その他 三国志

劉琮(りゅうそう)は、曹操と決戦するつもりだった!?

2021年3月24日

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宮下悠史

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劉琮(りゅうそう)の史実の実績を紹介したいと思います。

劉琮ですが、荊州を治めていた劉表の子であり、兄に劉琦(りゅうき)がいるわけです。

劉琦は病弱ではありますが、劉琮よりも優れた人物として見られたり、人によっては賢兄愚弟だと言う人もいます。

劉琮の評価が低いのは、羅貫中が書いた三国志演義で、曹操に青州刺史に任命されますが、任地に向かう最中で于禁に出会い殺されてしまう設定となっているためでしょう。

しかし、陳寿が書いた正史三国志では于禁に殺された記述もありませんし、ちゃんと青州刺史となり、さらには厚遇され出世しているわけです。

ちょっと、史実と隔離があると思ったので、今回は史実の劉琮がどの様な人物だったのか紹介します。

尚、劉琮が降伏せずに曹操と戦っていたら、どうなったのかも考えてみました。

劉琮が劉表の後継者となった経緯

劉琮が後継者になった経緯ですが、劉表から指名されたと言うのが大きいのでしょう。

劉琮の兄は、劉琦ですが腹違いの兄弟です。

劉琦の母親が誰なのかは、記録が残っていないので分かりません

劉琮の母親は蔡氏であり、蔡瑁の姉の一人という事になっています。

荊州における蔡瑁の一族は、名士であり非常に強い勢力を持っていたわけです。

諸葛亮の嫁は、黄月英ですが、黄承彦の娘だという事がはっきりとしています。

黄承彦の妻も蔡瑁の姉の一人ですから、諸葛亮と蔡瑁は親戚となります。

因みに、諸葛亮の家柄は名家であり、諸葛亮は黄月英がブサイクだと知っていながらも、蔡氏のバックアップを受けれるメリットを考えて結婚したとする説もあるほどです。

家督を継ぐとなると、「長男」という発想がある人が多いのではないでしょうか?

しかし、家督を継ぐときに、生母の家のバックアップがあるのか?も非常に大きな要素だったわけです。

劉琦の母親は不明ですが、劉琮の母親は荊州で最も力のある家柄ですから、外戚の力で考えれば劉琦よりも遥かに上だったのでしょう。

劉表もその辺りを考えて、劉琮を後継者に指名したのかも知れません。

尚、劉琦は蔡瑁たちに取ってみれば、邪魔な存在でもあり、不穏な空気を感じ取っていたのでしょう。

劉琦は、諸葛亮に知恵を借りて、自ら黄祖の後任として江夏太守に立候補し、劉表の本拠地である襄陽を離れたとも言われています。

しかし、襄陽の中にも劉琦を指示する人がいたのではないかと考えられます。

劉琮は曹操と戦う気があった!?

劉琮は、最終的には曹操に降伏しますが、決戦の意志を示していた事実もあります。

曹操に降伏するまでの経緯を紹介します。

家督を継ぐ

劉琮ですが、劉表が急に倒れて危篤状態になってしまい、主君になってしまった様な所があります。

劉表は208年に亡くなっていますが、少し前に長年に渡って江夏太守を務めて来た黄祖が、孫権軍に討ち取られています。

孫権孫策の父親である孫堅は、黄祖に討ち取られているわけで、孫家に取ってみれば因縁の相手だったわけです。

しかし、劉表に取ってみれば、荊州を長年に渡り守って来た人物だけに落胆も大きかったのでしょう。

曹操は西暦200年の官渡の戦いで北方の袁紹を破り、袁紹亡きあとに息子である袁譚、袁煕、袁尚を完全に滅ぼし、北方を平定した曹操が劉表を倒すために南下を始めた時期でもあります。

