夏侯淵は定軍山の戦いで黄忠に敗れた魏の将軍と言った印象が強い様に思います。
実際に夏侯淵は三国志演義で黄忠に討ち取られていますが、正史三国志でも定軍山の戦いで黄忠に敗れ命を落しました。
夏侯淵は黄忠に敗れた事から名将といったイメージが薄い様にも感じますが、史実の夏侯淵は「三日で五百里、六日で千里」進むと言われた名将です。
夏侯淵は三国志演義では弓の名手となっていました、実際の夏侯淵は機動力抜群の将軍でした。
曹操も夏侯淵の武力は認めていましたが、将軍としては軽率な部分もあり、それが元で定軍山の戦いで敗れたといえます。
しかし、夏侯淵は夏侯惇、曹仁、曹洪らと旗揚げの時から曹操に従っており、最古参の武将の一人だと言えます。
今回は三日で五百里、六日で千里進むと言われた機動力抜群の将軍であり、涼州平定戦で大活躍した夏侯淵を解説します。
尚、夏侯氏の祖は劉邦の御者である夏侯嬰だと伝わっています。
正史三国志の夏侯淵は諸夏侯曹伝に下記の人物と共に伝が立てられ収録されています。
曹操の身代わりとなる
夏侯淵と夏侯惇は従弟だと書きましたが、曹操と夏侯淵の関係も親族となります。
曹操の祖父は宦官の曹騰であり、曹騰が養子を夏侯氏から貰い、これが曹嵩であり曹操の父親となります。
曹操は若い頃から素行が悪かった様で、故郷にいた頃に県の長官にまつわる事件を起こしてしまいました。
何故なのかは不明ですが、ここで夏侯淵が曹操の身代わりとなり、罪を引き受ける事になります。
具体的な罪状は不明ですが、曹操の代わりに夏侯淵が罪を被る等の漢気を見せたという事なのでしょう。
ここで曹操が上手く対処し、夏侯淵を救出した事で夏侯淵は助かりました。
夏侯淵の祖先である夏侯嬰も、主君の劉邦の代わりに身代わりになった話があり、夏侯淵も夏侯嬰に近しい事をしたという事です。
尚、兗州と豫州が大混乱に陥り飢餓状態になった時にも、自分の幼い子を棄て死んだ弟の娘を救った話が魏略にあります。
それを考えると、夏侯淵は漢気溢れる人物だった事は間違いないでしょう。
各地を転戦
曹操が挙兵すると夏侯淵を別部司馬・騎都尉に任命し、行動を共にする事になります。
曹操は夏侯淵を陳留、潁川などの太守を歴任させるなど経験を積ませました。
曹操が袁紹を破ると、兗州・豫州・徐州の兵糧の管理を夏侯淵に任せました。
この時の曹操の兵糧は枯渇仕掛けていた話もありますが、夏侯淵が見事に兵糧を輸送した事で兵站は繋がり、勢いを盛り返したとあります。
夏侯淵は戦場での槍働きだけではなく、兵糧の管理なども得意だったのでしょう。
具体的な活躍内容は記録されていませんが、夏侯淵は機動力抜群の動きを見せ活躍した様に感じました。
昌豨・徐和討伐
206年に袁氏に属している并州の高幹が乱を起こし、追従するかの様に烏桓、徐和、管承、昌豨、司馬俱らが反旗を翻しました。
当時、劉表の元にいた劉備も反曹操の人物であり、北上し曹操を包囲する可能性もあったわけです。
曹操包囲網の中で昌豨を討伐する為に、于禁を向かわせますが、鎮圧する事が出来ませんでした。
曹操は于禁が苦戦している事を知ると、援軍の将として夏侯淵を向かわせました。
夏侯淵は戦場に到着すると于禁と協力し、昌豨の10ほどの屯営を陥落させ、昌豨は于禁に降伏する事になります。
夏侯淵は昌豨討伐から帰還すると、典軍校尉となりました。
