劉焉は正史三国志に伝があり、益州に独立政権を築いた人物です。
劉焉の伝は劉璋と共に、蜀書の劉備や劉禅の前にあり、劉備政権誕生前の益州の主と陳寿は考えたのでしょう。
劉焉を見ていると、軍隊を率いての派手な戦いはありませんが「剛腕政治家」だと思える部分が、多く見受けられます。
劉焉は野望も秘めていた様ではありますが、最後は一族の死などにより気落ちし亡くなってしまった部分もある様に感じました。
今回は後漢末期に、益州で独立政権を築いた劉焉を解説します。
尚、三国志演義で劉備が関羽、張飛と旗揚げし、幽州刺史の劉焉にあった話がありますが、劉焉が幽州刺史になった記録はありません。
劉備が劉焉と面会した話は、三国志演義の創作だと言えるでしょう。
劉焉の出自
正史三国志によれば劉焉の字は君郎であり、荊州江夏郡竟陵県の出身だとあります。
劉焉の家柄はよく前漢の魯の恭王の子孫だと伝わっています。
劉焉の家は後漢の章帝の時代に、竟陵に国変えされ分家として居を定めたとあります。
劉焉は王族の名士であり若くして州や郡の役所に出仕し、中郎に任じられたとありますが、祝公が亡くなり、喪に服すと宣言し官を去りました。
正史三国志に祝公に関する記録がなく誰なのか不明ですが、裴松之は司徒の祝恬の事ではないか?と述べています。
劉焉は陽城山に移り住み、学問を学び人に教えていたとあります。
これを見るに劉焉は隠遁生活の様な事をしたとも考えられ、後の剛腕ぶりは影を落とす事になります。
しかし、劉焉は賢良方正に推挙され司徒の幕客となりました。
さらに、劉焉は洛陽令、冀州刺史、南陽太守、宗正、太常を歴任する事になります。
劉焉の赴任した地域は中原の豊かな地でもあり、多くの野心が蠢いており、後の行動を考えるに劉焉は地方から自分の政権を築きたいと思ったのかも知れません。
州牧を設置する様に進言
劉焉が活動していた時期は、後漢王朝末期である霊帝の時代です。
この時代は気候変動などもあり、食料が不足し各地で流民が出るなど、混乱の時代でもありました。
劉焉は世の混乱を避けたいと考えていた様で、次の様に進言しています。
※正史三国志 劉焉伝より
劉焉「刺史や太守らは賄賂で官職に就いていますし、民を虐げております。
その結果が朝廷への離反を招く事になるのです。
清廉で名が通っている者を選出し、地方の長官とし国内を安定させるのが良策となります」
劉焉は後漢王朝の中枢にはいましたが、張角が引き起こした黄巾の乱もあり、洛陽は危険だと考え地方に避難したいと思ったのでしょう。
さらに、劉焉は刺史は監察官であり軍事権がなく、地方にいっても豪族たちを抑える事が出来ない事は明白であり、軍事権を有する「牧」の設置を願ったわけです。
天子の気
劉焉は中華の最南端にある交阯に行く事を願いました。
しかし、劉焉の赴任先が中々決まらず、その間に侍中の董扶が「益州に天子の気がある」と告げる事になります。
劉焉は董扶の言葉を聞くと、赴任先を益州に変える様に願い出る事になります。
董扶の言葉で、劉焉は益州に行き先を変えたのであり、劉焉に天子となる野望があった事は明白です。
ただし、益州で天子になったのは劉焉でも子の劉璋でもなく、劉備や劉禅でした。
それでも、三国志で蜀の国が誕生した事を考えれば、董扶の予言も的中したと言えるでしょう。
当時の益州刺史は郤倹の評判は最悪であり、并州では張壱が殺害され、梁州でも耿鄙が命を落す事態に発展しています。
こうした世の中の混乱も後押しし、劉焉が益州に向かう事が決定しました。
劉焉が益州に赴く
劉焉は益州に向かいますが、役目は益州刺史の郤倹を捕え取り調べを行う事でした。
この時に劉焉は益州牧となり陽城侯に封じられています。
劉焉に董扶や趙韙らも付き従い、益州に向かう事になります。
ただし、漢霊帝紀によれば、劉焉は益州に向かいますが、道が通じていなかった事で、益州の東境に留まり益州に入る事が出来ませんでした。
この時に益州では馬相や趙祇らが、黄巾を名乗り大規模な反乱を起こしていたわけです。
馬相と趙祇の軍は李升を討ち取るだけに飽き足らず、益州刺史の郤倹までをも殺害しました。
