その他 三国志

公孫度の史実・三国志第四の勢力を築いた男は卑弥呼の親戚だった!?

2021年4月20日

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宮下悠史

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名前公孫度(こうそんど/こうそんたく) 字:升済
生没年150年-204年
時代後漢末期、三国志
勢力遼東公孫氏
一族子:公孫康公孫恭 孫:公孫晃公孫淵
年表189年 遼東太守に任ぜられる
190年 遼東侯・平州牧
地図©コーエーテクモゲームス

公孫度は知名度は低いですが、三国志において第4の勢力を作り出した男でもあります。

三国志と言うと、魏・呉・蜀となりますが、実際には第4の勢力として遼東を拠点とした公孫氏の勢力があるわけです。

その第4の勢力を作ったのが、公孫度です。

遼東公孫氏の初代が公孫度であり、40年ほど続く事になります。

どの様にして、第4の勢力を作り上げたのか解説します。

尚、余談ではありますが、公孫度の一族が卑弥呼だという説もあります。

他にも、公孫度と公孫瓚は共に北方で活躍した為に、血縁者などの関係があるのか?と気になる人がいるようですが、特に関係はありません。

公孫という性は、春秋戦国時代の○○公の孫だった場合に、多くつけられている姓で血縁に関係なく当時は多くみられる姓だったわけです。

因みに、陳寿が書いた正史三国志には公孫度の伝があり、下記の人物と共に紹介されています。

公孫瓚陶謙張楊公孫度張燕張繍張魯

出身地の遼東では虐められていた・・。

公孫度の出身地は、中国の北東に位置する遼東です。

中国でもかなり隅の方が出身だと言えます。

公孫度は遼東が出身なのですが、父親が問題を起こしたのか事件に巻き込まれたのかは分かりませんが、公孫度の一家は隣の郡に引っ越しています。

出身地である遼東では嫌がらせを受けたりして、虐められていたようです。

後に、公孫度の子である公孫康を遼東で出仕させた時は、大した役職に就かせなかった県令の公孫昭には大そう恨んでいたようです。

しかし、公孫度を虐めた連中は後に酷い目に合うわけです。

因果応報という奴なのでしょう。

隣の郡では重宝される

隣の郡に移ると人生が好転し始めます。

そこを治めていた人物が、公孫度を見ると死んだ息子にそっくりだと言うのです。

さらに、死んだ息子の名前が公孫豹だったわけですが、公孫度の幼名が「豹」だった事もあり運命の出会いを感じたのか、大いに気に入られています。

公孫度に学問を学ばせて、成人になると妻を娶らせています。

さらに、有道(道徳観に優れたものを推挙する仕組み)を使い尚書郎となり、さらには冀州刺史にまでなっています。

その後、なぜか罷免されてしまうわけですが、董卓配下の徐栄が公孫度を遼東太守に推挙します。

董卓軍で言えば呂布と並ぶほどの名将である徐栄が推挙した事で見事に官に返り咲く事が出来ました。

しかし、遼東の地は公孫度は恨みを持っていたわけです・・・。

粛清の雨が降る

公孫度が遼東の太守になると、最初にやった事が憎き公孫昭を捕らえる事です。

息子の公孫康に対して役職に就かせなかった事で、元の県令である公孫昭を恨んでいたわけです。

理由もなく公孫昭を捕らえて、市場に引きずり出し鞭で打って撃ち殺してしまいました。

さらに、小さい頃に自分の家族をないがしろにした田韶も過度に法律を適用して処刑しています。

遼東の人々は、逃げた公孫度が太守になって帰って来た」と軽く見ていたわけですが、公孫度の行動に恐怖します。

さらに、公孫度の処罰は留まるところを知らずに、次々に豪族や権力者などを処刑していきました。

処刑する時は、妻子や親せきなど一族を処刑してしまった為に、処刑された家が数百家あったとされています。

遼東をまとめ上げ独力で異民族と戦う

こういう粛清を行ったりすると、多くの人に恨まれてしまい最後は殺される事も多くありますが、公孫度の場合は徹底的に殺してしまった為に復讐もされなかったようです。

この徹底的に処罰する公孫度のやり方に対して、不平分子は鳴りを潜める事になります。

公孫度は遼東を徳の力ではなく、武力によって治めたわけです。

しかし、この公孫度の政策が上手く行ったのか民をまとめる事に成功しています。

さらに、朝鮮半島北部で勢力を張る高句麗を破り、さらに鳥丸、鮮卑などの異民族も討伐しています。

これには中央の力を借りずに遼東の郡の兵士だけで撃破している事から、公孫度が兵法も備えていた事が分かります。

高句麗、鮮卑、烏丸を独自で破った事で、公孫度の武名は中国全土に知れ渡りました。

公孫度が独立勢力となる

公孫度の武名が鳴り響いた頃に、中原の地では群雄割拠状態となります。

曹操袁紹袁術呂布などが割拠した状態です。

この時に、公孫度の周りで奇妙な現象が起きたりします。

襄平県の延里という場所に、大石が突如現れて、さらにその下を見ると小さな石が3つあったとされています。

公孫度の父親の名前が公孫延だったのですが、父親の名前と同じ県に、大石と小石3つですから、公孫度が王となり小さな小石は三公(王朝の高位)を指すと考えられたりしたわけです。

