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波才は名将四人と戦った黄巾賊

2023年1月8日

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宮下悠史

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名前波才(はさい)
生没年不明
時代後漢末期、三国志
主君張角
年表184年 黄巾の乱
画像©コーエーテクモゲームス

波才は黄巾賊の頭目であり、朱儁皇甫嵩と戦った記録があります。

波才は官軍の代表的な将軍である朱儁を破っており、黄巾党にしてみれば幸先のよいスタートだったはずです。

しかし、朱儁や皇甫嵩は後漢末期でも最高峰と呼べる名将であり、結局は長社の戦いでは火計で軍が混乱した事もあり敗れました。

それでも、波才は名将と謡われる朱儁を破った実績があり、さらには曹操と戦うなど黄巾賊の中では善戦し、意地を見せた将軍だと言えるでしょう。

朱儁の軍に孫堅がいた事も考えると、波才は皇甫嵩、朱儁、曹操、孫堅と後漢末期を代表する四人の名将と戦った事になります。

今回は黄巾の乱張角側として戦った武将である波才を解説します。

尚、波才は竇融や竇武の子孫だとする説もあり、合わせて紹介します。

朱儁を破る

黄巾党の馬元義は洛陽で宦官などの内応者を募りますが、謀議がバレてしまい処刑されました。

馬元義の死を聞いた張角は急いで兵を挙げ、これが黄巾の乱へと繋がる事になります。

黄巾の乱の時に、豫州潁川郡において官軍と戦ったのが、波才となります。

霊帝は黄巾の乱の時に洛陽の守備は何進に任せ、黄巾賊の討伐には皇甫嵩朱儁盧植の三名を中心に行わせる事となります。

皇甫嵩や朱儁の軍は波才討伐に向かいました。

波才は朱儁や皇甫嵩の軍の出鼻を上手く挫いたのか、初戦で官軍を破る功績を挙げています。

因みに、波才と戦った朱儁は、交州での反乱を見事な手腕で鎮圧した実績があり、董卓にも物怖じしない名将気質の人物です。

皇甫嵩に至っては、唐代の武廟六中四将において関羽張遼周瑜陸遜などと共に評価された武将であり、名将の中の名将と言ってもよい人物となります。

名将と評価される皇甫嵩や朱儁と波才は戦っており、初戦において見事な采配を見せたと言えるでしょう。

長社の戦い

皇甫嵩朱儁が敗れた事を知ると、急いで長社に籠城しました。

波才は城に籠った皇甫嵩を大軍で包囲し、長社の戦いが勃発する事となります。

ここで皇甫嵩は兵たちを励まし、波才の軍が草むらの上に陣を布いている事を郡吏達に伝え、春秋戦国時代田単の例を挙げ火計を提案しました。

皇甫嵩は兵を四方に潜ませ火計を仕掛けると、波才の軍は混乱に陥り、軍の統制が取れなくなります。

ここにおいて、霊帝の命令で援軍として曹操が駆けつけ、多いに波才の軍を破りました。

皇甫嵩、朱儁、曹操の軍は波才の軍を多いに破り、数万の首級をあげた記録があります。

波才は長社の戦いで大敗北を喫しました。

尚、朱儁の軍には孫堅もいた事が分かっており、三国志でも屈指の名将揃いの軍に波才は敗れたとも言えそうです。

戦いに敗れた波才は陽翟まで逃れますが、官軍は汝南や陳を平定し、王允も救援に駆け付け、一気に豫州の反乱を鎮圧する事に成功しました。

波才がこの後にどうなったのかは記録がなく分かっていない状態です。

波才がどの様な最後を迎えたのかも分かっていません。

名門の出身だった!?

資治通鑑に波才の出自に関する記録があり、下記の動画(7分18秒辺りから)に詳しいです。

上記の動画を見ると分かりますが、波氏の起源は王莽が置いた将軍号である「波水将軍」と関係している様です。

波氏の起源は波水将軍の子孫であり、波氏を名乗ったとされています。

波水将軍に任命された将軍は、王莽没後に光武帝劉秀に仕え、三公や大司空を歴任した竇融しかいません。

それを考えると、波才は竇融の子孫という事になり、波才の家は名門となるはずです。

ただし、竇融の子孫の竇武は外戚として権力を握りますが、宦官との政争に敗れ第二次党錮の禁で誅殺されています。

竇武の孫の竇輔は生き残っており、劉表や曹操に仕えました。

これを考慮すると波才は「竇姓」を使った竇才でもよかった様に感じます。

しかし、動画制作者の亶夏王朝さんは次の様に述べています・

※動画内より

竇家から賊が出たと言う事実を隠す為に史書編纂の段階で姓を変えられた。

真実は不明ですが、竇家の人間にとって黄巾の乱に賊軍として参加した事は恥であり、名前を変えられてしまった説となります。

尚、波才は朱儁や皇甫嵩を相手に善戦した事実もあり、名将の子孫として兵法にも心得があったのかも知れません。

それでも、波才は皇甫嵩に敗れた後に、体制を立て直す事が出来ておらず、波才を名将と呼ぶには無理がある様に感じました。

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