新鄭は韓の首都であり、漫画キングダムでは無血開城した事になっています。
キングダムでは英呈平原の戦いや東砂平原の戦いで、韓将の洛亜完が敗れました。
ここで騰は韓の公主の寧姫に戦場に凄惨さを見せています。
最終的に韓王安は首都である新鄭を無血開城させ、韓は滅亡しました。
キングダムでは韓の新鄭は無血開城して、韓攻略戦が終わりましたが、史実でも韓は新鄭を無血開城させ滅亡したのか調べてみました。
史記の記述
史記の韓の滅亡の記述を見てみたいと思います。
※史記韓世家より
韓王安の9年。秦は王安を捕虜とし、悉くその地を手にいれ潁川郡とした。
こうして韓は遂に滅亡した。
史記の韓世家の記述を見ると、韓安王の9年(紀元前230年)に、韓王安が捕虜になって韓が滅亡した事は書かれていますが、新鄭が無血開城したとは書かれていません。
史記は韓の滅亡に関しては、秦側の記録もあります。
※史記秦本紀より
内史騰が韓を攻撃し韓王安を捕虜とし、悉く領地を取り、潁川郡を設置した。
史記の秦本紀を見ると、内史騰が韓を攻撃した事になっており、無血開城と言うよりは、城攻めにより韓の首都である新鄭を陥落させた様にも見受けられます。
ただし、秦本紀も簡略な記述しかなく、詳細は不明であり、新鄭が無血開城したのかは分からないとしか言いようがありません。
新鄭が韓の首都になった経緯
戦国時代の初期に新鄭は陥落しており、その時の記述と合わせて無血開城を考えてみました。
韓の首都である新鄭ですが、春秋時代は鄭の首都でした。
鄭は大国である晋と楚に挟まれながらも、新鄭を固く守り両面外交を行うなど生き残ってきた国です。
新鄭は交通の要衝としても発展しており、中原の中でも大都市だったと言えるでしょう。
鄭は紀元前375年に韓に滅ぼされてしまいますが、この時の戦力差が下記のようなものとなっています。
(画像:YouTube)
紀元前375年の段階を見ると、韓は明らかに330年の段階の秦よりも弱い事が分かりはずです。
弱い韓でも滅ぼせた鄭が、強い秦に滅ぼされないのは無理があると感じました。
新鄭が幾ら中原の大都市にあるからと言って、あれだけの戦力差があれば、野戦を行うのは不可能だと感じました。
やはり、英呈平原の戦いは無かったと考えるべきでしょう。
さらに言えば、紀元前230年よりも10年以上前から秦は韓を滅ぼそうと思えば、いつでも滅ぼせる状態だったはずです。
長平の戦いの前後で韓は上党などの北部の地を全て失っており、新鄭及び南陽の付近しか領地がありませんでした。
しかし、秦は韓を滅ぼしてしまうと、戦国七雄の他の国が恐れ合従の盟約を結ぶと考え、新鄭への攻撃を控えていた様にも感じています。
秦は趙の攻略に入りますが、李牧に宜安の戦いや番吾の戦いに敗れ、撤退しました。
史記には李斯が「韓を滅ぼす様に」と秦王政に進言した記録があり、韓を滅ぼして諸侯を畏れさせ、秦への威信回復を狙った様に思います。
新鄭の無血開城はあり得る話なのか
新鄭の無血開城ですが、個人的には充分にあり得ると考えています。
南陽の無血開城の記事でも紹介しましたが、秦と韓では既に20倍以上の国力の差があるわけです。
この状態で韓が新鄭に籠城したとしても、結果は見えているのではないでしょうか。
そうなると韓は独自で秦を追い払う事は難しく、援軍が必要なはずです。
韓と隣接している魏ですが、新鄭が陥落する1年前に、次の記述が存在しています。
※史記始皇本紀より
魏が土地を秦に献じ、秦はそこに麗邑を設置した。
新鄭が陥落する前年である紀元前231年に、魏は土地を秦に割譲しています。
これは魏が連衡を選択した結果であり「秦には逆らわない」としたのではないでしょうか。
つまり、魏は秦に服従しており、韓へ援軍を派遣しない方針だったはずです。
既に韓とは領地が繋がっていませんが、趙が援軍を送ってくる事も考えられます。
しかし、史記には次の記述があります。
※史記趙世家より
幽穆王の五年(紀元前231年)。代で大地震があった。
六年(紀元前230年)大飢饉があった。
趙は韓の滅亡と重なるかの様に、天変地異があり領土も接していない韓の新鄭に、援軍を送るのは困難だったのではないでしょうか。
仮に趙が韓に援軍を送ったとしても、数はかなり少なかったはずです。
楚に関しては楚の幽王の時代であり、李園が権力を握っていましたが、2年後に政変があり、負芻に楚王が変わっています。
政局が安定しない楚でも、韓の新鄭に援軍を送るのは難しかった事でしょう。
燕は遠すぎますし、斉は不気味な程に動かない国であり、韓は独力で秦と戦う以外に道はなかったはずです。
しかし、当然ながら秦と韓では国力が違い過ぎており、韓王安が新鄭の無血開城を決断してもおかしくはないでしょう。
こうした理由から、新鄭の無血開城は史実でも十分にあり得ると感じました。