趙国・三大天の史実の実績を紹介します。
もちろん、廉頗・藺相如・趙奢の旧三大天の実績と李牧・龐煖・司馬尚らの新三大天の史実の実績も解説します。
尚、趙国三大天と言いますが、史実を見てもそのような記載がありません。
キングダムのオリジナルの設定です。
あと、趙の軍事のトップは3人と決まっているみたいですが、個人的には優秀な人が4人いれば四大天で、趙国四天王でもいいと思うんですけどね。
それでも、秦の六大将軍の話の時に、秦は六人がバランスが取れているとの話もあり、人数は大事なのかも知れません。
因みに、趙邦の三大天は全員が揃うのかは微妙な部分もある様に感じました。
既に漫画キングダムでは龐煖が李信に討たれてしまったからです。
旧三大天
廉頗・藺相如・趙奢の旧三大天を紹介します。
秦の6将である白起、王騎、王齕、司馬錯、胡傷、摎とも互角にやりあったとされています。
秦が6人の優秀な将軍に対して、趙は三大天の3人じゃ不利なのでは?と思った人もいるかも知れません。
実際に、この時代は白起が魏や楚、韓、趙の領土を奪うなど躍進している時代です。
そのため、趙は秦に対して押され気味でした。
しかし、廉頗、藺相如、趙奢は、秦に敗北したという記録はありません。
秦の六大将軍と三大天は、趙奢と胡傷の間で閼与の戦いが行われています。
結果は、趙奢が圧勝でした。
胡傷に関しては、なぜ6将に入れたのか不明な部分もありますね。
一応は昌平君の師匠と言う事になっています。
旧三大天と言えば廉頗
史記にも数多くの戦功を立てた事を示されていますし、老齢になってからも活躍した武将です。
史記にも廉頗藺相如列伝が存在し、当時から高い評価が得られていた事が分かっています。
燕の栗腹率いる大軍を破ったり、斉の城を落とすなどの活躍もしています。
最強国である秦を相手にしても、一歩も引かなかった事実があります。
さらに、長平の戦いでは、王齕と対峙し趙が不利だと分かると防備に徹して無駄に出撃をしないようにしているわけです。
しかし、どのような戦い方をしたのか?などは、全くと言ってよい程、分かっていない部分でもあります。
李牧でいえば、鶴翼の陣を使い匈奴を打ち破ったのが有名ですし、趙奢で言えば閼与の戦いの内容が分かっています。
そういう戦い詳細がないのが、残念だと言えるでしょう。
せめて燕の60万の大軍を10万にも満たない兵で破った戦いの詳細は知りたかったなと思いました。
史記を書いた司馬遷に、もう少し廉頗の情報収集をして欲しかったと思った次第です。
尚、中国の言葉に「起翦頗牧 用軍最精」という言葉があります。
起翦頗牧は、白起、王翦、廉頗、李牧を指します。
用軍最精は、軍を用いるのが最高に精巧で優れていると言う意味です。
これを考えれば、戦国時代を通して廉頗は最高級の武将である事は間違いないでしょう。
藺相如は武将ではなく外交官
趙国三大天と言うと、明らかに戦争が極めて強い人物という印象があるのではないでしょうか?
