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孫臏(そんぴん)は孫子の一人にも数えられる天才兵法家

2022年9月15日

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宮下悠史

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名前孫臏(そんぴん)
生没年不明
時代春秋戦国時代
主君斉の威王
年表紀元前354年 桂陵の戦い
紀元前342年 馬陵の戦い

孫臏は史記に詳しく記述がある人物であり、龐涓との戦いはドラマチックの描かれています。

史記によれば孫臏はに仕えていた龐涓に呼ばれますが、そこで足切りの刑に処されてしまいました。

尚、孫臏の「臏」は名前ではなく足切りの刑である「臏刑」から来ているとされており、孫臏の本当の名前はよく分かっていません。

後に孫臏は魏を脱出し東方のに仕えますが、軍略を語り斉の威王の信任を得ました。

孫臏のライバルである龐涓は魏の将軍として兵を率いて戦いますが、いずれも孫臏の策の前に敗れ去っています。

孫臏は龐涓との桂陵の戦い馬陵の戦いといずれにおいても勝利しますが、それ以外の戦いに出陣した記録もなく謎の人物でもあります。

馬陵の戦いの後には、何をしていたのかもよく分からない状態です。

因みに、史記では孫子呉起列伝に伝が立てられており、もう一人の孫子である孫武や呉子で有名な呉起と共に紹介されています。

昔は孫子の兵法書を書いたのは孫武なのか孫臏なのか分からない状態であり、斉孫氏と呼ばれている時代もありました。

しかし、1972年に銀雀山漢墓から「孫臏兵法」なる竹簡が見つかった事で、孫子の兵法書は孫武が著し、孫臏は孫臏兵法を著した事がはっきりとしました。

尚、銀雀山漢墓からは孫臏兵法だけではなく、六韜や尉繚子なども発見されており、話題になっています。

孫武の子孫

史記の孫子呉起列伝によれば、孫臏は阿と鄄の付近で生まれたとあります。

さらに、孫臏は孫武の子孫だと記録されています。

孫武は南方の呉に仕え闔閭の時代に逸話が見られますが、謎が多く子孫の孫臏がにいる事から、呉に仕えた後に斉に戻ったのではないか?とも言われています。

孫臏と龐涓は共に兵法を学んだとする記述がありますが、孫臏が兵法の大家である孫武の子孫である事から、孫臏の家は兵法を教えている塾の様な所であり、そこに龐涓が入塾したのではないか?と考える人もいます。

