
即位して早い時期に長平の戦いが勃発しており、廉頗を更迭し趙括を将軍とした事で大敗北を喫しました。
趙の孝成王は邯鄲で籠城戦を繰り広げ、平原君の活躍や信陵君、春申君の援軍もあり秦の軍を撃退しています。
孝成王の時代に、燕の大軍に攻められたりもしていますが、廉頗の活躍により撃退しています。
しかし、治世の末期には秦の蒙驁の侵攻に苦しめられたりもしました。
漫画キングダムでは趙の孝成王は、短い表記で暗君を匂わせていますが、長平の戦い以後は、そこまで悪い君主でもなかったと感じています。
戦国策の李伯の記述は、趙の孝成王の成長した姿にも見えます。
趙の孝成王と恵文后
趙の孝成王は趙の恵文王が亡くなると、即位しますが、恵文后が政務を執ったとあります。
趙の孝成王の時代が始まりますが、趙世家によると、いきなり秦の攻撃を受け、三城を取られました。
秦に不意を突かれた趙では、斉に援軍を求めますが、長安君を人質として求めました。
長安君は恵文后の末子であり、斉では恵文后が長安君を可愛がっていた事を知っていたのでしょう。
恵文后は嫌がりますが、触竜が巧みに説得し、恵文后は長安君を斉に入れる事を了承しました。
恵文后の話は、趙の孝成王よりも恵文后の発言権が強いことを表しているとみる事が出来ます。
この年に斉の田単が趙の軍を率いて、中陽を陥落させた話があります。
翌年に、恵文后が亡くなった事で、趙の孝成王の新政が始まり、田単が宰相となりました。
長平の戦い
趙の孝成王の不思議な夢
趙の孝成王は特殊な服を着て、飛龍に乗り天に向かいますが、途中で墜落し金玉が山の様に積まれた夢を見ました。
趙の孝成王は筮史敢に夢占いをさせる事になります。
飛龍に乗り墜落したのは不吉な夢とみる事が出来ますが、山の様に積まれた金があり、どのような夢なのか判別が難しかったのでしょう。
夢占いでは不全の意味があり、天に昇る前に墜落するのは気だけあって実がなく、山の様に積まれた金は禍であるとしました。
趙の孝成王のみた夢は、決して縁起が良い夢ではなかったわけです。
上党の割譲
趙の孝成王が不思議な夢を見て、数日すると韓の上党太守の馮亭の使者が訪れ、上党を趙に入れたいと伝えて来ました。
韓は南北に長い領地を持っていましたが、中間地点を秦に取られ、北方の上党が孤立し、趙に降伏したいと言ってきたわけです。
趙の孝成王は馮亭の言葉に喜びますが、平陽君趙豹は「禍の元」とし、受け取らない方が良いとしました。
趙の孝成王は平原君と趙禹に相談すると、今度は「受け取るべき」とし、孝成王は「よし」と述べ、平原君を派遣し上党を受け取る手続きを行なっています。
趙は上党を得ました。
大敗北
秦の王齕が上党を攻撃し、趙の孝成王は廉頗を将として対峙させました。
長平の戦いが始まりますが、秦の流言もあり、趙の孝成王は廉頗を更迭し、趙括を将軍にしました。
趙括の母親や藺相如の反対を押し切り、趙の孝成王は趙括を将軍にしてしまったわけです。
秦では白起を総大将とし、趙括を破りました。
長平の戦いでは趙は大敗北を喫し、45万もの兵を失い、趙から壮年の者が消えたとも伝わっています。
長平の戦いでは秦の昭王は自ら前線に赴き補給などを担当しており、趙の孝成王と経験の差が出た部分も大きかったのでしょう。
史記の趙世家では趙の孝成王は、平陽君の言葉を聞かなかった事を後悔したとあります。
邯鄲籠城戦
蘇代が范雎を刺激した事で、一時的に秦と趙は停戦しましたが、直ぐに邯鄲は包囲されました。
