馬陽の戦いは漫画キングダムに登場する架空の戦いです。
馬陽の戦いは史実でもあったのではないか?と思うかも知れませんが、司馬遷の史記を読む限りでは馬陽の戦いは存在しません。
ただし、全てが創作というわけではなく、馬陽の戦いの前に蒙驁が韓の11の城を陥落させていますが、こちらは史実です。
馬陽の戦いの一番の見どころは秦の怪鳥と呼ばれた王騎の死となるのでしょう。
史記を見る限りでは「王騎は亡くなった」と書かれているだけであり、馬陽の戦いで戦死したなどとは書かれてはいません。
しかし、馬陽の戦いは秦の六将の生き残りである王騎の凄さが詰まっている戦いでもあり、見所が多く読んでドキドキした人も多いのではないでしょうか。
王騎と龐煖の摎を巡る因縁もあり、ストーリー的に非常に面白い戦いだと感じています。
今回はどの様に軍を動かしたのかなどの戦略をメインにして、キングダムの馬陽の戦いを解説します。
尚、馬陽の戦いと名前が似ている馬陵の戦いがありますが、こちらは孫臏と龐涓が戦った全く別の戦いとなります。
趙軍が動く
紀元前244年の呂不韋の号令の下で蒙驁が出陣し、韓の11の城を落す活躍を見せました。
実際に史記の始皇本紀を見ると、蒙驁が韓を攻撃し12の城を落した記述があり、史実に対応した話になっている事が分かります。
キングダムでは既に魏には麃公、楚には張唐が目を光らせており、趙は三大天が不在で軍を率いる者がいないと蒙毅は判断しており、秦の首脳部も同様に考えでいたのでしょう。
秦では趙は攻めてこないと判断しますが、馬央が趙の公孫龍により突如として攻撃を受けました。
馬央は趙軍により壊滅し、趙将・万極により蹂躙されています。
秦では趙軍に対抗する為に、徴兵が行われました。
これにより澤圭、尾平、尾到らは徴兵され戦場に行く事になります。
ここから馬陽の戦いが始まる事になります。
総大将・王騎
趙軍は12万程であり、秦は10万の兵を揃え趙と戦いを挑む事になります。
呂不韋は蒙武を総大将にしようとしますが、昌文君が異を唱えました。
昌平君が昌文君に異を唱えた理由を聞くと「この戦いで求められるのは守であり、攻ではない」と述べています。
ここで王騎が現れ嬴政と二人だけで話す事になり、王騎は秦の昭王の事を嬴政に話しました。
嬴政は王騎を秦軍の総大将に任命しています。
これにより馬陽の戦いでの秦軍の総大将は王騎と決定しました。
尚、趙軍では名目上の大将は龐煖ですが、軍を指揮したりする実質的な大将は趙荘となっています。
百人将の信
信は蛇甘平原の戦いの活躍などもあり、馬陽の戦いでは百人将になっていました。
ただし、特殊百人部隊という位置づけとなっています。
信の部下となる伍が作られますが、伍長は下記のメンバーとなりました。
沛浪 | 脇次 | 山和 | 茷建 | 崇原 |
田永 | 有義 | 魯延 | 文穴 | 松左 |
澤圭 | 尾平 | 尾到 | 田有 | 中鉄 |
竜川 | 去亥 | 竜有 | 邦 | 石 |
さらに、渕と羌瘣が副将に就任しています。
このメンバーが飛信隊の原形となります。
蒙武の突破力
馬陽の戦いが開戦されますが、秦軍の中央に配置された蒙武が圧倒的な強さを見せ中央突破を試みる事になります。
しかし、趙の李白が冷静に判断し対処しました。
李白は守備が得意な武将であり、蒙武の突撃を無効にするべく動いたわけです。
趙は左軍に破壊力がある渉孟を配置し兵も多くなっており、秦の右軍に攻撃しています。
秦の右軍は苦戦しますが、王騎は秦の右軍に行き干央に苛烈な戦いになると告げました。
王騎は信の元に行くと乱戦の中で、趙の右軍の将である馮忌の首を取るように命じています。
王騎は趙の将軍の数を減らす作戦に出たわけです。
初戦の経過
馬陽の戦いは完全に始り、右軍、中央軍、左軍の全てで戦闘が始まりました。
秦の右軍は趙の渉孟により押されまくり、第二軍の半ばまで崩壊してしまいます。