しかし、藺相如の場合で言えば、戦争ではなく外交において力を発揮しています。
キングダムでは藺相如は、「幻の三大天」という扱いになっています。
絶頂期に突然死んでしまったという扱いになっているのです。
しかし、史実の藺相如を見る限りでは、現役として20年は活躍しています。
ちなみに、藺相如の戦いの記録は、斉の平邑まで攻め込んで引き上げた記録があるだけです。
これが紀元前270年頃の話しなので、その後10年も活躍しています。
藺相如は文官で外交や内政を担当していた為、秦の昭王とやりあった事くらいしか分かっていません。
しかし、藺相如が宮廷にいれば、おかしな事になる事はありえないので、多くを戦場で過ごした廉頗はやりやすかったでしょう。
どこに行っても、いない人の悪口を王様に讒言してしまう人はいるものです。
讒言を防止する役割としても、藺相如は重要な立場にいたと思われます。
廉頗は最初、藺相如の事を嫌っていましたが、後に刎頸の交わりを結び、この結束の固さにより、秦は趙に手出しが出来なかったと言われています。
藺相如は智勇兼備の人物だったと伝わっています。
キングダムでは、足りない武の部分を藺家十傑が補佐した事になっていました
趙奢は名将である
趙奢は、地方税務官でしたが、平原君に認められて国の税務長官になっています。
趙奢のやり方は非常に公平で、国庫が充実したそうです。
その後、秦の胡傷が閼与を攻めると、廉頗や楽乗は救援は難しいと主張しました。
税務長官の趙奢だけは救援は可能として、将軍に任命されています。
税務長官がいきなり将軍になったわけですから、敗北してもおかしくないはずです。
しかし、趙奢は巧みな戦略を立てて、さらに部下である許歴の進言により、胡傷率いる秦軍を大破しています。
他にも、楽毅が奪った斉の城を取り返した田単との問答も残っています。
さらに、息子である趙括の敗北を予想するなどしているわけです。
尚、趙奢は将軍としては部下を大事にしたりして、よき上司だったようです。
人望もある人だったのでしょう。
司馬遷の書いた史記では、趙奢の事は廉頗藺相如列伝に閼与の戦いの事も詳しく書かれています。
趙奢は、個人的に好きな人物ですね
三大天の中では、最も影が薄い気もしますが・・・。
新三大天+1
旧三大天が、趙の恵文王、秦の昭王など一世代前に活躍した人物でした。
それに対して、新三大天は秦の始皇帝、趙の悼襄王、幽穆王時代です。
この記事を書いている段階では、三大天が完全に確定していません。
しかし、司馬尚が登場した事で候補は、ほぼ出そろったとも言えるでしょう。
そこで、趙国の新三大天の実績を紹介します。
ちなみに、新三大天のメンバーには申し訳ないのですが、史実を見ると廉頗・藺相如・趙奢に比べると、見劣りしてしまうようにも思います。
もちろん、キングダムでは李信や王翦達を苦しめてくれる存在として描いてくれるでしょう。
尚、三大天+1という事で司空馬も紹介します。
李牧は悲劇の名将だと思う
李牧はキングダムでは、秦の統一戦争に対して、最大の難敵のように描かれています。
キングダムでの李牧は、史実の李牧よりも活躍を盛り過ぎている状態です。
始皇帝の統一後の言葉で李牧が宰相になった様な話しはありますが、李牧の宰相としての実績は不明であり、合従軍を結成して春申君と共に函谷関を攻めた記録もありません。
ただし、鄴攻めにより大打撃を受けた趙を秦が攻めた時に、何度も秦軍を撃破した事実はあります。
北方の匈奴相手にも大勝していますし、史実においても名将だと言う事は間違いないです。
秦の将軍である桓騎を史実では撃退しています。
王翦、楊端和、羌瘣が趙に攻めてくると、李牧と司馬尚で防ぐ事になりますが、郭開の讒言により命を落としています。
もちろん、李牧がいない趙など王翦の敵ではなく趙は滅亡する事になります。
しかし、元の太子である趙嘉が代に逃れて、代王となりますが、王賁に敗れて滅亡しています。
李牧の死で趙は完全に滅んだとも言えるでしょう。
尚、秦滅亡後に項羽と劉邦が争った楚漢戦争で、名将韓信に進言した李左車は李牧の子孫です。
龐煖は老人だった?