しかし、乱はまだ集束してはおらず、済南郡と楽南郡の黄巾賊徐和や司馬俱らが城を攻撃し、県の高官は命を落しました。
夏侯淵は臧覇や呂虔と協力し、泰山、平原、斉などの兵をまとめ、これを攻撃し大勝する事になります。
夏侯淵は徐和を討ち取り諸県を平定すると、食料を没収し兵士に配りました。
206年の高幹を中心に起きた反乱は楽進が西へ東へと反乱軍を破り、曹操も郭嘉や張遼らと烏桓討伐を行い、公孫康が袁煕、袁尚の首を届けるなど包囲網の全てを打ち破りました。
夏侯淵の功績も極めて大きかった事は言うまでもないでしょう。
三日で五百里、六日で千里
魏書によれば、夏侯淵は急襲を得意とする武将だと書かれています。
敵軍の不意を衝く動きをする事で、勝利を掴んでいました。
夏侯淵を軍中の人々は、次の様に述べた話があります。
※魏略より
典軍校尉の夏侯淵は、三日で五百里、六日で千里
上記の記述は、夏侯淵が抜群の機動力を誇り、敵の不意を衝いて勝利を得ていた事を指します。
夏侯淵の軍の動きは素早く讃えられていたのでしょう。
曹操陣営では最精鋭部隊である虎豹騎を率いた曹純なども機動力が高く戦闘力もあった話が残っていますが、夏侯淵の部隊も曹純に負けず劣らずだったはずです。
尚、三国志の時代は1里が約400メートルであり、夏侯淵は三日で200キロも走破出来た事になります。
これらの数字には誇張も含まれているでしょうが、夏侯淵の部隊が当時でも、かなり機動力があった事だけは間違いないでしょう。
209年に夏侯淵は行領軍に任命されました。
西方を討つ
北方を統一した曹操は南下を始め劉表の後継者になった劉琮を降伏し荊州を手に入れました。
しかし、呉の魯粛が劉備との同盟を締結させ赤壁の戦いでは、周瑜や黄蓋の活躍もあり孫権の軍が大勝しています。
記録がない事から、夏侯淵は赤壁の戦いの本戦には参加しなかった様に感じています。
曹操は赤壁の戦いでは敗れましたが、夏侯淵に命じ廬江郡の雷緒を攻撃させました。
雷緒は劉馥が亡くなった事で乱を起こしたのでしょう。
夏侯淵が雷緒を破ると、曹操は行征西護軍に任じ徐晃を監督させ、太原の賊を討ち20を超える屯営を陥落させ頭目の商曜を斬り、城を破壊する活躍を見せます。
韓遂や馬超がが反乱を起こすと曹操は夏侯淵にも従軍を命じ、渭南で戦闘(潼関の戦い)を行っています。
さらに、夏侯淵は朱霊を監督し隃麋・汧にいた氐族を平定しました。
夏侯淵の進軍は留まる所を知らず、安定で曹操の軍と合流し楊秋を降伏させています。
曹操が西方の討伐に夏侯淵を連れて行ったのは、西方の騎馬民族に機動力でひけを取らないと感じたからでしょう。
長安に駐屯
曹操は潼関の戦いで馬超や韓遂などの涼州連合を破ると、自身は鄴に帰還しました。
この時に、曹操は夏侯淵を行護軍将軍とし、朱霊・路招らを監督させ長安に駐屯させています。
ここでも夏侯淵の進軍は留まる所を知らず、南山の賊徒である劉雄を破り軍勢を降伏させ、鄜にいた涼州軍の残党である梁興を斬り博昌亭侯に封じられました。
夏侯淵の関中での奮戦を評価し、曹操は関中の鎮撫を夏侯淵に任せたと言えるでしょう。
夏侯淵は西方の責任者とも呼べる立場となります。
馬超に敗れる
潼関の戦いで敗れた馬超は再起を行い、冀城の韋康を攻撃しました。
