春秋戦国時代

范雎は屈辱から這い上がった秦の名宰相

2021年2月19日

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宮下悠史

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范雎(はんしょ)は、秦王政(始皇帝)の祖父である昭王の時代の人です。

当初はに仕えていましたが、中大夫である須賈の密告により宰相の魏斉に暴行を受けています。

酷い暴行を受けた范雎ですが、鄭安平に救助され張禄を名乗り秦国に向かう事になります。

秦では王稽の推挙により、秦の昭王との謁見が許され宰相に昇り詰めていきます。

范雎は遠交近攻策や秦の昭王に身内の在り方などを説いた人物でもあり、秦の名宰相と呼べるでしょう。

ただし、長平の戦い趙括率いる軍を完膚なきまでに破った、秦の白起の足を引っ張った部分があり、その点は汚点と言えます。

司馬遷の史記によれば、蔡沢を秦の宰相に推薦したのは范雎となります。

近年、睡虎地秦簡なる史記よりも古い資料が見つかり、睡虎地秦簡によれば王稽と范雎が同じ年に亡くなった記述もあり、范雎が王稽に連座して処刑されたと考える専門家もいます。(後述)

魏を出奔する

范雎は最初はに仕える事になります。

魏の中大夫である須賈に仕えていたわけです。

この時の魏の宰相は王族の一人である魏斉でした。

戦国七雄の一角であるへ、魏斉が使者として行った時に、斉の襄王は范雎を高く評価し誼を結ぶ為に范雎に大層な贈り物をします。

斉の襄王は范雎が成りあがる事を予測し、早くから誼を結ぼうと考えたわけです。

しかし、范雎の上司である須賈は、斉王と范雎の行動を怪しみ上司である魏斉に訴える事になります。

須賈の話を聞いた魏斉は、范雎が魏国の情報を斉に売ったと考え范雎に刑罰を加える事になります。

魏斉は范雎に暴行を加え便所に放り込み、小便を掛けるなどの屈辱を与えたわけです。

范雎を気の毒に思った鄭安平は、機転を利かせ范雎が亡くなった事にし逃がしてくれます。

范雎は魏斉への復讐を誓い、張禄と名前を変え秦に入る事になります。

ここでは、范雎の名前で話を進めますが、秦に入ってからも張禄を名乗っていた話もあります。

秦で宰相となる

范雎は秦で宰相となりますが、どの様にして秦の昭王の心を掴んだのか解説します。

秦の宰相魏冄

范雎が秦に行った時に、秦の宰相は魏冄(ぎぜん)という人物でした。

魏冄は名将白起を用いたり、自らも兵を率いて秦を強国にした宰相でもあります。

ただし、魏冄は清貧と呼べる人ではなく多くの蓄財を成した人物でもあります。

魏冄は秦の昭王に、他の人物が気に入られる事を恐れ警戒していました。

范雎は王稽の馬車で秦に入りますが、途中で魏冄の馬車とすれ違います。

魏冄は最初は王稽の馬車を通り過ごしますが、途中で気が付き王稽の馬車をチェックする事にします。

しかし、范雎は機転を利かせ馬車の外にいた為に、魏斉の調べを逃れる事になりました。

范雎の機転を利かせたエピソードでもあります。

遠交近攻策

范雎は秦に到着すると、王稽の推挙により秦の昭王との謁見が許される事になります。

この時に范雎は、わざと間違えて後宮に入ってき「この国に王はいない。いるのは魏冄と大后だけだ。」と言い放った話があります。

范雎は秦の昭王の関心を得るために、わざと心を揺さぶる事を言ったのでしょう。

范雎は秦の昭王との会見となると、周りを気にし遠交近攻策を秦の昭王に進言します。

つまり、遠くにいる斉やと誼を結び国境を接しているを攻める様に言ったわけです。

さらに、秦の宰相魏冄が実行しようとしたへの攻撃を間違いだと指摘しました。

これらの言葉が秦の昭王の心に刺さり、秦の昭王は再び范雎と謁見する事になります。

外戚との在り方を説く