そうした心労もあり、劉表は倒れてしまい危篤となり、そのまま亡くなってしまったのでしょう。

劉表が危篤状態に陥っている時でも、重臣の蔡瑁や張允らで曹操に降伏するかどうかの議論は行われていたはずです。

しかし、蔡瑁と曹操は旧知の間柄ですので、降伏しても邪険に扱われる可能性は少ないと見ていたと思われます。

当時は新野にいた劉備は、樊城に移っていたようですが、曹操に対する会議には呼ばれなかったようです。

劉備は、曹操が北方で戦っている事を見ると劉表に対して、攻撃を進言しています。

劉備は過去に厚遇してくれた曹操を裏切っていますし、明らかに反曹操です。

蔡瑁たちに取ってみれば、劉備は邪魔な存在でもあったのでしょう。

こうした中で、劉表が亡くなり劉琮が即位しています。

余談ではありますが、劉表が重体となった話を聞くと、長男の劉琦が江夏から見舞いに来ていますが、蔡瑁たちは理由を付けて劉表と面会させませんでした。

これに関しては、病床の劉表が劉琦に同情して、「後継者は劉琦とする」と宣言されたり、「荊州軍を率いて曹操と戦え」と遺言されてしまうと困るからでしょう。

こういう経緯もあり、劉琮は即位しています。

劉琮の即位後に、劉琦に朝廷から与えられた侯の印綬を渡したが、劉琦が投げ捨てた話もあるので、兄弟仲はそれほど良くなかったのかも知れません。

正史三国志にも、仇敵の間柄という記載もあります。

劉琮は曹操と戦おうとしていた

正史三国志を読んでみると、劉琮は楚(荊州)軍を率いて、曹操と戦おうとした記述もあります。

臣下たちと共に、楚(荊州)の全土を抑え、先君の偉業を継ぎ、天下の情勢を観望したいと思う。

どうしてよくない事がおきようか

この様に言ったとされていて、荊州の全軍を率いて、曹操と決戦してみたい気持ちもあったのでしょう。

韓嵩蒯越(かいえつ)らは、降伏を勧めたわけですが、劉琮の言葉を聞いてビックリした可能性も高いはずです。

傅巽が諫める

傅巽(ふそん)は、降伏派であり劉琮を次の様に諫めています。

物事には道理があり劉備を曹操にぶつけたとしても、勝てる見込みはありません。

曹操は天子を手中にしておりますし、これに抵抗するのは滅亡への道を歩む者です。

さらに、将軍(劉琮)は、自分と劉備を比べてどちらが上だと思っていますでしょうか?

