名前 | 潘濬(はんしゅん) 字:承明 |
生没年 | 生年不明ー239年 |
時代 | 三国志、三国時代 |
勢力 | 劉表→劉備→孫権 |
一族 | 子:潘翥、潘秘 |
年表 | 219年 蜀から呉に移る |
230年 武陵で異民族討伐に成功 | |
画像 | 三国志(コーエーテクモゲームス) |
潘濬は荊州武陵郡漢寿の人です。
正史三国志には、潘濬は聡明な資質を兼ね備えており、人との対応は機敏で条理に適っていたとも記載があります。
潘濬は郷里でも評判の人物であったのでしょう。
蜀から呉に移りますが、孫権を諫めたり異民族討伐で手柄を挙げるなど文武に活躍しました。
潘濬は関羽の下で蜀将としているよりも、呉の孫権の配下となり正解だった様に思います。
潘濬は烈士的な部分もあり、呉の中でも屈指の名臣だと感じました。
尚、三国志演義で王甫が関羽に「潘濬は信用できる人ではないから、趙累に交代させるべき」と進言した話があります。
三國志演義では関羽討伐で呉の呂蒙らが荊州に押し寄せると、潘濬は傅士仁や糜芳らと呆気なく呉に移り、臣下になっています。
しかし、この記述は三国志演義の創作であり、史実だと潘濬は涙を流し、呉の配下となっています。
宋忠から学問を習う
宋忠から潘濬は学問を受けた話があります。
宋忠は劉備から剣を突き付けられた逸話が有名ですが、当時としては劉表から招かれた一流の学者だったわけです。
劉表配下の文人としては王粲もいますが、王粲も潘濬の能力を高く評価していました。
宋忠や王粲は劉表配下の人物でもあり、そういう伝手があったのか、郡の功曹に任じられ、江夏郡の従事に任命されています。
劉表の配下としては江夏太守として黄祖がおり、孫策や孫権の陣営と激しく争っています。
後に潘濬は呉の孫権に仕えますが、孫堅の殺害に深く関わった因縁の相手でもある、黄祖が上司だった可能性があります。
沙羨県の長を処刑
潘濬が従事になった頃に、沙羨の県長が賄賂を取り法律を蔑ろにしていました。
潘濬は沙羨県の長を法律に基づき処刑しています。
正史三国志には潘濬の法律の厳格さに、江夏郡は一郡を挙げて震撼したとする記述があります。
その後に潘濬は、湘郷県の令となったが、統治者としての評判は良かったとあり、潘濬は厳格な統治を行いながらも、公平性が高かったのでしょう。
潘濬は法律に厳しくても、酷吏ではありません。
この辺りは諸葛亮の統治方法とも似ているとも感じました。
尚、199年に孫策陣営と黄祖陣営が激しく争った沙羨の戦いが勃発していますが、潘濬が戦闘に参加したかのかは不明です。
関羽との不和
劉表が亡くなると、劉琮が後継者となるも王粲や蒯越の勧めもあり、曹操に降伏しました。
後に劉備は魯粛と出会い、赤壁の戦いでは周瑜や黄蓋の活躍もあり勝利しています。
赤壁の戦い後に劉備は荊州の一部を領有しますが、この時に潘濬は劉備の部下となったのでしょう。
劉備の入蜀時には、楊戯が著した季漢輔臣賛によれば「潘濬を荊州治中に任命し、留守として荊州の行政を行わせた」とあり、潘濬は荊州の事務方トップになったとも言えます。
しかし、荊州の総責任者である関羽とは不和だったと、季漢輔臣賛に記録されています。
関羽は士大夫を嫌っていた話があり、潘濬が名士と言う事で嫌っていた可能性もあるでしょう。
潘濬の様な臣下を嫌う辺りは、関羽はかなり勿体ない事をしているとも言えます。
孫権に仕える
劉備は漢中に割拠する張魯討伐の名目で益州に入ると、あべこべに劉璋を降伏させ益州を制圧しています。
劉備は定軍山の戦いでは法正、黄忠の活躍があり、夏侯淵を斬り漢中の地を曹操から奪いました。
荊州の関羽は好機と見るや北上を始めますが、樊城の戦いで破れ呂蒙の策により捕えられ斬首されています。
関羽配下であった糜芳や傅士仁は関羽とは不和であり、呆気なく呉に寝返りました。
