蒋欽は正史三国志や後漢書、資治通鑑に登場する人物です。
蒋欽は揚州九江郡寿春県の出身であり、孫策に仕える事になります。
孫策が西暦200年に亡くなると孫権に仕えました。
孫権は蒋欽と呂蒙に学問を勧めており、蒋欽は軍人としてではなく教養も身に着ける事になります。
「呉下の阿蒙にあらず」の逸話では呂蒙ばかりがピックアップされがちですが、孫権が学問を勧めたのは呂蒙だけではなく蒋欽にも勧めています。
蒋欽は孫策の江東平定戦や関羽との戦いなど各地を転戦し、功績を挙げています。
蒋欽は関羽討伐の後に最後を迎えますが、蒋欽が仮に生きていれば、夷陵の戦いで総指揮を任されたのは陸遜ではなく蒋欽の可能性もあったはずです。
因みに、正史三国志の呉書の中に程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁伝があり、その中に蒋欽伝が設けられており下記の人物と共に立伝されています。
孫策の元で出世
正史三国志によると、蒋欽は孫策が袁術に身を寄せていた頃に、使えたと言います。
蒋欽は孫策の給仕となったとあり、根っからの軍人である蒋欽の気質を孫策が気に入った様に感じました。
195年に孫策は袁術から兵を借り受け、江東に向かいますが、この中には蒋欽もいたわけです。
蒋欽は別部司馬に任じられ兵士を授けられたとあります。
袁術の下で不遇な生活を送っていた時に、側使えをしていた蒋欽に対し孫策も信頼感があったのでしょう。
蒋欽は孫策の配下として江東平定戦で活躍し、三つの郡を平定し豫章郡の平定にも従軍したとあります。
記録だと単調に見えるかも知れませんが、蒋欽は孫策の江東平定戦において、ほぼ全ての戦いに従軍したとも言えるでしょう。
蒋欽は孫策配下の一部隊長として華々しい武勲を挙げたと見る事が出来ます。
孫策は蒋欽の功績を評価し、葛陽県の尉となりました。
この頃から蒋欽は純粋な軍人としてだけではなく、領内の統治も任される様になります。
孫策は劉繇、厳白虎や王朗らと戦っており、蒋欽も孫策配下として手柄を立てたと言えます。
ただし、史実の蒋欽は三国志演義の様に劉繇配下の、陳横を討ち取ったなどの功績はありません。
蒋欽は三つの地域の県長を歴任し、県内の不満分子を平定し会稽郡の西部都尉となりました。
孫策の配下として順調に出世したと言えるでしょう。
ただし、孫策は西暦200年に許貢の食客らにより暗殺されました。
尚、三国志演義では蒋欽は周泰と共に賊をやっており、江東平定を目指す孫策の軍に加わった事になっていますが、これは史実ではありません。
学問に目覚める
孫権が後継者となりますが、呂蒙と共に学問を諭され、この頃から蒋欽は文武両道の武将へと進化していった事でしょう。
呉下の阿蒙に非ずの逸話には、蒋欽も混ざっています。
尚、三国志演義での呉下の阿蒙の話だと、呂蒙だけが掲載されており、蒋欽の名前が登場しません。
後に呂蒙が大活躍した事から、呂蒙だけの話となり蒋欽は外されてしまったのでしょう。
しかし、史実を見る限りでは孫権は呂蒙と蒋欽の二人に学問を勧めています。
呂合・秦狼の乱
西武都尉となった蒋欽ですが、会稽・東冶の反乱分子である呂合や秦狼らが反旗を翻ました。
呂合・秦狼の乱は西暦207年頃ではないかと考えられています。
蒋欽は兵を率いて、呂合、秦狼討伐に出陣し、5つの県を平定しました。
孫権は蒋欽の功績を評価し、討越中郎将及び経拘と昭陽を封地として与えています。
