諸子百家は、春秋戦国時代の様々な学説であり、11の流派があり、漢書芸文子によれば189の思想があったと考えられています。
諸子百家の11の流派は儒家、道家、陰陽家、法家、名家、墨家、縦横家、雑家、農家、小説家、兵家に分類されます。
ただし、諸子百家の中の小説家と兵家を入れずに、百家九流という言い方をする場合もあります。
春秋戦国時代には、様々な学説を述べる人がいたわけですが、儒家、道家、陰陽家、法家、名家、墨家、縦横家、雑家、農家、小説家、兵家の中の、どれかに入ります。
今回は諸子百家についての解説です。
学者が斉で優遇される
諸子百家は、様々な説を説いた人の教えとなります。
戦国時代に田斉の宣王は、学者を優遇し、史記の田敬仲完には次の記述があります。
斉の宣王は、文学遊説の士を好む。
鄒衍、淳于髡、田駢、慎到、環淵ら76人が列第となり、上大夫となった。
治めずして議論す。斉の稷下の学士は盛んであり、数百数千となる。
斉の宣王は、遊説の士を好み特に気に入った76人には、屋敷を与えて大臣と同等に扱ったと言う事です。
尚、斉に集まった学者は自らが政治を行う事はなく、議論する事が仕事でした。
斉の宣王が遊説の士を優遇している事が知れ渡ると、斉には次々に遊説の士が集まり、その数は数百、数千にも及んだとされています。
諸子百家の11の流派
諸子百家の11の流派と代表的な人物を紹介します。
儒家
諸子百家の儒家は戦国時代に中原の諸国などで多く広がり、最大の流派だったはずです。
もちろん、儒家の祖は論語でも有名な孔子となります。
ただし、儒家の聖典とも言える論語は、戦国時代では編纂が終わっておらず、当時の人は読めなかった話もあります。
儒家の代表的な人物としては、孔子の他にも孟子(孟軻)がいたわけです。
孔子が周の武王の弟である周公旦を理想の人物として掲げていましたが、孟子は五帝の帝瞬や周の文王に尊敬の念を抱いていた話があります。
儒家で有名どころでは、孔子の弟子であり魏の文侯の師となった子夏や、孔子の孫で中庸で伝わる子思がいます。
作家の宮城谷昌光氏は、儒家では「仁」「礼」「楽」の3つを重要視していると述べています。
孔子の教えは下級貴族である「士」から伝わり、最終的には支配者の為の学問に変貌しました。。
諸子百家の中で、最も有名で現代にも影響を及ぼしているのが儒家だと言えるのかも知れません。
尚、荀子は弟子に韓非子や李斯がいる為、法家と考える人もいるかも知れませんが、実際には荀子は儒家に分類されます。
道家
諸子百家の道家を考える上で、道教を考える必要があるでしょう。
道教は、老子や荘子の思想に、神仙思想が加わり、民衆に拡がったと考えられています。
道家は黄帝や老子を学ぶ学派だと考えればよいでしょう。
道家の真理は次の様になっています。
道の道とすべきは、常道にあらず。
ややこしい話ですが、道だと決めつける事が出来るのは、本当の道ではないと語っているわけです。
荘子の「無用の用」などの話も有名でしょう。
相対的な思想なのが道家であり、仁や礼を大事とする儒家に比べると、考え方の幅は広いとも言えるでしょう。
陰陽家
諸子百家の陰陽家の祖は、鄒衍だと言われています。
鄒衍は斉の代表的な学者でもありましたが、燕の昭王による「隗より始めよ」の人材優遇策で燕にやってきたと言われています。
鄒衍は燕の昭王の師となり、後年に燕は楽毅を上将軍に任命し、斉を壊滅状態に陥らせています。
諸子百家の中でも陰陽家と言うと、占いを重視しているのではないか?と考える人も多い事でしょう。
陰陽家は古代からあった、陰と陽の二つに分ける考え方に、五行説(水、火、金、土、木)を加えたものです。
五行説は神秘の現象であり、王朝の交代さえ可能になったとも考えられています。
陰陽五行の代表的な考え方は、次の様になっています。
「水は火に勝ち、火は金に勝ち、金は木に勝ち、木は土に勝ち、土は水に勝つ」
万物の循環している様子が五行説でもあります、
尚、史記の平原君虞卿列伝では、鄒衍が趙に来たことで、名家の公孫龍が平原君から尊重されなくなったとも伝わっています。
法家
諸子百家の中でも、法家はかなり知名度が高いです。
法家と言えば、秦の孝公を補佐した商鞅を思い浮かべる人も多いかも知れません。
しかし、一般的には法家の祖は管仲だと伝わっています。
管仲は、斉の桓公を春秋五覇の一人に押しあげる程に、卓越した手腕を持つ人物です。
他にも、中国で初めて成文法を公布した、鄭の子産も法家に入れられる事が多いと言えます。
尚、戦国時代に入ると、商鞅が秦で商鞅の変法を行い、秦を法治国家に生まれ変わらせています。
さらに、諸子百家を飾る韓非子も法家に分類されますし、韓非子と共に荀子の元で学んだ李斯も法家思想の持ち主です。
秦の始皇帝も法家を尊重し、天下統一の原動力にしています。
ただし、法家を唱えた人物は、商鞅、韓非子、李斯など悲惨な末路を辿る者が多いと言えます。
余談ですが、魏の文侯や武侯に仕えた呉起も法家に加えられる事があります。
名家
諸子百家の名家の代表格は公孫龍だと言えるでしょう。
公孫龍は「白馬は馬にあらず」の白馬非馬論で有名であり、詭弁だと指摘される事も多いです。