後に呉で廷尉となる郝普なども、この時に呉に移ったのでしょう。
潘濬も関羽と仲が悪かったが、孫権に仕えるつもりはなかったのか、病気だと称して会おうとはしませんでした。
江表伝によれば、孫権は大きなベッドを用意し、潘濬の家に運び込ませます。
用意したベッドの上に潘濬を乗せると、ベッドを担いで配下の者達は、孫権の前まで連れて来た話があります。
孫権の前に潘濬は無理やり連れて来られたわけですが、潘濬は悲しみの涙を流していました。
孫権は潘濬に次の言葉を投げかけます。
孫権「承明殿(潘濬)、昔、観丁父は楚の武王に鄀の国を滅ぼされたが、楚の武王は観丁父を軍師に任じている。
また、彭仲爽は申の国を滅ぼされ捕虜となったが、楚の文王は彭仲爽を令尹(宰相)に任じた。
観丁父と彭仲爽は、貴方と同じ荊の先輩であるが、一度は囚人となり憂える事になったが、後に抜擢され楚国の名臣となっている。
承明殿がこうした例があるにも関わらず、気持ちをやわらげようとしないのは、私に古人の様な度量がないと思っているからなのでしょうか」
孫権は言葉が終わると側近に命じ、潘濬の涙を拭かせました。
潘濬は孫権の度量に感化され、ベッドを降りると拝謝しています。
孫権は潘濬を高く評価していたのか、その場で治中に任じました。
潘濬は当時から高い名声を持っており、孫権も潘濬の噂は聞いていたのでしょう。
孫権は荊州の軍事全般において、潘濬に意見を求める様になります。
孫権の中では荊州の事は潘濬に聞けば、問題ないと判断したのでしょう。
尚、孫権の潘濬に対する信頼は厚く、後に衛旌が潘濬の妻の兄が蜀の蔣琬だった事もあり、蜀に寝返ると上表した時には、次の様に述べています。
孫権「承明殿(潘濬)がその様な事をするはずがない」
孫権は潘濬を疑うどころか、衛旌を免官にしました。
正史三国志の三嗣主伝の記述で、行政の手腕に優れた家臣として顧雍、呂範、呂岱と共に潘濬の名前も挙がっています。
孫権は潘濬を上手く使いこなし、潘濬も実力を発揮できる環境に身を置く事が出来たとも言えます。
尚、潘濬の娘は皇族の孫慮に嫁いでおり、この辺りも潘濬に対する信頼の厚さでもあるのでしょう。
樊伷の乱
樊伷は武陵で異民族を懐柔し、習珍と共に劉備に帰属しようと企てた事がありました。
この時に、武陵の現地の人々は1万の軍勢を用意して欲しいと孫権に願い出ています。
孫権は認可せずに、潘濬に相談しました。
潘濬は樊伷の討伐など、五千の兵があれば十分だと答えます。
孫権が「なぜ樊伷を軽く見るのか?」と問うと、潘濬は樊伷の過去の要領の悪さを指摘し、弁は立つが将来の見通しが立っていない事を指摘しました。
孫権は潘濬の言葉に納得し、潘濬に五千の兵を与えて樊伷討伐に向かわせています。
潘濬は樊伷を攻撃し、樊伷の首を斬り落とし乱を平定しました。
潘濬と樊伷の逸話は、潘濬の観察眼の良さを著す話でもあります。
尚、習珍に潘濬は投降を進めますが、拒否され習珍は自刃しています。
習珍の子に習温がおり、潘濬は習温を高く評価しました。
習温は後に呉の大公平になった話があります。
武陵討伐
正史三国志によると、西暦230年に五谿の異民族が反乱を起こし、互いに連絡を取り合い呉に対し反旗を翻しました。
この時に孫権は潘濬に仮節を授け、五万の兵を与え異民族の討伐を実行させています。
この戦いで朱然の子・朱績や呂範の子・呂拠が潘濬の指揮下で、勇敢に戦い功績を挙げています。
武陵でおきた五谿の異民族も無事に鎮圧する事に成功しました。
潘濬は蜀では荊州の行政の長をやっていた話がありますが、軍隊を指揮するのもかなり巧みだったのでしょう。
潘濬は異民族討伐に大きく貢献した話があります。
尚、228年に起きた石亭の戦いで周魴が曹休を誘い出す為の手紙の中で、潘濬は異民族を多く軍隊に編入したとする記述があります。
