
扈輒(こちょう)の史実を解説します。
扈輒は戦国七雄の戦いを題材にした人気漫画であるキングダムでは、「邯鄲の守護者」の異名を取る武将として登場します。
キングダムの世界では趙の最高位は三大天と呼ばれる3人の将軍になりますが、別枠として「邯鄲の守護者」と呼ばれる存在がある様です。
邯鄲の守護者の名前からすると、籠城戦が得意なイメージがありますが、実際には野戦に出陣しており籠城のプロというわけでもなさそうです。
扈輒の名前は司馬遷が書いた史記にも名前が記載されており、実在した将軍だと考えられます。
今回は史実の扈輒がどの様な実績があるのか解説します。
尚、結論を言えば、扈輒は桓齮(キングダムだと桓騎)に平陽の戦いで大敗北を喫し10万の趙兵を失う事になります。
因みに、扈輒生存説があり最後に紹介したいと思います。
楚漢戦争で扈輒が彭越に謀反を勧めた話は、紀元前196年の話であり桓齮に敗れた年(紀元前234年)から30年以上経っている事になるはずです。
桓齮に敗れた時の年齢が20歳であれば十分に生きている事も考えられますが、個人的には信憑性は薄いと感じております。
扈輒の史実での記録
扈輒の記録は史記の廉頗藺相如列伝(廉頗、藺相如、趙奢、李牧の記録)、趙世家(趙の記録)、始皇本紀(秦の始皇帝の記録)に名前が登場します。
廉頗藺相如列伝には下記の記録があります。
秦は趙将扈輒を武遂で破り、これを殺し首を斬ること10万に及んだ。
これを見ると秦は武遂で扈輒を破り10万人を斬首した事になります。
史記の趙側の記録である趙世家の記録は下記の様になっています。
秦が武城を攻めた。扈輒が軍を率いて救援に行ったが破られて戦死した。
趙世家の記録を見ると、扈輒は武城に救援に行ったが破られて戦死した事になっています。
廉頗藺相如列伝の記録が武遂なのに対し、趙世家の記録は武城になっています。
武城に行く途中に武遂があり扈輒が敗れたと言う事なのでしょうか?
史記の始皇本紀の記録だと下記の様な記載がありました。
始皇帝13年、桓齮が趙の平陽を攻め趙将扈輒を殺し首を斬ること10万であった。
始皇本紀だと桓齮が平陽を攻撃して扈輒率いる趙軍10万の首を斬った事が分かります。
扈輒と桓齮が戦った場所は武遂でも武城でもなく平陽だったのでしょうか?その辺りは不明となります。
ただし、3つとも共通しているのは、扈輒が桓齮に敗れて死亡したと言う事です。
ウィキペディアの地図を元に武遂、武城、平陽などの地を調べてみました。

(勢力図は戦国時代初期のものなので気にしないでください)
武遂と武城は趙の首都である邯鄲の東北にあり燕や斉と国境を接する様な地域だという事が分かります。
平陽に関しては、やけに北にありますが、これだけの距離を桓騎軍が移動するのは無理があり、平陽は武遂や武城の付近にも同じ地名がある様に感じました。
秦は趙よりも西にあるにも関わらず、趙の東部を攻められている辺りは、趙は秦にいいようにやられている事が分かります。
こういった圧倒的な不利の局面で秦軍の桓齮と戦わなくなってしまったのが、史実の扈輒なのではないかと思います。
次からは、扈輒が趙の大軍を率いるまでの経緯を考えてみました。
龐煖の失脚
史実を見る限りでは、趙の悼襄王の時代に趙軍の最高司令官と言えば龐煖だったはずです。
悼襄王の時代で分かっている事であれば、李牧は北方の代にいて匈奴や燕に睨みを利かせ、悼襄王の5年に慶舎が黄河の梁を守り、傅抵が将軍となり平邑に配置された事を挙げる事が出来ます。
龐煖が趙の本隊を率いて各地に遠征するのが、趙の悼襄王の時代だったのでしょう。
龐煖は燕の劇辛を破り、秦の蕞(さい)を合従軍(趙、楚、魏、燕)の精鋭で攻めた記録もあります。
紀元前241年の蕞の戦いでは、同年に楚の春申君が合従軍を率いて秦を攻撃し函谷関の戦いがあった年でもあり、春申君と龐煖は連動して秦を攻めた様に感じます。
函谷関の戦いで春申君も敗れ、龐煖も蕞から撤退する事になりますが、龐煖は意地を見せたのか斉の饒安を取る事になります。
紀元前236年に秦による鄴攻めが勃発しますが、この時の龐煖は北方に遠征中であり、鄴に救援に向かうも間に合わなかった話が韓非子にあるのです。
これが史実の龐煖の最後の記録であり、これ以降の龐煖は歴史から姿を消す事になります。
同年に趙の悼襄王が亡くなり、幽穆王の時代となります。
龐煖は老齢だった説もありますが、悼襄王の時代に合従軍の精鋭を率いながら蕞の攻略に失敗した事や鄴の戦いに間に合わなかった事で、将軍を解任されたと言う事はないでしょうか?
