その他 三国志

許靖は各地で尊ばれた名士

2022年11月18日

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宮下悠史

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名前許靖(きょせい) 字:文休
生没年生年不明-222年
時代後漢末期、三国志
主君董卓孔伷→王朗→士燮劉璋劉備
一族子:許欽 孫:許游 兄の外孫:陳祗
年表190年 御史中丞に任命される
214年 劉備政権で左将軍長史となる
221年 司徒に任命される
画像©コーエーテクモゲームス

許靖は正史三国志に伝が立てられている人物で、名士として各地で尊ばれた話があります。

ただし、従兄の許劭とは馬が合わなかった様で、若い頃の許靖は馬磨きを行い、生計を立てるなど苦労もあった様です。

許靖は各地を転々とする生活を余儀なくされますが、何処に行っても厚遇されました。

劉備が益州の主になった時に、許靖を冷遇しようとしますが法正が諫めた話しもあります。

許靖の名声は世に響いており、劉備も無視する事が出来なかったわけです。

許靖の子に許欽がいましたが、許靖よりも先に亡くなり、許欽の子である許游は尚書にまでなった話があります。

因みに、費禕亡き後の脅威の時代に蜀の成務を司った陳祗は、許靖の兄の外孫だと伝わっています。

尚、許靖は正史三国志の許、糜孫簡伊秦伝に許靖伝があり、下記の人物と共に収録されています。

許靖糜竺孫乾簡雍伊籍秦宓

馬磨きで生計を立てる

正史三国志の許靖伝によると、字は文休であり豫州汝南郡平輿県の出身だとあります。

許靖は若い頃から評判の人物であり、許劭と共に名が通っていたとあります。

因みに、許劭は曹操の事を「治世の能臣、乱世の奸雄」と人物鑑定した人です。

しかし、許靖と許劭は馬が合わず、許劭は郡の功曹となりますが、許靖を嫌い取り立てようとしませんでした。

許劭が許靖の何処を嫌っていたのかは不明ですが、これにより許靖は仕官する事が出来ず、馬磨きの生活を送ったとあります。

後に名士の代表格として各地で尊ばれる許靖も、若い頃は馬磨きを行い苦労していたという事なのでしょう。

因みに、蔣済の万機論によれば、許子将(許劭)の人物批評は不公平であり、樊子昭を高く持ち上げ、許文休(許靖)を不当に低く抑えていると述べています。

劉翊に抜擢される

潁川郡出身の劉翊が汝南太守となると、許靖を計吏に推挙し、さらに孝廉に推挙しました。

劉翊のお陰で許靖に仕官の道が開かれる事になります。

許靖は仕官するや出世コースに乗り、中央の尚書郎に任用され官吏採用を担当する事になりました。

当時の朝廷では汚職が蔓延しており、許靖は苦労した部分がある様に思います。

董卓政権

霊帝が没すると混乱があり大将軍の何進宦官に殺害され、董卓が実権を握りました。

董卓は許靖と周毖を吏部尚書に任命し、人事を担当させる事になります。

これらを考えると、董卓は許靖を信頼していたのでしょう。

董卓は許靖や周毖の要請に応じ荀爽、韓融、陳紀、韓馥劉岱孔伷張咨張邈ら名士を推挙し高官に取り立て、許靖自身は巴郡太守に昇進させようとした話があります。

しかし、許靖は巴郡には行かず、御史中丞に任命されました。

ここで問題が生じ許靖らが推挙した人物らが任地に到着すると、次々に董卓に対し反旗を翻しました。

これが袁紹曹操を中心に作られた反董卓連合であり、周毖は責任を問われ処刑されています。

周毖が処刑された事を知った許靖は、身の危険を感じ孔伷の元に逃亡する事にしました。

許靖としては自分らが推挙した孔伷であれば、匿ってくれると考えたのでしょう。

許靖の従弟である許瑒も孔伷と行動を共にしており、許靖は孔伷の元に避難すれば安全と考えた様に思います。

この時の許靖の心情を後年に上奏しており、次のような話が蜀記に残っています。

※正史三国志 許靖伝注釈蜀記

逆賊の仲間になって生きながらえるのは、心情からいって我慢する事は出来ない。

官職に拘り自分の身を危険に晒すのは、死んでも道義とは言えない。

私が念じるのは、古人が危機に及んで意識的に常道から外れ、非情の手段により自分の理想を成した事だ。

許靖の中にも、仁愛に人にも見えますが、激情も持ち合わせていたのでしょう。

孔伷の元に行くと、許靖を保護してくれましたが、この後に孔伷自身が亡くなってしまう不幸に見舞われました。

