将渠は燕王喜の趙攻めを諫めた人物です。
燕の宰相である栗腹は、趙との友好の使者として赴きますが、燕に帰国すると趙を攻撃する様に述べました。
燕王喜や燕の大臣達の多くが、趙への攻撃に賛成する中で楽間と将渠は、趙への攻撃を反対しています。
燕王喜は栗腹を将軍とし、趙に攻撃を仕掛けますが、大敗北を喫しました。
この後に、将渠は宰相に任命され、趙との和睦を成立させる事に成功しています。
史記では将渠が趙との盟約を成立させた所で終わりますが、東周列国志には「その後の将渠」の活躍も記載されていました。
今回は春秋戦国時代でも、屈指の誠実な人とも言える将渠を解説します。
尚、三国志演義の劉章と黄権の話は、将渠がモデルになっていると思われ、合わせて解説しています。
趙攻めに反対
紀元前251年に燕の宰相の栗腹は、趙の孝成王に500金を献じて酒宴を供しました。
燕の栗腹は名目上は、燕と趙の誼を通じる為に、趙に行ったわけです。
しかし、栗腹は趙から戻って来ると、趙は長平の戦いで大敗した傷が癒えてないから、趙を攻める好機と燕王喜に進言しました。
名将楽毅の子である楽間は、燕が趙を攻撃するのに反対しますが、多くの臣下は趙攻めに賛成したわけです。
燕王喜は「5倍の兵力で趙を討つ」と述べ、楽間に対し、怒りを向けます。
この時の燕王喜の怒り方が酷かったのか、楽間は趙に亡命しています。
燕では宰相の栗腹が将軍となり鄗を攻撃し、卿秦が代を攻撃する事になりました。
燕の宮廷で趙攻めで盛り上がる中で、燕の大夫である将渠は次の様に述べています。
将渠「趙の国とは関門を通じて親交を結び、趙王には500金を献じて祝ったのです。
しかし、使者が燕に帰還するや、正反対に趙を攻撃するのは不吉過ぎます。
この戦いは、勝利するのは難しいのではないでしょうか。」
将渠は燕が趙を攻撃するのは、道理に反すると述べ、諫めたわけです。
将渠の諫止
将渠は燕王喜の出兵を止めようとしますが、逆に燕王喜はむきになり、自ら出陣して趙を攻撃しようとします。
燕王喜としてみれば、何が何でも趙に勝利を収め反対した楽間や将渠などを、黙らせたかったのでしょう。
燕王喜が自ら出陣しようとすると、将渠は燕王喜の印綬を引っ張り、次の様に述べました。
将渠「我が君は自ら出陣してはなりませぬ。
出陣しても、戦いで勝利を収める事は出来ませぬ」
この時になると、将渠ははっきりと燕王喜を諫めたわけです。
燕の友好の使者を送った後で、直ぐに趙を攻める行為は裏切りであり、趙は「燕憎し」の感情で団結し、燕と戦うと将渠は考えた可能性もあります。
将渠にしてみれば、ただでさえ勝ち目が薄いのに燕王喜が行けば、現場が混乱し勝ち目が無くなると思ったのかも知れません。
しかし、ここでも燕王喜は怒り諫止する将渠に蹴りを入れます。
将渠は涙を流し、次の様に述べました。
将渠「私は自分の為に、趙への攻撃を止めさせようとしているのではありません。
全ては燕王様の為なのです」
しかし、勝利への執念を見せた燕王喜は、自ら後軍となり出陣してしまいました。
将渠が宰相となる
趙では恵文王時代から、数多くの功績を打ち立てた廉頗が、趙軍を率いて反撃してきました。
鄗の戦いで栗腹が廉頗に大敗し亡くなり、卿秦も代で敗れるなど、燕軍は大敗北を喫したわけです。
燕軍を大破した廉頗は、燕の首都である薊を囲みました。
燕王喜は首都の薊を、廉頗に包囲され窮地に陥ります。
趙との戦いは、将渠や楽間が言った通りの結果となってしまったわけです。
燕王喜は和平を結ぼうとしますが、趙側で拒否しました。
趙にしてみれば、友好の使者が来たかと思えば、反対に攻め込んで来た燕に対し、憎悪の感情も強く簡単には、和議が結べる状態ではなかったのでしょう。
燕では多くの大臣が趙を攻撃するのに賛成した事もあり、趙では燕の大臣の言葉を信じる事が出来なかったはずです。
ただし、この時に既に楽間は趙に亡命していたと思われ、趙では楽間の口から、将渠が趙への攻撃を止める様に、燕王喜を諫止した話が伝わっていたと思われます。
趙では「将渠なら信用が出来る」と判断し「将渠であれば和議を考える」と、将渠が燕の宰相になる事を望んだのかも知れません。
実際に資治通鑑では「趙側が将渠が講和を主宰しろ」と述べた話が伝わっています。
趙としても西では強大な秦がおり、いつまでも燕に構っている事も出来なかったのでしょう。
燕王喜も将渠の言葉を聞かなかった事を後悔したのか、燕と和議を結べるのは将渠しかいないと考えたのか、将渠を燕の宰相に任命しました。
将渠は宰相として、趙との交渉の窓口となり、趙との和平が成立しています。
この時に、将渠は城5つを趙に引き渡す事を条件とし、趙と燕は和睦しましたが、見事に役目を果たしたと言えるでしょう。
