【宋襄の仁】という言葉を知っているでしょうか?
宋襄の仁の意味としては、「つまらない情けをかけて自分が酷い目に合う」という事です。
項羽を指す「婦人の情」に近い意味合いで使われる事も多いと言えます。
この言葉の語源になった人物が春秋戦国時代の宋の襄公です。
宋の襄公は活躍もしていて【春秋五覇】に数えられる事もありますが、極端な思想の持主でもありました。
よく言えば正々堂々とした人、悪く言えば仁義を考えすぎている人です。
泓水の戦いで常識では考えられない事をしでかしてしまうわけです。
この話は役に立つ話でもあるので、キングダムで外伝でもあれば取り上げて欲しいと思います。
泓水の戦い
【宋襄の仁】が問題になった戦いは、楚と宋の戦争である泓水の戦いです。
この戦いを見ていきたいと思います。
楚軍と宋軍が泓水のほとりで対陣
楚軍と宋軍は泓水のほとりで戦闘を行う事になりました。
この時に楚は大国で強大な戦力を持ち兵力も宋を圧倒していました。
それに対して、宋は兵力も劣ります。
普通で考えれば策を以て敵にあたるというのが打倒でしょう。
無策で正面から戦ったのでは勝ち目がありません。
楚軍が川を渡りだす
楚軍と宋軍の間には小さな川がありました。
楚軍は川を渡り始めます。
ここにおいて宋の宰相である目夷は進言します。
目夷「敵は大軍、こちらは兵力で劣っております。幸い楚軍は川を渡っている最中です。今、攻撃を掛ければ敵は動く事が出来ず勝利は確実です」
宋の襄公「敵を攻撃してはならん」
宋の襄公は目夷の進言を却下しました。
楚軍が陣形が乱れている
川を渡った楚軍ですが、陣形を整えるのに時間が掛かります。
宋は陣形が整っているので攻撃のチャンスでもありました。
そこで、再び宰相の目夷が襄公に進言します。
目夷「敵は陣形が整っていません。今、攻撃を掛ければ我が軍が勝利する事が出来ます。ここで攻撃を掛けなければ兵力で劣る宋は間違いなく敗れます」
襄公「ならん!敵が陣形を整うのを待て!」
またもや襄公は目夷の助言を無視します。
そして本当に敵が陣形を整うのを待ちました。
宋が大敗北を喫する
楚軍は川も渡り陣形も整えて後は、宋に攻撃するだけです。
ここにおいて、宋の襄公も楚に攻撃命令を出します。
しかし、宋は兵力で劣りますし戦いが始まると楚軍にボコボコにやられてしまいました。
襄公自身も負傷してしまい、その傷が元で亡くなっています。
これが泓水の戦いです。
分かった人もいるかと思いますが、この話が宋襄の仁の語源になっています。
確かに、つまらない温情をかけてしまったために、自分が痛い目にあっていますよね。
宋の襄公は融通が利かない人でもあったのでしょう。
宋の襄公はなぜ攻撃を仕掛けなかったのか?
