王騎は、キングダムにおいては超人気キャラと言えます。
王騎は実在した人物です。
ただし、史記などには「王齮」と書かれていて漢字が若干ですが、違っていますが、明らかに王騎を指している人物だと言えるでしょう。
尚、お気づきの方もいるかと思いますが、桓騎と名前が同じ人物でもあります。
桓騎の方も史記では、「桓齮」と記載されています。
王騎がオカマっぽい所があったり、「コココ」と笑ったりするのは、史実にはありませんが実在した将軍と言う事は間違いないでしょう。
ちなみに、王騎は秦の六大将軍(白起、王齕、胡傷、司馬錯、摎、王騎)の生き残り的な人物としてキングダムでは描かれているわけです。
しかし、6大将軍の最年長と思われる司馬錯は、秦の恵文王の頃から仕えていて、紀元前280年以降は記録がありません。
王騎が初めて将軍として確認が出来るのが、紀元前257年なので23年間も隔たりがあるわけです。
それを考えると、史実では秦の6大将軍が全員が揃った事は無かったのではないかと思います。
さらに、残念に感じるかも知れませんが、秦の昭王の娘とされる王騎の召使いの女の子の摎(きょう)は、史実では普通の男性将軍であったと考えられます。
他にも、王騎や摎は龐煖(ほうけん)に討たれた事になっていますが、その様な事実はありません。
今回は、史記をベースにして史実の王騎の活躍を見ていきます。
尚、同じ六大将軍の王騎と王齕は同一人物説がありますが、そちらの方も紹介します。
ちなみに、同一人物説ですが、自分もその可能性が高いと思っています。
余談ですが、史実で考えれば王騎よりも、蒙驁(もうごう)の方が活躍している様に見えるのは、私だけでしょうか?
史実の王騎を見ると、残念なくらい活躍がないようにも見受けられるわけです。
趙の都・邯鄲を包囲
尚、長平の戦いは、趙軍は最初は廉頗を将軍としていましたが、更迭されてしまい趙括が将軍となります。
これを見た秦も王齕から白起へと将軍を変更しました。
これにより秦は、趙に大勝しているわけです。
范雎が白起の功績を挙げすぎているのを危険視して、進軍を停止させて趙と講和しています。
しかし、その後に秦は邯鄲を攻めたわけですが、邯鄲を包囲した戦いに王騎が将軍として参加した記録が史記の始皇本紀にあります。
これが紀元前257年の事です。
最初は、王陵を将としていましたが、王騎に将を変えた説などもあります。
しかし、趙の平原君が使者として楚に行き、食客である毛遂の活躍により楚から援軍を引き出す事に成功しました。
楚の考烈王は、宰相である春申君を大将に任命して、趙の援軍として向かわせています。
さらに、魏の信陵君が晋鄙(しんぴ)の兵権を奪い援軍として駆けつけたわけです。
他にも、趙の兵士である李同は、平原君に決死隊を進言して、休むことなく秦軍に戦いを挑む事になります。
白起には、「平原君は全財産を投じて、民を励まし守りを固めている。上下合致していて、とても隙がないから邯鄲を陥落させる事は出来ない」とも言わしめたほどです。
負ければ滅亡の決死の覚悟である趙軍と、邯鄲において攻防戦を行ったのが王騎となります。
王騎は趙都である邯鄲を落城寸前まで苦しめますが、范雎が任命した援軍の鄭安平が破れ2万の兵士が降伏するなどもあり、結局は破れています。
尚、戦いの方では、魏軍を率いた戦国四君の一人である信陵君の活躍が大きかったようです。
ちなみに、この年の秦の領土を大きく広げた白起は、秦の昭王により自刃させられています。
これにより秦の領土拡大は、一時期に比べると緩やかになります。
王騎では、白起の代わりは史実では、務まらなかったのでしょう。
残念に感じるかも知れませんが、秦の六将と言っても、戦績で考えれば白起一人だけが飛びぬけている状態です。
韓の上党を攻める
史記の始皇本紀によると、王騎は紀元前247年に韓の上党を攻めて太原郡を設置した記述があります。
王騎が邯鄲を攻めてから10年後になるわけですが、この10年の間に王騎が何をしていたのかは記録がなく分からない状態です。
太原郡を設置したと言うと飛躍の年だと感じるかも知れません。
