
| 名前 | 秦の昭王 |
| 別名 | 昭襄王 |
| 姓・諱 | 嬴稷 |
| 生没年 | 紀元前325年ー紀元前251年 |
| 在位 | 紀元前306年ー紀元前251年 |
| 一族 | 父:恵文王 母:宣太后 兄:武王 配偶者:葉陽后、唐八子 |
| 子:悼太子、孝文王 | |
| コメント | 秦の領土を飛躍的に拡大させた英主 |
秦の昭襄王の名前で呼ばれる事も多いと言えます。
秦の昭王は孟嘗君を宰相にしたと思ったら、気が変わり殺害しようとしてみたり、趙の恵文王の持っていた和氏の璧を奪い取ろうとし、藺相如に阻止されるなどしています。
他にも、楚の懐王を拉致し、大功労者の白起を自害に追い込むなど、性格の悪さと姑息さが目立つ君主でもあります。
しかし、秦の昭王の時代に大幅に領土が拡がった事は間違いなく、偉大な君主だと言えるでしょう。
漫画キングダムでは「戦神」として登場していますが、秦の昭王が戦場に出た記録はありません。
それでも、秦の昭王の時代に秦の領土の拡大は凄まじく、戦神と呼んでも問題ないほどだと感じています。
秦の昭王の時代に領土を大幅に拡大出来たからこそ、秦の始皇帝は戦国七雄の国々を滅ぼし天下統一が成し遂げられました。
秦の昭王の即位
兄の秦の武王は、東周で鼎を持ち上げようとして、脛骨を負傷し亡くなりました。
秦の武王は年も若く、突発的な事故であり、秦では後継者問題で揺れる事になります。
当時の嬴稷(秦の昭王)は、燕への人質となっていましたが、羋八子や魏冄などは嬴稷を秦王に擁立すべく動きました。
燕の昭王や趙の武霊王の思惑もあり、嬴稷は即位する事になりました。
これにより、秦の昭王が誕生したとも言えるでしょう。
混乱の予兆
史記の秦本紀によると、厳君の樗里疾が宰相になったと言います。
樗里疾は秦の武王の時代に甘茂と共に宰相となっていました。
秦の朝廷では武王時代の重臣である向寿、公孫奭もおり、旧臣たちの中に秦の昭王擁立に功績があった羋八子(宣太后)や魏冄が入って来た状態だったわけです。
当然ながら、秦の朝廷は一つにまとまらなかったとも考えられています。
こうした状況を危ぶんだのか、甘茂は秦の昭王の元年(紀元前306年)に早々と、斉に出奔しました。
政敵の排除
史記の秦本紀によると、秦の昭王の2年(紀元前305年)に彗星が現れたとする記述があります。
当然ながら、化学が発達していない時代であり、多くの人々は何かしらの予兆と考えたのではないでしょうか。
ここで庶長の荘が大臣・諸侯・公子らと謀反を起こした記述があります。
秦の内部の権力闘争にも見えるわけですが、宣太后と魏冄に軍配が上がった様であり、みな誅されたとあります。
秦の昭王即位にまつわる混乱では、恵文王の夫人である恵文后まで世を去る事になります。
武王の后だった武王后は実家である魏に帰りました。
秦の昭王の即位に認めない勢力の排除に、宣太后と魏冄は成功したと言えるでしょう。
それと同時に、秦の昭王の前期は宣太后と魏冄、華陽君の時代でもあります。
紀元前304年に秦の昭王は冠礼の儀を行いました。
秦の昭王は成人になったという事なのでしょう。
それでも、秦の昭王は年が若く、実権は宣太后らが握っています。
楚との関係悪化
紀元前304年に秦の昭王は楚の懐王と黄棘で会見を行い、秦は楚に上庸を与えたと言います。
ここで秦は楚の太子横(傾襄王)を人質としますが、後に太子横は秦の重臣とトラブルを起こし、殺害し楚に逃亡しています。
翌年に秦が魏から蒲阪の地を取りますが、紀元前303年に魏の襄王が来朝すると、蒲阪の地を返しました。
