朱海平原はキングダムにおいて、鄴攻めにおける激戦地の一つです。
趙の主力部隊である李牧が趙の都邯鄲から南下して、秦の王翦が北から来る趙軍を迎え撃つ展開になっています。
そこで大軍同士の激突になるわけです。
李牧も王翦も史実に登場する武将ですし、お互いに春秋戦国時代のトップクラスの名将でもあります。
歴史ファンからしてみれば「夢の対決」が朱海平原で行われている事になっているわけです。
しかし、朱海平原の戦いは史実なのでしょうか?
あったとしても、どのような展開にだったのか、史記や戦国策、韓非子などの様々な記述から調べてみました。
朱海平原は存在しない?
朱海平原と呼ばれる地名なのですが、史記や戦国策、韓非子などの諸子百家の書物などには「朱海平原」という地名は存在しません。
私が知らないだけで、中国にそういう地名があるのかも知れませんし、春秋戦国時代は「朱海平原」という地名があったが、今は無くなってしまった可能性もあるのかも知れません。
ガッカリした人も多いかと思いますが、朱海平原という地名はなかった事も考えられます。
キングダムだけのオリジナルの地名の可能性もあるでしょう。
ただし、朱海平原と言う地名は無くても、鄴と邯鄲の中間地点で趙軍と秦軍がぶつかった可能性はあるはずです。
李牧は朱海平原に参戦していない?
朱海平原の戦いですが、あったとしても李牧は参戦してはいない可能性が高いです。
この頃の李牧は、北方の長官をしていて、北方の匈奴や異民族に睨みを利かせ中央にはいなかったと思われるからです。
実際に、李牧は、桓騎将軍をはじめとして、秦を何度も破るわけですが、それは鄴攻めが終り幽穆王が即位してからの事となります。
それ以前は、中央の将軍としては龐煖(ほうけん)が主力になっていて、李牧は北方の匈奴などに備えていたと思われます。
ただし、李牧が指揮を執っていないだけで、朱海平原の戦いはあった可能性も高いと感じています。
私が思う所ですが、キングダムとは別の朱海平原の戦いが史実ではあったと予想しています。
※朱海平原という地名はないが、邯鄲の南の辺りで戦闘はあったと考えられる
趙の主力軍は燕を遠征中だった?
キングダムだと司馬尚の活躍もあり趙の主力軍は朱海平原に行く事が出来ています。
最後の三大天ともいえる司馬尚が寡兵で、燕のオルドを破ったからです。
しかし、史実だと燕が趙を攻めたのではなく、趙が燕を攻撃したような記述があります。
韓非子によれば、龐煖が将軍として燕に攻撃を仕掛けた記述があります。
龐煖が燕を攻めた軍勢が、趙の主力軍だったのではないでしょうか?
史記などでは、趙が燕を攻めた隙に、秦が隙をついて鄴を攻め取った記述があるわけです。
つまり、主力軍が不在で防備が薄い趙を秦が攻めたのが実情だったのではないでしょうか?
朱海平原の前に、秦の王翦が9つの城を落とした話も出て来ますが、これは史実にも記載がある事です。
ただし、兵糧攻めではなく圧倒的な戦力差で攻め落とした可能性もあるでしょう。
趙の主力は燕に遠征中なわけで、守っていても趙の大軍が援軍として来る可能性は低いわけです。
籠城側の士気は低く簡単に降伏してしまった可能性もあるでしょう。
さらに、鄴は3年ほど前に魏から譲り受けているので、趙にとっても余り愛着もなかったのかも知れません。
尚、史記の李斯列伝に「他人の過失をぼんやりと見過ごす者は機会を失う」という言葉がありました。
この過失というのが、趙が燕を攻めてしまった事なのかも知れません。
趙が燕を攻めた事をしった李斯が、秦王政(始皇帝)に、趙を攻めるように進言した可能性もあるでしょう。
秦と趙は10倍以上の国力があった!?