しかし、この年に魏の信陵君が合従軍(魏・趙・韓・楚・燕)を率いて秦を攻めた年でもあります。
王騎にとってみれば、邯鄲で打ち破られた因縁の相手です。
蒙驁が総大将を努めて、秦軍と戦いますが、黄河の外で破れたと記述があります。
函谷関まで、合従軍に追い詰められたと史記には書かれています。
後に述べますが、王騎と王齕は同一人物説があり、同一人物であれば王騎は信陵君と10年後に再度戦い破れた事になります。
王騎にとって信陵君は、大きな壁となって立ちはだかったと言えるのかも知れません。
この時までに秦王は、昭王から孝文王に代替わりし、荘襄王が即位し、亡くなると秦王政が即位したわけです。
これを考えると王騎は秦の昭王、孝文王、荘襄王、秦王政の四代に仕えた事になるでしょう。
嬴政に将軍に任じられる
史記の始皇本紀によれば、嬴政(秦王政)が即位すると、蒙驁、麃公(ひょうこう)と共に将軍に任ぜられたとあります。
前年に蒙驁は、信陵君に敗れているにも関わらず、将軍に任命されたと言う事は、敗戦の罪を問われなかったのかも知れません。
それか、荘襄王が死亡し嬴政が即位した事で恩赦が出された可能性もあるでしょう。
これを見ると王騎も嬴政の代になっても信任されていた事が分かります。
荘襄王の時代や、嬴政が即位した初期は、宰相である呂不韋の時代でもあります。
呂不韋が王騎を気に入っていた可能性もある事でしょう。
王騎の最後
王騎の最後ですが、始皇本紀には嬴政が即位して3年目である紀元前244年の死去したとあります。
この年は、蒙驁が韓や魏を攻めて戦果を挙げている年でもあります。
しかし、別の記録では秦で大飢饉が起きたと言う話もあるわけです。
それを考えると、大飢饉と同時に疫病が流行り王騎も死亡した可能性もあるのかも知れません。
尚、キングダムのように龐煖に殺されたとか、そういう事はないです。
しかし、キングダムでは王騎は、副官である騰(とう)とのやり取りや、信に矛が受け継がれる所もドラマチックに描かれています。
他にも、蒙武の課題の話しや「武に生き 一時代を築き、さらに武に死ねることは本望」の最後のシーンは心を揺さぶられるものがありました。
史実にはないわけですが、原泰久先生はキングダムの中で王騎の死を壮大に描いてくれたわけです。
多くの人が感動したと思いますし、このシーンを見て何とも思わない人は、感性が貧しいのでは?と思ってしまう程でした。
何度見ても泣けるシーンだと感じています。
王騎と王齕は同一人物だった?
王騎と王齕が同一人物だったと言う説があります。
私も実際に、同一人物ではなかったのかな?と思っているほどです。
王騎は、始皇本紀には登場しますが、歴代の秦の王様を記録した秦本紀には全く登場しません。
逆に、王齕の方は秦本紀には登場しますが、始皇本紀には一切登場しないわけです。
さらに、史記では王騎は、王齮と記載があり「齮」の字と王齕の「齕」の字の編は同じとなっていますし、旁(つくり)の部分も似ているわけです。
他にも功績の部分でも、王騎も王齕も邯鄲を囲んだ記録があります。
王騎の上党を取った記録が、別の部分の記述では王齕の事として史記には書かれていたりします。
それを考えると、王騎と王齕が同一人物でもおかしくはないかな?とも感じてしまうわけです。
先ほどの、王騎の最後で感動したと言っておいて、申し訳ないのですが、史実の王騎を見ると全然活躍していません。
しかし、王齕の功績をプラス出来るのであれば、長平の戦いで白起の副将になったのは、王騎だという事になります。
邯鄲の戦いが終った後に、退却はしたが魏を攻めて2万人を討ち取った話なども王騎の手柄となります。
張唐と共に寧新中を奪取した功績なども盛る事が出来るわけです。
始皇本紀の功績だけを見ると、王騎は六大将軍に入れるのも恥ずかしい人物ですが、王齕と同一人物だとすれば、それなりの手柄は挙げている事になります。
これに関しては、当時の秦の人間や司馬遷でないと分かりませんが、自分は同一人物説は十分にあり得ると思っている次第です。
むしろ、王騎ファンととしては、同一人物であって欲しいなと感じるのではないでしょうか?
