名前 | 王孫賈(おうそんか) |
生没年 | 不明 |
国 | 斉(戦国) |
年表 | 紀元前283年 淖歯を討つ |
紀元前279年 亜卿となる(東周列国志) | |
コメント | 母親の言葉で奮起した人物 |
王孫賈は母親の教えにより、斉の湣王を殺害した楚の淖歯を討った人物です。
春秋戦国時代には、衛や楚にも王孫賈なる人物は登場しますが、ここでは斉の湣王に仕えた王孫賈を解説します。
尚、王孫賈の名字は「王孫」だと思われ、斉王か周王の孫にあたる人物だった様にも感じました。
春秋五覇の一人に数えられる楚の荘王との「鼎の軽重を問う」で有名な、王孫満は周王の孫だった話があります。
同様に王孫賈も周王か斉王の孫にあたる人物で、斉の湣王に仕えたとも感じるからです。
今回は母親の言葉で奮起し、斉の湣王の敵討ちを成し遂げた王孫賈を解説します。
斉の湣王に仕える
三國志演義と同様に小説ではありますが、東周列国志によれば、王孫賈が12歳の時に父親を亡くしたとあります。
早くに父親が亡くなってしまった王孫賈を斉の湣王は憐れみ、官職を与えました。
王孫賈の家には母親しかおらず、斉の湣王に対し多大なる恩が出来たわけです。
斉の湣王と言えば、宋の康王を討ち宋を取り、戦国四君の一人である孟嘗君が斉から逃げ出すなど、暴君としての意味合いが強いと言えます。
しかし、斉の湣王も全てにおいて暴君ではなく、王孫賈に対しては恩徳を施したと言えるでしょう。
楽毅の燕への侵攻
燕の昭王は過去に斉に騙され、国をボロボロにされ斉を恨んでいました。
燕の昭王は紀元前284年に、楽毅を上将軍に任じ燕、趙、秦、魏、韓の合従軍を率いて斉を攻撃しています。
済西の戦いで、斉軍は合従軍に敗れています。
燕軍は合従軍を解散し、単独で斉の首都である臨淄に進撃しました。
斉の湣王は臨淄では守り切れないと判断し、臨淄から亡命する事となります。
この時に、王孫賈も斉の湣王に付き従いますが、衛で離ればなれとなってしまいます。
母親の言葉に奮起
王孫賈が家に帰ると、王孫賈の母親は次の様に述べた話があります。
王孫賈の母「私は貴方が早朝に家を出て、晩に帰って来るときは家の前で帰りを待っています。
貴方が暮れに家を出て帰って来ない時は、郷里の門の前で外を見ながら待っているのです。
しかし、貴方は王に仕える身である事を忘れてはいけません。
斉王様の行方が分からないのに、なぜ家に帰って来てしまったのですか」
王孫賈の母親は斉の湣王の行方が分からないのに、家に帰って来てしまうのは不忠だと考えたのでしょう。
東周列国志の記述が正しいのであれば、王孫賈の母親も斉の湣王に恩を感じており、息子である王孫賈に奮起を促したわけです。
王孫賈の母親にも、列女としての片鱗を見る事が出来ます。
淖歯を殺害
斉の湣王に関する情報を集める為に、王孫賈は市場に向かいました。
市で王孫賈は斉の湣王は、楚の頃襄王が援軍として派遣した淖歯により、殺害されたとする情報を得ます。
斉の湣王が殺害された事を知った王孫賈は、市場で大きな声で、次の様に呼び掛けます。
王孫賈「淖歯が悪心を起こし斉の湣王を殺害した。
私は淖歯を許す事が出来ない。
私と共に斉の湣王の仇を討ち、淖歯を誅殺しようと思う者は右肩を出せ」
王孫賈の言葉に400人の者が賛同し、王孫賈は彼らを率いて淖歯を急襲したわけです。
王孫賈は淖歯を殺害し、見事に斉の湣王の仇討を成し遂げる事になりました。
王孫賈は母の期待に、見事に答えたとも言えるでしょう。
尚、前漢初期に呂氏を殲滅する為に、陳平と周勃が動いた話があります。
この時に周勃が「劉氏に味方する者は左袒し、呂氏に味方する者は右袒せよ」と述べ、兵士ら全員が右肩を出した話があります。
周勃の故事は左袒の語源となりますが、周勃は王孫賈の話を知っていたのかも知れません。
斉の復興
東周列国志によれば、淖歯を討った王孫賈は城門を閉じて固く守ったとあります。
総大将の淖歯を失った楚兵は半数が逃亡し、半数は燕に投降しました。
斉の湣王が亡くなっていた事で、斉では斉王不在の状態となったわけです。
さらに、王蠋が忠義を守って亡くなった事で、王孫賈らは奮起し新たに斉王となる者を探す事となります。
斉の湣王の子である法章は、太史敫の家で雇われの身となっていました。
王孫賈らが斉王の子孫を探している事を知ると、法章は湣王の子だと名乗り上げます。
王孫賈らは法章を斉王に擁立しました。法章が斉の襄王です。
後に楽毅が更迭され、騎劫が将軍となるや即墨の将軍である田単が反撃に転じています。
田単は騎劫を討ち取り、燕に奪われた斉の領地を全て取り返す事に成功しました。
東周列国志によれば、田単は斉の襄王を臨淄に迎え入れた事で、王孫賈は斉の襄王の車を御して臨淄に入ったとあります。
斉の襄王は田単を安平君とするだけではなく、王孫賈にも爵位を与えて亜卿とした話があります。
王孫賈の評価
王孫賈は母親の言葉もあり、忠義の臣下として讃えられる人物になっています。
歴史を見ると末喜、妲己、呂后など悪女などもいますが、陳嬰、孫叔敖の母親や、漢の文帝の母である薄姫の様な、賢母も確実に存在していると思いました。
ただし、王孫賈の名前は司馬遷が著した史記にはなく田単列伝に「莒の人々が法章を探した」とあるだけです。
王孫賈は劉向の著した戦国策のお陰で、歴史に名が残ったとも言えるでしょう。
史記では王孫賈よりも、忠義を全うしようとした王蠋の方にスポットライトが当てられています。
尚、王孫賈の最後がどの様なものだったのかは記録がなく不明です。