田忌と孫臏の競馬の話は有名な逸話と言ってもよいでしょう。
田忌は孫臏を重用し、桂陵の戦いや馬陵の戦いでも功績を挙げています。
ただし、斉の威王が重用した宰相の鄒忌とは仲が悪く、公孫閈の策略により斉に亡命した話があります。
田忌は楚にいましたが、斉の宣王の時代に斉に復帰しました。
因みに、田忌は竹書紀年や戦国策、史記、資治通鑑などに他の名前でも登場する人物でもあります。
「田期、田臣思、徐州子期」などの名が確認出来ますが、全て田忌と同一人物だと考えられています。
孫臏兵法では陳忌とも書かれており、田忌の封地は徐州か陳の辺りだったのではないか?とも言われています。
尚、田忌に関しては斉の王族ではある様ですが、系譜が不明です。
個人的には斉の威王の父親である斉の桓公(春秋五覇の斉の桓公とは別人)の弟くらいのなるのではないかとも感じています。
田忌を見ていると、軍師の孫臏あっての人物に思うかも知れませんが、孫臏を斉の威王に推挙するなど田忌は器が広い人物だと考えるべきでしょう。
孫臏の名が世に知れ渡ったのは田忌がいたからこそであり、田忌は管仲における鮑叔の様な役目を果たしたとも言えます。
さらに言えば、田忌は魏と三度戦って勝利した記録もあり、戦の采配に関しても優れた能力を持っていた様に感じました。
現在、春秋戦国時代の後期を題材にした漫画キングダムが人気ですが、田忌や孫臏が活躍した時代は戦国時代の前期から中期に移る時代でもあり、キングダムの世界よりも100年以上も前の時代です。
燕を討つ
史記の記述
斉の桓公の五年(紀元前380年)に秦と魏が韓を攻撃しました。
韓が斉に援軍を求めると、斉の桓公は重臣たちを集め、韓を助けるべきか協議する事になります。
斉の桓公は「直ぐに韓を助けるべきか、ゆっくりと助けるべきか」と大臣に問うと、鄒忌は「韓を助けない方がよい」と述べ、段干朋は「韓を助けなければ魏に屈してしまうから助けるべきだ」と意見を述べています。
この時に、田臣思(田忌)は次の様に述べました。
田臣思「君の謀は間違っております。
秦と魏で韓を攻撃すれば、趙と楚は韓を救う為に動く事でしょう。
これは天が燕を斉に与えるものです」
田忌(田臣思)は戦国七雄の韓を中心に魏、秦、趙、楚で争っているうちに、単独で燕を攻撃する様に進言しました。
斉の桓公は田忌の策を採用し、韓には救援を約束しながら助けなかったわけです。
韓の方では斉の援軍が得られると思い魏や秦と交戦し、状況を見て趙と楚が韓を救援しました。
全て田忌の言った通りの事が運んだ斉の桓公は燕を攻撃し、桑丘を得ます。
田忌の策により他国が争っている隙に、斉が利益を得たわけです。
しかし、この戦いは謎が多いとも言えます。
この戦いの謎
史記の田敬仲完世家にはありませんが、資治通鑑によると、この後に魏、韓、趙が斉を攻撃し桑丘まで行ったとあります。
この記述を見ると諸侯を争わせておいて、抜け駆けで燕を攻撃した斉に対し、批判が集まり斉を攻撃したとなるのかも知れません。
史記の韓世家にも韓軍が桑丘まで行った記録があります。
ただし、魏と韓、趙は争っていたわけであり、急に和睦し三国で斉を攻撃するのは不自然に思いました。
それを考えると、秦と魏が韓を攻撃し、趙と楚が韓を助けたとする記述に誤りがあるのかも知れません。
さらに言えば、斉の桓公の前で鄒忌が意見を述べていますが、鄒忌は次代の斉の威王により重用された人物であり、この時は単なる「琴の達人」だったとも考えられ、朝廷で意見を言う資格があったのかは不明です。
戦国時代の斉の記述に関しては、記述の混乱があると指摘されており、田忌(田臣思)の燕攻撃策も、記述に混乱がある様にも感じました。
