その他 三国志

蒯良(かいりょう)は智謀の士ではなく仁義の人だった

2022年3月28日

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宮下悠史

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名前蒯良(かいりょう) 字:子柔
生没年不明
時代後漢末期、三国志
勢力劉表
コメント史実だと仁義を説いた事のみ記録されている
画像三国志14(能力値は最下部)

蒯良は正史三国志の劉表伝に記載がある人物であり、中廬の人だとする記述があります。

この記述を考えると、。荊州南郡中廬が出身地となるのでしょう。

蒯良ですが、三国志では劉表の軍師というイメージが強い様に思います。

蒯良が軍師というイメージが強いのは、三国志演義で計略を用いて、孫堅を討ち取った事が大きいと感じています。

他にも、三国志のゲームなどでは劉表陣営で最も知力系の数値が高いのが、蒯良になっている場合があり「蒯良=軍師」という印象が強くなったのでしょう。

実際の蒯良は正史三国志にも記載されていおり、実在した人物であると考えられます。

しかし、歴史書の記録では、蒯良が計略を使って劉表を助けたとする記述は皆無です。

史実の蒯良は策を弄するどころか、劉表に仁義を説いています。

史実の蒯良は三国志演義とかなり印象が違うと言えます。

尚、三国志演義では蒯良の弟が蒯越となっていますが、歴史書にその様な記述はなく、蒯良と蒯越の関係は不明です。

ただし、蒯越も中廬の人であり、蒯良と蒯越が同族の可能性は十分にあります。

因みに、房陵太守を務め孟達に斬られた蒯祺は、蒯良の親戚とする説があります。

史実の蒯良

史実の蒯良は正史三国志の劉表伝に僅かな記述があるだけです。

劉表は張角が引き起こした黄巾の乱が鎮圧された後に、荊州刺史として荊州に赴く事になります。

劉表は宜城に到着すると、中廬の蒯良、蒯越、蔡瑁らを招いて相談した話があります。

当時は荊州に近い魯陽に袁術が駐屯し、袁術は南陽の利益を独占しており、長沙太守の蘇代や華容県の貝羽が命令に服さないなど荊州は荒れていたわけです。

劉表は蒯良、蒯越、蔡瑁に次の様に述べています。

劉表「荊州は宗賊の勢いが強く民衆は付き従ってくれてはいない。

袁術は混乱を利用し機会を伺っている状態である。

この状況では災難が降りかかる事は目に見えており、儂は軍勢を徴兵したいと考えておる。

しかし、儂が号令を掛けても、軍勢が集まらないのではないか?と心配だ」

劉表は蒯良らに、自分に従わない者を討伐したいが、軍勢が集まるのか不安だと、心の内を出したわけです。

劉表の言葉に対し、蒯良は次の様に述べました。

蒯良「民衆が我らに従わないとしたら、仁愛が不足しているからです。

民衆が付き従ってくれたのに、国が治まらないのは信義が不足している事が原因となります。

仁義の道が確実に行われれば、人民は水が上流から下流に流れるが如く、身を寄せてくれるはずです。

なぜ行く先々の不服従を心配し、挙兵と人民への方策について、質問なさるのでしょうか」

蒯良は劉表に対し、仁義道徳が確実に行われれば、国は治まるから心配する必要もないと言った事になります。

現代人の感覚から言えば、かなりの綺麗ごとに聞こえるかも知れませんが、蒯良は儒家的な思想が強かったのでしょう。

個人的には、蒯良は孔子や諸子百家の、孟子の思想が強く反映されている様にも感じています。

劉表は蒯良の言葉を最もだと感じたのかも知れませんが、今の状況に会っていないと感じたのか蒯越を振り返り意見を求めました。

蒯越は「平和な時は仁義を優先させ、混乱の時代は策謀を第一とする」と意見を述べます。

蒯越は従わない者の首謀者を呼び出し、騙し討ちで全員を斬る様に劉表に進言しました。

劉表は蒯越の策を実行し、江南を平定したとあります。

ただし、劉表は蒯良と蒯越の策に関しては、次の様にも述べています。

劉表「子柔(蒯良)の策は百世の利を考え仁義を尊んだ雍季の議論と同じであり、異度(蒯越)の計略は咎犯の謀と同じだ」と述べました。

劉表は仁義よりも策謀を優先させ、荊州で大きな力を持つ事になります。

蒯良の仁義について

個人的な意見ですが、蒯良は劉表に仁義を説きましたが、用いられなくて当然だと思いました。

当時の荊州は混乱しており、民衆は戦乱により満足する食料も得る事が出来ず、困窮していたはずです。

春秋五覇の一人である斉の桓公を補佐した人物に管仲がおり「倉廩実ちて礼節を知る」と述べています。

つまり、衣食住が整って初めて「礼」の精神を知る事が出来るというわけです。

劉表が来た当時の荊州を見ると、賊が道を塞ぎ劉表自身が荊州に入れないなどの問題もありました。

こうした状況で蒯良の言う礼を述べても、綺麗ごとになってしまい役には立たなかったはずです。

戦国時代に孟子が諸国から相手にされなかった話がありますが、同じような感じで蒯良も相手にされなかった可能性もあるでしょう。

実際に、正史三国志だと蒯良の記録は、劉表に仁義を説いた事の一点だけしか記録がありません。

尚、蒯良と蒯越の意見を評した劉表の言葉から出た咎犯は、晋の文公に仕え、晋を覇者にするのに貢献した人物です。

三国志演義の蒯良

正史三国志の蒯良は、仁義を説いていますが、三国志演義など何故か「智謀の士」という要素が前面に現れる様に設定されています。

劉表は孫堅と戦いますが、劉表配下の黄祖が孫堅に大敗してしまいます。

この時に、蒯良は戦術の立て直しを行おうとしますが、劉表夫人・蔡氏の弟である蔡瑁が反対した事で、劉表軍はさらに敗れました。

劉表軍は孫堅に連敗しますが、ここで蒯良が呂公に命じて、孫堅を待ち伏せする様に指示しています。

結果的に蒯良の計略が成功し、孫堅は命を落とて、劉表軍の勝利が決まります。

蒯良は孫堅を討ち取ると「一気に江東を制圧すべき」と劉表に意見しました。

しかし、劉表は配下の黄祖が捕虜になっていた事もあり「黄祖を見殺しにはできない」と述べ、孫策との人質交換に応じています。

正史三国志では孫堅を討つのに大きく活躍したのが、蒯良という設定になっています。

ただし、お分かりの人も多いかと思いますが、これは史実ではありません。

三國志演義の創作と言えるでしょう。

三國志演義の著者である羅貫中は時として、正史とは全く別人を演じさせますが、蒯良を策士にした理由は、イマイチ不明です。

尚、蒯良は三国志演義では劉備が的盧を手に入れ、劉表に献上した時に、蒯越が「亡き兄である蒯良が・・」と述べた言葉があります。

三國志演義では蒯良は劉備が荊州にやって来た頃までには、亡くなっている設定になっている事が分かります。

蒯良は三国志演義の言葉を信じるのであれば、官渡の戦いの頃に最後を迎えたと考えるのが妥当でしょう。

蒯良の能力値

画像14統率68武力33知力88政治82魅力71

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