名前 | 斉明(せいめい) |
生没年 | 不明 |
時代 | 春秋戦国時代 |
コメント | キングダムで名が知れた |
斉明は原泰久先生の漫画キングダムで有名になった人物ではないでしょうか。
キングダムでは趙荘の部下として、登場します。
馬陽の戦いで趙荘は騰に討たれてしまいますが、秦の王騎も魏加や龐煖により重傷を負いました。
斉明は片手を失いながらも奮戦し、李牧には趙荘の死を無駄にしない様に、瀕死の王騎を追撃する様に強く主張する事になります。
李牧は趙荘の仇を討ち王騎の首を取るよりも「味方の犠牲を出さぬ方が大事」「無意味な死だけは絶対に許しません」と述べ、追撃案を却下しました。
斉明ですが架空の人物に思うかも知れません。
しかし、斉明の名は戦国策に登場しており、馮忌らと同様に実在の人物だと言えます。
ただし、史実の斉明は戦場に出た記録もなく、紀元前300年前後に説客として活躍した人物です。
戦国策には斉明の逸話が5つも掲載されており、当時としては名が通った説客でもあったのでしょう。
尚、史実の斉明を見ると決まった主君を持たず、遊説している様にも見受けられます。
趙荘の為に遊説
趙は最初は趙荘に合従の盟約を行わせ、斉を討とうと考えていました。
しかし、斉が土地を割譲すると趙に伝えた事で状況が変わってきます。
趙では「合従するまでもない」と考え、趙荘を取り立てなかったわけです。
ここで、趙荘の為に弁舌を駆使したのが、斉明となります。
斉明は趙王に、次の様に述べました。
※戦国策より
斉明「斉は合従を畏れているのです。
それ故に、土地を割譲すると言っています。
ここで趙荘をすておき、張懃が用いられたら、斉が土地を割譲するはずがありません」
張懃は斉は合従を畏れているから土地を割譲するのであり、趙荘が用いられずに合従の同盟を行わないのであれば、土地を割譲する事はないと進言したわけです。
この話で登場する張懃は、合従反対派の人であり、張懃を用いたら合従の盟約は結ばれず、斉は土地を割譲しないと述べた事になるでしょう。
斉明の言葉により趙王は「なるほど」と答えると、趙荘を重んじたと言います。
斉明は趙荘の為に見事に口添えしました。
尚、斉明が検索した趙王は誰なのか不明ですが、武霊王か恵文王のどちらかではないかとされています。
東周の為に策を献じる
戦国策の東周策にも斉明は登場します。
東周策によると東周と西周の間でいざこざがあり、西周は楚や韓と誼を通じようとしました。
ここで、斉明が東周君に、次の様に進言しています。
※戦国策東周策より
斉明「私は西周が楚や韓に財宝を送り、西周の為に楚や韓が東周の地を割譲する様に要求するのではないかと懸念しています。
それ故に、楚や韓には、次の様に申してください。
『西周は財宝をお賜わりすると言いますが、二面外交を展開しています。
ここで東周の軍が西周を攻撃せねば、西周の宝物は楚や韓は手に入れる事が出来ないでしょう』
今の言葉を伝えれば、楚や韓は西周を討つ様に、東周に急かしてくるはずです。
ここで、西周が財物を楚と韓に贈れば、こちらは楚や韓に西周の財宝を斡旋した事になり、恩を売る事が出来ます。
西周は財物だけ渡して何も得られず、弱まる事になります」
斉明は東周の為に、楚と韓に恩を売り、それでいて西周を弱めさせる策を献じた事になります。
見事な策にも思えますが、戦国策では、ここで話が途切れており、結果がどうなったのかは不明です。
方向転換
斉明は秦を討つ様に、楚の大臣である卓滑に進言しますが、聞き入れられる事はありませんでした。
ここで、斉明は卓滑に次の様に述べています。
※戦国策より
斉明「私がここに来たのは、秦の樗里疾の為です。
樗里疾の為にお付き合いの出来る方を探してのこと。