余談ですが、この戦いがあった前年である紀元前381年は楚で呉起が殺害された年でもあります。
競馬の攻略法
魏で刑罰を受けた孫臏を田忌が養った話があります。
田忌は過去に魏、秦、韓、趙、楚で争っている隙に、燕を攻撃する様に進言した話があり、策を好んだのかも知れません。
孫臏は兵法家の孫武の子孫ともされており、田忌は孫臏を重用したのでしょう。
田忌が孫臏を食客として養ったのが実情の様に感じました。
史記の孫子呉起列伝によれば、田忌は公子らと「馬を駆って駆け弓をした」とあります。
これが現在でいう「競馬」の様なものではないかと考えられています。
ただし、弓を使った様な記述もあり、現在の競馬というよりは、日本の武士が行った「流鏑馬」の様なものだったのかも知れません。
田忌が行った競馬は三種類の馬を用意し、三本勝負で競わせ勝ち越した方が勝ちとする遊びだった様です。
この時に、田忌や諸公子の馬には上、中、下の三ランクあった事に孫臏は気が付きました。
孫臏は田忌に次の競馬では、下記の様に賭ける様に進言したわけです。
上記の図を見ると分かりますが、田忌は相手の馬の強さに合わせて、戦わせる馬を選ぶ事で、2勝1敗で勝利を得られると確信したわけです。
これは相手の兵の強さに合わせて、自分の軍の兵を何処にぶつけるのかの兵法の一つとも言ってよいでしょう。
田忌は孫臏のやり方なら高確率で勝てると判断したのか、田忌は斉の威王も巻き込んでも大競馬大会を催す事になります。
結果は田忌が勝利に終わり千金を得ました。
しかし、田忌は競馬が終わると斉の威王に孫臏の入れ知恵だと述べ、斉の威王は孫臏と話すと多いに気に入り孫臏を師としています。
孫臏が世に出るきっかけを提供したのが、田忌であり器の広い人物だと言えるでしょう。
桂陵・馬陵の戦い
紀元前352年に桂陵の戦いが起きています。
桂陵の戦いは魏が趙を攻撃した事で、趙の成侯が斉の威王に救援を求めた事から勃発した戦いです。
この戦いで斉の威王は孫臏を将軍に任命しようとしますが、孫臏が辞退した事で田忌を将軍とし軍師として孫臏を付けています。
桂陵の戦いでは孫臏の囲魏救趙の策が的中し、魏の龐涓を退けました。
史記などを見ると孫臏ばかりがピックアップされていますが、田忌の実戦指揮など優れた采配もあった様に思います。
尚、竹書紀年によると桂陵の戦いではなく、桂陽の戦いで田期(田忌)が魏軍に勝利した事になっています。
それを考えると、桂陵の戦いでの本来の主役は田忌だったのかも知れません。
紀元前342年の馬陵の戦いでも田忌と孫臏のコンビが魏の龐涓と戦う事になります。
馬陵の戦いは「龐涓この樹の下にて死せん」で有名な戦いでもあり、またもや孫臏の策が冴えわたり斉軍は魏に大勝しました。
さらに、馬陵の戦いでは龐涓を討ち取るだけではなく、魏の太子申を捕虜とする大戦果を挙げています。
馬陵の戦いでは天子気取りだった魏の恵王の転落が始まった戦いでもあります。
尚、馬陵の戦いでも謎があり竹書紀年によれば、馬陵の戦いは斉の田肦と魏の穣疵の戦いだったと記録されています。
史記よりも竹書紀年の方が歴史が古く、もしかしてですが、馬陵の戦いでは田忌は参戦してはいなかった可能性も出て来る様に感じます。
馬陵の戦いは劇的な策で斉軍の勝利となっており、孫臏の活躍は創作なのかも知れません。
因みに、馬陵の戦いで参戦した将軍の中には、孟嘗君の父親である田嬰がいた記録が史記にあります。
楚への亡命
公孫閈の策
田忌は斉の将軍でしたが、宰相の鄒忌と仲が悪かった話があります。
鄒忌は田忌が邪魔だと考えていました。