この時点での、秦と趙の国力の差ですが、史実では10倍以上あった可能性があります。
下記は、「滅亡から読み解く世界史」という書籍から拝借した画像になっています。
左側の薄い色の部分が始皇帝(政)が即位した時点での秦の領土です。
趙・楚・魏・韓・燕・斉などの6国が健在とはいえ、既に中華の半分以上は秦の領土になっています。
さらに、蒙驁が魏を破り東郡宣言などもあった事から、この地図よりもさらに秦の領土は広がっているわけです。
他にも、史記の李斯列伝で李斯が荀子との会話の中で、秦以外の国は弱すぎて功を立てる事が出来ないと述べた話があります。
この事から、秦が圧倒的に強く他の6国を圧倒していた事は間違いないでしょう。
ただし、西側の方は比較的生産性の低い地域があったと考えられます。
その点を考慮しても、秦と趙では国力として10倍以上の差があった可能性もあるのではないでしょうか?
さらに、趙の主力軍は燕を遠征中です。
それを考えると、キングダムとは別の朱海平原の戦いが思い浮かびます。
もちろん、朱海平原の戦いがあった場合と、無かった場合も想定できるわけです。
朱海平原の戦いがあった場合
私が勝手に予想したわけですが、朱海平原の戦いがあった場合ですが、趙の少数の軍が玉砕覚悟で秦軍に挑んだのではないでしょうか?
趙と秦では国力が違い過ぎますし、趙の主力軍もいません。
それを考えれば決死隊みたいな人たちが、秦に玉砕覚悟で挑んだのではないかと思います。
しかし、王翦という人は史実でも、手堅い戦い方をする人なので、大軍を利用して手堅く趙軍を破ったのではないかと考えられます。
キングダムと違って兵力は拮抗していたわけではなく、秦軍が圧倒的な有利な状況で朱海平原の戦いを終えたのではないかと予想する事が出来ます。
それか鄴攻め後に秦軍の主力を率いる事になる桓騎が秦軍を指揮し、玉砕覚悟の趙軍を破った可能性もあります。
朱海平原の戦いはなかった。
朱海平原の戦いはなかったとする場合ですが、趙は主力軍がいない事もあって、鄴に対して援軍を送る事が出来なかった説です。
趙の首都である邯鄲を守るための軍隊はいたかも知れませんが、鄴を救う事のリスクを考慮して援軍を出さなかった説となります。
趙の首都邯鄲は、堅城として有名です。
秦の昭王の時代に白起が長平の戦いで趙の兵士40万人を生き埋めにする事件がありました。
その翌年に、王陵、王齕、鄭安平などが邯鄲を包囲して攻めていますが、平原君の活躍などもあり陥落させる事が出来ませんでした。
魏の信陵君や楚の春申君が援軍として来ていますが、邯鄲が堅城だった事は間違いないでしょう。
さらに、秦末期では名将である章邯は、邯鄲に籠城されると厄介だと考えて徹底的に破壊してしまったほどです。
天然の防御も兼ね備えていたのが、邯鄲だったのでしょう。
しかし、朱海平原の戦いの時に、邯鄲から軍を出してしまい、朱海平原で大敗でもしてしまったら、趙は邯鄲も攻め落とされてしまう確率が高いと言えます。
そのため、朱海平原の戦いどころか、鄴に援軍を送る事も出来なかったのではないかと考えられます。
趙の首脳陣は、龐煖に燕を攻めるのをやめさせ、鄴を救うように指示する事しか出来なかったのかも知れません。
これを考えると、朱海平原の戦いは無かったとも考えられます。
もちろん、藺相如の遺言も堯雲や趙峩龍の活躍、李信、蒙恬、王賁などの活躍も無かった事になります。
ただし、李信などは鄴攻めが終った頃から、将軍として史実に登場します。
そのため、朱海平原の戦いは無かったかも知れませんが、楊端和や羌瘣と共に参戦して功を立てたのではないかと考えられます。
朱海平原の史実のまとめ
朱海平原の史実のまとめですが、キングダムのような戦いは無かったのではないかと感じています。
朱海平原の戦いは読んでいて面白いですし、李牧と王翦の名将同士のぶつかり合いというのも白熱していると思いました。
悼襄王が死んでしまう事で決着が着くかもしれませんが、見所は多いと思っています。
しかし、朱海平原の戦いが全くなかったとしても、史実の状況を考えると不思議ではありません。
あったとしても、秦が圧倒的な戦力差を利用して破ったのが事実だったのではないかと考えています。
ちなみに、この記事を書いている段階では、朱海平原の戦いが行われている最中です。
どの様な結末を迎えるのか、今から楽しみですね!