この時に武垣の県令傅豹・王容・蘇射が燕の衆を率いて燕で背いたとあります。
平原君は楚に向かい毛遂の活躍もあり、楚の援軍を引き出し、信陵君も晋鄙の兵権を奪い援軍に駆けつける事になります。
趙の孝成王も精鋭を秦軍にぶつけるなど奮戦し、この時の趙の守備は白起に「隙がない」と言わしめる程でした。
春申君、信陵君の援軍が到着し、決死隊を率いた李同の奮戦もあり、秦軍を撤退に追い込みました。
秦の鄭安平が趙に降る事になります。
尚、趙の孝成王は長平の戦いでは青さが目立ちましたが、邯鄲籠城戦で成長したのか、戦国策では李伯を信頼し、成功した逸話もあります。
ただし、李牧が北方の長官をしており「臆病」だと解任し、匈奴から大打撃を受けた後に李牧を復帰させたのは、趙の孝成王だったのではないか?とも考えられています。
趙の孝成王の中期の出来事
趙の孝成王の10年(紀元前256年)に、燕が昌城を攻撃し陥落させました。
この年に趙の太子が亡くなったとありますが、誰なのかは不明です。
秦は摎に兵を率いさせ西周に迫り、西周が領地を秦に入れ滅びました。
これが事実上の東周王朝の滅亡となります。
趙の徒父祺は兵を率いて国境を出たとあり、西周の救援に動いたのかも知れません。
趙の孝成王の11年(紀元前255年)に趙の元氏に築城し、上原を県にしました。
翌年に武陽君の鄭安平が亡くなり、領地を没収しています。
趙の孝成王の12年(紀元前254年)には邯鄲で火事がありました。
趙の孝成王の14年(紀元前252年)に、平原君趙勝が亡くなったと記録されています。
廉頗の活躍
紀元前251年に燕王喜は栗原を派遣し、趙の孝成王の為の寿宴を催し誼を結びました。
しかし、栗原は国に帰ると「長平の戦いで趙の壮年の者はいなくなった」とし、趙への攻撃を進言しました。
楽間や将渠は反対しますが、燕王喜は栗腹に趙への攻撃を命じる事になります。
趙の孝成王は廉頗を将軍に任命し、廉頗は栗腹を殺害し、燕の卿秦を捕虜としました。
趙の孝成王は、廉頗の功績を認め相国とし、尉文の土地を与え信平君としています。
楽間も趙に亡命し、楽乗も趙の武将となりました。
秦の脅威
趙の孝成王の18年(紀元前248年)に廉頗や楽乗、延陵釣らは燕を攻めて攻勢を強めますが、秦の蒙驁が趙の楡次などの37城を陥落させました。
紀元前247年に趙の孝成王は燕と土地の交換を行なっています。
趙世家では趙の孝成王の20年(紀元前246年)に、秦王政が立ったと記録されました。
同年に秦が趙の晋陽を抜いたとあります。
秦側の記述では蒙驁が晋陽の反乱を鎮圧した事になっています。
過去に晋陽の戦いが勃発し、趙襄子が智伯を破り、趙、魏、韓の独立を決定づけた戦いがあった場所が晋陽であり、趙が苦しい状態になっている事が分かる記述でもあります。
趙の孝成王の最後
史記の趙世家によると、趙の孝成王はその21年に亡くなったとあります。
趙の孝成王は紀元前245年に亡くなったのでしょう。
晋陽の戦いでの敗北がショックだったのか、晋陽の戦いの時には既に体調を崩していたのかは不明です。
趙の孝成王が亡くなると、趙の悼襄王が即位しました。
この年に廉頗は魏の繁陽を攻め取りますが、趙の悼襄王により更迭されています。
廉頗は孝成王からの信頼を取り戻し、相国にまでなっており、孝成王の死を聞いた途端に嫌な予感がしたのかも知れません。
趙の悼襄王からの更迭に、怒った廉頗は楽乗に攻撃を加え、魏に亡命しました。