この辺りは、秦が楚と敵対した事で、魏と誼を結ぶために蒲阪を返還したのでしょう。
蜀の乱
秦の昭王の6年(紀元前301年)に蜀侯の公子惲が乱を起こしました。
秦の朝廷の方では司馬錯を派遣し、蜀の乱を平定しています。
秦の武王の時代に蜀は乱を起こし、甘茂が鎮圧しましたが、秦の昭王の時代になっても治まらなかったとみる事も出来るはずです。
楚への攻勢
紀元前301年に秦は庶長の奐が楚を討ち、斬首2万を挙げる大勝利となりました。
秦の昭王の時代になっても、秦は軍事力で他国をリードしていたと言えるでしょう。
翌年である紀元前300年に秦は、楚を再び攻撃し新城を陥落させました。
紀元前299年には華陽君(羋戎)が楚を攻撃し新市を取っています。
秦は楚に攻勢を仕掛けたわけですが、当時の楚では斉、魏、韓とも関係が悪化していました。
斉の章子、魏の公孫喜、韓の暴鳶は楚を攻撃し、方城を取り楚の唐眜が戦死しています。
この年に、史記では趙が中山を破り、中山の君主は斉に逃亡し亡くなったとあります。
さらに、秦は昭王の9年(紀元前298年)に、奐が再び楚を攻撃し八城を陥落させ、楚の景快を殺害したとあります。
秦の昭王と孟嘗君
秦と楚が激突している最中である紀元前298年に、孟嘗君が秦の宰相になったとする話があります。
秦の昭王は過去に涇陽君を人質に入れ、孟嘗君を秦に迎え入れようとした事がありました。
この時は、蘇代が孟嘗君を諫めた事で、孟嘗君は秦に行くのを諦めています。
しかし、秦の昭王は孟嘗君への執着があったのか、斉の湣王を動かし、孟嘗君は秦に入りました。
秦の昭王は孟嘗君が気に入ったのか、秦の宰相とした記録が史記の秦本紀にあります。
孟嘗君が宰相になったまでは良かったのですが、讒言があり秦の昭王が孟嘗君を捕らえようとしました。
ここで、鶏鳴狗盗の逸話があり、孟嘗君は秦から脱出しています。
孟嘗君は宰相に任命しておきながら、命を狙った秦の昭王に対し、よい感情は抱かなかった事でしょう。
尚、史記の秦本紀には薛文(孟嘗君)が金を受け取り、宰相の位を罷免され、楼緩が秦の宰相になったと言います。
秦の昭王と楚の懐王の会見
紀元前297年に、秦の昭王は楚の懐王に手紙を送り、会見を望みました。
楚では昭雎が「秦は信用できない」として反対しますが、子蘭は秦の昭王との面会を勧めました。
楚の懐王は秦の昭王との会見を決断する事になります。
武関で秦の昭王と楚の懐王は面会しますが、秦の昭王は兵を出動させ、楚の懐王を拉致し咸陽に連れ去り、臣下の如く扱いました。
後に懐王は趙に逃亡しますが、趙の武霊王は受け入れず、秦に連れ戻され発病し亡くなる事になります。
楚の懐王拉致事件は、秦の昭王の悪行の一つにされている状態ですが、この頃の秦の昭王は飾りとも言うべき王であり、秦の昭王が楚の懐王を拉致する様に画策したわけではないとも考えられています。
秦の昭王の母親の宣太后や魏冄は楚の出身であり、懐王に何かしらの恨みがあったのではないか?ともされている状態です。
昭王が懐王を拉致した事件で、秦は虎狼の国とも呼ばれ、真っ当な国とは見られなくなったと言います。
楚の人々は懐王を憐れみ、始皇帝死後に懐王の名は反秦のシンボルにもなっています。
塩氏の戦い
孟嘗君は斉に帰還しますが、秦を攻める為の合従軍を組織しました。
史記によると、秦の昭王11年(紀元前296年)に、斉、韓、魏、趙、宋、中山の連合軍が秦を攻撃したとあります。
実際には紀元前298年から戦いは始まっていたともされています。
孟嘗君は合従軍を組織し、合従軍は斉の匡章が率いました。