劉琮は下記の様にこたえています。

儂の方が及ばぬようだ。

すると、傅巽はさらにこの様に続けています。

劉備が曹操に及ばないのであれば、例え楚の地を保とうとしても自力で立つことはできますまい。

さらに、劉備が曹操に対抗できるのであれば、将軍(劉琮)の下にいるはずもありません。

どうか、将軍には迷いませぬように

この様に言い、傅巽は巧みに劉琮に降伏を勧めたわけです。

さらに、荊州の有力豪族でもある蔡瑁らも降伏を勧めます。

尚、傅巽は龐統の事を半英雄と評価した記録があり、司馬徽が諸葛亮や龐統の事を臥龍鳳雛と評価したのに、大して評価しなかったようです。

傅巽は容貌優れて博学で人物を評価する能力があったと記載があるので、劉琮をみて曹操に歯が立たないと判断したのかも知れません。

王粲が降伏を勧める

王粲(おうさん)も降伏を勧めています。

王粲は、曹操が如何に凄いかを述べて、劉琮に自分と曹操のどちらが優れていると思うか?と聞いています。

劉琮は、最初は答えられなかったが、最後は曹操だと答えたようです。

これを見ると、劉琮は自分が曹操と劉備の両方に、自分と比較するように言われ、両方に及ばないと言った事になります。

王粲と傅巽の説得により劉琮は、降伏を決意したのでしょう。

劉琮も曹操に降伏する盲を伝えたわけです。

尚、自分の国と敵国を比較したり、人物を比較して誘導するやり方は戦国策にある司空馬趙の幽穆王を彷彿させる内容でもあります。

王威の曹操襲撃案を却下

降伏を決断した後に、配下の王威が曹操を襲撃するように、劉琮に進言した記録があります。

王威が言うには、降伏を伝えた今なら、曹操は油断しているから討ち取る事が可能だと言い出したわけです。

しかし、劉琮は王威の進言を却下して、曹操に降伏しています。

降伏論が大半であり、王威が一人で劉琮を説き伏せて決起しても、皆の支持を得られずに敗北すると思ったのかも知れません。

ただし、王威が曹操の首を取り河北が乱れたのであれば、三国志も別の展開があった様には感じます。

劉琮が戦わなかった理由

劉琮が曹操と戦わなかった理由ですが、降伏の条件がよかったからなのかも知れません。

劉琮が降伏しても、降伏派だった臣下たちも、自分の上司が劉琮から曹操に変わる位で、大して影響が出なかった可能性があります。

史実の記録でも曹操は、旧劉表配下である韓嵩には大鴻臚、蒯越は光禄勲、鄧義は侍中、文聘には江夏太守らを重用しました。

孫権も曹操から降伏するように言われていますが、魯粛周瑜以外は降伏するのが一番だと考えていた話があります。

呉の臣下の人達も、曹操に降伏しても扱いは大して変わらないともされていて、戦うメリットもなかったのでしょう。

魯粛は孫権に「あなたは自分と違って家柄が低いから、曹操に降伏したら大変な事になる」と一種の脅しの様な事を言っているわけです。

劉琮の場合は、家柄で言えば前漢の景帝に繋がっているわけですから抜群にいい事になります。

そのため、優遇される可能性も非常に高かったのでしょう。

しかも、劉琮は青州刺史を自ら望み、曹操が許した話もある位です。

孫権の場合は、張昭らの降伏派が多数いても、魯粛という主戦派がいました。

それに対して、劉琮の周りには降伏派しかいなかった可能性もあります。

この時に樊城にいた劉備は、明らかに主戦派であり、劉表に曹操を襲撃するように進言したり、曹操勢と小競り合いをした事もあります。

博望坡の戦い(203年)では、劉備が夏侯惇、李典、于禁らと交戦した記録も残っているわけです。

この戦いは劉備が勝ち、趙雲は夏侯蘭を捕虜にするなど活躍しました。

襄陽から樊城までは、さほど遠くないはずなのに、劉備は劉琮の配下の会議には呼ばれなかったようです。

実際に、曹操の大軍が近づいている事を劉備には知らせなかったようで、劉備が声を荒げた話が残っています。

その後、劉備は南方に急いで去っています。

劉備を呼ばなかった原因ですが、曹操に敵対する発言をする事は確実であり、蔡瑁たちに取っては邪魔な存在でしかなかったのでしょう。

蔡瑁らは劉備を暗殺しようとした話もあるので、仲がよくなかった事は確実です。

さらに、劉備は劉表の長男である劉琦と親しい間柄でしたので、呼ばなかった可能性も大いにあります。

劉琮の降伏か戦うかの会議には、降伏派しかいなかった可能性も高いです。

王威が後に曹操を襲撃するように、進言していますが、会議には参加していなくて、降伏する事を聞き劉琮の元を訪れた可能性も高いでしょう。

尚、劉琮としても即位して間もない事もあり、重臣たちの意見を聞かなければならない立場にあったようにも思います。

その点、孫権の場合は、孫策の後継者になってから8年ほどの年月がありますので、君主としての発言権も強かったのでしょう。

劉琮が曹操に戦っていたらどうなっていたのか?

ちょっとしたおまけ的な記事なのですが、劉琮が曹操と戦っていたらを考えてみました。

劉琮と曹操が戦った場合ですが、単独ではかなり難しいと言えるでしょう。

孫権との同盟も視野に入れないといけないはずですが、劉表が亡くなる少し前に孫権は黄祖討伐を行い周瑜や淩統、甘寧などの活躍もあり、黄祖を討ち取り江夏の城を陥落されています。

この時に、孫権は張昭などの意見もあり守るのが困難と見たのか、江夏を手放し代わりに劉琦が江夏太守となっています。

ちょっと前に孫権と劉琮の勢力は争っているわけですから、同盟を結ぶのは大変かも知れません。

さらに、孫権の父親である孫堅は黄祖に殺されている事情があり、同盟は結ぶのが大変な可能性もあるでしょう。

ただし、孫権は性格的に、困難とみれば身を屈する事も厭わない人でもあります。

後に起こる夷陵の戦いの時も、生き残り策として魏に臣従しているわけです。

そのため、打倒曹操で一致すれば、手を結ぶ可能性もあるでしょう。

しかし、孫権が劉琮の領地まで行き兵を出すのか、合肥や濡須の辺りに兵を出して、曹操軍の分散を図るのかは謎です。

尚、孫権は劉琮が降伏し、劉備が南下を始めた時に、魯粛に命じて荊州を探らせています。

曹操が荊州に入った頃に、ようやく魯粛が荊州の様子を探らせているようでは、かなり曹操に対して後手に回ってしまう様にも思いました。

それを考えると、孫権との同盟は困難な可能性もあるでしょう。

益州にいる劉璋ですが、こちらは曹操への危機感はあったかと思いますし、同じ劉性と言う事で協力してくれる可能性もあるでしょう。

ただし、益州の北には漢中に張魯もいますし、微妙な所もあるのかも知れません。

さらに、劉琮率いる荊州の人達も、兄である劉琦に心を寄せる人も少なからずいたはずであり、一枚岩とは行かないでしょう。

当時の荊州には文聘(ぶんぺい)、黄忠などの武将もいたはずですが、兵を率いるとなると傅巽の言葉などから劉備になる可能性もあります。

しかし、劉備が劣った兵力で曹操にぶつかる事になるわけですから、勝てる見込みが薄いようにも感じるわけです。

曹操も100戦100勝の将軍ではありませんが、劉備に比べると用兵はかなり上だと感じました。

荊州に韓信とか、白起項羽李牧に匹敵するような将軍がいれば別ですが、そういう将軍も見当たりません

文聘あたりは名将とな言えるかと思いましたが、大戦となると実力は未知数にも感じました。

それを考えると、勝つにしてもどこかに籠城して、内通者を出さないようにし、劉璋や孫権に側面をついてもらったり、張魯や馬超に西方から魏の領地を攻めてもらわないと勝ち目はないでしょう。