許靖は揚州刺史の陳温を頼る事になります。

しかし、陳温は袁術により攻撃を受け亡くなってしまいました。

王朗を頼る

陳温が亡くなると許靖は、呉郡都尉の許貢や会稽太守の王朗を頼る事にしました。

許靖が許貢や王朗を頼ったのは、過去に交流があり馴染の者だったからだとあります。

王朗は許靖を歓迎し、許靖は漸く安寧の地を手に入れたと思ったのかも知れません。

この時に、許靖は親戚などの縁者や故郷の人々を引き取り、慈しんだと伝わっています。

正史三国志によれば許靖が規律を作り生活の面倒を見たのは、全て仁愛の心から出たものだったと述べています。

許靖は身を落ち着ける事が出来れば、仁愛の情を持ち徳を発揮する人柄だったのでしょう。

この様な行動が許靖の名声を高める事になります。

交州に移る

許靖は江東にいましたが、袁術から兵を借りた孫策が江東制圧の為に兵を向けて来ます。

王朗は孫策と戦う道を選びますが、許靖は兵乱を避ける為に、交州に避難する事にしました。

交州に移動する時に、許靖は船の岸辺に座っており、許靖に同行する者達を先に船に乗せ、自分は一番最後に船に乗った話があります。

許靖の親戚などが皆が出発した後に、許靖も船に乗り交州を目指しました。

許靖の姿を見ていた者達は、その姿に感心し褒め称えています。

しかし、許靖の旅は苦難の連続であり、食料が不足し許靖に付き従った者達の多くが命を落としました。

許靖は北上し蒼梧郡から荊州に行こうとしますが、異民族に役所を奪われ荊州への道も閉ざされた状態だったわけです。

許靖は荊州に行くのを諦め、士燮が治める交趾に向かいました。

士燮に歓迎される

許靖は士燮が治める交趾を目指しますが、ここでも苦難の連続であり異民族の襲撃などで多くの者が命を落としています。

許靖と共に交趾まで辿り着く事が出来たのは、10人のうち1人か2人だったと伝わっており、旅の過酷さが分かります。

許靖は交州の交趾郡に到着すると交趾太守の士燮は、敬意を持ち手厚く歓迎しました。

この時に、袁覇の弟である袁徽も交州に避難しており、袁徽は許靖の徳を讃える手紙を荀彧に送っています。

許靖は交州でも徳を輝かせる事となります。

権力に屈しない

許靖を朝廷に推挙した者がおり、曹操張翔を交趾に派遣しました。

この時の張翔は傲慢であり、権力に物を言わせて無理やり許靖に忠誠を誓わせ様とします。

しかし、許靖は張翔に屈することなく、張翔の要請をきっぱりと断りました。

許靖は曹操に手紙を送り、ここに来るまでの経緯や自分の考えなどを伝えています。

尚、この時の許靖の手紙の内容は正史三国志の許靖伝に記述されており、紙面の多くを割いている状態です。

余談ですが、張翔は許靖の事を恨み、許靖が出した手紙を探し出し、全て川の中に投げ込んでしまったとも伝わっています。

益州に移る

劉璋は許靖の名声の高さからなのか、使者を派遣し許靖を招聘しました。

許靖の親族が益州にいた事もあり、許靖は劉璋の誘いを応諾し、許慈と共に益州に入る事になります。

劉璋は許靖を厚遇し巴郡・広漢太守と大抜擢しました。

この時に広漢郡出身の秦宓が、許靖に彭羕(ほうよう)を推挙した話があります。

ただし、彭羕は後に問題を起こし処刑されています。。

許靖は益州の張裔を高く評価し実務の才能があり、中国の鍾繇と似たような能力を持つと述べました。

張裔は劉璋の時代に孝廉に推挙される事になります。

因みに、荊州にいた宋忠は蜀郡太守の王商に手紙を送り許靖を褒め称え「あなたの指南役にするべき」とまで言っています。

尚、許靖もまた王商を高く評価し「中原にいたら王朗であっても、王商の上にはいけない」と述べました。

許靖と王商はお互いを認め合った仲でもあったのでしょう。

劉璋は建安16年(西暦211年)に益州の中心地でもある蜀郡太守に許靖を就ける事になります。

この辺りは、劉璋の許靖への評価の高さが分かるはずです。

劉備に仕える

劉璋は張魯と何度も戦っていますが、漢中を奪う事が出来ませんでした。

こうした中で曹操が漢中を狙っている話を聞き、張松らの勧めもあり荊州の劉備に助けを求める事になります。

しかし、劉備は張魯を討伐せず、兵を移して劉璋との戦いとなります。

劉備は各地で勝利し、劉璋が籠る成都を囲みました。

この時の成都城内に許靖もいたわけです。

許靖は劉璋では劉備を撃退する事が出来ないと判断したのか、城を抜け出し劉備軍に投降しようとしました。