史記では五カ国連軍との記載もありますが、趙の武霊王は中山攻略に夢中であり、実際には斉、韓、魏の連合軍だったとも考えられています。
しかし、匡章が率いる合従軍は手強く、函谷関が陥落した話まであります。
秦の昭王は危機感を抱きますが、戦国策に公子他の進言により、和睦を決断した話があります。
斉、韓、魏の軍は塩氏まで言って帰還しており、塩氏の戦いとも呼ばれています。
秦の昭王は韓と魏に河北と封陵を割譲し、兵を引いて貰いました。
白起の登場
秦の昭王12年(紀元前295年)に楼緩が罷免させられ、魏冄が秦の宰相となりました。
この年に、楚に栗五万石を与えたとあり、懐王の事で、楚の恨みを買わない為の配慮としたのかも知れません。
紀元前294年に向寿が韓を討ち武始を取り、左更の白起が秦城を攻めたとあります。
これが白起の初登場でしょう。
白起の登用には、秦の昭王は乗り気でなかった話もありますが、魏冄の強い要望により実現しました。
この年に五大夫の呂礼が秦を脱出し、魏に奔った記録があります。
さらに、任鄙を漢中の太守としました。
秦の大躍進
秦の昭王の14年(紀元前293年)に、白起が伊闕の戦いで韓、魏、東周の連合軍を破り24万を斬首する大戦果を挙げました。
白起は公孫喜を捕虜とし五城を抜いています。
翌年の紀元前292年に白起が魏の垣を取りますが、返還しました。
さらに、楚を討ち宛を取る事になります。
紀元前291年に司馬錯に魏を討たせると、軹と鄧を取りました。
秦の昭王は公子市(涇陽君)を鄧の与え、公子悝(高陵君)には宛を与え、魏冄には陶を与え、それぞれを諸侯としました。
魏冄には穣も与えられており、穣侯とも呼ばれる様になります。
紀元前290年に城陽君(韓の成陽君)が秦に入朝し、東周の君らが来朝しました。
秦は垣の地を以って蒲阪と皮氏に換えたとあり、秦の昭王が宜陽まで行ったとあります。
この年に、魏は秦に河東の地400里を割譲しました。
しかし、秦の首脳部にとってみれば、魏は弱みを見せたのであり、魏冄が魏を攻撃し、大小合わせて60余の城を陥落させました。
秦の攻勢は続き、紀元前289年に司馬錯と白起が垣、河雍、決橋を陥落させています。
魏は華陽の戦いで多くの兵を失い、60を超える城を落されたのであり、秦の昭王の時代に魏は壊滅的な打撃を受けたと言えるでしょう。
西帝と東帝
紀元前288年に、秦の昭王が西帝となり、斉の湣王が東帝となりました。
既に戦国七雄の各国が王を名乗り、東周王朝の権威は失墜しており、東西の秦と斉が帝となる案が浮上したのでしょう。
実際に紀元前288年に秦の昭王と斉の湣王は、帝を名乗りましたが、呂礼や蘇代の意向もあり、半年ほどで捨て去っています。
斉の湣王としては、宋を取る事に集中したかったというのもあるのでしょう。
斉の湣王は宋を攻撃し、宋の康王は敗れ魏に逃亡し温で亡くなりました。
紀元前288年は、秦が趙を攻撃し、杜陽を取った記録も残っています。
秦の昭王は紀元前287年に、漢中と上郡の北河に行ったとする記録があります。
河東経営
秦の昭王21年(紀元前286年)に、司馬錯が河内を攻撃すると、魏は旧都の安邑を秦に献上しました。
秦では安邑の民に河東に移住する様にと募集し、移住した者には爵位を与えたとあります。
さらに、罪人を許し河東に移しました。
紀元前285年には、河東の地を分けて9県にしたとあります。
秦の昭王は河東経営に力を入れている事が分かる記録です。
それと同時に、魏は全盛期の時代に首都を置いた西側の地域を全て秦に明け渡した事になるでしょう。