中央の蒙武も李白の守備に阻まれ勢いを失くしたままでした。
秦の左翼では干央や壁が奮戦していました。
しかし、馮忌が策を持って待ち構えていたわけです。
その頃に信が率いる飛信隊は密かに隘路を通り、馮忌の軍を急襲すべく動いていました。
飛信隊は馮忌の軍の真横まで辿り着く事になります。
馮忌の戦死
秦の左軍は押しまくりますが、馮忌の計略により矢の雨を浴びる事になります。
こうした中で信たちは寡兵で、馮忌の軍に横から攻撃を仕掛けています。
馮忌の軍の正面で戦っていた壁は負傷しますが、ここで干央が騎馬突撃を仕掛けました。
信たちは馮忌の親衛隊をすり抜けて馮忌の元まで辿り着く事になります。
しかし、馮忌は後退しており信らは絶望しますが、干央らも中央を突破し馮忌の元まで辿り着いています。
さらに、壁も前進し秦軍を助けました。
馮忌は戦いが始まった時から、王騎の策に嵌っていた事に気付く事になります。
馮忌の前に干央が現れるますが、信が馮忌を討ち取っています。
これにより趙の右軍は崩壊しています。
この頃に中央では蒙武が突撃を繰り返しますが、李白に巧みに陣形を変えられ対処されていました。
趙の左軍では渉孟と万極が暴れまわり、趙軍が圧倒的に優勢でした。
こうした中で趙荘が退却のドラを鳴らせ、王騎も退却を命じ馬陽の戦いの初日が終わったわけです。
馬陽の戦いは戦死者は出るも、趙軍は馮忌を失う結果となりました。
策を凌駕する蒙武の武勇
馬陽の戦いは二日目に入りますが、秦軍は前日と同じように蒙武を中央に配置し、趙は李白に迎撃させる態勢を取りました。
蒙武は突撃しますが、李白は斜陣で対応し、蒙武を包囲しようと動きます。
ここで蒙武は策を凌駕するほどの圧倒的な力を見せ、李白は後退しました。
蒙武は李白を追わず趙の雑兵の掃討に掛かる事になります。
馬陽の戦いの二日目は蒙武が圧倒的な強さを見せ終了しました。
馬陽の戦いの三日目になると、趙は蒙武対策として、左軍後衛の公孫龍の軍を中央に移動させています。
趙は蒙武を李白と公孫龍の二人で、対処させようとしました。
蒙武は突撃を繰り返しますが、李白と公孫龍の二人掛かりでも蒙武を止めるのは難しかったわけです。
ただし、趙軍はまだ崩壊しておらず、三日目は終わりました。
戦況が大きく動く
馬陽の戦いの四日目に入りますが、趙荘は李白と公孫龍に守備を任せ、蒙武の軍を背後から万極と渉孟が襲う作戦を立てました。
これに対して王騎は直属の部下である録嗚未、隆国、鱗坊、干央、同金を蒙武に預ける事になります。
王騎は蒙武に多くの兵を与え一気に趙の本陣を落す作戦に出ました。
四日目に戦いが始まると、趙荘は自らが王騎に及ばない事を悟ります。
しかし、趙荘はまだ諦めておらず、軍を後退させました。
秦軍は鱗坊が渉孟の軍と戦い、隆国が万極と戦闘を行っています。
録嗚未、干央、同金は趙の本陣に攻撃を仕掛け、蒙武は李白と公孫龍の軍と戦う事になります。
馬陽の戦いは四日目で大きく動きました。
趙軍は明らかに戦闘で苦戦しますが、こうした中で李牧がカイネと共に戦場に到着する事になります。
秦軍は趙の本陣を奪いますが、趙は戦力を温存したまま本陣を移動させただけであり、戦いは続く事になります。
追撃の範囲
秦の本陣では軍議が開かれますが、王騎は蒙武の判断で追撃を行ってもよい事にしました。
ただし、王騎は「追い打ちをかけてよいのは、趙の本陣だった山が見える範囲まで」としたわけです。
この趙の本陣が見える山が見える範囲までの追撃と言うのが、馬陽の戦いの勝敗を分ける事になります。
王騎は楽々と趙が本陣にしていた山に移る事が可能になりますが、違和感を覚えました。
王騎は趙荘の他に姿を現さない別の大将がいると考えたわけです。
趙荘がいた山を王騎は占拠し本陣としました。
龐煖の襲来
飛信隊は夜になると和やかにしていましたが、突如として龐煖が秦軍をたった一人で急襲しました。