これを感じ取った公孫閈は、鄒忌の為に策を弄し、田忌に魏を攻撃させ、田忌が苦戦したり戦いに敗れたりすれば、田忌を罪に落とす様に進言したわけです。
鄒忌は公孫閈の策を採用し、田忌に魏を攻撃させます。
しかし、田忌が指揮する斉軍は強く、田忌は魏軍と三度戦い全てに勝利しました。
この戦いが桂陵の戦いから馬陵の戦いだったのではないか?とする説もあります。
ここで公孫閈が追いうちの策を立て、田忌を謀反人として仕立てあげたわけです。
史記によれば、田忌は鄒忌の陰謀だと悟り、斉の首都である臨淄を攻撃し鄒忌を捕えようとしますが、勝つ事が出来ませんでした。
田忌は楚へと亡命する事になります。
孫子の進言
史記だと馬陵の戦いの前に、田忌は楚に亡命した事になっています。
しかし、資治通鑑や戦国策によれば馬陵の戦いの後に、田忌が楚に亡命した事になっていました。
戦国策の斉策によれば馬陵の戦いの後に、孫子と田忌のやり取りが記録されています。
ここでいう孫子は孫臏を指すのは間違いないでしょう。
孫臏は田忌に対し「大事を行う事が出来ますでしょうか」と問います。
大事は謀反であり孫臏は反旗を翻す様に田忌に確認した事になります。
田忌は孫臏の考えが分からず「どういう事だ?」と問うと、孫臏は次の様に答えました。
孫臏「将軍は軍の武装を解かずに戦いに疲れた弱った兵で主(地名)を守らせてください。
主は道幅が狭い土地であり老弱の兵であっても一人で十人と戦えますし、十人で百人、百人で千人を相手に出来ます。
その上で太山を背にし済水を左とし、天唐を右にしつつ、武器と兵糧が高宛まで来た時に、軽装の戦車と精鋭の騎馬隊で雍門を攻撃します。
この様にすれば斉王を正す事が可能であり、鄒忌を出奔させる事が出来るはずです」
戦国策の斉策では孫臏は馬陵の戦いには勝利したが、田忌の身が危ういと考え大事を起こし、斉に軍隊を入れて斉王を脅し鄒忌を追放しようと考えた事になります。
しかし、田忌は斉王に兵を向けるなど「とんでもない」と考えたのか、孫臏の策を採用しませんでした。
戦国策のこの話の段落の結末を見ると「田忌は斉に入る事が出来なかった」で締められています。
ここでは書かれていませんが、この後に田忌は斉に入れなくなり、楚に亡命する事になったのでしょう。
尚、史記などでは田忌が兵を臨淄に向けた話があり、田忌はいよいよになってから兵を動かし、雑に臨淄に兵を向けた様にも感じました。
孫臏が前もって緻密に考えていた策とは違い、田忌は窮してから苦し紛れに兵を斉の首都に向けたのかも知れません。
それでも、田忌が楚に出奔した事だけは事実なのでしょう。
年代的に考えて田忌を受け入れたのは楚の宣王だと感じました。
因みに、孫臏の記録は馬陵の戦いの後に消えており、どうなったのかは分かっていません。
ただし、孫臏が田忌に「大事を起こす様に」と進言したのであれば、謀反を進言した事になり、斉へ帰還できなくなった可能性があります。
孫臏は馬陵の戦いの後に、田忌と別れたか田忌と共に楚に亡命した様にも思います。
それか、孫臏は他国に移動し范蠡の様に庶民となり悠々自適の生活を送ったのかも知れません。
田忌と別れた後に孫臏が「孫臏兵法」を完成させた可能性もあるはずです。
田忌の斉への復帰
田忌は楚に亡命しますが、鄒忌は田忌が斉に戻ってくる事を恐れました。
ここで杜赫が鄒忌の為に、楚から田忌を戻さない為の策を発動しています。
戦国策によれば杜赫の策により、楚では田忌に江南の地を与えた話があります。
ただし、田忌は斉の宣王が即位すると、田忌が楚に出奔したのは鄒忌の策略だと明るみとなり、田忌は斉へ帰国しました。
斉の宣王の時代に田忌の名前は見えなくなり、田忌は斉の宣王の時代に亡くなったと考えるのが妥当の様に思います。