呉では国が滅びる直前まで異民族討伐を行っており、潘濬も異民族討伐を多く実行したのでしょう。
信賞必罰
潘濬は陸遜と共に武昌に駐屯する事が多かった話があります。
陸遜も荊州方面の司令官であり、潘濬とは何度も話をしたはずです。
芮玄が亡くなると、潘濬は芮玄配下の兵士を併せ持ち夏口に駐屯したとする記述もあり、潘濬が荊州方面にいた事は間違いないでしょう。
潘濬は手柄を立てた者には、必ず褒賞を与え、軍法を犯した者には容赦なく処罰を与えたとあります。
潘濬が討伐を行った結果として、斬首した者や捕らえた者が数万にも及んだともされており、潘濬は信賞必罰を確実に実行し、大きな功績を立てたと言えます。
潘濬が大戦果を挙げた事で、異民族の反乱は無くなっていき、地域に平穏が訪れました。
ただし、嘉禾三年(234年)に呂岱が潘濬の兵を代わりに預かり陸口に駐屯した記述があり、234年には軍人としての役割からは引退に向かって行ったのかも知れません。
因みに、263年に魏の鄧艾により劉禅が降伏し蜀が滅亡した時に、武陵の五谿の異民族の異民族たちが動き出した話があります。
この時に呉の鍾離牧が小数の兵で異民族を急襲しようとしますが、配下の高尚は鍾離牧の作戦を危険だと判断し、潘濬の例を持ち出し鍾離牧を諫めました。
しかし、この時は鍾離牧の武勇に分が上がった様で、鍾離牧は作戦を強行し異民族を平定しています。
尚、鍾離牧は孫権が亡くなった後の呉で馬援、白起、范雎、潘濬、陸遜を例に出し語った内容が会稽典録に残っています。
呂壱事件
酷吏さえも恐れる男
呂壱は酷吏ではありましたが、孫権の信任を得る事となります。
呂壱は孫権の信任を背景に、丞相の顧雍や左将軍朱拠を責める上表文を提出した事で、顧雍や朱拠は軟禁状態となりました。
顧雍や朱拠は呉の高官にも関わらず、呉壱の気一つで処刑されてしまう様な状態です。
この時に謝厷が顧雍を処刑すると潘濬が丞相になると述べた事で、呂壱は顧雍を処分しようとしなかった話があります。
潘濬の苛烈さを有名であり、呂壱であっても「何をされるか分からない」と感じたのか、顧雍を処刑する様に動く事はありませんでした。
酷吏の呂壱でさえ、潘濬を恐れていた事が分かる事例でもあります。
呂壱暗殺計画
潘濬は袁礼から呂壱の話を聞くと、陸遜と共に心を痛め二人して涙を流した話があります。
潘濬も陸遜も忠臣であり、呉の宮廷に酷吏が蔓延っている事や、孫権が呂壱を信任した事に涙を流したのでしょう。
潘濬は建業に向かいました。
建業に行った潘濬は、呂壱の事を太子の孫登が何度諫めても、孫権は耳を傾けようとしなかった話を聞く事となります。
これにより、潘濬は孫権に強く諫言しても無駄だと判断し、文武百官を招集しました。
招集した文武百官の中には、呂壱もおり席上で潘濬は自ら刃物を手にし、呂壱を暗殺する事で、国家の害を除こうと考えたわけです。
呂壱は潘濬の話を伝え聞き、その会合には病気と称して欠席しています。
呂壱も潘濬ならやりかねないと思ったのでしょう。
潘濬は呂壱暗殺計画には失敗しましたが、孫権の前に出ると呂壱の非道さを何度も述べ、孫権も呂壱を信用しなくなり、呂壱は今度は丞相の顧雍に取り調べを受ける事になります。
呂壱事件に対し、孫権は自分を責めますが「なぜ諫めてくれなかったんだ」と臣下に問うた話があります。
この時に呉の群臣は返事に困った様ではありますが、最後は諸葛瑾が上手くまとめました。
潘濬の最後
潘濬は赤烏二年(239年)に死去し息子の潘翥が後を継いだとあります。
潘濬のポジションには呂岱が付く事になりました。
既に潘濬の兵は234年の段階で、呂岱が引き継いでおり、引継ぎは既に完了していたのでしょう。
