許汜(きょし)は最初は曹操に仕えますが、陳宮らと兗州で反旗を翻した人物です。
許汜は呂布に従い、曹操と戦った人でもあります。
呂布は曹操に下邳城を包囲され窮地に陥りますが、許汜と王楷を袁術の元に使者として派遣しています。
許汜と王楷は袁術を説得し、袁術は呂布を救援する構えだけを見せる事になりました。
許汜は呂布が滅びた後は、荊州の劉表を頼りますが、劉表の元では劉備に酷評され無能扱いされた話もあります。
今回は正史三国志にも登場し名声があったにも関わらず、劉備に無能扱いされてしまった許汜の解説をします。
三國志演義に許汜も登場しますが、三国志演義の内容は正史三国志とほぼ同じだと言えるでしょう。
ただし、三国志演義には劉備が許汜を無能扱いした話は存在しません。
楊慮の弟子となる
許汜は楊慮の弟子になった話があります。
許汜は襄陽出身の人物ともされており、若い頃の許汜は襄陽の近辺にいたとも見る事が出来るはずです。
許汜の師匠となる楊慮は、後に蜀に仕えて魏延と犬猿の仲となる楊儀の兄でもあります。
楊儀は仕事は抜群に出来るが、人間性に問題がありトラブルメーカーでもありました。
それに対し、楊慮は仕官せず17歳で亡くなりますが、弟子が数百人いた話しもあり、神童の様な人です。
どこまで本当なのかは分かりませんが、許汜が楊慮の弟子となり学んだ話があります。
許汜が名声が高かったともされていますが、楊慮の弟子だった所も大きかったのかも知れません。
許汜が名士か豪族だった可能性も十分にあるはずです。
呂布に従う
許汜は曹操に仕え従事中郎になった話があります。
しかし、許汜は曹操が陶謙を攻撃すると、陳宮、張邈、張超、王楷らと共に曹操に対して反旗を翻しています。
許汜や陳宮、張邈らは、呂布を兗州に招きいれる事になります。
これにより兗州の大部分は呂布に靡き、曹操に味方したのは荀彧や程昱、夏侯惇など僅かな勢力しかいませんでした。
呂布と曹操の戦いとなりますが、蝗で停戦となり、その後に曹操に敗れた呂布は逃亡の身となります。
この時に許汜も呂布に従い、放浪生活を余儀なくされる事になったのでしょう。
この頃になると陶謙は病死し、麋竺らの要請もあり劉備が徐州の主となっていました。
呂布は劉備を頼りますが、劉備が袁術と戦っている隙に、呂布は下邳城を守備する張飛を急襲し、徐州を手に入れています。
劉備は呂布に降伏しました。
袁術への使者となる
西暦198年に呂布と曹操の最終決戦である下邳城の戦いが勃発します。
呂布は曹操に城を包囲され窮地に陥っています。
呂布は起死回生の一手として、許汜と王楷を袁術の元に派遣し、援軍を求める事にしました。
この時に王楷と許汜は、曹操軍の包囲を潜り抜けており、武勇や何らかの知略を使った可能性もある様に思います。
許汜と王楷は袁術に援軍要請しますが、袁術は重い腰を上げようとはしませんでした。
しかし、許汜らは呂布が滅びれば袁術も滅びると説得し、袁術も呂布に援軍を送る構えを見せます。
ただし、袁術は帝位を僭称した時に、孫策に避難されるなど敵を多く作り、曹操にも敗れていた事から苦しい立場だったわけです。
袁術は結局は、救援する構えを見せただけであり、援軍を呂布に差し向ける事はありませんでした。
劉表の元に身を寄せる
下邳城では呂布の配下である魏続、宋憲、侯成らが主戦派の陳宮を捕えて降伏し、呂布、高順、張遼らも後に曹操に降伏しました。
曹操は呂布、陳宮、高順を処刑し、張遼や臧覇などは配下にしています。
許汜は袁術の使者になっていた為か、曹操に捕らえられる事も降伏する事もありませんでした。
許汜は呂布が敗れた時に、下邳城にはおらず、呂布が捕らえられた事を知り、荊州の劉表を頼り逃亡したのでしょう。
袁術の使者になった事で、許汜は命拾いした様に思います。
尚、袁術も呂布が滅びた翌年である西暦199年には勢力を維持する事が出来ず、袁紹の元に逃亡しようとしますが、途中で発病し亡くなっています。
劉備に無能扱いされる
劉備は曹操と袁紹が戦った官渡の戦いが終わる頃には、荊州の劉表の元に身を寄せていました。
この時に、劉表の元には、許汜もいました。
正史三国志に劉表、劉備、許汜の三人で座を設けて、人材に関して議論した話があります。