夏侯淵は韋康の救援の為に、冀城に向かいますが、夏侯淵の軍が到着する前に、韋康は降伏しています。
しかし、馬超は韋康を殺害してしまい楊阜や趙昂、王異らの恨みを買う結果となりました。
馬超と夏侯淵は冀から二百里の地点で戦いとなりますが、夏侯淵は苦戦し汧にいた氐族も反乱を起こした事で撤退しました。
ここに来て夏侯淵は馬超に対し負け戦をしてしまったわけです。
ただし、夏侯淵は関中から撤退したわけではなく、致命的なミスは侵さなかったと言えるでしょう。
馬超を破る
214年に韋康の部下だった趙衢、尹奉、姜叙らは馬超を討ち取るべく画策しました。
手始めに姜叙と楊阜が鹵城で兵を挙げ、冀城にいた馬超に趙衢、尹奉らは討伐に赴く様に説得します。
馬超が姜叙や楊阜の征伐する為に冀城を出ると、趙衢らは反旗を翻し馬超の家族を皆殺しとしました。
馬超も楊阜らを攻略する事が出来ず、漢中の張魯の元に身を寄せる事になります。
張魯の援助を得た馬超は再び祁山を攻撃しました。
ここで姜叙らは夏侯淵に救援要請しました。
夏侯淵配下の諸将は曹操の指示を待つべきと慎重策を提示する事になります。
先に夏侯淵は馬超に敗れており、諸将は軽はずみに動くべきではないと考えたのでしょう。
しかし、夏侯淵は別の考えを持っており、次の様に述べました。
※正史三国志 夏侯淵伝より
夏侯淵「公(曹操)は鄴におられ、往復で四千里の距離にいるのだ。
返事が戻ってくる頃には、姜叙らは敗北しているに違いない。
それでは、救う事は出来ないであろう」
夏侯淵は出陣を強行し、張郃に騎兵、歩兵と5千の兵を預けて先鋒としました。
夏侯淵の命を受けた張郃は陳倉の細い道を通って進軍を行い、夏侯淵は後詰となり兵站を担う役割もしています。
馬超の軍は張郃の軍が近づいている事を知ると、氐族、羌族を率いて迎撃しますが、馬超は戦わずに逃走しました。
後詰めの夏侯淵が到着した頃には、諸県は全て平定し乱は鎮定されていたわけです。
張郃は馬超軍の大型兵器まで手に入れるなど、物資を手に入れました。
張郃の活躍が目立ちますが、夏侯淵の最初の判断がよかったと言えるでしょう。
韓遂との戦い
長離を攻撃
夏侯淵は涼州の平定を目指しており、馬超を駆逐した事で、次のターゲットを韓遂に定めました。
韓遂は長年に渡り朝廷に対し反旗を翻し、馬騰や馬超らとも同盟したり決別したりと後漢末期の梟雄とも呼べる人物です。
この時に韓遂は顕親に駐屯していましたが、夏侯淵が攻撃しようとすると、逃走しました。
夏侯淵は韓遂軍の兵糧を手に入れ、追撃し略陽城に到着する事になります。
略陽城の夏侯淵と韓遂の軍の距離は20里しかなく、諸将は韓遂をさらに追撃すべきだとする主張や興国の氐族を攻撃すべきだとする意見もありました。
しかし、夏侯淵は韓遂の部隊は精鋭で、氐族が籠る興国の城は堅固であり攻略は難しいと考え、長離にいる羌族を討つ方が合理的だと考えました。
長離の羌族の多くが韓遂の軍に加わっており、夏侯淵が長離を攻撃すれば、韓遂は長離を救わねばならず、韓遂が長離を救援しなければ孤立すると考えたわけです。
さらに、夏侯淵は韓遂が長離の救援に赴けば、自分達は韓遂と平野で野戦を行う事になり、韓遂を捕虜に出来ると判断しました。
夏侯淵は韓遂の部隊の中核を成しているのが羌族であり、韓遂の釣り出しを狙ったと言えるでしょう。
