士燮は正史三国志に登場する人物であり、交阯を拠点とし交州において絶大なる影響力を発揮した人物です。
南越の英雄と言ってもよいでしょう。
士燮は最初は曹操と誼を結びますが、赤壁の戦いで孫権が勝利すると、今度は孫権に接近しました。
士燮は統治能力が高いだけではなく、優れた外交センスを評価されるなど交州を上手く統治したため評価される事が多いです。
ただし、孫権は交州刺史として歩隲を派遣し、この頃から士燮の支配地域は縮小に向かいました。
それでも、士燮は最後まで交州に影響力を持ち続け天寿を全うしています。
士燮は死後に神として祀られました。
尚、士燮は正史三国志の呉書に劉繇太史慈士燮伝があり、名前の通り劉繇、太史慈、士燮と共に収録されています。
劉繇と士燮は明らかに群雄でもあり、太史慈が伝の中に入っているのは謎ですが、劉繇太史慈士燮伝は呉の近辺の群雄の伝とも言えるはずです。
因みに、春秋戦国時代の晋の天才兵法家である士会の子の名前が士燮ですが、今回は三国志の士燮を解説します。
先祖が交州に移り住む
士燮の先祖は魯国汶陽の人だったとあります。
しかし、前漢が滅びて新の王莽の時代になると、失政もあり反乱が続発します。
こうした中で士燮の先祖は混乱を避けて交州に移り住んだと言います。
先祖が交州に移り住んでから、六代目が士燮の父である士賜だったと正史三国志に記録されています。
それを考えると、士燮は先祖が交州に移り住んでから、7代目となるのでしょう。
尚、士賜は桓帝の時代に交州日南郡の太守となったとあります。
日南郡は交州の最南端の郡であり、士燮は父に従い交州の最南端まで行った可能性もある様に感じました。
士燮は若い頃に、洛陽で勉学に励んだ話もあり、中華の最南端と都の両方を見て見識を高めた可能性もあるはずです。
士燮の統治能力や外交などは若い頃に磨かれたと考えるべきなのかも知れません。
劉陶に学問を習う
士燮は洛陽で学問を修める事になりますが、劉陶に師事したとあります。
士燮は劉陶の元で春秋左氏伝を学び、後に士燮は春秋左氏伝に自ら注釈をつけた話しもあります。
劉陶は先祖を辿れば皇族に行き着くわけであり、極めて家柄もよく、それでいて清廉な心を持った人物でもありました。
劉陶は後に宦官と対立し命を落としますが、この時に士燮がどの様に思ったのかは定かではありません。
中央の混乱を見て士燮は、自分は中央よりも地方へ赴任したいと思った可能性もある様に感じました。
交州へ帰還
後に士燮は孝廉に推挙され、尚書郎となります。
出世コースに入ったかの思われた士燮ですが、仕事上のトラブルに巻き込まれて官を免ぜられる事になります。
後の事を考えると、官位を解かれた士燮は故郷である交州に帰還したのでしょう。
士燮が交州に戻る前後で、父親の士賜が亡くなった様であり、士燮は喪に服しました。
喪が明けると士燮は再び官への道が開かれる事になります。
士燮が交阯太守となる
士燮は士賜の喪が明けると、茂才に推挙され荊州南郡の巫県の令に任じられたとあります。
士燮は巫県の令になったという事は、交州を離れて荊州に行ったという事になるはずです。
交州から離れた士燮ですが、交州では士燮を必要としたのか、交阯太守となりました。
これにより士燮は交州に戻りました。
180年頃に烏滸蛮族が反旗を翻しますが、交州の太守らは上手く対応する事が出来ず、最終的に朱儁が討伐に向かう事になります。
朱儁が交州刺史になった話があり、士燮の交阯太守就任と何かしらの関りがあるのかも知れません。
士燮が交阯太守になったのは、黄巾の乱が起きた頃だったのではないかとも考えられています。
士燮は交阯太守の座を40年間も保ち続けました。
尚、黄巾の乱が勃発した頃になると、朱儁は皇甫嵩や盧植と共に討伐軍の将軍となっており、交州からは離れています。
交州刺史は朱儁の子である朱符が就任しました。
士燮の弟の士壱は丁宮や黄琬などの政府高官に気に入られ重用されますが、董卓が実権を握ると士壱も交州に帰還しています。