三国志演義では207年に孫権は黄祖を討ち曹操との赤壁の戦いに進みますが、蒋欽は会稽郡などの反乱鎮定をしており、史実では赤壁の戦いに参加してはいないでしょう。
三国志演義では孫権の妹である孫尚香が劉備の夫人となり遠戚関係を結び、蒋欽が孫尚香を取り戻しに行き失敗し、周瑜に怒られるシーンがあります。
しかし、これらは史実ではなく蒋欽は異民族討伐や、領内の不服住民との戦いを続けており、劉備との関係は希薄だとも言えるでしょう。
黟県の反乱
208年に蒋欽は賀斉と共に黟県の反乱鎮圧に向かいました。
この時に蒋欽は1万の兵を指揮していたとあります。
208年は赤壁の戦いがあり周瑜や程普が数万の兵を率いて曹操と対峙し、曹仁との南郡の戦いもありましたが、裏では蒋欽や賀斉が反乱鎮圧に動いていたわけです。
黟県の反乱は賀斉と力を合わせ鎮圧する事に成功しました。
黟県の反乱は赤壁の戦いよりも少し前だとも考えられていますが、後方で起きた反乱を蒋欽や賀斉が鎮圧しており、赤壁での影の功労者とも言えそうです。
合肥の撤退戦
215年の合肥の戦いでは孫権は10万もの大軍で、800しかいない張遼、楽進、李典が守る城を攻撃した戦いです。
215年の合肥の戦いでも、蒋欽は参戦しました。
この時は張遼の奮戦が凄まじく、孫権を急襲しました。
孫権は撤退する事になりますが、蒋欽や呂蒙、甘寧、淩統などが奮戦しています。
蒋欽は孫権を守り通すという手柄を挙げています。
孫権は戦いには敗れましたが、蒋欽の功績を評価し盪寇将軍に昇進させ、濡須督としました。
盪寇将軍は孫堅の代から仕えていた程普が任命されていた役職であり、濡須は魏と呉の戦いの係争地でもあります。
それを考えれば、蒋欽は極めて重要な任務を与えられており、孫権が高い評価をしていた事が分かるはずです。
後に蒋欽は都に召還され、右護軍の官を授かり訴訟の処理を行ったとあります。
この時の蒋欽は既に単なる武人ではなく、法律にも詳しい文武両道の武将となっていた事でしょう。
尚、216年に行われた濡須口の戦いでは呂蒙と共に蒋欽も呉軍の指揮を執っています。
質素な生活
孫権が蒋欽の家に行き座敷に接待された事がありました。
この時に蒋欽の母親や妻妾が孫権に挨拶をしたのでしょう。
蒋欽の母親は粗い織物と薄青色の服を着て帳も古い物を使っていました。
妾達も麻布の衣服を着用しており、蒋欽が役職に見合わない質素倹約な生活をしている所を目撃します。
孫権は蒋欽の姿勢に心が動き、すぐに宮中の物品管理係に命じて、蒋欽の母親の為に鮮やかな服を用意させています。
さらに、孫権は蒋欽の妻妾に対し、刺繡が入った織物を配りました。
孫権は痛んだ帳なども新品に変えさせています。
孫権の言葉で「蒋欽は財貨を軽んじる」とあり、蒋欽は財貨を部下に配る事が多く、蓄財に励まなかった結果として、質素な生活をする事になったのかも知れません。
蒋欽と徐盛
蒋欽の徳
蒋欽が宣城に駐屯していた時に、豫章郡の反乱を討伐した事がありました。
この時に、徐盛が蕪湖の県令をしており、蒋欽の駐屯地で留守を預かっていた役人を捕え、勝手に孫権に上表し斬刑にする様に願い出た事がありました。
孫権は蒋欽が遠征に出ている事を知っており、刑の執行をしなかったわけです。
徐盛の方では蒋欽の恨みを買ったのではないか?と考えて疑心暗鬼となりました。