潘翥が無事に後を継いだ事を考えると、潘濬は病死か事故死だった様に感じます。
呂壱事件の時の勢いを考えると、潘濬は急に体調が悪くなり亡くなった可能性もある様に思いました。
呂壱が顧雍の取り調べを受け処刑されたのは、潘濬が亡くなった後だとする話もあります。
記録にはありませんが、孫権は潘濬の死を悼んだ様に感じました。
呉は呂壱が亡くなった後に、二宮の変なる後継者争いが起きるなど、弱体化していきます。
潘濬の様な人物がいなくなった事は、呉にとって大きな痛手だったと言えるでしょう。
潘濬の逸話
孫権の雉狩り
孫権は雉狩りを好んだ話があります。
潘濬が孫権を諫めると、孫権は次の様に述べます。
「たまに少し雉狩りに出るのであって、昔の様にしょっちゅう行っているわけではない」
これに対し、潘濬は次の様に述べた。
潘濬「天下はまだ平定されておらず、ご主君としての務めも多いはずです。
雉狩りは不急の事でもありますし、仮に弓が壊れてしまえば怪我をする事となります。
どうか、私に免じて雉狩りは、おやめくださいますようにお願い申し上げます」
潘濬は堂々と孫権に意見を言ったのでしょう。
孫権も思う所があったのか、潘濬が退出した後に、雉の羽で作った翳が昔の様に置かれているのを見て、自ら取り壊した話があります。
尚、孫権は過去に配下の張世と共に虎退治をした話があります。
虎退治を張昭に諫められると、虎退治用の車を作り、窓から弓を射て虎を退治する方法を行った話があります。
孫権の後の行動を見るに張昭よりも、潘濬の方が諫言は上手かったのかも知れません。
孫権も張昭と違って潘濬だと意固地にならなかった可能性がある様に思いました。
潘翥に百叩きを受ける様に命じる
魏から呉に隠蕃が投降してきた話があります。
隠蕃は廷尉の郝普の下に配属され、弁舌が爽やかであった事から噂の人となりました。
朱拠、全琮、郝普らは隠蕃と積極的に誼を結び、潘濬の子である潘翥に至っては食糧援助までしています。
潘濬は潘翥が隠蕃と親密にしている事を聞くと激怒し、使者を派遣し隠蕃とは縁を切り、食料の返還を求める様にと手紙を送っています。
さらに、潘翥には使者の前に行き、百叩きの刑罰を受ける様に手紙に書いてありました。
潘翥が百叩きを受けたのかは記録がなく分かっていませんが、後に隠蕃が魏のスパイだと発覚した時に、潘翥は咎められた形跡がありません。
隠蕃の件で郝普が処刑されている事から、潘翥は父親の潘濬の言いつけを守り、隠蕃と縁を切ったのではないかと考えられます。
歩隲の駐屯軍
驃騎将軍の歩隲が漚口に駐屯していた時に、募兵を行い配下の軍勢を増やしたいと願い出ました。
孫権は歩隲の上表に対し、潘濬に意見を求めると、次の様に述べます。
潘濬「大きな勢力を持つ武将が民間にあると、周囲の力を吸い尽くし秩序が乱れ損害が出ます。
さらに、歩隲には名声と威勢があり、各地の役所では歩隲に取り入ろうと考える事でしょう。
歩隲の申し出を許可してはいけません」
孫権は潘濬の進言を入れ、歩隲の申し出を却下しました。
潘濬は徐宗の部下が好き勝手やっていた時に、徐宗を処刑した話があり、治安が悪くなったり、孫権が不利な状況になるのを避ける事を優先していたのでしょう。
尚、後に歩隲は孫登に荊州の優秀な人材を聞かれた時に、潘濬の名前も挙げています。
歩隲が評価した荊州の人材
歩隲と潘濬が仲違いしたわけでもなく、歩隲は潘濬の事を高く評価している事が分かります。
尚、文士伝の記述で潘濬が陳表と共に鄭冑を救った話があり、潘濬は優れた人材だと思えば、フォローする性格である事を歩隲も分かっていたはずです。
歩隲にしても焦矯との逸話などを考えると、潘濬の言葉を気にする様な人ではなかったのでしょう。
潘濬の能力値
三国志14 | 統率61 | 武力18 | 知力67 | 政治84 | 魅力21 |