私が楚の大夫に秦を攻める様に申し上げたところ、皆が私の意見に賛同してくれました。
しかし、公(卓滑)だけが拒否なされた。
私は今の事を樗里疾に伝える事に致しましょう」
斉明の話を聞いた卓滑は斉明を重用したと言います。
斉明は卓滑が秦を討たないと判断するや、方向転換し秦の樗里疾の通じているとしたのでしょう。
ただし、本当に斉明が樗里疾と関係を持っていたのかは不明であり、場合によっては卓滑を相手にペテン行為に及んだと様にも見受けられます。
斉明と韓の公叔
戦国策の韓策にも斉明の話があります。
斉明は韓の公叔に、次の様に告げました。
※戦国策韓策より
斉明「斉が韓の前太子を韓から追い出し、楚が前太子を手厚く遇しています。
今の楚は斉と誼を結びたいと強く願っております。
ここで「公(公叔)」には楚王へ次の様に言わせてください。
『王には私の為に、韓の前太子を追い出し窮させて頂きたい』
楚王が今の進言を聞き入れれば、韓の前太子が出奔し、楚王が聞き入れねば、韓に何か企んでいる。ということになります」
この話の流れだと、斉明は韓の公叔の為に、楚王を試す様に進言した事になるでしょう。
公叔と韓の前太子は政敵であり、楚王を試すべきだと斉明は考えた事になります。
ただし、戦国策のこの話はここで終わりますが、次の話では公叔が楚に出奔し、韓の前太子を殺害しょうと考え諫められる話となっています。
尚、この話で登場する楚王は楚の懐王であり、斉王は斉の宣王か湣王だと考えられています。
紀元前302年頃の話とも考えられており、それが真実であれば韓の襄王の時代の話となります。
秦・斉・楚の関係
戦国策の斉策にも斉明は登場します。
戦国策によると、斉では淖歯の乱が原因で楚を恨んでいたと言います。
燕の楽毅は燕、秦、趙、魏、韓の合従軍を率いて斉を壊滅状態にしました。
この時に楚では淖歯を援軍として斉に派遣しますが、淖歯は斉の湣王を殺害してしまったわけです。
この事から、斉の人々は楚を恨んでいたという事なのでしょう。
こうした状況の中で秦が斉と誼を通じようと考え、蘇涓を楚へ派遣し、任固を斉に派遣しました。
この時に斉明は楚におり、楚王に次の様に進言しています。
※戦国策斉策より
斉明「秦王は楚よりも斉と誼を通じたいと考えております。
楚に蘇涓を派遣したのは、秦は楚と誼を通じるかの様に見せかけ、斉に派遣した任固を助けるのが狙いです。
斉は楚が蘇涓を用いるのか注視しており、楚が蘇涓を用いれば斉にいる任固が用いられ、秦と斉が結ぶ事になるでしょう。
斉と秦が誼を結ぶのは楚の為にはなりません。
それに、蘇涓が楚に告げた事で、任固が斉で告げた事は違いがあるはずです。
楚王様は斉に使者を派遣し、蘇涓が楚に来た事を告げ「任固は斉を欺こうとしている」とすればよいでしょう。
そうすれば秦と楚の盟約は成立しません。
秦が斉と誼を通じるのが難しいと判断すれば、楚王様が斉を抱き込み秦を攻撃すれば、漢中を手中に収め、淮水・泗水の間の土地も取る事が出来るのです」
上記の斉明の話ですが、遊説の記録はありますが、この話もここで終わっておりどうなったのかは不明です。
今の話は淖歯が斉の湣王を殺害した後の話である事は間違いなく、紀元前284年以降である事は間違いないでしょう。
さらに、秦が斉と結ぼうと考えており、斉が田単により復興したとも考えられており、紀元前279年頃の話だとも考えられています。
ただし、楚は紀元前278年に秦の白起の攻撃により郢、鄢・鄧を奪われて楚の頃襄王は陳に遷都しています。
楚は秦から土地を得るどころか、首都の郢を奪われ東方に遷都するまでになってしまいました。
それを考えれば、当時の秦の昭王は斉明を用いて、姑息な外交を行う楚を嫌ったのかも知れません。