな事が起きているわけですが、先ほど紹介したように史実だと余りにも簡単な記述しかありません。
そのため架空の話を多く盛り込んでいるわけです。
それを紹介してみたいと思います。
キングダム作者の原泰久先生には申し訳ないと思いますが、暴露してしまおうと思います汗
秦王政は蕞に駆けつけてはいない
キングダムだと秦王政が助けに駆けつけた事になっています。
しかし、秦王政は生涯で一度も戦場に出た記録がありません。
他の6カ国が秦によって弱体化してしまった事もあり、一度も親征もせずに天下統一してしまったわけです。
統一後は蒙恬が北伐をしたり万里の長城の建設をしていますが、始皇帝(秦王政)が出陣したという話はありません。
巡幸などの視察は熱心にしていた記録がありますが戦に挑んだ形跡はありません。
ただし、趙を滅ぼして邯鄲を陥落させると、趙に乗り込み恨みのある人たちをボコボコニした話は残っています・・。
昌平君・楊端和・李信・李牧が参戦した記述もない
キングダムだと昌平君は敵対する呂不韋の派閥だったにも関わらず、秦王政に協力し蕞で戦っています。
しかし、史実を見ると昌平君は嫪毐(ろうあい)の乱を鎮圧した記録はありますが、蕞の戦いで出陣した記録はありません。
キングダムの蕞の戦いでは、昌平君の活躍が勝利を決定づけた部分もありますが、残念ながら史実ではない様です。
楊端和は率いる山の民がキングダムだと蕞の戦いに援軍として現れています。
楊端和は史実にも登場する実在の人物ですが、山の民だという記述はどこにもありません。
もちろん、女性だという記述もないわけです。
さらに、蕞の戦いにも参戦した記録がありません。
記録がないだけで参戦していた可能性はありますが、重要人物ではなかったのかも知れません。
さらに言えば、信(李信)も参戦した記録が一切ないです。
ただし、函谷関の戦いと蕞の戦いは紀元前241年の出来事となります。
楊端和は史実に初登場するのが、魏の衍氏を攻めた紀元前238年です。
そのため蕞の戦いで楊端和は功績を挙げて将軍になった可能性はあるでしょう。
李信にも同様に功績を挙げたために、将軍に近づいたのかも知れません。
ただし、これらは想像になるので、何とも言えない部分でもあります。
尚、李牧が蕞攻めは考案した事になっていますが、李牧自身もこの戦いに参加した形跡がありません。
龐煖が指揮した戦いになるのですが、史実の龐煖はこの時にかなりの高齢だったはずです。
悼襄王の曽祖父である趙の武霊王の時代から、龐煖の名前は記録に残っています。
高齢だったにも関わらず無理して戦場に来た可能性もあるでしょう。
尚、龐煖がバーサーカーだったなどの記述も史記には見えません。
史実では武霊王を、知的な会話で納得させるなどインテリにも見えます。
合従軍の弱体ぶりが目立つ
蕞の戦いは、最後の合従軍となるのですが、史実では諸侯の弱体化ぶりが目立ちます。
別の記事でも少し書いたのですが、史記の趙世家や楚側の記録だと、韓は函谷関の方には軍勢を送っていますが、蕞には送れていません。
蕞の方は、史記の趙世家では韓抜きの4カ国連合軍になっているのです。
この理由ですが、韓は秦にかなり領地を奪われていて弱体化していて、軍勢を送る事が出来なかったのではないでしょうか?
蕞の戦いの3年前には秦に13城を攻め落とされた記録も残っています。
兵士を送れないほど、韓は弱体化していたと言う事です。
さらに、魏の信陵君が亡くなると秦は蒙驁に命じて魏を攻めています。
この時に、魏の東部の20城を陥落させて東軍を設置したとあります。
戦国策によると、この時に秦の領地は東方の斉と通じるようになったと記載があります。
つまり、秦と斉が繋がった事で、秦の領土は諸侯の南北のつながりを断ち切ったと言う事です
もちろん、魏は多くの領地を失ったわけで弱体化しています。
蒙驁が魏の東部を奪ったのが紀元前242年なので、蕞の戦いのわずか1年前の事です。
さらに、趙は趙の国が出来るきっかけとなった太原郡・晋陽などの土地は既に秦に奪われていますし、楚も既に昔の首都である郢は秦に奪われて奪還出来ない状態です。
この事から諸侯は強国が秦1国の6弱の世界になっていた事が分かります
戦国七雄といっても秦が圧倒的な強さを持っていたわけです。
合従軍といっても兵力で言えば秦の方が上回っていた可能性も十分にあるかなと思いました。
蕞の戦いが秦の統一を決定つけた
自分の中では蕞の戦いが秦の天下統一を決定付けたと思いました。
函谷関の戦いで戦国四君の最後の一人である春申君や敗退した事や龐煖が蕞を抜けなかった事で、諸侯も秦には勝てない事を思い知ったのではないでしょうか?
特に蕞の戦いは龐煖が精鋭を率いて戦ったという記述があります。
各国で強い兵士を選んだ部隊を編成して蕞を攻撃したはずです。
精鋭部隊の連合軍であっても秦には勝てなかったのです。
そのため各国は合従軍を結成しても、秦は倒す事が出来ないと思い知った事でしょう。
これ以降は、合従軍が結成される事もありませんし、李牧と項燕以外で秦を破った人は見当たりません。
ただし、李牧や項燕は防衛戦争の意味合いが強く戦いに勝ち秦から領土を奪ったかは不明です。
尚、この頃の戦国時代は各国が秦に蹂躙されて滅ぼされる時代になっていて悲哀に満ちています。
秦以外の6国はいつ攻められるのか?と思いビクビクしていたのではないかと感じます。
蕞の戦いは秦の首都咸陽の手前まで軍が来ているわけですから、ここで秦に決定的な打撃を与える事が出来なかったのは諸侯にとって痛恨の一撃になったはずです。
逆に言えば、秦は天下統一への自信を深め、紀元前236年には趙の王翦、楊端和、桓齮が趙の鄴を陥落させるなど確実に諸侯の領土を削っています。
蕞の戦いと函谷関の戦いでの合従軍の敗北は、秦の統一を加速させたとも言えるでしょう。
絶望的な戦力差の前に、奮戦する諸侯に悲哀が満ちて来る時代となっていきます。