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田豊は剛情な性格をした智謀の士

2023年2月2日

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宮下悠史

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名前田豊(でんぽう) 字:元皓
生没年生年不明ー200年
時代三国志、後漢末期
勢力韓馥→袁紹
画像©コーエーテクモゲームス

田豊は正史三国志や後漢書、資治通鑑などにも名前が登場する人物です。

袁紹の配下で智謀の士と言えば、沮授と並び名前が挙がるのが田豊でしょう。

田豊は先賢行状によれば、田豊の字は元皓で鉅鹿郡か勃海郡の出身だと記録されています。

田豊は沮授と並び冀州名士の代表格と言えます。

ただし、田豊は剛情な性格でもあり、主君である袁紹であっても容赦なく意見する様な人だったのでしょう。

田豊の智謀は認めながらも、性格に関しては問題があると指摘される場合も多いです。

今回は袁紹の軍でも1,2を争う程の智謀の士とされる田豊を解説します。

生まれついての傑物

先賢行状によると田豊は生まれながらにして傑物で、権謀奇略に富んだ人だったとあります。

田豊がまだ小さかった頃に親を失ったとあります。

この時に、田豊は悲しみを極め、月日が経っても歯茎まで見せて笑う事が無かったと言います。

田豊は剛情な性格を指摘されますが、親を失った時にも、その片鱗を見せていたのでしょう。

田豊は博学多識の人だったともあり、親がいなくても多くの人に将来を期待されていた様に感じます。

実際に田豊の名声は郷里に鳴り響いたとも伝わっています。

田豊は後漢王朝の大尉の府に招聘を受け、茂才に推挙され侍御史に昇進したとあります。

後の事を考えれば、田豊は霊帝の時代に仕官し、頭角を現していたのでしょう。

しかし、宦官が権力を握る構造が田豊には納得が出来ず、さらには優れた人材が迫害を受けている事を知り、田豊は職を辞して郷里に戻りました。

韓馥に仕える

霊帝が崩御した後に何進と宦官が共倒れとなると、西涼の董卓が実権を握りました。

董卓政権の初期では名士優遇策により韓馥劉岱張邈らが太守となり、冀州牧となった韓馥に田豊は仕える事になります。

しかし、ここでは田豊の剛直な性格が禍いしたのか、韓馥が田豊を重用する事は無かった様です。

因みに、後に袁紹政権で同僚となる審配も同じく性格が禍し、韓馥に用いられる事はありませんでした。

尚、この時に冀州を治めていた韓馥の部下には、沮授、審配、麹義張郃などがおり、後に袁紹を支える人材が集まっていたわけです。

袁紹は反董卓連合を結成しますが、袁紹は盟主でありながらも基盤が脆弱であり、豊かな冀州の地を治めていた韓馥が送った物資でやりくりする様な状態でした。

袁紹に仕える

袁紹は逢紀の策を使い公孫瓚に韓馥を攻めさせるように仕向け、韓馥にも使者を送り冀州を譲り受ける事に成功しました。

この時に、袁紹は田豊を招き配下にしようとします。

田豊は後漢王朝が多事多難であり、国を救う事を志しており、袁紹の誘いに応じました。

韓馥は優柔不断に見える部分が多々ありましたが、この頃の袁紹は果断過ぎる程に行動しており、田豊は袁紹に将来性を感じたのかも知れません。

袁紹は田豊を別駕に任じました。

袁紹は冀州名士を優遇し、沮授には全軍を監督させる指揮権を与え、審配には冀州の人事を統括させています。

袁紹は汝南袁氏の出身であり、冀州勢からみれば外様にあたり、袁紹は田豊だけではなく、冀州の名士や豪族に気を遣う必要もあったのでしょう。

界橋の戦い

袁紹と公孫瓚が戦った界橋の戦いで、田豊も参戦した話があります。