士壱も有能な人物であり、士壱が戻って来たのは、士燮にとっても幸運だったと考える事が出来ます。
尚、士壱を高く評価した丁宮は、曹操に嫁いだ丁夫人の一族だとも考えられており、丁氏を通じて士燮は中央に強いパイプを持っていたとみる事が出来るはずです。
弟達を太守に推薦
交州刺史の朱符は、暴政を行っており求心力は低下し、異民族の反乱により命を落としました。
朱符が世を去った事で、交州では混乱が見られたわけです。
士燮は交州が混迷の時代に突入した事を悟ると、弟の士壱を合浦太守、次弟で徐聞県の令だった士䵋を九真太守、さらに下の弟の士武を南海太守にする様に上表しました。
士燮の申し出が認められた事で、士燮の一族が交州の半分を領有する事となります。
しかも、士燮が領有したのは交州の海に面する地域であり、交易で財を成す事も期待出来ました。
これを見ると士燮の一族が交州を牛耳ったかの様に見えなくもありません。
実際には朝廷から張津が交州刺史として送り込まれており、士燮の交州支配が確立されたわけではなかったわけです。
士燮は張津と敵対するつもりはなく、張津を交州牧とする様に朝廷に上表しました。
張津は認められて交州刺史から交州牧となり、軍事権の得る事になります。
尚、交阯が正式に交州と呼ばれる様になったのは、張津が交州牧になった時だともされています。
因みに、正史三国志によると、士燮の弟で南海太守となった士武は、比較的早い時期に亡くなった様です。
士燮の人柄
正史三国志の本文に士燮の人柄に関する記述があります。
正史三国志によると士燮は温厚な性格で謙虚で驕り高ぶる事が無かったと言います。
士燮のこうした人柄は中原にまで鳴り響いており、士燮の元に身を寄せる者は多かったわけです。
陳国の出身で士燮の元に身を寄せた袁徽は、中央にいる荀彧に送った手紙の中で、士燮を絶賛しています。
袁徽が荀彧に送った手紙に関しては、袁徽の記事で書きましたので、ここでは記載しません。
袁徽は士燮の統治能力は竇融以上だと評価しました。
袁徽は後漢の光武帝時代に涼州を治めたの名臣です。
尚、正史三国志によると中原の士人で士燮の元に身を寄せた者が何百人もいたと言います。
実際に、下記の人物が士燮を頼った話が残っています。
士燮の進言
芸門類聚に建安2年(197年)に士燮は、張津に進言した話があります。
士燮の進言に関しては、上記の動画から採用しました。
※芸門類聚より
士燮「天下の十二州はそれぞれが州を称しているのに、交阯のみがその資格がなく平等に扱われておりません。
普天之下となれば、不平等があってはいけないのです」
士燮は天下は皇帝の下で平等であり、臣下でない人間はいないと述べたわけです。
士燮が述べた考えを王土王明思想と呼びます。
尚、ベトナムの大越史記全書には交州出身の李進なる人物が、後漢の献帝に「朝廷に重用されるのは中原の人物ばかりで、交州の者が登用されていない」と意見しました。
これにより交州の人々も朝廷に仕える者が増えたと言います。
これらを考えると、士燮は李進らと共に、交州人の地位向上の為の働きかけを行ったとも言えるはずです。
士氏の繁栄
士燮の兄弟らは郡の太守を務めるなど、一族は繁栄しました。
交州は中原の地から離れていた事で、並ぶものがいない程の権勢を得たとあります。
中原の地では曹操、袁紹、袁術などが覇を競いましたが、中原から遠く離れた交州は平和であり、さらに交州の半分の太守は士燮の一族が務めていたわけです。
士燮の勢力が交州第一の勢力であり繁栄したという事なのでしょう。
士燮が外出する時は、儀仗を整え楽隊が従い騎馬が道に溢れたと言います。
さらに、士燮の馬の隣には香を焚く胡人が数十人ほどもいたとあります。
士燮の妻や妾なども士燮の権勢により豪華な車に乗っていた話も残っています。
赤壁の戦いの前辺りが、士燮の全盛期でもあったと感じています。
生き返った士燮
正史三国志の士燮伝の注釈に葛洪の神仙伝の話が掲載されています。
内容は士燮が病死してしまいますが、董奉の丸薬を飲むと生き返ったと言う話しです。