許靖としてみれば、劉備軍が成都城内に乱入し、兵士らが暴れ回る前に劉備に降伏してしまいたかったのでしょう。

しかし、許靖は城壁を超える前に、劉璋の兵に捕まってしまいました。

劉璋は一般的には馬超の降伏が原因で戦意を失ったと考えられていますが、益州の中心地である蜀郡太守の許靖が逃げようとした事も精神的に痛かったはずです。

普通で考えれば許靖の脱走は許される事ではなく、見せしめの為に処刑されてもおかしくはありませんでしたが、劉璋は成都を包囲され危急に陥っていた事で、許靖を罰しませんでした。

後に簡雍と劉璋が会談し、共に城を出て降伏しています。

これにより許靖は命が助かる事になります。

劉備は許靖が城内から逃げようとした事を知り、不忠だと考えたのか許靖を軽く扱おうとしました。

しかし、法正は「許靖は虚名であるが名声が天下に鳴り響いている」と述べています。

許靖は今までに各地を渡り歩いていますが、何処でも厚遇されており、劉備だけが冷遇すれば天下の非難が集まると伝えました。

劉備は許靖の名声を利用しようと考え、左将軍長史として厚遇しています。

因みに、法正は評判が悪い人物であり、法正が許靖を庇う事で、法正自身の評判を上げようとしたとする説もある状態です。

正史三国志の先主伝には劉備が許靖を糜竺、簡雍らと共に賓客友人として扱ったとあります。

許靖のへ辞令

劉備は夏侯淵を破り漢中王になると、許靖を太傅としました。

尚、劉備が漢中王になる様に、推挙した人物の名前の一部が正史三国志に記載があり「左将軍長史・領鎮軍将軍の臣許靖」の名があります。

因みに、劉備を漢中王に推挙した事が、分かっている人材の一覧は下記の様になっています。

馬超許靖龐羲射援諸葛亮関羽
張飛黄忠頼恭法正李厳

劉備は後年に蜀漢の皇帝となりますが、許靖に対し次の様な辞令を出しています。

正史三国志 許靖伝より

「朕(劉備)は大業を奉じ万国の上に立つ事になった。

しかし、朝も夜も国家が安んずる事が出来ないのではないかと危惧している。

人民同士が睦むことなく、家族の五つの秩序(父・母・兄・弟・子の尊卑)が整っていない事から、其方(許靖)を司徒に任命する。

よって、慎んで五つの教え(義・慈・友・恭・孝)を普及させ寛容を基本とせよ。

君は善く務め特技を守り怠ることなく、朕の心にかなえ」

許靖は蜀で司徒となりました。

許靖が何処に行っても厚遇され、高位高官になった名士だと言う事が分かります。

因みに、許靖は劉備の子である劉永が魯王になる時や、劉理が梁王になる時の使者にもなっています。

許靖の人柄

正史三国志の許靖伝には許靖の人柄に関しても述べられています。

それによると、許靖は70歳を過ぎても人物を愛し後進を受け入れたとあります。

さらに、世俗を離れた議論を好み、丞相の諸葛亮を始め多くの者が許靖に敬意を表したとあります。

許靖は潁川の陳紀に兄事し、陳郡の袁渙、平原の華歆、東海の王朗らと親交があったと言います。

陳紀の子である陳羣や華歆、袁渙らは魏が建国されると大臣となり、許靖に手紙を送ったと記録されています。

彼らと許靖は敵国同士であっても、旧友だという事実は変わりなく、友誼は続いたのでしょう。

許靖という人は、危機に陥れば逃げてしまいますが、安全な場所に入れば徳を好む人であり、多くの人が安心して付き合えた部分がある様に思います。

許靖は策謀においては人並みかも知れませんが、人間性を評価され多くの人から敬慕されたのでしょう。

尚、許靖は章武二年(222年)に亡くなったとあり、世を去ったのは劉備が亡くなる前年であり、夷陵の戦いの決着が着いた年でもあります。

先主伝の記述によれば、許靖が亡くなったのは、劉備が陸遜に敗れた後と言う事になっています。

許靖は劉備軍が大敗し多くの将兵が亡くなり、ショックを受け亡くなってしまったのかも知れません。

許靖が日頃から目を掛けていたい人物も多く亡くなってしまったのかも知れません。

因みに、楊戯の季漢輔臣賛には、次の記述が存在します。

※季漢輔臣賛

司徒(許靖)は清らかな風格を有しており、善悪を判断していた。

人を見分けて愛し、高い名声は響き渡っていた。

許司徒を賛う

楊戯は許靖の人柄に合致した言葉を選んだと思いました。

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