劉焉は郤倹を取り締まるべく益州に派遣されたはずが、劉焉が到着する前に、馬相ら反乱軍が郤倹を討ち取ってしまったわけです。
さらに、馬相は天子を名乗りますが、益州従事の賈龍が馬相の軍を崩壊させ益州に平和をもたらしました。
劉焉が益州に到着する前に、乱は既に鎮定されたと言えるでしょう。
郤倹もいなくなり馬相の乱も鎮圧された事を考えると、劉焉の役目は既に達成されていると見る事も出来ますが、劉焉は益州に入る事になります。
劉焉は綿竹に役所を設置しました。
続漢書によればこの時期に幽州牧に劉虞がなり、劉焉が益州牧、劉表が荊州牧になったと記録されています。
ただし、裴松之は劉表が荊州の牧になったのは、反董卓連合が結成され北上していた孫堅が荊州刺史の王叡を殺害した後であり、劉焉が益州牧になった時よりも少し遅れると述べています。
中央では大将軍の何進が殺害され激怒した袁紹、袁術が宦官を皆殺し、董卓が実権を握るなど荒れていましたが、劉焉は朝廷の混乱をよそに益州での地盤強化に努める事になります。
独立に向けて動き出す
劉焉は益州に到着し政務を行うと、寛容と恩恵をもって統治した話があります。
それでいて、劉焉は後漢王朝からの独立を画策したわけです。
劉焉は宗教団体である五斗米道の張魯の母親に目を付ける事になります。
張魯の母親は巫術を使った話があり、見た目も年齢に比べると、かなり若々しかった話があります。
張魯の母親は劉焉の家を行き来する間柄となりました。
一説によると張魯の母親と劉焉は男女の仲になっていたとも考えられています。
張魯の漢中制圧
劉焉は張魯を督義司馬に任命しました。
張魯は劉焉の命令で漢中を制圧する事になります。
さらに、劉焉は張魯に谷に掛かった橋を壊させ、漢の使者を殺害する様に命じました。
それでいて、劉焉は後漢の朝廷には、次の様な報告を入れています。
※正史三国志 劉焉伝より
米賊(五斗米道)の信者たちが道路を遮断してしまい都と連絡を取る事が出来なくなってしまいました。
劉焉は発言はかなり惚けていますが、五斗米道のせいで都と連絡が取れなくなったと述べたわけです。
もちろん、劉焉は独立を考えており、自作自演のだという事は言うまでもないでしょう。
劉焉はこの時から後漢王朝への朝貢も放棄したはずです。
尚、劉焉が派遣した張魯は、漢中で善政を布き、215年に曹操が漢中を攻め取るまで支配する事になります。
州内の粛清
劉焉は益州の基盤を盤石にする上で、力を持った豪族などは目障りな存在でした。
正史三国志には次の記述があります。
※正史三国志 劉焉伝より
理由をつけて州内の豪族である王咸や李権など十数人を殺害し、自分の権力を誇示した。
この辺りの劉焉は剛腕ぶりを発揮したと言えるでしょう。
王粲の英雄記によれば犍為太守の任岐、従事の陳超らは劉焉の剛腕ぶりに危機感を感じたのか、挙兵し劉焉を攻撃する事になります。
しかし、劉焉は任岐、陳超らを破りました。
この時の劉焉は東州兵なる直属の軍隊を持っていた事で、豪族たちの軍を撃破する事に成功しています。
後漢の朝廷を牛耳る董卓は、趙謙に命じて劉焉を討伐させようとした話があります。
しかし、趙謙が劉焉と戦ったとは書かれておらず、どうなったのかは不明です。
結果的に趙謙は益州まで到達出来ず、劉焉とは直接は戦わなかった様に感じました。
さらに、劉焉は馬相の乱の最大の功労者である賈龍には、精鋭部隊である青羌を使い戦いに勝利しています。
賈龍や任岐は劉焉に討たれました。
劉焉は州内の浄化を行い大きく権力を高める事に成功したわけです。
劉表に警戒される
劉焉は益州で強大な権力を確立させる事に成功し、次第に気分が大きくなっていきます。
正史三国志によれば劉焉は乗輿や車具を千乗以上も作ったとあります。
これらは劉焉の権勢の強さを表していると言えるでしょう。
こうした中で荊州牧の劉表は「劉焉は子夏が孔子の死後に西河で聖人の論を真似たのと似ている」と朝廷に上表しました。
劉表は「劉焉には野心があるのではないか」と暗に報告した事になるはずです。
劉焉は都と連絡を取れない事をいい事に、やりたい放題やっていると劉表は言いたかったのかも知れません。