その為、名家は詭弁派と呼ばれる事もあり、現代でも屁理屈だと述べる人も多いでしょう。
韓非子には、公孫龍が宮廷で「白馬は馬ではない」と主張し、全員が反論する事は出来なかったが、公孫龍が関所を通る時には、白馬を馬だと認めなざるを得なかった話を掲載しています。
それらを考えると、諸子百家の中でも名家は空論とみなされる場合もある様です。
尚、同じく諸子百家の荘子は、名家の公孫龍と桓団をまとめて、非難した話もあります。
墨家
墨家は諸子百家の墨子(墨翟)が開祖であり、儒家に学んだとも考えられています。
ただし、墨子は儒家を批判し、兼愛、節用、非楽などを説いています。
しかし、墨子の中で一番有名な考え方は「非攻」になるはずです。
非攻の考え方は、攻撃を受けた時に守るのは問題ないが、自分から他国を攻めてはいけない事になります。
墨家の集団は築城技術に優れ、墨子が弟子たちを率いて城を守れば、難攻不落の城になったと伝わっています。
墨子の鉄壁の守は「墨守」と呼ばれています。
諸子百家の孟子は儒家に分類される事が多いですが、仁義を提唱しており、墨子の影響を受けたとも考えられています。
縦横家
諸子百家の中でも、縦横家は戦国七雄の中を目まぐるしく動き、時には一国の宰相になったりもしています。
合従、連衡を説くのが縦横家であり、蘇秦や張儀が代表格だと言えるでしょう。
蘇秦は強国である秦に対して、趙、魏、韓、燕、楚、斉の六国で同盟を結び、秦に対抗しようと諸国を遊説する事になります。
蘇秦は燕の文侯に認められると、趙、魏、韓、燕、楚、斉の同盟を締結させ、六国の宰相にまで昇りつめています。
縦横家の中でも六国の同盟に成功させたのは蘇秦だけでしょう。
張儀は、蘇秦と共に鬼谷子の元で共に学んだ話があります。
張儀は秦で宰相になり、他の六国が秦と従属同盟を結び、生き残り策を説いたわけです。
張儀も連衡を成功させますが、秦に帰る途中で秦の恵文王が亡くなった事で、諸侯は再び合従に戻ってしまいました。
尚、縦横家は蘇秦と張儀のインパクトが強いですが、合従では蘇秦の弟である蘇代、張儀を嫌っていた陳軫、魏、趙、韓、燕、中山国の5カ国同盟を結成させた公孫衍もいます。
連衡では、秦の恵文王、武王、昭王の三代に仕えた甘茂がいる状態です。
雑家
雑貨は様々な説を兼ねる人であり、商鞅と同時代の尸子は雑貨に分類されています。
ただし、尸子の知名度は低く、雑家の代表的な書物は呂不韋が編集したとされる呂氏春秋の方が有名です。
尚、前漢の武帝の時代に、淮南王劉安により編纂された淮南子なども雑家に分類される事があります。
ただし、淮南子は春秋戦国時代に出来たわけではなく、諸子百家に入れるのに違和感がある人も多い事でしょう。
呂氏春秋と淮南子に共通するのは、呂不韋や劉安が著したものではなく、自らの財力により編纂させた事になるはずです。
農家
農家と言えば、作物を作る人も思い浮かべる人も多い事でしょう。
漢書の芸文志によれば、農家は9つの教えがあったとされています。
農家の中には「神農」「野老」と言った書物があり、戦国時代に書かれたと伝わっています。
農家は農業指導書もあったとされていますが、誰が書いたのかも分からない状態であり、諸子百家の中でも謎が多いと言えるでしょう。
農家の書物に関しては、早い段階で散逸してしまったのかも知れません。
最初にも述べた様に、ここまで紹介した諸子百家の儒家、道家、陰陽家、法家、名家、墨家、縦横家、雑家、農家までを百家九流と呼んだりします。
小説家
小説家と兵家は諸子百家に分類されない事もあります。
小説家とは、物語を書く人ではなく、学説に体系を持たず、巷説を拾い集めて来るようなイメージを持てばよいでしょう。
尚、小説は大説の対義語でもあります。
諸子百家の中でも、小説家は影が最も影が薄いと言えるかも知れません。
孟子と同時期にいた宋子は、小説家ともされていますが、著作は残っておらず謎が多いです。
兵家
兵家は兵法家と言った方が分かりやすいかと思います。
武経七書の「孫子」「呉子」「尉繚子」「六韜」「三略」「司馬法」「李衛公問対」も兵家に分類されたりもします。
兵家は孫武、呉起、孫臏、司馬穰苴など知名度が高い人が多いです。
六韜や三略は周の文王や武王に仕えた軍師太公望と縁が深いと言えます。
尚、三略は黄石公が太公望の言動をまとめており、前漢の高祖劉邦の軍師を務めた張良に渡した話があります。
兵家は、最後に紹介しましたが、諸子百家の中でも、戦いで見事に勝利したり、策略を成功させたりと華があるとも言えるでしょう。
焚書坑儒
戦国時代には多くの考えがあり、自説が正しいと諸子百家の人物たちが主張したわけです。
しかし、秦が天下統一すると、秦の始皇帝は李斯の進言もあり焚書坑儒を行っています。
秦は小篆による文字の統一、度量衡における単位の統一、半両銭による通貨の統一だけではなく、思想の統一も行おうとしたわけです。
これにより諸子百家の多くの書が失われてしまったとされています。
ただし、現在にも韓非子や孫子、呉子、商子、管子などは伝わっており、焚書坑儒は徹底した思想弾圧ではなかったとも考えられる様になっています。