魏は韓を挟んで東西に領地を持っていましたが、西側の領地は全て失ったという事です。
秦斉二強時代の終焉
紀元前285年に蒙武が斉を討ったとあります。
蒙武と言えば、始皇帝に仕えた人物で、王翦と共に楚を滅ぼした人物として有名です。
しかし、時代的に考えて、ここでいう蒙武とは別人なのではないかと感じました。
蒙驁の間違いではないか?と考えてみた事もありますが、この辺りは定かではありません。
ただし、この年に秦の昭王は楚の頃襄王と宛で会見を行い、趙の恵文王とは中陽で会見を行いました。
さらに、秦の昭王は魏の昭王と宜陽で会見を行い、韓の釐王とは新城で会見をしています。
この頃は斉の湣王が外交的に孤立しており、秦の昭王は斉への攻撃を画策する事になります。
紀元前284年に、燕の昭王は楽毅を総司令官に任じ、秦、趙、魏、韓と共に斉を攻撃しました。
史記本紀によると、この時の秦の将軍は斯離だったとあります。
しかし、趙の恵文王が趙軍を燕の楽毅に預けた事で、合従軍の総司令官は楽毅となったのでしょう。
楽毅率いる軍は済西の戦いで、斉の軍を大破しました。
合従軍の解散後も楽毅は単独で、斉への攻撃を続け壊滅状態にまで追い込んでいます。
しかし、燕の昭王の死後に燕の恵王が立つと、疑われ趙に出奔しました。
燕に奪われた斉の地は、田単が奪い返す事になります。
済西の戦いでは秦の昭王は外交面で活躍しましたが、主役は楽毅だったと言えるでしょう。
楽毅が斉を壊滅状態にした事で、戦国時代中期の形勢である秦斉二強時代は幕を閉じました。
ここから先は、圧倒的な戦力を持つ秦に対し、諸侯が絶望的な戦いを挑む悲哀な時代に突入する事になります。
秦の昭王と藺相如と和氏の璧
紀元前283年に秦の昭王は楚の頃襄王と、鄢で会見を行ったとあります。
楚は済西の戦いに参加しておらず、外交的な孤立を防ぐために、趙との友好を深めようと考え、和氏の璧を送ったのではないかと考えられています。
その上で、秦の昭王と会見を行い和氏の璧を趙に送ったと伝えたのではないかとする説があります。
秦の昭王は和氏の璧に興味を持ちました。
ここで、秦の昭王は15の城と和氏の璧を交換しようと、趙の恵文王に持ちかける事になります。
この時に趙の使者になったのが、藺相如であり、秦の宮廷までやってきました。
藺相如は秦の昭王が15の城を渡す気がないと悟り、怒りの形相を見て秦の昭王に斎戒する様に伝えています。
秦の昭王は人が良い部分があるのか、本当に斎戒を行った記録が史記にあります。
しかし、藺相如は秦の昭王が和氏の璧と15城を交換する気がないと読んでおり、従者に和氏の璧を持たせ先に趙に帰らせていました。
部下達は藺相如を殺害する様に述べますが、何を思ったのか秦の昭王は藺相如を持て成したうえで返しています。
秦の昭王と藺相如の和氏の璧を巡る話から「完璧」や「連城の壁」「怒髪天を衝く」などの言葉が誕生しました。
尚、秦の昭王は和氏の璧と15の城を交換せず終わる事になります。
秦の昭王と藺相如の逸話では、秦の昭王の汚さが見え隠れする様ではありますが、秦の強大さを物語る部分でもあるのでしょう。
大梁まで攻め込む
紀元前283年に秦は魏の安城を陥落させました。
済西の戦いで協力した合従軍は、一気に崩壊に向かった事も分かるはずです。
秦にとってみれば、強国である東方の斉を討つために、同盟を結んだのであり、斉が壊滅状態になってしまえば、攻撃場所を失う事になり同盟を破棄したのでしょう。
秦の軍は魏の大梁にまで行きますが、燕と趙が魏の救援に現れた事で、秦は兵を引いたとあります。