キングダムで、あれだけカッコよくて、史実の功績がほとんどないのでは泣けてきてしまいます・・・。
王騎の部下になりたい
以前に、西周時代や春秋戦国時代の初期に活躍した衛の武公の様な上司が欲しいという話をしました。
しかし、王騎の部下だったら、なりたいような気もするわけです。
もちろん、史実の王騎ではなく、キングダムの中での王騎です。
王騎は、自分の事だけではなく、周りの事もよく見ていますし、最後に信の事を「才能がある」と認めたりするのはよかったと思いました。
蒙武の課題に対しても答えを言うわけではなく、「蒙武、あなたの課題は明白ですそれはイチイチ私が言う必要もないでしょう。」と語る部分もカッコよく感じます。
王騎は、普段がオカマ野郎みたいな所があるだけに、ああいう姿を見せられてしまうとギャップのせいか、感動が大きかったのでしょう。
他人をよく観察すると言う事は、大事だなと感じた次第です。
自分も含めて人間って、「自分、自分」になってしまいがちですが、相手の事をよく見て力が発揮できるような環境を整える事も大事だと思いました。
ただし、なりたいと思っても切羽詰まってくると、そういう行動がとれないわけです。
しかし、自分も王騎のような上司になりたいなと思いました・・・。
ちなみに、直ぐにテンパってしまう自分は、まだまだ王騎は遠いと思いますが・・・涙
尚、余談ですが、仕事が出来ても織田信長や豊臣秀吉のようなパワハラ系の部下にはなりたくありません。
現実社会では、そういう上司って多いんですけどね・・・。
王騎の最後の言葉の解説(おまけ)
これは追記のおまけの記事です。
上の記事と若干被ってしまう部分がある事をお許しください。
王騎の最後を飾る言葉を幾つかピックアップしてみました。
「蒙武、あなたの課題は明白ですそれはイチイチ私が言う必要もないでしょう。」
王騎は、最後の場面で蒙武に対して、課題を伝える事はしませんでした。
これは課題と言うのは、伝えるだけが能ではないと言う事を指すのでしょう。
蒙武に関しては、既に出来ていないだけで本人は気が付いているはずだと言う事を、王騎は知っていたはずです。
蒙武というのは、蒙恬や蒙毅などの後に秦の重臣となっていく人物たちの父親でもあります。
さらに、キングダムの中では、龐煖を抜けば汗明をもしのぎ、最高の武を持った人材です。
そういう飛びぬけて最高の力を持った人物に対しても、足りないものを見極められている所は凄いと感じました。
上記の言葉は、蒙武の成長を一押しした言葉だと感じています。
「 いつの時代も最強と称された武将たちはさらなる強者の出現で敗れます」
これは、スポーツの世界ではよくある事だと思います。
世界の三大スポーツ選手と呼ばれた、モハメドアリやペレ、マイケルジョーダンでも年齢の衰えなどで若手などに敗れ去ったわけです。
しかし、歴史を見ると名将や名臣などは、出処進退を誤ってしまい敵に敗れる以前に、王様に疑われて処刑される例も少なくありません。
春秋戦国時代であっても、越の文種、楚の呉起、秦の商鞅、趙の李牧、秦の李斯、蒙恬、蒙毅など枚挙いとまがないわけです。
それを考えると、秦の蔡沢は出処進退をよく考えていたと言えるでしょう。
さらなる強敵が現れる以前に、王様により粛清されてしまうのは残念に感じてしまいます。
ただし、現代の世で言えば技術革新などは、この言葉が当てはまるのかも知れません。
さらに、良い商品が誕生して、以前の商品は売れなくなってしまったりするわけです。
我々一般の人々は、技術革新の例として、この言葉を受け取った方がよいかなと思いました。
素質はありますよ。信
王騎は、信(李信)に対して、素質はあると褒めているわけです。
社会人になると怒られる事はあっても、褒められる事は、ほとんどないのではないでしょうか?
才能を認めていたとしても、言葉に出してくれる人は少ないものです。
普段は照れくさくて、人を褒める事は出来ないかも知れませんが、どこかのタイミングで褒めてみる事も大事なのかも知れません。
ちなみに、自分はサラリーマンをやっていた事もありますが、特に褒められたことは無いような気がします。
余程、無能だった可能性もありますが、たまには褒められて見たいとも感じました・・。
こういうことを言うと、「あいつは承認欲求の塊だ」とか言われてしまいそうなんですけどね。
それにしても、キングダムの王騎は偉大な人物だったと感じています。
また、記事の継ぎ足しをしたいなとも考えてしまったほどです。