丁原は三国志演義などでは、董卓の横暴に立ち向かった気骨のある人物のように描かれています。
霊帝の死後に、即位した少帝を廃位し劉協(献帝)を擁立しようとする董卓に反対しています。
三国志演義では、丁原と董卓は戦闘を行い、丁原が養子にした呂布の活躍により董卓は大苦戦してしまうわけです。
しかし、董卓の配下には李粛という人物がいて、呂布の精神的な欠点を知っていました。
そこで、名馬赤兎馬と引き換えに、董卓に寝返るように誘う事にしたわけです。
呂布は名馬赤兎馬を目にし、さらに董卓が厚遇してくれると知ると、丁原の首を斬り董卓への手土産としました。
これが呂布の最初の裏切りとなり、裏切り人生の幕開けとなるわけですが、その最初の犠牲者が丁原だったわけです。
名馬とはいえ、馬一匹と引き換えに命を落としてしまった丁原は気の毒と言うほかないでしょう・・・。
しかし、これは三国志演義での話で、史実とは異なります。
話しはもちろん、似ている部分もあるのですが、今回は丁原の史実の活躍?のお話です。
粗野な人物だった
正史三国志によると、丁原は名家の出身ではなく寒家の出身だったと記録があります。
丁原は粗野な性格をしていて、武勇に優れ騎射が得意だったと書かれています。
成長すると南県の役人となり、侵略者が出ると先頭に立って追跡したそうです。
これを見ると乱暴者ではあるかも知れないが、職務には忠実だったのかな?と言った感じでしょう。
尚、文字はほとんどが分からず、役人としての能力は余りなかったとも書かれているので、どちらかと言えば賊を倒すなどの勇気を持って名を馳せた人物だったはずです。
役人としての能力は余りなかったと、書かなくてもいいような事を書かれている辺りは、役人としてはよっぽど能力がなかったのかも知れません。
それか敵を倒すだけしか考えてなくて、普段の役所仕事はほとんどしなかった可能性もあります。
しかし、賊が出るなど、いざと言う時には役に立つと言う事で、出世して行ったのかも知れません。
それか、丁原が余りにも役所仕事が出来なかった為に、邪魔だと判断し出世させるという名目で役所から出て行って貰ったのかも知れませんが・・・。
呂布を親愛する
丁原は出世を重ねていったのか、并州刺史となっています。
并州刺史の時に、呂布と知り合ったのではないかと考えられます。
呂布は并州に仕えたという記述があるので、これが丁原の事を指すのでしょう。
三国志の物語などでは、丁原は荊州刺史になっていたりしますが、并州の役人にならないと呂布を配下に出来ないわけで、并州刺史が正解だと考えられます。
呂布は体格も良いですし、優れた武勇を持っていたわけです。
さらに、イケメンと言う事もあり、丁原は親愛したのでしょう。
呂布を主簿に任命して、非常に可愛がっていたようです。
丁原も粗野な性格であり役所仕事が嫌いであったのか、自分と同じ匂いがするような呂布を好んだのでしょう。
三国志演義ですと、丁原は呂布を養子にしたような事が書かれていますが、正史三国志には、そのような記述はありません。
ただ、「呂布を親愛した」と書かれているだけです。
何進に呼ばれて執金吾となる
後漢王朝では、黄巾の乱が発生して鎮圧に成功しますが、宮廷は宦官の勢力が強くなっているわけです。
中国王朝の特徴として、皇帝の親戚である外戚が権力を握るか、皇帝の近くにいる宦官が権力を握るパターンが多いと言えます。
外戚と宦官の権力闘争が後漢でも勃発しました。
霊帝が崩御すると何進は、張譲、段珪、畢嵐ら十常侍を誅殺しようと動き出します。
霊帝の后となっている何太后の兄の何進は大将軍となっていますが、宦官を排除しようと考えたわけです。
袁紹は宦官を排除するためには、各地の将軍を都に呼び寄せるように進言しました。
これにより丁原や董卓、橋瑁らは洛陽の都に集結する事になります。
何進の命令により、丁原は孟津に兵を送り放火などもしています。
その後、丁原は執金吾に任命されています。