夏侯淵の考えは囲魏救趙の策に近いとも言えます。
夏侯淵というと機動力に優れ猪突猛進のイメージがあるのかも知れませんが、兵法も軽んじていたわけではない事が分かるはずです。
韓遂を撃破
夏侯淵は督将に輜重を任せ、軽装の歩兵と騎兵を率いて長離に行き、羌族の屯営を攻撃し焼き払い多くの羌族を斬り捕虜としました。
韓遂の部族に加わっていた羌族の人々は、長離の自分の部落に戻り離脱し、韓遂自身も羌族を救わないわけにはいかず、夏侯淵の軍と対峙する事になります。
ここでにおいて夏侯淵の軍と韓遂の軍での決戦となります。
韓遂の軍は思ったよりも数が多く、諸将は韓遂軍に対しての嫌悪感もあった事で、陣営を整え塹壕を掘り万全の状態で戦う事を望みました。
しかし、夏侯淵は守りを固める事に反対であり、次の様に述べています。
※正史三国志 夏侯淵伝より
夏侯淵「我等は千里の彼方よりの遠征軍である。
ここで陣営を築いたり塹壕を掘ったりすれば、兵士達は疲労困憊し、持久戦は不可能となる。
敵の数は多くても与しやすい相手なのだ」
夏侯淵は決戦を主張し、自ら兵を鼓舞させ士気を高め韓遂軍を一気に打ち破りました。
夏侯淵は韓遂の旗印を奪い、興国に転戦しています。
興国にいた氐王の千万は馬超の元に逃走し、後に残った軍勢は降伏しました。
さらに、夏侯淵は高平・屠各を攻撃し敵を散々に打ち破り、その食料や牛馬を獲得しています。
曹操は夏侯淵の功績を認め仮節としました。
宋建討伐
枹罕の宋建は涼州の混乱につけ込み河首平漢王を勝手に称していました。
曹操は夏侯淵に宋建討伐の命じています。
夏侯淵は枹罕で宋建を囲み僅か一カ月ほどで、宋建や任命していた官吏を斬る事に成功しました。
さらに、夏侯淵は張郃を派遣し河関を平定させ、黄河を渡河させ小湟中に侵入させています。
これにより河西の諸羌を悉く降伏させ、隴右を平定しました。
曹操は夏侯淵の話を聞くと布令を出し、次の様に述べています。
宋建が反乱を起こして既に30年以上になるが、夏侯淵は1回の戦いで滅ぼしてしまった。
関右の地では向かうところ敵なしだった。
仲尼(孔子)も「私とお前(子貢)は顔回に及ばない。」と言ったのと同じである。
曹操は孔子が子貢に自分達が顔回に及ばないと述べたのに掛け合わせ、自分ですら夏侯淵には及ばないと述べた事になります。
夏侯淵の武勇を曹操は高く評価しました。
夏侯淵で無ければ関中の地を平定する事が出来なかったとも、曹操は考えたはずです。
漢中を平定
216年に曹操は夏侯淵の封邑を三百戸加増し合計で八百戸としました。
夏侯淵は一旦は長安に戻りますが、武都郡の氐族と羌族を攻撃し、氐族の穀物十万石以上を没収するなどの功績を挙げています。
曹操は漢中の張魯討伐にも夏侯淵を参加させ、夏侯淵は涼州の諸将・候・王などを引き連れて、曹操と体亭で合流しました。
曹操は羌族と引見する時は、夏侯淵を脅しの材料として使ったとあります。
涼州では夏侯淵の武勇が鳴り響いており、曹操は最大限に利用したのでしょう。
張魯が降伏すると、曹操は夏侯淵を行都護将軍に任命し張郃や徐晃らの上に付けて巴郡を平定しました。
この後に、曹操は本拠地の鄴に戻りますが、夏侯淵を征西将軍として漢中に残し守備を任せています。
定軍山の戦い
劉備は劉璋から蜀を奪取しており、次のターゲットを漢中に定めました。