龐煖ですが、キングダムではバーサーカーのような人物として描かれています。
しかし、史実の龐煖はバーサーカーではなく、むしろ知的な人物です。
ただし、若い頃は楚の山奥で鶡冠子に習ったようですから、そこから話を発展させて龐煖はバーサーカーになったのかも知れません。
趙の武霊王時代(悼襄王の4つ前の王様)の時に、問答をした逸話が残っています。
この時が何年か分かりませんが、武霊王の最後期である紀元前300年の頃に20歳だとします。
そうなると最後の記録である韓非子に描かれている鄴攻めの時が84歳になってしまうわけです。
これを考えると、キングダムの時代では一騎打ちなどとてもできる様な年齢ではないでしょう。
武霊王時代の龐煖と悼襄王の時代の龐煖は別人説もあり、そちらの説も有力となっています。
尚、蕞の戦いにおいて趙・楚・魏・燕の4カ国の合従軍を率いた事は事実です。
蕞の戦いの戦いが起きた紀元前241年は春申君も合従軍を率いて函谷関の戦いが秦との間で勃発した記録が残っています。
春申君と龐煖は連動して秦を攻めたのでしょう。
ただし、龐煖は蕞を抜く事が出来ず、撤退後に斉を攻めています。
龐煖が燕の劇辛を破ったのも史実に記載があります。
ただし、李牧が関わっているわけではなく、攻めて来た劇辛に対して単独で打ち破っています。
燕で暴れ回った龐煖が鄴を攻められて、間に合わなかった話を最後に史実では登場しなくなっているのです。
龐煖は次の趙王である幽穆王には、用いられなかったのかも知れません。
司馬尚は活躍が不明・・・。
司馬尚ですが、キングダムでは青歌太守として登場します。
李牧の言うには、三大天就任を打診されたが、青歌に固執して仮病を使い断ったとされています。
燕のオルドが、秦の鄴攻めに合わせて攻めて来るわけですが、見事に撃退しています。
しかし、これらの戦いで、司馬尚が戦ったと史実にはありません。
ただし、燕の将軍(誰かは不明)と龐煖が戦った記録が韓非子にあります。
史実の司馬尚ですが、分からない事が大半なわけです。
司馬尚が史記に登場するのは、王翦、楊端和、羌瘣が趙を攻めて来た時に、李牧と共に守備を任された時です。
しかし、秦が趙の大臣である郭開を買収した事で、李牧は死亡し、司馬尚は庶民に落された記録があります。
戦闘に参加した記録もないわけです。
ある意味、司馬尚を三大天にしてしまっていいのか?とも思える人物です。
しかし、司馬尚の子孫は三国志で諸葛孔明と五丈原などで戦った司馬懿仲達となります。
司馬懿の孫の司馬炎が西晋王朝の皇帝となり中華を統一した事を考えれば、司馬尚の子孫は天下人になったと言えるでしょう。
趙の滅亡を予言した司空馬
司空馬は、戦国七雄の遊説家の記録でもある戦国策に出て来る人物ですが、もしかして三大天の一人になるのではないかとも考えています。
ただし、司空馬も戦争を行った事がありません・・。
秦で嫪毐(ろうあい)の乱が勃発した時に、連座して呂不韋も失脚しました。
この時に、呂不韋の配下として司空馬という人物がいたわけです。
司空馬は、趙に亡命すると秦の情報を色々と幽穆王に教えたとされています。
幽穆王は、司空馬を仮の宰相として重用しました。
趙の滅亡する半年前に、幽穆王と司空馬が問答した内容が戦国策に記載されているわけです。
趙は全てにおいて、秦に及ばない事になり、司空馬は打開するための策を出します。
土地を秦に割いて諸侯と合従の同盟をする案と、司空馬が兵を率いて秦に攻め込む案です。
ただし、司空馬は将軍となった事がないため、幽穆王は却下しました。
自分の案が採用されない事が分かると、司空馬は趙を去り、武安君(李牧)が死ねば趙は半年持たないと予言します。
実際に、その通りになり邯鄲は落城して趙は滅亡しました。
これを考えると、司空馬が三大天でもいいのかな?とは思いました。
ただし、将軍に任命されていない人を三大天にしてしまうのは、無理があるかなとも個人的には感じています。
しかし、キングダムでは司空馬は登場させて欲しいなと個人的には思いました。
趙国・三大天まとめ
最初にも述べましたが、趙国三大天ですが、わざわざ3人に絞らなくてもいいのでは?と思った次第です。
秦の六将の記事でも書いたのですが、優秀な人材が4人いれば4大天でも、四天王でもいいと思うわけです。
わざわざ人数に拘る必要はないと個人的には考えています。
確かに、三大天と言いながら、人数が4人いるとかは間抜けだと思いますが・・。
キングダムでは、趙が最後まで強敵として描くかと思いますが、史実を見ると趙の滅亡前は悲壮感が漂っています。
悲壮感が漂う中、李牧が一人奮戦して、秦軍を何度も破るわけです。
しかし、結局は、郭開の讒言により殺されてしまいます。
讒言で殺されてしまった名将は多いわけですが、歴史は繰り返すという奴なのでしょう。
李牧はやっぱり惜しい人物を亡くしたと思うわけです。
余談ですが、郭開は三大天の廉頗の趙への復帰を阻止した話もあります。
郭開はある意味、三大天キラーと呼べるのかも知れません。
尚、傅抵が三大天になる事も考えられると思います。