この年に、秦の昭王が魏冄を宰相から免じた話があります。
しかし、秦の昭王は2年後には魏冄を再び宰相としました。
この時に、恩赦を行ったのか秦の昭王が罪人を許し、魏冄の領地である穣に移したとあります。
尚、史記の趙世家に紀元前281年に、秦の魏冄が趙に来て宰相になった記録があります。
タイムラグはありますが、魏冄は秦の宰相を降りた後に、趙に行き宰相になったのかも知れません。
しかし、短期間で秦に戻ったという事なのでしょう。
趙と楚を攻撃
秦の昭王25年(紀元前282年)に、秦は趙を攻撃し二城を陥落させました。
この年に秦の昭王は魏の昭王と新明邑で会見を行い、韓の釐王とは新城で会見を行っています。
後の事を考えると、秦は魏と韓と講和し、趙や楚にターゲットを絞ったのでしょう。
紀元前280年に秦の司馬錯が楚を攻撃し、白起が趙を攻撃し代と光狼城を抜きました。
さらに、司馬錯は蜀から兵を出し楚の黔中を陥落させています。
当時の秦は他国を圧倒しており、二方面で戦っても十分な戦果を得られたのでしょう。
澠池の会
紀元前279年に秦の昭王は趙の恵文王と澠池で会見を行いました。
この時の、会見の様子は廉頗藺相如列伝に詳しいです。
秦の昭王は趙の恵文王をやり込もうとしますが、その度に藺相如により阻まれました。
挙句の果てに、藺相如により蓋を叩く羽目にまでなり、秦の昭王にとっては恥ずかしい話となっています。
尚、史記の秦本紀では澠池の会の事は記録せず、スルーしています。
秦の攻勢と楚の凋落
史記の秦本紀によると、秦の昭王28年(紀元前279年)に、大良造の白起が楚を攻撃し、鄢・鄧を奪ったとあります。
秦の昭王は罪人を許し、鄢・鄧に移しました。
この頃の秦では罪人を他の土地に移すなどの政策を、盛んに行っているのが分かるはずです。
翌年である紀元前278年に、白起は楚への侵攻を強め、遂には首都の郢を陥落させています。
秦の昭王は奪い取った楚の地に南郡を設置しました。
楚の頃襄王は東方の兵を使い、反撃を行うも、首都の奪還とまでは行きませんでした。
秦本紀によると、周の君が秦に来たとあり、周の赧王は秦を畏怖し、秦を訪れる事にしたのでしょう。
秦の昭王は大功を挙げた白起を武安君としました。
秦の昭王は楚の頃襄王と襄陵で会見を行っており、講和が成立したかに思えました。
しかし、紀元前277年に蜀郡の張若が楚を討ち、巫郡と江南を占拠し、黔中郡を設置しています。
翌年である紀元前276年に、白起が魏を討ち二城を奪いました。
この年に、秦の昭王は楚に江南を返還しており、楚と完全に講和を結んだのでしょう。
楚と講和を結んだ秦のターゲットは、中原の地に向けられました。
華陽の戦い
秦の昭王の32年(紀元前275年)に、秦の宰相の魏冄が魏を攻撃し、首都の大梁に迫りました。
韓の暴鳶が魏の救援に現れますが、暴鳶の軍を破り斬首4万の成果を挙げています。
暴鳶は敗走しました。
魏は三県を割譲し講和を望みますが、秦は許さなかったのでしょう。
紀元前274年に秦の客卿になっていた胡傷が、魏の巻・蔡陽・長社を陥落させました。
秦は魏と趙を相手に華陽の戦いが勃発する事になります。
華陽の戦いでは魏冄、白起、胡傷が、魏の芒卯や趙の賈偃と対峙しました。
この戦いで秦軍は15万を斬首する大戦果を挙げています。
魏は南陽の地を秦に割譲し、和議を結びました。
秦は大勝利を挙げましたが、秦の昭王は即位して30年以上も経過しているのに、未だに宣太后や魏冄に強い発言力があり、何処かもやもやする部分があったのかも知れません。
秦の昭王と春申君