趙の幽穆王が龐煖の後釜として、趙の本隊を率いる様に任命したのが、扈輒だった様にも感じます。
ただし、それまでの扈輒の実績は不明であり、扈輒を将軍にする様に誰が進言したのかも分かりません。
趙の宮廷に扈輒が次の将軍になるような雰囲気があったのかも謎です。
春秋戦国時代は、王様に気に入られれば一般人が一気に大臣になる事もあり、扈輒が在野の士だった可能性も残っています。
扈輒が桓齮に大敗する
もう一度、趙世家の扈輒の記述を見てみたいと思います。
秦が武城を攻めた。扈輒が軍を率いて救援に行ったが破られて戦死した。
これを見ると、秦が武城を攻め扈輒が救援に行き敗れた事は明白です。
それを考えると、桓齮が趙の東部にある武城を攻めて、救援に来た扈輒に対し後詰決戦を挑んだ様に思います。
秦の桓齮は武城を攻める振りをし、救援に来た扈輒の軍を待ち構えていて決戦を挑んだ様に思いました。
この時の桓齮の采配が冴えわたり、扈輒の軍を大敗させた様に感じます。
扈輒が急いで救援に行こうとして、桓齮が奇襲を掛けての勝利だったのかも知れません。
ただし、始皇本紀の記録だと桓齮が平陽の戦いで扈輒を破った事になっているので、後詰決戦ではなく桓齮が扈輒の軍と対峙し、単純に敗れた可能性も十分にあります。
この戦いで扈輒は趙兵10万を失う大敗北を喫する事になります。
史実での戦いの内容が史記、戦国策、資治通鑑などにもなく謎が多いです。
繰り返しますが、扈輒と桓齮が戦った場所も武城なのか武遂なのか、平陽なのかもはっきりとしません。
ただし、扈輒が桓齮に大敗し戦死した事だけは確かなのでしょう。
尚、桓齮が斬った趙兵10万という記録は、長平の戦いで白起が45万の趙兵を穴埋めにして以来の大記録とも言えます。
春秋戦国時代を通しても白起以外で、10万の首を斬った記録があるのは、桓齮だけではないかとも感じています。
扈輒は敗れても仕方がない部分もある
扈輒は10万の兵を失う大敗北を喫したのですが、同情的に見れば仕方がない部分もある様に思います。
趙は紀元前236年の鄴の戦いで敗れた事で、鄴だけではなく漳水沿岸地域を取られてしまい太行山脈の西が孤立し、趙は既に国土は全盛期の半分以下になっていた話もあります。
当時の秦と趙では国力で言えば、秦は趙の10倍はあったように思います。
この時の秦は中原と呼ばれる最も裕福な地の大部分を手に入れている状態です。
秦が僻地と呼ばれていた時代ではありません。

趙が最も領地が広大だった時代は、扈輒の時代の趙王である幽穆王の4代も前の武霊王の時です。
さらに、鄴の戦いでは秦の王翦、桓齮、楊端和で攻めますが、史記によれば鄴を陥落させたのは桓齮です。
鄴攻めの総大将は王翦だったのかも知れませんが、鄴攻めで最も活躍したのは桓齮だったのではないでしょうか。
秦王政(嬴政)は、桓齮の活躍を認め、その後の趙攻めの総大将に桓齮を抜擢した様に思います。
鄴攻めで最も功績があり、勢いに乗っていた桓齮に対して戦わねばならなくなったのが扈輒だった様に感じました。
さらに、扈輒が率いる趙軍は数は多くても、寄せ集めであり質が悪かった様に思います。
韓信、李牧、白起、廉頗、霍去病、項羽など歴史的な名将でなければ、この時の桓齮を止めるのは難しかったはずです。
扈輒亡き後の趙
扈輒が桓齮に大敗した事で、趙では邯鄲周辺の人口が激減し兵士を集めるのが困難になってしまった様に思います。
しかし、秦軍は攻めて来るわけであり、趙の宮廷では趙軍の最高司令官を決める必要に迫られたはずです。
この時に白羽の矢が立ったのが、代の守備隊長である李牧だったのではないでしょうか?
