射援は正史三国志の先主伝に名前が見える人物です。
射援の兄である射堅は正史三国志の本文に名前は記載されていませんが、射援は正史三国志の本文に名前が記載されています。
射援は射服の子孫だとも記録されていました。
正史三国志の注釈・三輔決録注には射援と射堅の二人が掲載されていますが、実質的には射援が中心に書かれています。
射援は射堅と共に、中央から益州に来ましたが、兄と同様に重用されたと言うべきでしょう。
劉備が亡くなる時に、諸葛亮の口からも射援の事が述べられており、蜀では重きをなした人物だったと考えられる事が出来ます。
ただし、射援は文官だった為か、目立った活躍が期待されておらず、分かっている事は非常に少ないです。
皇甫嵩の娘婿になる
射援は司隷扶風郡の人であり、若くして高い名声を持っていたとあります。
射援は皇甫嵩の娘を妻にしました。
その皇甫嵩の娘婿になる辺りが、射援の期待度の高さが現れている様に感じました。
後漢王朝では霊帝が亡くなり少帝が即位しますが、何進が宦官に殺害され、怒った袁紹が宦官たちを皆殺しにした事件が発生します。
この時に、董卓が実権を握る事になり、後の董卓は李儒に少帝と何皇后を毒殺し、献帝を即位させました。
献帝が即位した時に、射堅は官位を捨て去り、射援と共に飢饉から逃れる為に益州に向かう事になります。
劉璋、劉備に仕える
正史三国志では射堅と射援は劉璋に仕えた事になっていますが、献帝が即位した時に益州を治めていたのは劉焉であり、劉焉に仕えたのが実際の所なのでしょう。
劉焉が亡くなると劉璋が後継者となり、劉璋が兄の射堅を長史に任命したとあります。
この時に、射援がどの様な役職を貰ったのか、仕官しなかったのかは不明です。
後に劉備は劉璋から益州を奪いました。
劉備の入蜀の時に、射援がどの様な動きをしたのかは不明です。
しかし、射援は劉備に仕える事になります。
劉備は後に法正や黄忠の活躍もあり、夏侯淵を定軍山の戦いで破り漢中の地を手に入れました。
この時に、群臣達が劉備を漢中王に推挙しますが、その中に「議曹、従事中郎、軍議中郎将の臣射援」の名前が見えます。
これを見ると分かる様に、射援は多くの役職を兼務し、劉備勢力の中でも中枢にいた事が分かるはずです。
尚、下記が射援と共に劉備を漢中王に推挙した群臣となります。
劉備を励ます
劉備は後に皇帝に即位しますが、陸遜に夷陵の戦いで大敗北を喫しました。
劉備は白帝城に逃れますが、自分の命が長くはないと悟ると、自分の子である劉永、劉理や諸葛亮、李厳を呼び寄せています。
劉備は劉禅を戒める為の遺詔を出しますが、その中で次の言葉があります。
※正史三国志 諸葛亮集より
劉備「射君(射援)が来た時に、次の様に述べていた。
丞相(諸葛亮)はお前(劉禅)の智力が非常に大きく、思っていたよりも遥かに進歩していると」
この後に、劉備は劉禅を戒める為の言葉が続くわけですが、射援が劉備の元を訪れた事が分かります。
この記述を見る限りだと、白帝城で体調を崩した劉備の元に、射援が訪れ劉備を励ます為に、諸葛亮が劉禅を褒めていたと伝えたと考えることが出来ます。
諸葛亮が、射援を祭酒に任命した話もあり、射援は諸葛亮とも近しい仲だった様に感じました。
ただし、射援がいつ亡くなったのか?の記述はなく、どの様な最後を迎えたのかも不明です。
劉備の最後に名前が挙がる事を考えれば、劉禅の時代に死去したと考えるのが妥当といった所でしょう。