秦の昭王の34年(紀元前273年)に秦は韓の上庸の地を魏に与えて一郡としたとあります。
南陽で免官になった者が、上庸に赴任したとあります。
趙、魏、韓を大破した秦は、ここで狙いを楚に定めようとしました。
白起が出陣の準備をしますが、この時に楚の黄歇が偶然にも秦にいたわけです。
黄歇が後の春申君となります。
黄歇は秦が楚への侵攻を企てている事を知ると、秦の昭王に書簡を出しました。
秦の昭王は黄歇の手紙に感じ入る部分が多くあり、楚への侵攻を止めて和議を結ぶ事になります。
この時に、楚の太子である完(楚の考烈王)が人質として、秦にやってきました。
太子完の従者として、黄歇も秦で暮らす事になります。
紀元前272年には、秦が韓、魏、楚を助けて燕を討った記録も残っています。
この年に秦の昭王は南陽郡を設置しました。
秦の昭王の親政
秦の昭王36年(紀元前271年)に客卿の竈が斉を攻撃し、剛と寿を陥落させました。
剛と寿の地を秦の昭王は、魏冄に与える事になります。
遠隔地である斉を攻撃したのは、魏冄の領地を拡げる為であり、魏冄が画策したのかも知れません。
秦の昭王は大功がある魏冄の功績は認めていたと思いますが、秦軍を使って自分の領土を拡げる行為には苦々しく思っていたとしても、不思議ではないでしょう。
紀元前269年に秦の胡傷が趙の趙奢に閼与の戦いで敗れ、無敵の秦軍に思わぬ所で土がつきました。
紀元前267年に秦の悼太子が魏で亡くなったとあります。
太子が亡くなったわけであり、秦の昭王は新たなる太子を立てなければならなくなります。
紀元前266年に秦は魏を攻撃し、邢丘と懐を陥落させました。
紀元前265年に秦の昭王は安国君(秦の孝文王)を太子に指名しました。
この年の9月に秦の昭王は魏冄を宰相の位から解任し、范雎を重用する様になります。
それと同時に宣太后らに政治に関して口を出させないようにし、秦の昭王が中心となる政治が始まる事になります。
尚、秦の昭王は魏冄は更迭しましたが、魏冄が見出した白起はそのまま使い続けました。
因みに、范雎の仇は魏斉であり、秦の昭王は魏斉を討つために、范雎に協力しています。
魏斉は虞卿の助けはありましたが、最終的には信陵君の協力を得る事が出来ないと判断し、自刃しました。
秦の昭王にとって、范雎は特別な人物であり、本当の意味で信頼した唯一の人物だとも考えられています。
長平の戦い
秦の韓への侵攻
紀元前264年に白起は韓を攻めて、5万人を斬首する大戦果を挙げています。
秦の昭王にとってみれば、魏冄を更迭してからの白起の大勝利は胸をなでおろしたのではないでしょうか。
紀元前263年に秦の昭王は韓の南陽の地を取りました。
紀元前262年に五大夫の賁が韓を攻撃し、十の城を陥落させています。
秦の昭王は范雎が提案した遠交近攻の策を使っており、秦から近い韓は格好のターゲットになったわけです。
ここで韓が策を張り巡らし、長平の戦いが勃発する事になります。
上党を巡る争い
韓は瓢箪の様な形の国土になっていましたが、秦に野王を陥落させられた事で、南北に分断されてしまいました。
ここで、韓の桓恵王は北地の上党の奪還は不可能と考え、秦への割譲を約束しました。
秦の昭王は上党の割譲を聞き喜んだ事でしょう。
しかし、上党の太守である靳黈は命令に従わず、徹底抗戦の構えを見せますが、韓の桓恵王は更迭し馮亭を上党太守としました。
馮亭はそのまま趙に降伏してしまったわけです。
趙の朝廷では平原君が上党を貰い受けるべきとし、趙の孝成王も了承しました。
これにより上党は趙の領土となりますが、これに怒ったのが秦の昭王であり、上党に攻撃命令を出しています。