士燮は薬を飲んでから息を吹き返し、4日後には完全に元気になったという話しになっています。
董奉は名医と呼ばれた人ではありますが、話が余りにもよく出来過ぎており、単なる説話に過ぎないと見る事が出来ます。
ただし、裏を返せば士燮が如何に交阯を上手く治めたのか分かる話でもあるはずです。
後に士燮は神として祀られるわけですが、片鱗はこういう説話に現れていると感じました。
交州を任される
後漢王朝の朝廷が派遣し交州牧となった張津ですが、区景により殺害されました。
張津は劉表と対立し部下に無理をさせ過ぎた事で、区景により命を落としたわけです。
さらに、蒼梧太守の史璜も亡くなりました。
この時に後漢王朝の朝廷では曹操が最大の権力者であり、士燮に次の様な璽書を発行しました。
※正史三国志士燮伝より
交州は隔絶された地域であり、南は大河と海に面している。
それ故に、中央からは恩徳を及ぼす事も出来ず、遠いが故に下に忠義の心があっても中央までは届かない。
こうした状況を利用し逆賊の劉表が頼恭を派遣し南方を制圧せんとしている。
劉表を野望を阻止すべく士燮を綏南中郎将とする。
士燮は七郡(南海、蒼梧、鬱林、合浦、交阯、九真、日南)を監督する様にせよ。
交阯太守は今までと同じように職務を行う様に。
後漢王朝の朝廷では、交州を士燮に任せ、士燮は実質的に交州牧となりました。
曹操が士燮を交州牧にしなかった理由ですが、当時は中央から派遣される官吏は地元を赴任地に出来ないルールがありました。
地元の者が責任者となってしまうと、地元と強固な関係を築くなどの問題もあり、禁止されたのでしょう。
士燮は交州蒼梧郡広信県の出身であり、交州刺史や交州牧になる事は出来ません。
曹操が士燮に交州を任せた理由は、先に袁徽が荀彧に士燮を礼賛する手紙を送っており、曹操も納得して交州を任せたのでしょう。
士燮の方でも朝廷への務めを忘れず、張旻に貢納品を持たせ京都に派遣したりもしています。
正史三国志では天下の混乱により道が通じなくなり、それを理由に貢納を怠る者が多い中で、士燮は役目を果たしたと賞賛しています。
劉焉や劉表などは皇族に連なる者でありながらも、道が通じない事を理由に貢納を怠った話もあり、士燮と比較している様にも感じました。
朝廷の方でも士燮の心がけを良しとしたのか、詔を出し安遠将軍とし龍度亭侯に封じています。
尚、劉表が派遣した頼恭と呉巨は仲違いを起こし、呉巨は劉表が任命した交州刺史の頼恭を追い出してしまいました。
因みに、呉巨は劉備が頼ろうとした事がありましたが、魯粛が頼りにならないと述べて制止した人物でもあります。
孫権の支配下に入る
208年に赤壁の戦いが勃発しますが、周瑜の活躍もあり孫権・劉備の連合軍が勝利しました。
曹操は天下統一の野望を打ち砕かれ北方に逃れています。
210年になると孫権は歩隲を交州刺史として派遣しました。
この時に、士燮はすんなりと孫権の配下となったわけです。
それに対し劉表が過去に派遣した蒼梧太守の呉巨は、孫権に従おうとせず歩隲により斬られました。
孫権は士燮を左将軍に任命しています。
士燮が孫権の傘下に入ったのは、曹操が赤壁の戦いで敗れて、中華の最南端である交州まで影響力を及ぼすのは難しいと判断した為でしょう。
孫権も士燮の交州での影響力を知っており、従うなら役立てたいと考えたはずです。
220年になると、士燮は子の士廞を孫権の元に人質として出しました。
孫権は士燮の態度に義を感じたのか、士廞を武昌太守に任命しています。
武昌は呉が首都にした事もあり、呉の重要拠点を士燮の子である士廞に任せたのは、信頼感の表れとみてよいでしょう。
孫権は士燮と士壱の子で南方にいる者達も中郎将に任命したと記録されています。
士燮の子である士廞、士祗、士徽、士幹、士頌らが、中郎将になったという事なのでしょう。
士燮は孫権からの信頼を勝ち取ったと言えそうです。
因みに、士燮が士廞を孫権に差し出した年に、交州刺史が歩隲から呂岱へと変わりました。
孫権の交州支配は士燮の勢力縮小だった!?