ただし、別説としては孫臏と龐涓の師は鬼谷子だとする話もあり、どれが本当なのかは不明です。

孫龐演義などでは孫臏と龐涓の師が鬼谷子になっていますが、これらは創作であり真実ではないと言う専門家もいます。

因みに、鬼谷子は合従連衡の元祖となった蘇秦と張儀の師でもありますが、謎の多い人物でもあります。

司馬遷が書いた史記の記録を重視するのであれば、孫臏と龐涓は若かりし頃に、共に兵法を学んだ仲だったのでしょう。

しかし、孫臏と龐涓が学友だった事が、孫臏の不幸を招く事になります。

足を失う

龐涓は後に魏の恵王に仕える事になります。

当時は戦国七雄の中でが最強国であり、最も強勢を誇っていたわけです。

しかし、史記によれば龐涓は能力で孫臏に劣っていると自負しており、早い段階で始末しておいた方がよいと考えました。

龐涓は孫臏を魏に招くと謀略を使い陥れ、孫臏は「臏刑」に処され両足を失う事になります。

孫臏は両足を失ったと書かれていますが、足を切断されたわけではなく、筋を切られてしまい歩けなくなってしまったのが実情に近いようです。

さらに、孫臏は額に入れ墨をされてしまい、この世から抹殺された様な存在になってしまいます。

古代中国を見ると足を失った人物として和氏の璧で有名な卞和がおり、額に入れ墨を入れられた人物としては楚漢戦争などで活躍した黥布がいます。

孫臏の場合は両足は失いましたが、牢に入られたり自由を完全に奪われたわけではなかった様であり、魏からの脱出を試みる事になります。

両足を失った位では、孫臏の心が折れる事は無かったのでしょう。

この事件は孫臏の精神力の高さを知る逸話でもあります。

斉に入る

孫臏の元にの使者がやって来るとする話が耳に入りました。

孫臏は弟子を斉の使者の元に派遣したのか、斉の使者と面会する事になります。

ここで斉の使者は孫臏の能力を高く評価し、密かに斉に連れ出したわけです。

を脱出した事が、孫臏の転機となります。

斉では田忌が孫臏の能力や人柄を高く評価し、賓客として待遇しました。

後に、孫臏の能力は斉で発揮される事になります。

ギャンブルで勝つ方法

田忌は賭け事を好み、公子らと競馬の様なギャンブルをしていました。

ここで孫臏は馬には上・中・下の強さはあるが、田忌やの諸公子の馬の速度は大して変わらない事に気が付きます。

孫臏は田忌に「馬を使った賭け事で勝たせる」と宣言しました。

田忌は孫臏の能力を高く評価しており、斉の威王や諸公子に千金を掛けた大規模なギャンブルを提案する事になります。

孫臏は田忌に、次の図の様に提案しました。

田忌対戦相手
上の馬中の馬
中の馬下の馬
下の馬上の馬

孫臏は田忌の上の馬を使い、相手の中の馬に勝負を挑ませ、田忌の中の馬を使い、相手の下の馬と戦わせ、田忌の下の馬を使い、相手の上の馬に戦いを挑ませたわけです。

田忌が孫臏の言った通りにすると、次の様な結果となります。

田忌対戦相手勝敗
上の馬中の馬勝ち
中の馬下の馬勝ち
下の馬上の馬負け

田忌は下の馬を使った勝負では敗れましたが、上の馬と中の馬では勝利し2勝1敗で勝ちとなり千金を得る事が出来たわけです。

賭け事の話をみるに、孫臏は自分の存在をアピールする事が出来ると考えたのでしょう。

孫臏が見せた最初の兵法でもあります。

田忌は孫臏の事を益々信頼し、斉の威王に推挙しました。

斉の威王は孫臏と問答を行うと能力の高さに驚き、斉の威王は孫臏を自らの師として仰いだわけです。

これにより、孫臏の発言力はで大きくなり、斉は躍進の為の原動力を得たとも言えます。

孫臏は斉では軍事改革を行ったとも言われています。

桂陵の戦い

後に魏の恵王は龐涓を将軍に任命し、の首都・邯鄲を攻撃させました。

趙の成侯は危機に陥り、に援軍を要請し使者を派遣します。

斉では段干朋と鄒忌の間で意見の食い違いはありましたが、斉の威王は趙を救う決断をしました。

斉の威王は孫臏を将軍に任命し、趙への援軍としようとしますが、孫臏は次の様に答えています。

孫臏「私は刑罰を受けた身であり、将軍になる事は出来ません」

孫臏は歩行を行えず額には黥が入れられていた事で、自分の発言には重みがなく、兵たちを指揮するのには向かないと考えたのでしょう。

しかし、斉の威王は孫臏を高く評価しており、実戦でも試してみたかったのか、田忌を将軍に任命し孫臏は軍師となり軍に同行しました。