これにより長平の戦いが勃発しました。
歴史的勝利を収める
これにより長平の戦いが勃発します。
長平の戦いは長期戦となりますが、秦の昭王は趙に「秦が恐れているのは趙括が将軍になる事だ」と流言を放ちました。
これに引っ掛かったのが、趙の孝成王であり、廉頗を解任し趙括を将軍に任命しました。
秦の昭王も白起を総大将として、趙軍と戦わせています。
白起は趙括の軍を飢えさせ、最終的に趙兵45万を生き埋めにしたと言います。
長平の戦いは秦の記録的な大勝利に終わりました。
秦の昭王が大功労者だった
史記の白起王翦列伝の記録で、長平の戦いでの秦の昭王の動きが記載されています。
秦の昭王は白起が趙の趙括の糧道を断った話を聞くと、自ら河内まで行き、民に爵一級を与え15歳以上の者を徴兵したとあります。
この記述から、秦の昭王は長平の戦いでの勝利の為に、最善を尽くしたと言えそうです。
秦の昭王は徴兵した兵士を長平に向かわせました。
長平の戦いで軍を上手くサポート出来なかった趙の孝成王に比べると、懸命に動いている様子も分かります。
長平の戦いの大功労者は秦の昭王と言ってもよいのかも知れません。
尚、個人的には、この時の秦の昭王が一番輝いていた様に感じています。
その後の展開
韓は秦の禍を趙に移したはずだったわけですが、長平の戦いの45万人生き埋め事件を聞き恐怖したのではないでしょうか。
秦の昭王の48年(紀元前259年)に韓は秦に垣雍を献じました。
ここで秦本紀の記述を見ると「武安君が帰り」とあるので、白起は秦に帰還する事になったのでしょう。
秦は軍を三つに分け、王齕が趙の武安君を討ち皮牢を陥落させています。
ここで言う趙の武安君が誰だったのかは不明です。
司馬梗は北方の太原に行き韓の上党の地を平定しました。
白起は間髪おかず、趙を攻めて滅ぼす様に進言しましたが、范雎が蘇代の言葉で心を動かされ、軍を休ませる様に秦の昭王に進言しました。
秦の昭王は范雎の言葉を採用した事で、白起と范雎の仲に亀裂が入る事になります。
白起は秦の昭王に対しても不信感を持ち、魏冄の時代を懐かしんだのかも知れません。
尚、長平の戦いで勝利した後に、白起の言葉に従い直ぐに趙を攻めていたら、秦の昭王の時代で天下統一出来ていたのではないかとする説もあります。
邯鄲籠城戦の敗北
史記の秦本紀によると、五大夫の王陵が趙を攻撃し邯鄲を囲んだとあります。
これにより邯鄲籠城戦が勃発する事になります。
趙の孝成王や平原君は滅亡の瀬戸際に立たされており、必死に防戦しました。
秦の昭王は総大将を王陵から王齕に交代し、鄭安平にも援軍に向かわせています。
秦の昭王は白起に指揮を取らせようともしましたが、白起は命令に従わず最終的に流罪にされ、自刃する事になります。
邯鄲籠城戦の最中に、大功労者である白起は秦の昭王に与えられた剣により、世を去りました。
邯鄲籠城戦が行われている中で、張唐が魏を攻撃していた話も残っています。
秦軍は邯鄲を落す事が出来ず、秦の昭王は増援部隊を送るも戦況は好転しませんでした。
こうした中で平原君が楚に行き毛遂の弁舌があり、楚の考烈王は宰相の春申君を趙への援軍としています。
魏の信陵君も晋鄙の軍を奪い、趙への援軍として現れました。
趙の李同の奮戦もあり、秦軍は敗れ鄭安平は捕虜となります。
王齕は汾城郊外の軍に逃げ込みました。
張唐の奮戦
邯鄲籠城戦で魏の信陵君が趙を独断で救ってしまった事で、魏は思わぬとばっちりを受ける事になります。
秦軍は魏を攻撃し斬首6千を数え、魏の軍勢で河に落ちて亡くなった者が2万もいたと言います。