正史三国志の記述を見ると、士燮と孫権は上手くやっている様に見えます。
しかし、実際には孫権の勢力が交州に及ぶにつれて、士燮の影響力は縮小していきました。
上記の動画をベースに解説しますが、孫権が士燮の勢力圏を削って行った事は間違いないでしょう。
晋書地理志によると、孫権は歩隲を交州刺史としましたが、役所を南海郡の番禺に設置しました。
南海郡は交州の中でも東端の郡であり、南海郡に孫権は強い影響力を及ぼす事になります。
さらに、陸績を鬱林郡太守としました。
正史三国志の薛綜伝に薛綜の言葉で、九真太守には儋萌が任命されている事が記載されています。
九真太守は過去には、士燮の弟である士䵋が任命されていたわけです。
孫権が交州に介入した事で、士燮の交州での勢力圏は交阯と合浦だけとなってしまいました。
さらに、士壱が太守をしていた合浦郡も分割され、高涼郡が立てられる事になります。
それでも、士燮は士氏が生き延びるには、孫権の傘下としてやっていくしかないと考えていたのか、孫権の支配を受け入れました。
益州への調略
話しは戻りますが、士燮が孫権の勢力に入った頃に、劉備は益州への野望を見せる様になります。
劉備は劉璋から益州を奪うと、そのまま独立勢力となり、荊州は呉の呂蒙に奪われていますが、皇帝に即位しています。
劉備と孫権の間で夷陵の戦いが勃発しますが、陸遜の活躍もあり呉軍が勝利しました。
夷陵の戦い後に蜀と呉は同盟を結びますが、孫権は蜀への執着を諦めたわけではなかったわけです。
こうした中で士燮は益州の豪族である雍闓と連絡を取り、雍闓は孫権への降伏を申し入れる事になります。
さらに、雍闓は捕らえていた蜀漢の張裔も呉へ移送しました。
孫権は士燮のこうした行動に喜び、衛将軍に昇進させ龍編侯に封じています。
衛将軍の上には、大将軍、車騎将軍、驃騎将軍しかなく、孫権が士燮を重く扱った事が分かるはずです。
孫権は士燮の弟の士壱を偏将軍・都郷侯としました。
孫権は士燮の権勢は削りましたが、呉に尽くす士燮に対し将軍位などで応えたわけです。
士燮の貢納
士燮が孫権に使者を派遣する時には、様々な貢納物を届けた事が正史三国志に記録されています。
※正史三国志士燮伝より
明珠(真珠)、大貝、瑠璃、翡翠、サイの角・象牙・バナナ・椰子・龍目など
士燮は毎年の様に孫権に珍奇な品物を贈り恭順の意を示したわけです。
翡翠などは産地が限られており、ミャンマー辺りが産地ですが、交易により得た珍宝も孫権に贈っていたのでしょう。
孫権の方でも士燮の気持に応えて、返礼品を贈りました。
尚、士燮の弟である士壱も馬を贈るなどしています。
三国志の最南端の群雄と言えば士燮になると思いますが、最北端の雄と言えば遼東公孫氏を想い浮かべる人が多い様に感じています。
遼東公孫氏の公孫淵は、魏が諸葛亮の北伐の脅威にあり対処出来ずに、公孫淵を厚遇すると、公孫淵は調子に乗り呉と誼を結ぶなどを行っています。
公孫淵の背信外交は魏からも呉からも信用されなくなり、最後は司馬懿に滅ぼされました。
公孫淵に対し士燮は孫権に仕える事を忘れなかった事で、天寿を全う出来た部分もあるはずです。
士燮の方が公孫淵よりも、身の振り方はかなり巧みだったと言えるでしょう。
士燮の統治能力の高さ
士燮の統治能力の高さですが、先に紹介した動画が言い得て妙というべきでしょう。
士燮は学者を積極的に保護した事が分かっています。
交州は中国の最南端にあり、いわば未開の地ではありましたが、現地の風習を損なわず統治したのでしょう。
無理やり現地民に漢民族の文化を押し付けるような事はしなかったと考えられています。
士燮は寛容な政治を行ったわけです。
大越史記全書を編纂した呉士連によれば、大越の史書に通じ、礼楽を学び文献の国としたのは士燮の功績だと絶賛しています。
交州の最南端に日南郡があり、ここで林邑国が勃興しました。
士燮は林邑国に対し、無理に征伐する様な事は無かったわけです。
士燮の柔軟な政策により林邑国は長く続く事になります。
こうしてみると、士燮は交州で徳により政治を行った様にも見る人も多い事でしょう。