再び范雎は秦の昭王と謁見しますが、この時に二人だけで会談がしたいと述べます。

ここで范雎は秦の昭王と外戚の在り方を指摘します。

この当時の秦の政治は、秦の昭王ではなく、魏冄、宣大后、華陽君、高陵君らが政治の実権を握っていました。

秦の昭王は名目上は決定感がありますが、政治を動かしていたのは外戚である、魏冄、宣大后、華陽君、高陵君だったのです。

范雎は秦の昭王に外戚との在り方を説き、今のままだと「問題があった時に、秦の昭王は責任を取らされること。秦の昭王の子が次の秦王になれない事もあり得る」と述べます。

范雎の言葉に秦の昭王は、強く心を打ち魏冄、宣大后、華陽君、高陵君らを函谷関の外に追放し、范雎を宰相に任命しました。

ここにおいて、宰相范雎が誕生したわけです。

尚、范雎は秦では応侯とも呼ばれています。

秦を強国とする

范雎は宰相となるや秦を強国になる為に手を打っていく事になります。

范雎が宰相が行った遠交近攻の策は秦の統一の原動力にもなります。

范雎が宰相の位を去ってからも、秦は遠交近攻策を続け嬴政(始皇帝)の時代に戦国七雄の他の国を全て滅ぼし中華を統一しました。

それを考えれば、秦の天下統一は范雎の遠交近攻策で決定的となった部分もあると感じます。

ただし、范雎が内政などで、どの様な政策をしたのかは分かりません。

しかし、秦では孝公の時代に秦の宰相だった商鞅の法家の政策を引き継いでおり、范雎も踏襲したのでしょう。

秦の昭王は范雎に絶大なる信用を置いた事から、内政面でも上手くやったはずです。

春申君を庇う

范雎の時代の出来事として、紀元前263年に楚の頃襄王が崩御した話があります。

この時に、楚の太子完(楚の考烈王)は、秦に人質としていました。

太子完の世話役でもあった黄歇(こうあつ)は、楚の考烈王が楚国に帰国できぬ事を危惧し太子完を秦に無断で楚に帰国させてしまいます。

楚の太子完が楚の国に入った頃を見計らない黄歇(春申君)は出頭しました。

勿論、楚の人質である太子を無断で帰した事に秦の昭王は激怒し、春申君を処刑しようとします。

この時に、范雎はここで黄歇を殺してしまうと、楚の太子完は深い恨みを抱くと言い、黄歇を許す様に秦の昭王に進言します。

秦の昭王も黄歇の様な忠義の臣を殺すのは忍びないと考えなおし、黄歇を持て成し楚に帰国させました。

范雎の狙い通り、楚で即位した楚の考烈王は黄歇を重用し宰相とし領地も与えています。

これより、黄歇は春申君と呼ばれ多くの食客を集め孟嘗君信陵君平原君と並ぶ戦国四君の一人として数えらえる事になります。

尚、史記によれば春申君と范雎は交流があり親睦を深めていた話が史記にあります。

因みに、秦王政の時代である紀元前241年に春申君は楚、合従軍を率いて函谷関を攻めた記録があります。

紀元前241年の函谷関の戦いでは、秦は春申君の軍を撃退しますが、趙、楚、魏、燕の精鋭を率いた趙将龐煖(ほうけん)が秦の蕞を攻めた記述があります。

蕞はの首都である咸陽の間近であり、一歩間違えれば秦は滅亡する可能性すらありました。

龐煖は蕞を抜けずに、蕞の戦いは秦の勝利となりますが、ここで負けていたら范雎の責任は重大だったはずです。

春申君を殺せるタイミングで庇ってしまった事になるからです。

お世話になった人に報いる

范雎は宰相になりますが、魏斉から自分を救ってくれた鄭安平や王稽やお世話になった人達に報いています。

鄭安平は将軍に任命され、王稽は河東の太守に任命されました。

ただし、王稽は范雎に自分が出世されない不満を言った為に、范雎は王稽を出世させますが、内心は嫌悪感を覚えた話があります。

王稽があからさまに出世を望む態度だったからでしょう。

范雎は一夜の飯のお世話になった人々にも恩に報いた話があります。

ただし、恨みのある人物は全て復讐した話も存在します。