濡須口の戦いで蒋欽は呂蒙と共に指揮官となりますが、徐盛は蒋欽に恨まれていると考え、心が不安定になっていたわけです。
蒋欽としては徐盛が落ち着かない事を知っていたのか、逆に蒋欽は徐盛を褒め称えました。
徐盛は蒋欽が自分の事を恨んではいないと考え、蒋欽の徳に心服し、人々は蒋欽の徳性を讃える事になります。
蒋欽の心がけ
蒋欽と徐盛に関しては、正史三国志の注釈・江表伝に詳細が書かれています。
孫権は徐盛を推挙する蒋欽に対し、次の様に述べました。
※正史三国志 江表伝より
孫権「徐盛は過去に貴方の部下を訴えたのに、盛んに徐盛を推挙しようとしている。
貴方は祁奚の真似事をしているのか」
祁奚は春秋時代に晋の悼公や晋の平公に仕えた人物であり、国家の為と仇敵を推挙し、晋の名臣である叔向を救った人物でもあります。
孫権から見れば恨みがあるはずの徐盛を蒋欽が推挙するのは、祁奚の姿とも被ったのでしょう。
蒋欽は次の様に答えました。
蒋欽「私は公の推挙には私怨を交えぬと聞いております。
徐盛には誠意があり職務に忠実で、大胆でありながらも融通が利き、高い実務能力も兼ね備えております。
徐盛は1万の兵を指揮するにも十分な才能があります。
現在の状況を見るに、中華統一の事業も達成されておらず、私には有能な人物を探し出す勤めがあるはずです。
私怨を気にして有能な人物が世に出なくなるのは、よい事ではありません」
孫権は蒋欽の言葉を喜びました。
孫権は自分が勧めた学問を蒋欽がよく学んだと理解したはずです。
蒋欽の言葉を見るに春秋左氏伝は間違いなく読んでいた事でしょう。
春秋左氏伝に登場する君子も、蒋欽の行為を知れば褒め称えたと感じています。
蒋欽の最後
呂蒙は魯粛と方針を変更し、蜀から荊州を奪おうと考える様になります。
劉備は法正、黄忠らの活躍で定軍山の戦いで夏侯淵を破り、曹操から漢中を奪いました。
勝ちに乗じたのか関羽は北伐を開始し、曹仁や満寵が籠る樊城を包囲する事になります。
呂蒙は隙をついて荊州に侵攻し、南郡を奪いますが、この時に蒋欽も出陣しています。
蒋欽は水軍を指揮し、漢水の流域に軍を進めたとあります。
蒋欽も軍を率いて関羽の包囲に加わったという事なのでしょう。
関羽との戦いで呉軍は勝利し、蜀漢の領有する荊州を全て奪いました。
しかし、蒋欽には死が迫っており、関羽討伐が終わり帰還する途上で病死したとあります。
孫権は蒋欽の死を悼み喪服を着用し、哭礼を行いました。
孫権は蒋欽の功績を評価し、住民二百戸と田地二百頃を与えたとあります。
蒋欽が亡くなると蔣壱が後継者となり、蒋壱が亡くなると蒋休が後継者となりますが、罪を犯し所領は没収されてしまいました。
蒋欽の評価
蒋欽は三国志演義のイメージが強く、能力はさほど評価されていない様に感じました。
しかし、実際の蒋欽は多くの戦場を往来し、反乱鎮圧など優れた武勲があります。
呉にとって異民族討伐は重要項目ではありますが、派手さが無く評価されにくい点なのでしょう。
因みに、蒋欽と同時期に呂蒙、孫皎が亡くなっており、仮に蒋欽が生きていたら、夷陵の戦いでの指揮官は陸遜ではなく蒋欽だったのかも知れません。
蒋欽は徐盛との関係をみても、よく出来た人であり有徳の人物だと言えるでしょう。
孫権は自分が学問を勧め、しっかりと勉強した呂蒙や蒋欽は、臣下の中でも最も可愛いと感じる部類だった様にも感じました。
尚、蒋欽、呂蒙、孫皎は同時期に亡くなっており、この頃に荊州で疫病が流行していたのは間違いないでしょう。