ただし、劉表自身も天子の儀式を行い韓嵩に諫言されている事実もあり、後漢王朝は既に全国の統治権を失い、カオスな時代に突入していたとも言えるでしょう
劉璋が益州に入る
劉焉は中央から益州に来た人物であり、三男の劉瑁だけが付き従って益州に入りました。
しかし、長男の劉範、次男の劉誕、四男の劉璋は、長安にいる献帝に仕えていたわけです。
この時代になると董卓は王允の策により呂布に殺害され、王允も董卓の残党である李傕と郭汜により命を落しています。
長安には李傕や郭汜がおり、実権を握っていましたが、正史三国志によれば献帝は劉焉を窘めようと考え、劉璋を劉焉の元に派遣した話があります。
献帝や後漢王朝の朝廷にとって、劉焉の行動は問題だと考えていたのでしょう。
しかし、劉焉は劉璋を長安に帰そうとはしませんでした。
劉焉は独立を考えているのであり、劉璋をわざわざ都に帰す必要はないと思ったはずです。
尚、正史三国志の注釈・典略では劉焉は病気を理由に、劉璋を呼び寄せ、劉璋も上表し益州に向かった事になっています。
正史三国志と典略で劉璋が益州に行った理由に差異はありますが、劉璋が益州から長安に帰らなかった事は間違いなさそうです。
馬騰と共謀
西暦194年に征西将軍の馬騰は郿に駐屯していましたが、朝廷に対し反旗を翻す事になります。
劉焉の長子である劉範は馬騰と共謀し、長安を急襲しようとしました。
しかし、この話が漏洩した事で、劉範は槐里に逃亡しますが、結局は殺害されています。
さらに、馬騰も敗北し涼州に逃げ延びました。
朝廷にいた劉焉の次男・劉誕は、父親と兄が反逆を企てた事で処刑されています。
ただし、ここで劉焉と親交があった龐羲は長安におり機転を利かせ、劉焉の孫たちを連れて益州に避難しました。
龐羲に連れられた劉焉の孫の中に、劉循や劉闡も含まれてていたのではないか?と考えられています。
ただし、劉焉は子供二人が一度に亡くなってしまった事で、大きく気落ちしたはずです。
劉焉の最後
劉焉は子供二人が一度に亡くなってしまい、大きく気落ちした事でしょう。
さらに、劉焉は落雷による火災で城郭は焼け落ち、自慢の車具も灰となってしまいました。
この時の火災はかなり大きかった様で、民家にまで被害が及んだとあります。
これらは現代で言えば自然現象でしかありませんが、劉焉としては「天命は自分にはない」と悟ったのかも知れません。
劉焉は綿竹が焼けてしまった事で、本拠地を成都に移しました。
しかし、亡くなってしまった子供たちの悲しみや災害により気を病んでしまい病気になってしまいます。
劉焉の背中に悪瘍が出来てしまい回復する事はなく、子供たちの後を追う様に亡くなりました。
劉範、劉誕の死や落雷は劉焉にとっては、かなりのショックだったのでしょう。
尚、劉焉の子には三男の劉瑁と四男の劉璋がいましたが、趙韙の意見により劉璋が後継者となりました。
また、後漢王朝の朝廷でも劉璋と益州牧、趙韙を征東中郎将に任命し、劉表を攻撃する様に命じています。
この辺りは英雄記に詳しく書かれており、劉焉が亡くなった時に、朝廷では扈瑁を漢中に派遣し益州刺史にしようとした話があります。
益州の劉闔、沈弥、婁発、甘寧らが劉璋に反旗を翻しましたが、敗れて荊州に逃亡しました。
後に呉で名将として活躍する甘寧は劉焉の死後に反旗を翻し、益州を出たとも言えるでしょう。
劉璋は趙韙に命じて荊州を攻撃させる為に、軍を動かしたとあります。
結果は書かれていませんが、劉表はその後も荊州で活動を続けており、趙韙は益州に引き返したと言えそうです。
劉焉は剛腕ぶりを発揮し多くの益州豪族の力を削ぐ政策をした事で、死後に混乱が起こってしまったとする見解もあります。
尚、正史三国志の著者である陳寿は、劉焉の事を「董扶の言葉を信じ天子を気取るのは、判断力が無さすぎる」と批判の言葉を述べています。
因みに、劉焉は三男の劉瑁には高貴な相があるとされる呉懿の妹を娶らせています。
この辺りも劉焉の野望の片鱗と見る事も出来るはずです。
劉焉は短期間で益州に独立勢力を築いた事を考えると、政治力や策謀など能力はかなり高かったと感じました。