秦軍は混乱し信が様子を見に行き、干央も異変に気付きました。
この時に龐煖と飛信隊が交戦状態となり、山和は一撃で龐煖に斬られ死亡しました。
有義は矛を持ち龐煖に向かっていきますが、一撃で胴体を真っ二つにされています。
さらに、邦も龐煖に首を飛ばされました。
信と羌瘣の二人掛かりで龐煖と戦いますが、二人とも実力で龐煖には及ばなかったわけです。
尾到の最後
干央は現場に駆け付けますが、趙の万極もおり戦いとなります。
信が龐煖を討とうとしますが、失敗しまたもや気絶してしまい、飛信隊は逃亡しました。
動けない信は尾到が背負って逃げる事になります。
尾到は深手を負った状態での逃亡であり、ここで亡くなっています。
馬陽の戦いでは重要人物の一人であった尾到が最期を迎えました。
蒙武の追撃
朝になると馬陽の戦いの本戦が始まりますが、王騎はいとも簡単に渉孟を討ち取っています。
しかし、趙荘は渉孟を失ったのは痛手としながらも、勝ちを確信した様な様子でした。
隆国は趙の本陣の位置を王騎に狼煙をあげて送りました。
王騎は狼煙の場所に向かっていく事になります。
蒙武は龐煖に襲い掛かりますが、龐煖は逃げ出し蒙武は追跡しました。
この時点で蒙武は趙荘の策に嵌っていたわけです。
王騎の情報源
王騎は本陣の旗で部下達とメッセージのやり取りをしていましたが、蒙武が龐煖を追いかけ前に出過ぎてしまった事で、蒙武の情報が途絶えてしまいました。
上記の図を見ると分かりますが、王騎の軍はおびき寄せられてしまったわけです。
蒙武は龐煖を追いかけますが、その度に趙の計略が発動し秦軍は兵の数を減らしました。
王騎も蒙武を救う為に山の奥に入って行く事になります。
楊端和が咸陽に到着
こうした状況の中で楊端和が咸陽を訪れ、嬴政と面会をしました。
趙は情報封鎖を行い趙が匈奴に大勝した事を秘密にしておいたわけです。
この時に匈奴を完膚なきまでに叩いたのが李牧だという事が判明します。
楊端和は北方の趙軍が密かに軍を動かし、馬陽の戦いに参戦させると考えました。
実際に、李牧は王騎の首を取るために狙っていた策となります。
尚、李牧が匈奴に大勝したのは、史記の廉頗藺相如列伝にも書かれている事であり、史実です。
余談ですが、キングダムの連載が始まる前の読み切りがありますが、ここでは北方の匈奴を討つ前の李牧とカイネの姿が描かれました。
王騎と龐煖の一騎打ち
蒙武の軍は釣り鐘状の地形に寡兵で追い込まれており、窮地に陥っていました。
こうした中で王騎が追いつく事になります。
趙荘の1万2千の兵と王騎の1万の兵が対峙しました。
王騎は強引に素早く勝敗を決しようとしており、既に趙の援軍が何処かにいるかと考えていたわけです。
趙軍の背後は崖で秦軍が追い詰めている様にも見えますが、援軍の到来があれば形勢は一気に逆転してしまうと考えての速戦だったと言えるでしょう。
趙軍は王騎の突撃に苦戦しますが、ここで龐煖が王騎に戦いを挑みました。
王騎と龐煖は摎の事で因縁があり、激しくやりあいますが、秦の騰は趙荘を狙っていたわけです。
秦軍の勝利条件には趙荘を討つ必要もありました。
両軍が見守る中で王騎と龐煖の一騎打ちは続きますが、このタイミングで李牧率いる趙軍が到着しました。
李牧が到着した時点で、趙荘は馬陽の戦いでの勝利を確信しています。
趙の李牧の軍が秦軍に攻撃を掛けると、趙軍が圧倒的に優勢になりました。
しかし、逃亡しようとした趙荘は騰に討たれています。
王騎と龐煖の一騎打ちは続きますが、魏加の放った弓が王騎の背中に直撃し、この隙に龐煖が致命傷を与えました。
重傷を負った王騎の馬に信が乗り蒙武らは趙軍に攻撃を仕掛け、道を作る事になります。
斉明は趙荘の仇を討つべきだと李牧に進言しますが、王騎の最後を悟り死に物狂いで戦う秦兵を嫌がり李牧も撤退を命じています。
これにより馬陽の戦いは最後となり、両者共に大きな犠牲を出し戦は終わりました。
この後に、王騎が息を引き取っています。