魏軍との戦いでの勝利に、秦の昭王はほくそ笑んだのではないでしょうか。
こうした中で張唐が汾城を攻撃し、趙の寧新中を抜きました。
寧新中は安陽に改名され、初めて橋をかけたと記録されています。
摎と西周王朝の滅亡
秦の昭王の51年(紀元前256年)に、摎が韓を攻撃し陽城と負黍を取りました。
さらに、摎は4万人を斬首しています。
白起が亡くなっても、秦の武は一向に衰えず、秦の昭王も安心した事でしょう。
負黍は韓康子に段規が「負黍を取れば鄭が取れる」と述べており、秦の昭王は既に本気を出せば韓を滅ぼせる所まで来た事になります。
さらに、趙を攻撃し20余県を陥落させ、斬首した者と捕虜を合わせると9万にも及んだと言います。
西周の武公が秦に背き伊闕を出発し、秦を攻撃する為に動き、秦の陽城の連絡を絶つ事になります。
秦の昭王は摎に西周の攻撃を命じました。
摎が西周に迫ると、西周の君は領地を献上するなどしており、周の赧王は秦に入る事になります。
東周が残っていますが、周の赧王がおらず、事実上の東周王朝の滅亡となります。
秦の昭王の時代に何百年も続いた周王朝は幕を閉じました。
秦の昭王は九鼎や周の宝器を手に入れる事になります。
范雎の更迭
秦の昭王は范雎を信頼していましたが、范雎が推挙した鄭安平は戦いに敗れて降伏しました。
他にも、范雎が推挙した王稽が諸侯と内通した事で、処刑されています。
睡虎地秦簡の編年記では、紀元前255年に王稽と范雎が同じ年に亡くなった記録があります。
こうした事情から、秦の昭王でも范雎を庇いきれない状態となり、范雎も空気を察し秦の昭王には蔡沢を推薦し、引退しました。
しかし、この直後に范雎は亡くなってしまったのかも知れません。
もしくは、秦の昭王が范雎を処刑せねばならぬ状態となり、王稽と共に処刑した可能性もあるのではないでしょうか。
秦の昭王が范雎を処刑したのであれば、諸葛亮の泣いて馬謖を斬るのと同じ状態だったはずです。
諸侯を凌駕する
秦の昭王の53年(紀元前254年)に天下の諸侯が秦に入朝したとあります。
この時に、魏がおくれて入朝しなかった事で、秦の昭王は摎に命じて魏を討たせました。
秦は呉城を取る事になります。
韓の桓恵王も入朝しました。
秦の昭王の晩年にあたるわけですが、この頃には韓は風前の灯であり、魏も全盛期とは程遠い国力となっています。
魏の安釐王は国を挙げて秦に任せ、命令に奉じるとしました。
信陵君が邯鄲籠城戦以降は趙におり、魏では秦に対抗する術が無かったのでしょう。
秦の昭王は三晋を始め、多くの諸侯の国力削減に成功し、国力で諸侯を凌駕したと言えます。
紀元前253年に秦の昭王は上帝を雍で郊祭したとあります。
秦の昭王の最後
秦の昭王は在位56年で世を去りました。
半世紀以上も秦の君主を務め、領土を大いに拡大された君主ではありましたが、年齢には勝てなかったのでしょう。
秦の昭王は251年に世を去り、子の孝文王が後継者になりました。
孝文王の母親である唐八子を尊び唐太后とし、秦の昭王の墓に合葬したと言います。
韓の桓恵王は喪服を着て、自ら秦までやってきて弔いました。
他の諸侯も将相を遣わし、弔問し秦の昭王の葬儀に参列しています。
秦の昭王の影響力の大きさが分かる様でもあります。
後継者となった秦の孝文王ですが、3日間で亡くなり荘襄王が後継者となり呂不韋の時代に突入する事になりました。
荘襄王が数年で亡くなると、嬴政が後継者となり、これが秦の始皇帝です。
嬴政が秦の昭王の遺志を継ぎ天下統一を成し遂げる事になります。