麹義は正史三国志や後漢書に登場する人物であり、三国志集解によると涼州西平郡の出身だとあります。
ただし、西平郡は後漢末期の建安年間に、金城郡から分割され出来た経緯があります。
それらを考えると麹義が生まれた時代は西平郡は無かった事になり、正確にいえば麹義の出身は金城郡だと考えられています。
麹義の先祖は後漢の尚書令にもなった鞠譚であり、鞠譚の子である鞠閟が難を避ける為に麹姓に変え涼州に移り住んだ話があります。
涼州は羌族の侵攻が激しい土地であり、ここで麹義は騎馬戦術を学び、騎馬隊の弱点も熟知していたのでしょう。
因みに、袁紹軍の猛将と言えば顔良と文醜を思い浮かべる人が多いと感じています。
しかし、正史三国志を見ると顔良や文醜の具体的な活躍は記載されていません。
それに対し麹義は界橋の戦いで、公孫瓚の騎馬隊を圧倒する活躍を見せ、それを考慮すると袁紹軍の最強の武将は麹義だったと言えるでしょう。
ただし、麹義は官渡の戦いの前に袁紹に処刑されており、影が薄くなってしまったと見る事が出来ます。
尚、三国志演義では麹義は趙雲に討たれた話がありますが、正史三国志には、その様な記述は存在しません。
袁紹に仕える
経緯は不明ですが、麹義は最初は冀州牧となった韓馥に仕える事になります。
しかし、韓馥は覇気に欠ける部分も多々あり、田豊と同じ様に麹義も用いられる事が無かったのでしょう。
麹義は韓馥にはサッサと見切りをつけて袁紹に乗り換えました。
韓馥の配下には田豊や沮授、審配、張郃などがいましたが、いち早く韓馥を見限ったのが麹義となります。
田豊や沮授が地元である冀州出身だったのに対し、麹義は縁もゆかりもない涼州の出身だった事で、あっさりと韓馥の元を離れたのでしょう。
後に袁紹は逢紀の策で公孫瓚を南下させ、韓馥は恐怖し荀諶、高幹、張導などの説得もあり、袁紹に冀州を譲渡しました。
張楊は袁紹に協力していましたが、配下の南匈奴の於夫羅が張楊を人質にとり、袁紹に反旗を翻す事になります。
袁紹は於夫羅討伐に麹義を派遣すると、麹義は鄴の南で於夫羅を打ち破りました。
於夫羅は匈奴出身であり、麹義は騎馬対策に長けており功績をあげ、袁紹の信頼を得た戦いにもなったはずです。
袁紹自身も麹義が騎馬に対し、強い力を発揮すると感じ取った事でしょう。
界橋の戦い
191年に袁紹は周昂に陽城にいた孫堅を攻撃させています。
袁術は孫堅を助ける為に軍を派遣しますが、公孫越が戦死しました。
袁紹は公孫瓚を宥める為に渤海太守の印綬を公孫範に送りました。
それでも、公孫瓚の怒りは解けず兵を南下させ、2万の兵で青州黄巾賊30万を破ると、界橋で袁紹の軍と対峙する事になります。
これが麹義最大の見せ場となる界橋の戦いです。
界橋の戦いで麹義は、公孫瓚自慢の白馬義従を騎馬の弱点をつき封じ込め、大打撃を与えました。
公孫瓚の軍は撤退しますが、袁紹の気の緩みから本陣を逃走中の公孫瓚の部隊により急襲され窮地に陥ります。
田豊は袁紹に下がる様に進言しますが、袁紹は踏みとどまり徹底抗戦を主張し、麹義が助けに来た事で事なきを得ました。
界橋の戦いを見る限りだと、袁紹軍の最強の部隊を率いているのは、どう見ても麹義だと言えるでしょう。
公孫瓚討伐
劉虞配下だった鮮于輔は公孫瓚を討つために行動を起こします。
鮮于輔は閻柔、蘇僕延らを味方とし、さらには劉虞の子である劉和も加わりました。
この軍に袁紹の命を受けたのか麹義も加わる事となり、軍勢は10万を超えたとあります。
公孫瓚は2万人を超える死傷者を出し、易京城に籠城する事にしました。
公孫瓚が徹底的に守りを固めた事で、麹義も易京城を抜く事が出来ず、食料が切れてしまい撤退に追い込まれています。
易京の戦いで撤退する麹義の軍を公孫瓚は追撃し打撃を与えました。
麹義の最後
麹義は公孫瓚との戦いに敗れ袁紹の元に戻りました。
しかし、ここで袁紹は麹義を処刑しています。
麹義は界橋の戦いでの功績をよい事に、自分勝手な振る舞いが多かったとも言います。
袁紹は麹義が気に入らなかった様ですが、功績を挙げている内は処罰する訳にも行かず、戦いの敗れた時点で見せしめの意味も含めて処刑したとも考えられています。
麹義の残党たちは公孫瓚の元に逃亡しますが、袁紹は麹義の残党を討ち取りました。
尚、袁紹と公孫瓚が対立した頃に、献帝は馬日磾と趙岐を関東の地に派遣し、諸侯を和解させようとした話があります。
袁紹は公孫瓚との和議に動きますが、麹義が公孫瓚を攻撃し、和議をぶち壊したのではないか?とする説もあります。
袁紹は公孫瓚を攻撃した麹義に対して怒り、軍令違反で処罰したのではないか?とする説もあるという事です。