劉虞は公孫瓚に斬られてしまうわけですが、生前に袁紹により皇帝になるように要請された事がありました。

こういう時にも、吉祥が現れたように、公孫度の場合も吉祥が出たわけです。

これに気を良くした公孫度は独立を考えるようになり、「遼東侯」「平州牧」を名乗りました。

これにより独立国となったわけです。

ちなみに、曹操は最初に武平侯となり魏公となり魏王となりました。

公や王に比べると格下になりますが、公孫度は侯国を建国したわけです。

曹操は後漢の丞相となりますが、公孫度を永寧郷侯・武威将軍に任じています。

しかし、曹操から届けられた印綬を武庫の奥にしまいこんでしまったようです。

公孫度としては、独立王国だと思っていたようで、他人に任命されるのを嫌がったのでしょう。

実際に、公孫度は実力もあったので国はよく治まり幽州や山東などから住民が多く遼東に移住してきた話も残っています。

公孫度が建国した国は、公孫度が死後も公孫康公孫恭公孫淵と続く事になります。

公孫度から事実上の独立勢力であった事から、歴史の専門家によっては三国志ではなく「四国志」が正しいという人もいます。

ただし、公孫度の孫の代に公孫淵が司馬懿に討伐される事で遼東王国は滅亡しています。

それを考えれば三国志で十分かなと私は思っています。

いじわるされた人に成功した時に感謝するは嘘なのか・・。

公孫度を見ると昔、いじわるされた人に対して徹底的に仕返しを行っています。

よくビジネス系のセールスレターを読むと、〇〇さんには虐められたけど、成功した後は感謝している。みたいなストーリーになっている事があります。

歴史を見ると、虐められた人に感謝するという行動に違和感を感じるわけです。

例を挙げると、公孫度は公孫昭に復讐をしていますし、春秋戦国時代范雎は過去に魏斉によって便所に捨てられた事を根に持ち秦の昭王の力を借りて執拗に首を魏斉の首を求めています。

日本の徳川家康は人質時代に孕石主水なる人物にいじめを受けています。しかし、数十年後に戦いで孕石主水を捕らえると、さっさと切腹させているのです。

張儀なども、恨みがあった楚の宰相に対して怒りの檄文を送っています。

これを考えると、人間は恨みを持った人間に対しては、自分が有利に立った場合は復讐する場合が多いようです。

そのため、人には恨みを買うような行動には気を付けたいところです。

公孫度の場合で見れば、恨みを買った人物に対しては徹底的に弾圧している事が分かります。

歴史上でも、つまらない恨みを買ったばかりに復讐されて殺されてしまった人は少なくありません。

卑弥呼が公孫度の親戚だった!?

卑弥呼と言えば魏志倭人伝が有名です。

卑弥呼の記述に関しては、日本側の日本書紀や古事記にはありませんし、魏志倭人伝にしか記載がないと思っている人は多いです。

実際には晋書と呼ばれている三国志の次の時代を書いた書物には邪馬台国と卑弥呼に関する記述が存在します。

晋書の四夷伝という場所に書かれています。

晋書に書いてある倭国の記述は、読み方によっては卑弥呼が公孫度が作った遼東の公孫氏の親戚になってしまうわけです。

晋書を元にして邪馬台国の記述を検証してみます。

晋書の倭国の記述

晋書の倭国の記述ですが、人によっては「晋書倭国伝」と呼んだりしています。

晋書の邪馬台国や卑弥呼と公孫氏と関係する記述は下記になります。

「舊以男子為主 漢末 倭人亂 攻伐不定 乃立女子為王 名曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方朝見 其後貢聘不絶 及文帝作相 又數至 泰始初、遣使重譯入貢」