宋の襄公は宰相である目夷の進言を2度に渡って無視しています。
無視した理由なのですが、襄公自身の言葉として残っています。
襄公「君主というものは詐術を行ってはならない。敵であっても困っている人に付け込んではならない」
襄公「太古の戦争は白髪の混じった老兵は捕らえないものだ。私はどんなに困っても、そのような行為は絶対にしない」
この様に言い放ったとされています。
つまり、宋の襄公は卑怯な事をしたくないために、不利を承知で正々堂々と戦ったわけです。
これだと死んだ宋の兵士は気の毒ですよね。勝てた可能性もある戦いを襄公の判断で捨てたわけですから・・・。
目夷の言葉が全てを語っていると思う
これに対して宰相である目夷は次のように言っています。
目夷「襄公様は戦いを分かっていない。戦いというのは仁義道徳などとは無縁のものだ」
目夷「勝つためには全力で策を巡らし敵の虚をついて勝つのが最善だ。もし、兵力が劣っていて策を弄しないのであれば敵に降伏する以外に道はない」
理想主義の襄公に対して、目夷の方は完全に現実主義なのです。
ちなみに、目夷と襄公は母親は違いますが父親は同じ兄弟です。
兄弟であって同じ場所に住んでいても、人間はここまで考え方が変わるものだという事を再認識しました。
今の話しは史記の宋世家に載っています。しかし、史記だと簡略に書かれているので、春秋左氏伝などで補足しました。
尚、歴史家によっては楚は大国で宋は小国、河を渡っている最中や陣形が整う前に攻撃を仕掛けても負けていたという話もあります。
具体的な兵力差などは記録がないので、何とも言えないところでしょう。
歴史に見る宋襄の仁
歴史を見ると、「これは宋襄の仁だ」と思える部分が幾つかあるので紹介します。
楚漢戦争の時に劉邦配下の韓信と井陘の戦いで敗れた陳余も宋襄の仁を行っています。
井陘の戦いの前に陳余の参謀である李左車は策を以って韓信の軍を撃破する様に陳余に進言しましたが、陳余は策を嫌い李左車の意見を却下しました。
陳余は正面から韓信の軍とぶつかり、韓信の背水の陣を使った奇策の前に敗れさっています。
井陘の戦いの戦いは、楚漢戦争版の宋襄の仁だと言えるでしょう。
他にも、三国志の関羽は樊城の戦いで龐徳(ほうとく)や于禁を破りますが、捕えた兵士に食料を食べさせたお陰で自軍の食料が窮乏する事になった話があります。
関羽は食料が不足した事で、糜芳や傅士仁などの荊州の士人に負荷を掛けた事で裏切られる事になります。
傅士仁や糜芳は、呉の虞翻の説得もあり呉の孫権に降伏し、荊州は呂蒙や陸遜に制圧される事になります。
関羽も曹仁が籠る樊城を落とす事が出来ず、荊州に帰る事も出来なくなり麦城に籠城しますが、結局は命を落としています。
関羽も宋襄の仁を行った様にも見えるわけです。
三国志に登場する劉虞も「余人は傷つけるな。公孫瓚だけを捕えよ」と命令した為に、兵士は敵兵を傷つける事が出来なくなり劉虞は公孫瓚に捕らえられて処刑されています。
劉虞も徳の戦い人物として知れ渡っていましたが、宋襄の仁を行ったとも言えるでしょう。
前漢を終わらせた新の王莽なども戦ってはいませんが、理想を求めて現実を捨てた部分もあり政治版の宋襄の仁と言えるのかも知れません。
襄公を評価する人も多い?
史記の司馬遷は、宋世家の最後で宋の襄公の事を述べています。
普通で考えれば、宋の襄公は常識をしらないバカだと書かれてもおかしくはないでしょう。
しかし、司馬遷はそうは書きませんでした。
宋の襄公の行為は一部の君子から評価されているというのです。
詐術を徹底的に嫌うやり方は、詐術が流行した時代にも関わらず光っているというのです。
これは意外な評価だと思いました。
尚、春秋公羊伝も宋の襄公の部分で正々堂々と楚軍と戦ったと称賛しています。
しかし、戦争で襄公のような事をやられてしまったら兵士たちから恨みを買うでしょう。
私も襄公が指揮官であれば逃げ出したくなると思います。
戦う前に逃亡したい気分になるでしょう。
因みに、司馬遷の宋の襄公の様な対極な見方は史記のあちこちに存在します。
項羽本紀や蒙恬列伝では、司馬遷は同情的に項羽や蒙恬の事を記述しながらも、最後の部分では痛烈に批判しています。
王翦なども白起王翦列伝の本文では保身術を褒めている様な口調ですが、最後は始皇帝を諫めなかった事に対して批判しているのです。
宋の襄公の場合は、本文ではけなしながらも、最後で褒めるというパターンだと言えるでしょう。
宋の襄公のその後
宋の襄公のその後なのですが、書物によっては泓水の戦いの3日後に亡くなったとも記載があります。
しかし、泓水の戦いで負けた後に晋の公子である重耳(後の晋の文公)が宋を訪ねています。
その時に傷を押しながらも面会した記録があるので、すぐに亡くなったという事はないようです。
しかし、遅くても2年後には亡くなったようです。
行き過ぎた理想主義者の末路という感じですね。
尚、宋襄の仁に限らずこの時代は極端な人が多い時代でもあります
そこが面白くも感じる部分です。