尚、戦国策に燕王喜が楽間や楽乗に、燕に戻って来るように手紙を寄越した話がありますが、楽間や楽乗は手紙も返さず趙に戻る事はありませんでした。
その後の将渠(東周列国志)
信陵君の合従軍に参加
将渠は紀元前251年の鄗の戦いの後で、燕の宰相となりました。
しかし、その後の記録はなく、どの様な最後を迎えたのかは不明です。
清代の小説ではありますが、東周列国志に、将渠のその後の話が掲載されています。
東周列国志によれば、紀元前248年に信陵君が率いた合従軍に、将渠が燕軍の将として参加していた事になっていました。
将渠は早ければ紀元前251年に燕の宰相となっており、趙との友好の為には、燕王喜も将渠を宰相として置き続けるしかなかったはずです。
そういう事情を考えれば、魏の信陵君が合従軍を結成した時に、将渠が燕軍を率いて参加してもおかしくはありません。
尚、東周列国志によれば、信陵君の合従軍では趙の龐煖、韓の公孫嬰、楚の景陽らも参加しています。
信陵君に率いられた合従軍は王齕、蒙驁ら、秦の将軍を破り帰国する事になります。
東周列国志では、将渠は信陵君の合従軍で、秦軍を破る活躍を見せているわけです。
宰相を辞する
東周列国志によれば、燕王喜は過去に趙を攻め、栗腹が大敗した事を酷く後悔していた話があります。
将渠は趙との和睦を成立させ、信陵君と共に功績は立てましたが、燕王喜は将渠を気に入り、宰相にしていたわけではありません。
どちらかと言えば、趙に命じられて仕方がなく、将渠を宰相にした様なものだからです。
将渠もそうした空気を察したのか、病気を理由に燕の宰相の地位を退きました。
これにより、将渠は宰相に任を解かれたわけです。
再び趙との交渉
将渠が宰相から外れると、燕では再び「趙を攻略せよ」という機運が高まります。
燕の昭王の時代に「隗より始めよ」政策でやってきた劇辛の「趙の龐煖など与しやすい相手」発言もあり、燕は再び趙と戦う事になります。
尚、東周列国志では龐煖と劇辛の戦いに、李牧が代軍を率いて参戦した話があります。
劇辛は将軍となり、燕軍を率いて趙の龐煖と戦いますが、劇辛は敗れました。
これにより、燕では再び窮地に陥りますが、燕王喜は将渠の門を訪ね、趙との和平の使者になる事を願います。
将渠は趙と燕の和平の使者となり、龐煖の本陣を訪れ盟約を成立させました。
龐煖が講和に応じた事で、再び趙と燕は和睦したわけです。
これが東周列国志にある将渠の最後の記録であり、春申君が中心となった紀元前241年の合従軍を率いた函谷関の戦いに、将渠が参戦した記録はありません。
将渠の評価
将渠ですが、内容を見ると「誠実」の言葉が、ピタリと当てはまる人物だと思いました。
紀元前251年の鄗の戦いの後に、将渠は宰相となり、城5つで燕と趙は和睦しています。
長平の戦いでは、秦の白起が趙の趙括を破り大勝利を収めました。
窮地に陥った趙は、蘇代を秦の宰相である范雎の元に派遣しています。
蘇代は范雎の前で弁舌を振い、城5つを割譲する事で、趙と秦は和睦しています。
それを考えると、将渠が趙との和睦を成立させたのは、蘇代に匹敵するだけの大きな功績だと言えるでしょう。
ただし、蘇代は范雎に立場を指摘するなど、心を揺さぶったのに対し、将渠は誠実さで趙を納得させた様に思いました。
交渉と言うのは、弁舌の巧みさだけで決まるものではないと言う事なのでしょう。
諸子百家の縦横家の様な派手な弁舌がなくても、将渠は見事に役目を果たしたと言えそうです。
尚、蘇代が成立させた趙と秦の和睦は、直ぐに破棄され秦は趙の首都である邯鄲を囲みましたが、趙と燕のそれらに比べれば遥かに長く続いています。
やはり、一時の弁舌よりも誠意で結んだ和睦の方が、長く続くと言う事なのかも知れません。
三国志演義の黄権のモデルが将渠だった!?
三国志演義で将渠がモデルになったと思われる話があります。
赤壁の戦い後に荊州を得た劉備は、益州を取る事を画策しました。
劉備は龐統を参謀とし、入蜀を果たそうとします。
荊州の劉備に対し劉璋配下の張松や法正などは劉備に内通しており、王累、黄権、張任などは劉備の入植に反対でした。
劉璋は劉備を益州に迎えようとしますが、三国志演義では黄権が劉璋の袖を噛み止めようとした話があります。
これにより黄権の前歯二本が折れてしまいました。
劉璋と黄権の話は、将渠と燕王喜の話に非常によく似ていると思われ、黄権の話は将渠が元になって出来た様に思います。
尚、黄権は劉備の配下となるや夷陵の戦いに参加しますが、陸遜の火計で蜀軍が敗れた時に魏軍に投降しました。
普通ならば黄権は罰せられるはずですが、劉備は「黄権が儂を裏切ったわけではない。儂が黄権を裏切ったのだ」と述べ、黄権の家族を罰しなかった話もあります。
将渠や黄権の様な誠実さは、物語などでは報われた形になる様です。