李牧は匈奴を破って以来、北方は安定した記録があり、趙の幽穆王は李牧を大将軍にして桓齮と戦わせる事にしたのでしょう。
桓齮であっても名将李牧には歯が立たず大敗する事になります。
桓齮は史記や戦国策で記述が食い違っており、李牧に敗れた後に敗走したか戦死したのかはっきりとしません。
扈輒の後任である李牧は大将軍に任ぜられますが、趙は地震や大飢饉があり自然災害により壊滅的な打撃をくらう事になります。
こうした状況で秦の王翦、楊端和、羌瘣らが趙に攻めて来る事となり、李牧や司馬尚と対峙します。
しかし、趙の幽穆王が郭開の讒言を信じた事で李牧を誅し、司馬尚は庶民に落とされました。
李牧がいなくなった趙は王翦、楊端和、羌瘣の攻撃を食い止める事が出来ずに趙の首都邯鄲は落城します。
趙の元太子であった趙嘉が代で代王嘉として即位しますが、最後は秦の王賁に滅ぼされています。
これを考えると、扈輒が例え桓齮に勝利したとしても、趙を救う事は出来なかった様に思います。
扈輒が桓齮を1度破った程度では趙を救う事は出来なかったでしょう。
扈輒生存説
扈輒生存説があるので紹介します。
扈輒の名前ですが、楚漢戦争で活躍した彭越に謀反を勧めた記述があります。
彭越は楚漢戦争において何度も楚の糧道を断つなど活躍しているわけです。
劉封と項羽の最終決戦である垓下の戦いでは、劉邦に梁王にする事を約束させた上で劉邦の軍に合流し項羽を破っています。
項羽が亡くなると楚漢戦争は終了し、劉邦は彭越を約束通り梁王にしました。
しかし、劉邦は皇帝となるや猜疑心旺盛の人物へと変わっていきます。
紀元前196年に韓信と結託した陳豨(ちんき)が漢に対して反乱を起こし、彭越も陳豨討伐の要請が降りますが、彭越は病気と称し部下を派遣するだけに留まりました。
この行動に劉邦が怒り、劉邦は彭越を問責する使者を派遣します。
彭越は劉邦に詫びを入れに行こうとしますが、そこで将軍の扈輒が彭越に進言した話が残っています。
彭越様は最初に行こうとせずに、問責されてから行こうとしております。
今の謝りに行った所で虜になるだけでございます。今となっては背くより他にありません。
扈輒は彭越に謀反を勧めた記録があるのです。
しかし、彭越は扈輒の意見を採用せずに、病と称し引き籠る事にしています。
彭越の太僕が罪を犯し彭越が太僕を斬ろうとすると、太僕は逃亡し劉邦の許に行きます。
太僕は劉邦に「彭越と扈輒が謀反を企んでいる」告げる事になります。
劉邦は彭越を不意打ちで捕え洛陽で監禁し、最後は呂后の告訴により命を落とした事になります。
彭越配下の扈輒の最後の記述がなく、その後にどうなったのかは分かりません。
可能性としては、彭越が捕らえられた時に扈輒は逃亡したか、一緒に捕まった可能性もあると思います。
過去に韓信に謀反を勧めた蒯通は巧みな弁術で劉邦に許されていますが、扈輒が許されたのかは定かではありません。
尚、戦国時代の趙の扈輒は史記には桓齮に敗れ殺された事がしっかりと書かれていますので、彭越の将軍の扈輒とは同姓同名の別人の可能性が高いと言えるでしょう。
因みに、史記では召平なる人物も複数回登場し、同一人物なのかは分からない部分もあります。
戦国策にも唐且が複数回登場するなど、扈輒に限らず古代史の同名問題は、視聴者の頭を悩ませてくれる存在でもあります。
余談ですが、劉邦は韓信と彭越を処刑した事で同じく武断派の黥布(英布)を刺激し、黥布は謀反の兵を挙げ劉邦に敗れています。
ただし、劉邦も黥布との戦いで負った傷が原因で亡くなる事になります。
それを考えれば彭越が扈輒の進言を聴き入れれば、歴史は変わっていたのかも知れません。