上記の赤文字の部分が問題の場所です。

訳し方には2種類が存在します。

尚、宣帝というのは三国志で有名な司馬懿仲達の事で魏の将軍として遼東の公孫淵を滅ぼした事を指します。

司馬懿の子孫である司馬炎が魏から禅譲により帝位に就き、司馬氏発展の基礎を作った司馬懿に対して宣帝という諡号を追号されたわけです。

卑弥呼が公孫氏の一族だった

卑弥呼が公孫氏の一族だった話ですが、その訳し方だと下記のようになります。

名を卑弥呼と呼ぶ。宣帝(司馬懿)が平定した公孫氏である。

この訳し方だと公孫氏と邪馬台国の卑弥呼は親戚となります。

さらに、公孫氏の親戚だとすれば卑弥呼の正体は中国人とも取れるわけです。

司馬懿が公孫氏を平定したので朝貢が出来るようになった

もう一つの説が卑弥呼が公孫氏の親戚ではないとする説です。

名を卑弥呼と呼ぶ。宣帝(司馬懿)が公孫氏を平定したため女王は帯方郡に使者を派遣して朝貢した。

こちらの解釈では、司馬懿が公孫氏を破り平定した為に、女王である卑弥呼が帯方郡に朝貢が出来るようになったと解釈する事が出来ます。

現在の日本人の多くが、こちらの説を採用しているように思います。

私の解釈はやっぱり司馬懿が公孫氏(公孫淵)を破った為に道が繋がり魏と倭は外交が出来るようになったと考えています

しかし、こういうのは多数決で決まる物ではありませんし、中国語で読んでみれば、どちらの解釈とも読めるわけです。

そのためどちらかが正しいのかイマイチ分かりません。

しかし、公孫氏と卑弥呼が同族であれば遼東の近くに国が無ければおかしいような気もするわけです。

朝鮮半島を超えて、海を越えて対馬の辺りから日本に入り公孫氏が国を建てたという事になります。

そのような事が本当に出来るのか?とも考えてしまうわけです。

邪馬台国朝鮮半島説がある

公孫度や公孫淵などの遼東を治めた人たちの親戚が卑弥呼であれば、邪馬台国も近くになければならないと言う考え方があります。

通説の位置ですと、倭国は日本列島になります。

これだと遼東と倭国の間に朝鮮半島があり距離が遠すぎるのでは?と考えた人がいるわけです。

そこで、朝鮮半島に邪馬台国があったとする説もあります。

朝鮮半島に邪馬台国があれば、距離的には遼東とそれほど遠くはありません。

その他にも、下記のような事が理由にされています。

日本書紀や古事記に邪馬台国が登場しないのは邪馬台国が今の日本の位置になかったから。

倭国と高句麗の広開土王が戦った記録があるが、倭国と高句麗では間に新羅や百済・伽耶諸国もあり距離が離れすぎている

倭国は朝鮮半島に4年に1度のペースで攻め込んでいる。しかし、遣隋使や遣唐使の航海技術を見ると余りにも脆弱すぎる。倭国自体が日本に無かったことを指す。

倭の五王(讃、珍、済、興、武)が中国の南朝に朝貢外交を行っているが日本の天皇が中国のような名前を名乗った事は無い。倭の五王は朝鮮半島にあった倭国(邪馬台国?)である。

など、様々な主張をする人がいるわけです。

ただし、倭の五王が朝鮮半島の国だったり九州王朝だったり吉備の豪族だった説もありますが、ほぼ信じられてはいません。

邪馬台国がどこにあり卑弥呼の正体は何なのか?という事はイマイチ分かってはいません。

卑弥呼については、ほとんど記述がないですし、日本側の記述もないからです。

この時代の邪馬台国や倭国の正体を知るには、膨大なる頭脳の出現を待つしかなさそうです。

私としては、日本側の古墳でも掘り起こしてみれば何かしら資料が出てくるのでは?とも考えていますが、現在では宮内庁の管轄となっているため掘り起こす事も出来ません。

私も日本人のルーツを知りたいですし、技術の進歩などで解明して欲しいと思います。

尚、余談ですが、邪馬台国は畿内説や九州説が有名ですが、その他にも四国説、出雲大社説、伊勢神宮説、諏訪大社説などもあります。

日本全国に邪馬台国だと比定される場所はあるわけです。

海外では紹介した朝鮮半島説以外にもジャワ島説やエジプト説などもあります。

エジプト説などは笑ってしまうような気もしますが、学者さんの中では真剣に考えて検証を立てた結果エジプトにあったと比定している人もいるわけです。

邪馬台国の謎を解くには膨大なる頭脳の出現を待つしかなさそうです。

AIが邪馬台国の場所を特定してくれる日も来るのかも知れませんね。

尚、古代では朝鮮半島の南部の狗邪韓国倭人の国だった説があります。

個人的に、狗邪韓国は倭人の国だと考えており、公孫度の公孫氏と何かしらの関係があるのかも知れません。

卑弥呼は中国人なのか?

公孫氏の話に戻しますが、卑弥呼が遼東の公孫氏の親戚であれば卑弥呼は中国人となります。

私も含めて日本人の心としては、卑弥呼は日本人であってもらいたいのではないでしょうか?

しかし、これも願いで決めるわけには行きませんし、何とも言えない所もあります。

尚、余談ですが、DNAで調べると日本人はモンゴルの北にありロシア南東部のバイカル湖に起源があるそうです。

バイカル湖起源説が実際に唱えられています。

化学が進んだと言われている現在であっても、まだまだ日本人の謎は多いようです。

謎が多いからこそ、ミステリアスで惹きつける魅力があるのでしょう。

近い将来に邪馬台国や卑弥呼、天皇家などの謎が解明される事を願っています。

出来れば自分が生きているうちに解明してくれる事を希望しています。

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