この時の斉軍の総大将は田忌でしたが、実質的な総大将は孫臏だったとも言えます。

田忌の軍は邯鄲に向けて出発しますが、孫臏は途中で「邯鄲ではなく魏の重要都市である大梁を攻撃する様に」と進言しました。

趙を救うには邯鄲に行くのではなく、の重要都市を攻撃すれば、自ずと邯鄲の包囲は解けると考えたわけです。

斉軍が魏の大梁に向かうと、龐涓は大梁に猛攻撃を加え邯鄲を陥落させると、急いで魏の本国に向かいました。

斉軍は桂陵で待ち構えており、魏軍を大破する事になります。

これが紀元前354年の桂陵の戦いであり、孫臏の名が世に知れ渡る事になります。

尚、桂陵の戦いが兵法三十六計の囲魏救趙の話にもなっています。

ただし、桂陵の戦いにはの思惑も含めた異説もあり、桂陵の戦いの記事で記載してあります。

馬陵の戦い

紀元前342年にを攻撃しました。

この時に魏軍を率いていたのは総大将が魏の太子申であり、次将が龐涓です。

韓はへ救援を依頼するや、斉の威王は田忌を将軍とし、田嬰、田盼らも帯同させ韓への援軍としました。

田忌の軍の中には軍師として孫臏もおり、斉の威王の本気さが伝わってきます。

斉軍はまたもや魏の大梁に向かい軍を進める事になります。

魏軍は斉軍が魏の大梁に向かった事を知るや韓への攻撃を中止し、斉に向かい進撃しました。

この時の魏軍は落ち着いて行動していた様にも見受けられ、今回は大梁の防備は十分だったのでしょう。

斉軍は魏の大梁に向かい進撃し、魏軍が斉軍を追いかける形となります。

孫臏は三晋(魏、趙、韓)の兵は強く、斉兵を侮っていると分析しました。

孫臏は魏軍の心理状態を読み、魏地に入ってから竈の数を段々と減らしていく事になります。

龐涓は竈の数が日に日に減っている事を知ると「斉軍は魏軍を恐れ脱走兵が相次いでいる」と考えました。

龐涓は「今なら勝てる」と判断し、自ら騎兵を率いて斉軍を猛追する事になります。

孫臏は道幅が狭い馬陵で伏兵を配置し、龐涓を待ち構えました。

この時に、孫臏は馬陵の大樹に「この樹の下にて死せん」と書かせ、射撃を得意とする者を配置し、火が点いたら一斉に射撃する様に命じます。

龐涓は馬陵を通過する時に、大樹に文字が書かれている事を知り、火を灯し文字を見たわけです。

次の瞬間に大量の矢が飛んできて、龐涓は最後を悟り自刃しました。

龐涓を討ち取った斉軍は魏軍を徹底的に破り、総大将の太子申を捕虜とし、大勝利を得る事になります。

史記では孫臏が龐涓を破った後に、次の記述で締められています。

※史記 孫子呉起列伝より

孫臏の中はこれにより天下に顕れ、その兵法は世に伝わった。

孫臏が天下第一の兵家として認められた瞬間でもあったのでしょう。

馬陵の戦いで孫臏が最強国の魏を東で破り、西では商鞅が魏の公子卬を呉城の戦いで騙し討ちで破り、魏は最強国から転落しました。

孫臏と商鞅が最強国の魏を破った事で、戦国時代の中期の体制である秦・斉二強時代が始まる事になります。

その後の孫臏

馬陵の戦いで勝利した孫臏ですが、戦い後にどうなったのかは一切不明です。

一説によれば現役からは引退し、兵法書である孫臏兵法の執筆に専念したとも考えられています。

別説としては孫臏がに亡命したのではないか?とする説もあります。

孫臏を見ると分かる様に、田忌と非常に関係が深い人物です。

田忌は宰相の鄒忌と対立し、楚に出奔した話があります。

戦国策には田忌が出奔する時に、孫臏が策を進言し、宰相の鄒忌を追放しようと画策した話があります。

しかし、田忌は採用せず、結局は楚に亡命しました。

資治通鑑だと田忌は斉の宣王の時代にに呼び戻されました。

これを考えると、田忌に従い孫臏も楚に向かった可能性がある様に思います。

田忌の失脚に伴い孫臏も斉を離れたとする説です。

ただし、古代史に関しては様々な話があり、田忌が楚に亡命し戻って来たのは馬陵の戦いの前だとする話もあり、この辺りははっきりとしない部分でもあります。

さらに言えば、孫臏の囲魏救趙や龐涓との戦いは余りにもドラマチックに描かれ過ぎており、本当にこの様な戦いがあったのか?と疑問視する声もあります。

それでも、史記の記述が正しければ、孫臏は春秋戦国時代を彩った天才兵法家の一人と言えるはずです。

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