勿論、魏で屈辱を与えた魏斉に関しては容赦なく復讐しようと企てています。

魏斉に恨みを晴らす

范雎は魏斉に恨みを持っていました。どの様にして恨みを晴らしたのか解説します。

須賈を脅す

范雎が宰相になってから、の使者として須賈が秦に来た話があります。

范雎は、元の主君である須賈が来る事を知ると、ボロを着て須賈に前に登場します。

范雎が現れると、須賈は驚きます。須賈は范雎が既に亡くなったと思っていたからです。

范雎は自分が落ちぶれている事を話すと、須賈は憐れみ立派な着物などを与えています。

須賈が范雎に秦の宰相である張禄の事を探りを入れます。

范雎は張禄を須賈に合わせると言い、今度は立派な着物を着て秦の宰相として須賈の前に現れました。

須賈が恐れおののくと、范雎は魏斉の首を要求したわけです。

須賈は驚いて范雎に頭を下げ魏国に戻りました。

范雎の話を聞いた魏斉は逃亡する事になります。

秦の昭王の漢気

魏斉はから出奔しの平原君の元に逃げる事にします。

秦の昭王は范雎の敵討ちを手伝いたいと考え、趙に使者を送り平原君を招きます。

秦の昭王は平原君に魏斉の要求しますが、平原君は断っています。

秦の昭王は趙の孝成王に使者を送り平原君を帰して欲しくば、魏斉の首を寄越せと要求しました。

この時に、趙の宰相であった虞卿は宰相の印綬を帰し、魏斉と共に魏の信陵君の元に逃げようとします。

魏の信陵君は、魏斉を匿うか悩みますが、侯嬴の進言により魏斉を受け入れる決断をしました。

しかし、信陵君が魏斉に直ぐに会おうとしなかった為に、魏斉は絶望して自刃しています。

信陵君や魏の首脳部も魏斉が死んでしまった事で、魏斉の首を秦の昭王と范雎の元に届ける事になります。

魏斉の首が魏から届いた事で平原君は解放され、范雎も復讐を成し遂げる事が出来たわけです。

秦の昭王が漢気を見せて、范雎に協力した事が大きいと言えるでしょう。

尚、魏斉を助けようとした虞卿が魏斉を助けられずに困窮した時に、虞氏春秋を著したとされています。

白起と不和となる

范雎と白起は長平の戦い以後に不和となります。

長平の戦い

范雎が宰相をやっている時代に長平の戦いが勃発しています。

長平の戦いは、最初はの将軍である廉頗と秦の将軍である王齕が対峙していました。

王齕は廉頗に小規模は戦いは勝利しますが、決定的な打撃を与える事が出来ません。

廉頗は王齕率いる秦軍に勢いがある事を認識し、ひたすら守りを固めていました。

秦の首脳部は廉頗が相手では、趙軍を撃破出来ぬと悟り趙に向けて流言を流します。

「秦が恐れいているのは、趙の名将趙奢の子である趙括が将軍になる事だ」と偽情報を流したわけです。

趙の孝成王は藺相如などの反対意見を聞かず、廉頗の更迭を決め趙括を将軍に任命してしまいます。

ここで秦は将軍を王齕から白起に交代させます。

白起は趙括を完膚なきまでに叩き、趙兵40万を生

き埋めにするなど大戦果を挙げました。

史記や戦国策、資治通鑑などには記述がありませんが、趙への流言などは范雎が考えた可能性もある様な気がします。

長平の戦いは紀元前262年に始り、紀元前260年に戦いが終結したとされています。

尚、長平の戦いに関しては、下記に動画としてあります。

ゆっくり解説動画となっています。

白起の恨みを買う

白起は長平の戦いで勝利すると、の首都である邯鄲を落とそうと考えていました。

趙の方では、ここで秦に攻められたら一たまりもないわけで、蘇代(蘇秦の弟)を范雎の元に向かわせます。

蘇代は范雎に「白起が趙を滅ぼしたら白起は三公に昇進し、范雎は白起の下に置かれる事になる」と巧みに言い放ちます。

范雎は自分の上に白起が昇る事を嫌い、秦の昭王に白起の邯鄲攻めを中止させる様に進言します。

秦の昭王は白起の軍を停止させますが、白起は范雎を恨み、范雎と白起は不和となります。