劉備は黄権や法正などの軍事に明るい者達が、夏侯淵が守備する漢中を攻略する為の戦略を考えていたわけです。
劉備が北伐を行い定軍山の戦いが勃発する事になります。
劉備は陽平関に陣を布き夏侯淵が迎え撃つ体制を整えました。
夏侯淵は諸将を率い迎撃したわけですが、劉備との戦いは膠着状態に突入します。
劉備は夏侯淵の陣営に火攻めを行いました。
夏侯淵は張郃に東を守らせ、自らは南を守備しました。
しかし、張郃が劉備の攻撃を受けて形成不利となるや、夏侯淵は張郃に自らの半分の兵士を援軍として向かわせる事にします。
夏侯淵は漢気がある人物であり、張郃に多くの兵士を割いてしまったのでしょう。
夏侯淵の最後
夏侯淵が多くの兵を張郃に割いた事を知った劉備の軍師とも呼べる法正は、攻撃のチャンスだと考えました。
ここで黄忠が名乗りを挙げ、少数となった夏侯淵の軍に攻撃を仕掛けました。
夏侯淵は黄忠の攻撃を耐える事が出来ず、戦死しました。
夏侯淵は急襲を得意とし、数多くの戦場で功績を挙げた武将でしたが、呆気なく戦死してしまったわけです。
曹操は夏侯淵が数多くの武功を挙げ、能力を認めていましたが、次の様に戒めていた話があります。
将たる者は臆病な時もなければならない。
勇気だけを頼みとしてはならない。
将たるものは勇敢さを強く持ちながらも、行動する場合は知略を使う様にせよ。
勇気に身を任せるだけでは、一人の匹夫しか相手にする事は出来ない。
曹操は夏侯淵の武勇を認めながらも、戦い方が危ういと感じていたのでしょう。
夏侯淵は愍侯と諡される事になります。
尚、定軍山の戦いでは夏侯淵の子で13歳の夏侯栄も戦死しました。
曹芳の時代である243年に魏では曹操時代の功臣が、曹操の霊廟の中で祀られましたが、その中に夏侯淵の名前も見えます。
夏侯淵の子孫
夏侯淵の長男の夏侯衡は、位を継ぎ安寧亭侯となり、亡くなると子の夏侯績が後継者となりました。
夏侯績が亡くなると、子の夏侯褒が後を継いでいます。
次男の夏侯覇は曹爽と近しき人物であり、曹芳の時代に起きた高平陵の変で、司馬懿に害されるのを恐れ蜀に亡命しています。
張飛の妻は夏侯淵の姪であり、さらに張飛の娘が劉禅の皇后(張皇后)であった事から、夏侯覇は蜀で優遇される事になります。
夏侯覇は蜀の将軍となり姜維の北伐にも参加しました。
夏侯淵の子である夏侯威は兗州刺史、夏侯恵は楽安太守、夏侯和は江南尹にまで出世した記録があります。
他にも、先に述べた様に定軍山の戦いで戦死した夏侯栄も夏侯淵の子です。
夏侯淵の評価
陳寿は評の部分で夏侯淵は曹氏の婚姻関係により高官となり重んじられたと書かれています。
夏侯惇、曹仁、曹洪、曹尚、曹真らで一纏めにしてありますが、特に悪い事も言っておらず無難な評価をしたと言えるでしょう。
夏侯氏の夏侯惇が後方を任される事が多かったのに対し、夏侯淵は自ら前線で槍働きをし功績を挙げました。
涼州での活躍を見ると間違いなく名将であり、優れた将軍だという事が分かります。
しかし、曹操の言う様に軽はずみな行動が仇となり、得意としていたはずの急襲を黄忠にやられ最後を迎えました。
夏侯淵の最後も逆茂木も修復を自ら行おうとして敗北しており、総大将として取るべき行動ではなかったと言えるでしょう。
それでも、夏侯淵は涼州平定において活躍した名将だと感じました。