公孫瓚の軍が袁紹の本隊を急襲しました。

田豊は袁紹の側におり、次の行動を促した話があります。

※英雄記より

別駕従事の田豊が袁紹を助け、退かせ垣の間に避難させようとした。

田豊は軍師とか策謀の人というイメージがあるのかも知れませんが、実際の田豊は戦場でも臨機応変に出来る人でもあったのでしょう。

ただし、この時の袁紹は兜を地面に叩きつけ、退かない意思を示しました。

この時は袁紹の意地が公孫瓚を上回ったのか、麹義の助けもあり公孫瓚が退く事となります。

田豊は剛直の人だと言われていますが、袁紹のこうした態度に惹かれる部分もあったように感じています。

先賢行状には袁紹は田豊の計略を用いて、公孫瓚を滅ぼしたと記載されていました。

これを考えれば、袁紹が河北で覇権を握るのに、田豊の功績は極めて大きかったと言えるでしょう。

ただし、田豊の具体的な功績などは伝わっていません。

天子を迎える様に進言

袁紹は洛陽が壊れている事を理由に、曹操献帝を許昌から、自分のお膝元である鄄城に移す様に意見しました。

しかし、曹操は献帝が遠い地に行けば不利になると考え、許さなかったわけです。

ここで田豊はすかさず袁紹に、許都からの遷都が失敗に終わった以上は、許昌を攻撃し献帝を迎え入れ、天下に号令すべきだと伝えました。

袁紹は田豊の言葉に首を縦に振らず、却下しています。

袁紹の幕僚の中には淳于瓊の様に、天子を迎え入れる事に反対の臣下もおり、田豊の意見は却下されたのでしょう。

尚、田豊が袁紹に許都を攻撃すると進言した情報が、曹操の耳に入ります。

曹操は張繍を攻めていましたが、慌てて戻りました。

この時に、曹操は一度の目の張繍の追撃は撃退しますが、2度目の賈詡の進言を入れても張繍の追撃には敗れています。

曹操の態度を見る限り、許都を袁紹に襲われる事を如何に警戒しているのかが分かるはずです。

さらに言えば、曹操のウィークポイントを上手くついた田豊もまた優れた戦略眼を持っていたというべきでしょう。

袁紹との対立

先賢行状によると、逢紀は田豊が公明で率直なのを煙たがり、田豊を何度も讒言したとあります。

田豊は主君でも誰でも、自分が間違っていないと考えれば、思った事を口にしてしまう性格であり、敵も多かったのでしょう。

先賢行状には袁紹は田豊を嫌う様になったとあります。

公孫瓚を滅ぼした後の袁紹は、天下で最も強大な勢力へと成長しました。

それと同時に袁紹は、中央集権化を目指す事にし、公孫瓚を滅ぼす原動力にもなった冀州派の排除に動いたのでしょう。

袁紹政権の改革により、袁紹と田豊の間にも溝が生まれる様になったとも感じています。

ただし、袁紹の改革は天下統一後に行えばよいのであり、このタイミングで行うのは早すぎるとする指摘もあります。

公孫瓚を滅ぼすと同時に、袁紹は田豊の進言を取り入れなくなって行ったとも伝わっています。

子供の病気

西暦200年は董承らの曹操暗殺計画があった年でもあり、劉備も加担していました。

しかし、劉備は袁術討伐に出ており、徐州で曹操に反旗を翻しています。

曹操は自ら劉備の討伐に出かけると、田豊は袁紹に劉備の後方を襲う様に進言しました。

しかし、袁紹は納得せず、三男の袁尚の病気を理由に、田豊の意見を退けています。

田豊からしてみれば、絶好の好機でもあり、持っていた杖を地面に叩きつけると、次の様に述べています。

※正史三国志袁紹伝より

田豊「二度とない様な好機に遭遇したのに、赤子の病気を理由に、絶好の機会を逃すとは残念でならない」

田豊は非常に悔しく感じたのでしょう。

尚、袁紹は袁尚の病気を理由に断っていますが、実際には公孫瓚を滅ぼしたばかりであり、軍備が整っていなかった事から、言葉を濁して断ったのではないか?とも考えられています。