尚、ここで秦が白起に邯鄲を攻めさせ、趙を滅ぼす事が出来たのであれば、秦の昭王の時代に天下統一もあったのかも知れません。

秦は翌年に、王陵を将として趙の邯鄲を攻めますが苦戦し、王陵から王齕に将軍を変えますが趙の邯鄲を落とす事が出来ませんでした。

秦の昭王は白起を将軍に任命しようとしますが、白起は病気を理由に断っています。

秦の昭王は范雎に白起を説得させようとしますが、白起は断りました。

白起は最後まで出陣を拒み最後は、秦の昭王により流刑となり自刃する事になります。

因みに、史記の白起王翦列伝には白起は応侯の企みには手が出なかったとし、白起の欠点を指摘すると共に范雎を暗に批判している様に見受けられます。

司馬遷は白起だけではなく、名将と呼ばれた王翦のやり方にも批判した記述が存在します。

尚、邯鄲籠城戦は平原君が奮戦し、食客・毛遂の嚢中の錐の逸話があり、宿場役人の李同、魏の信陵君が晋鄙の軍を奪い救援し、楚の春申君も楚の考烈王の命令で救援に来た事で趙は邯鄲を守り切っています。

邯鄲籠城戦に関しては、ユーチューブの動画にしてあります。

范雎の最後

范雎がどの様な最後を迎えたのか解説します。

鄭安平と王稽が罪を犯す

長平の戦いが終わり邯鄲籠城戦の時に、王齕の援軍として范雎が推挙した鄭安平が将軍としてに向かいます。

鄭安平は奮戦した話もありますが、最終的には二万の兵と共に趙に降伏する事になります。

鄭安平の降伏が秦で問題になります。秦の法律では鄭安平が問題を起こせば推挙した范雎も罪に問われる事になっていたからです。

范雎は筵を引き秦の昭王の前に現れますが、秦の昭王は周りに「鄭安平の事を口にした者は、鄭安平と同じ罪に処す」と無理やり范雎を無罪としました。

しかし、その後に范雎が推薦し、河東の太守になっていた王稽も諸侯と内通した罪で処刑されています。

王稽の時も秦の昭王は范雎の罪は問いませんでしたが、范雎の心は穏やかではありませんでした。

范雎と蔡沢

この様な時に遊説家の蔡沢が范雎に面会を求めます。

蔡沢は、范雎に秦の孝公が亡くなった後に、商鞅がどの様になったのか?

楚の悼王が亡くなった後の呉起が辿った結末。

越王勾践を覇者にした文種。秦の昭王と白起などの話をします。

蔡沢は范雎に「今のうちに宰相の印綬を返し引退しないと、後で酷い目に遭う」と述べたわけです。

蔡沢の言葉に范雎も納得し、病気を理由に秦の宰相を辞任する事を秦の昭王に伝え引退しています。

秦の昭王は、范雎の引退を速やかに許したわけですが、范雎が秦の宰相として留まりにくい空気もあったのでしょう。

范雎は後任には、蔡沢を推薦し蔡沢がの宰相となります。

蔡沢は宰相となりますが、数カ月で讒言に合う事を恐れ宰相の印綬を返しています。

秦では、商人出身の呂不韋の宰相時代に突入する事になるわけです。

范雎の死

史記や戦国策、資治通鑑、諸子百家などの書にも范雎の最後は書かれていません。

司馬遷が書いた史記には、范雎が天寿を全うした記述も存在します。

しかし、異論があり近年発見された新資料である睡虎地秦簡には、秦の昭王の52年(紀元前255年)に王稽と張禄(范雎)が亡くなった記述が存在するのです。

これが本当であれば、王稽が罪を犯し、蔡沢が范雎を説得し、范雎が宰相を辞任し、すぐに亡くなった事になります。

睡虎地秦簡の記述を史記を合わせて考えると、紀元前255年は秦では慌ただしく動いた年になります。

尚、睡虎地秦簡の記述で王稽と范雎が同じ年に亡くなっている為、実は范雎は王稽に連座して亡くなったのではないか?とも考えられています。

睡虎地秦簡の記述が正しければ、范雎は宰相を引退し悠々自適な位を送り、天寿を全うしたとは言えない事になります。

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