総合的に考えて、劉琮が曹操と戦っても勝ち目は無いように思いました。

案外、劉琮が戦って勝っていたら、魏、呉、蜀、楚(劉琮)の三国志ならず、四国志となっていたんですかね・・・。

劉琮が劉備の挨拶に答えなかった理由

劉備は劉琮に、襄陽の前を通った時に、別れの挨拶をした話があります。

しかし、劉琮は恐れおののいて出てこなかったような事も正史三国志に記載されていました。

ここで劉琮が出てこなかった理由ですが、出て来る理由が無かったからなのかも知れません。

劉備は明らかに反曹操ですし、劉琮の臣下もここで劉琮と劉備が会ってしまい、劉備と諸葛亮、徐庶あたりが劉琮を説得し、曹操との決戦の方向性に動かしてしまったら、大変な事になるからです。

そういう事情もあり、臣下が劉琮を止めた可能性もあるでしょう。

尚、劉備が襄陽に行った時に、諸葛亮が劉備に「今攻撃を掛ければ荊州を領有出来る」と進言しましたが、劉備は採用しませんでした。

この時の劉備の兵士は5000人もいなかったと思われますし、本当に襄陽に攻撃を掛けて陥落出来るのか?も微妙なラインな気がするわけです。

もしかして、襄陽の中に内通してくれる見込みがある者がいて、陥落させる自信があったのかも知れません。

それを考えると、劉琮は襄陽の防御が薄い事を考慮して、万一に備えて劉備に会わなかった可能性もあるでしょう。

ただし、劉琮の本拠地でもある襄陽がそう簡単に落とせるのかは、かなり疑問があると言わざるを得ません。

尚、曹操に降伏した劉琮ですが、正史三国志では無事に青州刺史となり、後諌議大夫・参同軍事と出世した話が残っています。

魏という国は、曹操が人材を好んだ事もあり、実力主義の国でもあるはずです。

その中で、出世するという事は、英雄ではないかも知れませんが、劉琮の能力は高かった可能性もあります。

ただし、活躍があったとしても、文官だったようなので記録が残っていません。

劉琮の降伏が荊州を救ったのか?

劉琮ですが、戦わずに曹操に降伏した事で、弱腰の人物とか、軟弱の人と考える人が多いようです。

暗君の一種だと思っている人も多いのでしょう。

逆に劉備は、襄陽の前を通った時に、劉備を慕う民が出てきて、劉備は民衆の一部を連れて行ったわけです。

もちろん、この住民は劉備ではなく、劉琦を慕っていた説もありますが、劉備の徳の高さを讃えられている出来事になっています。

しかし、この時に劉備は曹操が近くまで大軍を率いて来ている事は知っていましたし、住民を連れて行けば追い付かれてしまう事は目に見えていたはずです。

さらに、正史三国志には、劉備達の後に民衆が続いたような事も書かれています。

住民を先に行かせるのであれば、劉備は民衆も守る気が合ったのかも知れませんが、劉備の考えとしては「ついて来るのは自由!ただし、自己責任!」という事だったのかも知れません。

もちろん、住民を一緒に連れて行ってしまった事から、移動速度は遅くなり、劉備は追いつかれてしまうと、いつもの様に妻子も捨てて逃走したわけです。

この時に、長坂の戦いがあり趙雲が阿斗(後の劉禅)を救い出したり、張飛が長坂橋の前で仁王立ちする名場面もありますが、劉備は全てを捨てて逃げてしまっています。

もちろん、殺されてしまった住民も大量にいたはずです。

この劉備を見て思う所があり、徐庶は母親の事を理由に去ったのかも知れません。

しかし、劉琮の場合は降伏した事で襄陽は無血開城だったと言えます。

そのため襄陽の残った民を無傷で救ったのは、劉琮の手柄だと言えなくもないでしょう。

それを考えれば、劉琮が降伏した事で命拾いした荊州の民は大勢いるのではないかと思っています。

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