しかし、士燮は交州を乱す者は容赦しないという苛烈な部分も持っていたわけです。
士燮は曹操の恨みを買い交州に逃亡してきた袁忠と桓邵を生かす様な事はしませんでしたし、桓曄も交州で命を落としました。
こうした士燮のやり方は交州に平和をもたらし、士燮は士王とまで呼ばれる様になったのでしょう。
士燮の最後
正史三国志の記述
士燮の最後ですが、正史三国志に次の記述が存在します。
※正史三国志士燮伝より
士燮は郡にあること40年。
黄武5年(226年)に90歳で死去した。
上記の記述から士燮の生まれが137年だった事が分かります。
それと同時に、交阯太守になった時には、既に50歳ほどの年齢だった事が分かりました。
大器は晩成すと言いますが、大器晩成型というのは、士燮の様な人物を言うのでしょう。
士燮の統治はベトナムで称賛される事になり、死後も良い意味で放っておかれる事はありませんでした。
士王仙
14世紀にベトナムで編纂された越甸幽霊集に、士燮の死後に関する記述があります。
士燮が亡くなり三国志の世界を終わらせた西晋が崩壊すると、北方は異民族が割拠し五胡十六国の時代となります。
南方の方では東晋が勢力を保ちました。
こうした中で日南郡にある林邑国が交州に侵攻し、士燮の墓を暴いてしまったわけです。
ここで士燮の遺体が現れますが、士燮の遺体は生前と変わらぬような姿をしており、驚いた賊共は逃亡してしまったとあります。
この逸話が広まると士燮の事を「士王仙」と呼ばれる様になりました。
漢中に割拠した五斗米道の張魯なども遺体が生前と変わらなかった話があります。
張魯も漢中において善政を布いた話があり、人々の心に士燮も残り続け、この様な逸話が誕生したのではないかと感じました。
尚、士燮は死しても林邑国の賊から大越を守った事で、国家の守護神としても崇められる様になります。
嘉応善感霊武大王
中世に元が金帝国を滅ぼすと、南の南宋は元の脅威におびえる事になります。
元帝国は欧州にも領土を拡げており、世界の脅威と言ってもよい存在だったわけです。
南宋が滅びればベトナムにまで攻めて来る可能性があり、大越では困苦していました。
こうした状況の中で1285年に国を守る守護神として、士燮に「嘉応大王」の諡号が贈られる事になります。
大越がモンゴル軍を退けると「嘉応善感霊武大王」となり、国家の守護神としての地位を確立しました。
死後に神になったと言えば、関羽が有名ですが、士燮もまた死後に神になったと言えるでしょう。
士燮の善政は交州やベトナムにおいて、忘れ去られる事は無かったわけです。
士燮死後の交州
士燮が亡くなると、孫権は交州を分割し東部を広州としました。
孫権は広州刺史を呂岱とし、戴良を交州刺史としています。
さらに、孫権は陳時を派遣し、士燮の後釜の交阯太守にしようとしました。
戴良と陳時は交州にやってきますが、士燮の子である士徽が交阯太守を名乗ったわけです。
士燮の一族からしてみれば、士燮が40年に渡って統治してきた交阯を別の誰かに明け渡すのは不服だったのでしょう。
孫権からしてみれば、既に士燮の権勢を削いでいたわけであり、交阯太守が世襲制ではない事から、士燮が亡くなったタイミングで、陳時を交阯太守としたと考える事が出来ます。
士氏にとってみれば、交阯太守の座を奪われるのは許せる事ではなく、反旗を翻しますが、最終的に呂岱に騙されて命を落としています。
士燮の子孫は士燮死後に1年も絶たないうちに、多くの者が命を落としました。
呉では士氏から交州を完全に奪いますが、統治が上手くいったとは言えず、反乱に悩まされる事になります。
呉の孫晧の時代である279年に郭馬が交州において乱を起こしました。
さらに、西晋が呉を様々な方面から攻撃を仕掛けてきた事で、呉軍は郭馬に対処する事が出来ずに、晋軍にも対応出来ず滅亡しています。
陸機は呉は北方の晋と南の郭馬の乱により滅ぼしたと述懐しました。
士燮なくして、呉では交州は上手に統治が出来なかったとみる事が出来ます。
逆にいえば、交州で善政を布いた士燮は南越において、讃えられる事となるのは、必然とも言えるでしょう。