余談ですが、執金吾は後漢の創設者である光武帝劉秀が「自分は皇帝になりたかったんじゃない!執金吾になりたかったんだ」と言った役職でもあります。
光武帝から見て執金吾の服装が気に入っていたようです。
皇帝になりたかったわけじゃないと言うのは、控えめな光武帝らしい感じがします。
話を戻しますが、その後、大将軍である何進は宦官を誅殺するつもりでしたが、逆に宦官に殺害されています。
ただし、何進を殺害した宦官たちも怒った袁紹により皆殺しにされていて、宦官たちの考える事も理解不能な部分も多いわけです・・・。
このような大混乱の時期に、丁原は都にいた事になります。
呂布に殺害される
この時に董卓は自分の配下の兵力が少ないためか、丁原の兵士を自分の軍勢に取り込もうと企むわけです。
李儒が進言したのか、李粛が進言したのか、呂布がターゲットになります。
丁原の配下で、内通してくれそうな人物の選定はかなり行ったのかも知れません。
ここで最終的に呂布が選ばれています。
正史三国志には下記の記述があります。
董卓は呂布が丁原から信頼されていたので、呂布を誘って丁原を殺害させた
丁原から信頼されている事を董卓は知っていて誘った事になるわけです。
この事から分かるのは、三国志演義同様に呂布が義理堅くない事を董卓は知っていたのかも知れません。
しかし、その後の董卓の行動を見ると呂布を騎都尉、中郎将として厚遇しています。
さらに、父子の契りを結んだと言われていますから、よっぽど気に入ったんだと思われます。
この時に、呂布は義理堅くない人物だから裏切られるという事を董卓は悟らなかったのでしょうか?
それとも、丁原と同じように、裏切られるとは思わなかったのかは疑問に感じるところです。
しかし、丁原は呂布の裏切りにより呆気なく命を落としてしまった事は確かでしょう。
ちなみに、その後の呂布は董卓軍に入りますが、孫堅との陽人の戦いでは胡軫を翻弄し、それにより華雄が戦死するなどもしています。
後には呂布は、王允と共謀して董卓も討ちますが、賈詡(かく)の進言を受けた李傕と郭汜に敗れ放浪生活をしています。
呂布は群雄を渡り歩きますが、最後は、陳宮や高順と共に曹操に捕らえられて命乞いしますが、劉備には「丁原や董卓にしてきたことを忘れない様に」と言われてしまいます。
呂布は思わず劉備に「こいつ(劉備)が一番信用出来ないんだぞ」と言いますが、結局は曹操に処刑されています。
呂布は裏切りと逃亡の人生になってしまうわけですが、最初の第一号が丁原だったわけです。
可愛がる奴を間違えると滅亡するのか
三国志の名将として、合肥の戦いなどで奮戦した魏の武将である張遼の事を知らない人は少ないはずです。
張遼は若い頃に、丁原の部下だったとされています。
さらに、後に呂布の配下として「陥陣営」の異名を取る名将高順も部下だったわけです。
高順に関しては、本当に部下だったのか分かりませんが、張遼と高順が配下にいるのは凄い事だと思っています。
張遼は義に厚い武将ですし、高順は酒も飲みませんし、清廉潔白、賄賂も貰わないし武器は完全に整備されていたとされています。
さらに、攻撃を仕掛けた敵は必ず打ち破ったそうです。
それに比べて呂布は、武芸は出来るかも知れませんが、薄情な性格で義理に欠け、さらに酒と女に弱い所があります。
高順などとは正反対な部分も多く見受けられるわけです。
丁原は、呂布を可愛がっていたようですが、一番かわいがるとしたら、張遼や高順だったのではないでしょうか?
実は可愛がっていたのかも知れませんが、呂布のような人物はさっさと捨てておいて、義理堅く仕事も出来る人たちを可愛がるべきだったのかも知れません。
尚、後に呂布に対して大声援を送り後漢王朝に対して忠誠心も高かったと思われる張楊も丁原の配下だった話があります。
この様に優れた人物を配下に持ちながらも活躍の場が限られてしまった丁原は残念にも感じる人物でもあります。