他にも、袁尚を後継者にしたい妻の劉氏の意向が働いたとする説もある様です。

袁紹の子供の病気を理由に出陣を拒否する姿は、劉備が呂布に敗れた時に妻子などを置き去りにしたり、劉邦が項羽に敗れた時に、子供を馬車から投げ捨ててまで逃走する姿と対比させられる事もあります。

毛宗崗は袁紹が赤子の病気を理由に出陣しなかった袁紹に対し「天下を狙う者は家を顧みない。袁紹は家への情に厚く子供を優先させた。これでは大事を為す事は出来ない」と評しています。

袁紹が天下を狙うのであれば、田豊の進言を採用すべきだったとする説は根強くあるという事です。

尚、公孫瓚を滅ぼす前の袁紹の行動は非常に苛烈でしたが、公孫瓚を倒し天下第一の勢力になってから、袁紹の果断さは鳴りを潜める様になったとも感じています。

曹操は劉備を撃破し、劉備は袁紹の元に身を寄せる事になります。

袁紹を諫める

袁紹は出陣の準備が完了したと思ったのか、今度は袁紹が南征を行うと述べます。

この時に田豊と沮授は持久戦を進言し、郭図審配は短期決戦を主張しました。

袁紹は郭図や審配の意見に従い、短期決戦を選択します。

しかし、田豊が異を唱える事になります。

田豊「曹公(曹操)は用兵が巧みであり、臨機応変の対応を致します。

曹操の軍勢が小数だからと言って、侮ってはならず持久戦が有効です。

将軍(袁紹)は自然の要害を押さえ、四州の軍を持っております。

外には英雄と手を結び、内は農業と軍隊を整備し、その後で奇襲部隊を幾つも編成し、敵の虚をついて繰り出し続けます。

敵を左右に振り回し、疲弊させる事が出来れば、2年も立たずに勝利を得る事が出来ます。

勝敗を一戦で決めてしまう様な事があれば、万が一思い通りにならなかった事態となった時には、手遅れなのです。」

田豊は袁紹に必死に諫言を行い、短期決戦を取りやめる様に進言しました。

ここで田豊が食い下がらなかった事で、袁紹は激怒し「兵士の士気を落す発言」と述べ、田豊は牢に入れられてしまいました。

袁紹としては、ついこの間まで決戦を主張していた田豊が、突如として持久戦を主張した事で不快に思ったのかも知れません。

尚、曹操は田豊が出陣しない事を知ると多いの喜び、勝利を確信する様な発言を行っています。

曹操にとってみても、田豊の智謀は警戒する必要があったのでしょう。

因みに、曹操陣営でも袁紹と短期決戦を選択するか、長期決戦を選択するかで軍議が行われていました。

この時に孔融は田豊を智謀の士として評価していますが、荀彧は田豊を「剛情で上に逆らう」と評価しています。

田豊が決戦の前に投獄されたのは、正に荀彧がいう「剛情で上に逆らう」性格が出てしまった為でもあると感じています。

逢紀の讒言

袁紹と曹操の間で天下分け目の官渡の戦いがありましたが、許攸の裏切りがあり淳于瓊烏巣の戦いで敗れた事で、袁紹は曹操に敗れ去りました。

さらに、顔良文醜が討たれ沮授も曹操に捕らえられるなど、大敗北を喫したわけです。

結果論ではありますが、田豊の考えが証明された瞬間でもありました。

官渡の戦いで敗北した兵士らは涙を流し「田豊がいれば、この様な結果にはならなかったであろう」と、口々に言いあった話があります。

ここで袁紹は逢紀に、次の様に述べた話があります。

※先賢行状より

袁紹「冀州の民は我が軍の敗北を知れば案じてくれるであろう。

ただ田豊だけは、儂を諫め皆とは違った意見を言ってくれた。

儂は田豊に合わせる顔がない」

袁紹は田豊の大きさを知り、反省する様な言動をしたわけです。

しかし、逢紀は田豊と対立しており、逢紀は田豊が「自分の言った通りになったと、手を叩いて大笑いしています」と讒言しました。