許汜は劉表や劉備の前で、陳登に関して、次の様に述べています。
許汜「陳登は南方の人物ではありましたが、傲慢な気質を持った人でした。」
許汜は陳登の事を傲慢だと非難したわけです。
劉備は劉表に「許汜の意見は正しいのか?」と聞くと、劉表は次の様に答えています。
劉表「違っていると言えば、許汜が嘘をついた事になるし、許汜が嘘を付くようにも思えない。
しかし、陳登の名前は天下に鳴り響いているから判断は難しい。」
劉表の回答は優柔不断と言われる、劉表らしい回答だとも言えます。
これに対し劉備は許汜に対し「陳登が傲慢だと言われるが、あなたと陳登の間で何かあったのですか?」と訪ねました。
許汜は次の様に答えています。
許汜「私は戦乱により下邳に流れ着き、陳登に会った事がありました。
陳登は賓客である私を持て成す気持ちがなく、私と言葉を交わす事もしなかったのです。
さらに、陳登は自分は大きな寝台で寝る様にし、私を床で寝かせています。」
この言葉から分かる様に許汜が陳登を傲慢だと言ったのは、自分に対して冷遇した事が原因だと言えます。
許汜の言葉を聞いた劉備は、次の様に述べています。
劉備「あなた(許汜)は国士と言われ高い名声を持っていた。
現在の天下は乱れ天子は身の置き場も無い様な状態であり、天子は君に対し家を忘れ国を憂え、世を救済する気持ちを持つ事を願われたのです。
所が君は田地や立派な邸宅を求め、その言葉には取柄もない。
これこそが、陳登が最も嫌う所なのです。
そんなあなたと、何を談ずればよいのでしょうか。
私だったら百尺の桜上に寝て、君を地べたで寝かせたいと思うでしょうな。
寝台の上下の差どころで済ます気はありません。」
劉備の言葉を聞いた劉表は大笑いし、劉備は次の様に続けています。
劉備「陳登の様な文武両道で、恐れを知らぬ勇気と志を持った人物は古代にしか見つかりません。
急に言われても、比較する人物を探す方が難しいほどです。」
劉備は陳登を絶賛し、許汜は強欲で無能だと述べた事になるでしょう。
許汜にしてみれば、劉備により面子を潰されたとも言えそうです。
尚、この後に、許汜の記録はなく、許汜がどの様な最後を迎えたのかもよく分かっていません。
しかし、劉備を恨んだ可能性も十分にあるか、劉備の言葉を恥として発病し亡くなった可能性もある様に思います。
許汜の評価
許汜ですが、劉備からはかなり酷評され、無能扱いされている事が分かります。
しかし、許汜は呂布に従った人間でもあり、劉備は呂布に下邳を奪われた時には、困窮し劉備の軍隊では人間同士が食べ合った話しもある程です。
それを考えると劉備は呂布の配下であった許汜に対しても、良い感情を抱いてはいなかったのではないか?とも考えられます。
許汜は下邳に流れ着き陳登と話をした時に冷遇されたと言いましたが、そもそも呂布や許汜が下邳に来なければ、劉備は徐州を奪われる事も無かったわけです。
劉備の行動を見るに徐州を再度領有したい気持ちは強く見られる部分もあり、許汜の発言にカチンと来た部分もある様に思いました。
許汜に関して言えば、呂布が危機に陥った時に、袁術を説得しているわけであり、全くの無能ではない様に思います。
ただし、劉備の言う様に欲が多く特筆すべき人材でもなかったのでしょう。
許汜を見るに、春秋戦国時代に范雎を推挙した王稽や、范雎の元上司である須賈くらいの人材ではあった様に思います。
参考文献:ちくま学芸文庫 正史三国志魏書2巻 呂布伝
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三国志14 | 統率18 | 武力23 | 知力54 | 政治66 | 魅力30 |
許汜に名声があった事や袁術への使者になった事を評価して、政治と知力が高めになっている様に思います。
しかし、先にも述べた様に劉備に下に見られた話があり、魅力が低めに設定されているのでしょう。
武力系の数値が低いのは、戦場に出た実績もないからだとも考えられてます。
ただし、許汜は曹操の包囲を潜り抜けて、曹操の所まで辿り着くには、武力は必要であり、もう少し高くてもいいのかな?とも感じております。