これにより袁紹は田豊の殺害を決めたと言います。

逢紀としては、田豊が袁紹に重用されるのは、絶対に避けたい事だったのでしょう。

田豊の最後

ある人が、袁紹が敗れた事を知ると、田豊に「貴方の予想通りになった。貴方は重用される事になるであろう」と述べた話があります。

それに対し、田豊は次の様に答えました。

田豊「戦いに勝利する事が出来れば、私は釈放され殺される事はないであろう。

しかし、戦いに敗れたとなれば、儂は処刑されるに違いない」

田豊は高い智謀を持っているがゆえに、自らの死期を悟ってしまったのでしょう。

袁紹は帰還すると「田豊に嘲笑されている」と述べ、田豊を処刑しました。

これにより田豊は最後を迎えたわけです。

尚、陳寿は袁紹が田豊を殺害した事に対し、項羽范増の進言を聞かず覇業を失ったが、范増を殺害する事は無かったと述べています。

陳寿は袁紹が田豊を殺害するのは、暴君と呼ばれた項羽以下の行為だと非難したわけです。

田豊は死なねばならぬ存在であったのか

袁紹は官渡の戦いで田豊の進言を聞かず、逢紀の讒言により処刑を決めた事になっています。

しかし、田豊はどちらにせよ殺害せねばならぬ存在だったのではないかとも考えられています。

袁紹は名士優遇策を取っており、名士の言葉をよく聞き、統治は安定し公孫瓚を破り河北四州を統一しました。

袁紹は名士を尊重しましたが、今度は名士の力が強くなりすぎてしまったわけです。

確かに名士を尊重する政治を行えば、地域に強い影響力を持つ名士に喜ばれ、統治は安定する事になります。

しかし、君主が名士を尊重し過ぎれば、君主権力が確立できない問題がありました。

群雄の意見よりも名士の考えが優先される事になります。

袁紹が官渡の戦いで敗れた後の袁紹の目標は、曹操との再戦だったはずです。

袁紹は曹操とのリターンマッチの前に名士の力を削ぎ、君主権力を確立した上での戦いを望んだとも考えられます。

こうした中で、冀州名士の代表格である田豊は己を曲げない剛直な性格であり、袁紹の君主権力の確立の為の障害になったともされるわけです。

田豊は「君主の存在よりも上の思考として、名士的な思考」があったとも考えられ、それを曲げる事もしなかったとも考えられます。

扱いにくい田豊は袁紹にとっては君主権力の確立の為の障害であり、処刑してしまったともされています。

田豊の方でも、それが分かっており袁紹が官渡の戦いで勝利すれば、君主権力が強大になる目標が達成できるわけであり、田豊も生き残る事が出来ると読んだ可能性もあるはずです。

田豊の評価

孫盛は田豊と沮授の計略は張良陳平にも勝っていると述べています。

張良や陳平は劉邦に天下を取らせた智謀の士であり、最大級の評価だと言えるでしょう。

それと同時に孫盛は君主は臣下の才能を見分ける事が大事であり、臣下は君主を見定める事が大事だと述べました。

田豊の智謀は賈詡に匹敵するのかも知れませんが、生き残る才能で言えば賈詡の足元にも及ばなかったのでしょう。

田豊は智謀の士であり、知力は常人を圧倒したいたと思いますが、自分にとって正しい事を主張し続けた結果として、袁紹に恨まれ最後を迎えたと感じています。

それと同時に、処刑される事が分かっていても、袁紹の元にいた田豊は忠義の臣だとも言えるはずです。

袁紹政権が袁紹の一族が力を持つ体制にシフトしようとした結果として、犠牲になってしまったのが田豊だとも感じています。

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