張導は正史三国志に登場する人物であり、鉅鹿郡の太守となった人物です。
張導は鉅鹿郡では治水で実績を挙げており、優れた官吏だった事が分かります。
後に袁紹に仕えると、韓馥に冀州を譲らせる事に成功するなど、ここでも実績を挙げています。
しかし、張導が朝廷より官位を受けると、袁紹は問題視し張導を処刑しました。
これを考えれば、張導は功績はあったのに、無念の最後を迎えたとも言えるでしょう。
因みに、正史三国志の張導の最後は、臧洪が陳琳に宛てた手紙の中の記述で知る事ができます。
今回は張導を解説します。
治水で実績を挙げる
水経注によると、張導は建和三年に鉅鹿太守になったとあります。
建和三年を西暦に直すと149年となります。
西暦149年は後漢王朝の桓帝の時代であり、梁冀が絶大なる権力を握っていた時代です。
張導は鉅鹿太守となりますが、この時に漳水の渡し場で氾濫が起こり、農業が出来なくなってしまいます。
ここで張導は水の流れを見て、堤防を修復し水路と整えました。
これを考えれば、張導は有能な官吏だと言えるでしょう。
漳水の沿岸には鄴があり、戦国時代の初期に西門豹が治水で実績を挙げましたが、張導もまた治水で実績を挙げたと言えるでしょう。
袁紹に仕える
経緯は不明ですが、後に張導は袁紹に仕える事になります。
袁紹は董卓と仲違いし洛陽を脱出し、渤海太守となりますが、何処かのタイミングで張導は袁紹に合流したのでしょう。
後に袁紹は反董卓連合の盟主となりますが、董卓が長安遷都を強行すると、連合軍は瓦解しました。
袁紹は汝南袁氏の出身であり名声はありましたが、渤海太守でしかなく基盤は脆弱だったわけです。
こうした中で袁紹は逢紀の進言により、公孫瓚を動かし冀州牧の韓馥を恐れさせた上で、冀州を譲り受けようとします。
張導が韓馥への使者となった記述は、臧洪が陳琳に送った手紙の中にあり、次の様に書かれていました。
※正史三国志臧洪伝より
昔、張景明(張導)は壇に登って血をすすって誓いました。
主人(袁紹)の命を受けて東奔西走し、韓馥から冀州牧の旗印を譲らせる事に成功しました。
これにより主人は領土を手にいれる事が出来たのです。
臧洪の手紙の内容を見ると、張導が韓馥を説得した事が分かります。
それを考えれば、張導は袁紹の元で見事な働きをしたと言えるでしょう。
しかし、韓馥を説得したのは正史三国志の場所によって差異があり荀諶、郭図、高幹らになっている場合もあります。
これを考えると、張導は荀諶や郭図、高幹らと共に韓馥を説得したのか、分からない部分もあると言えます。
張導の最後
後に張導は献帝への使者となります。
これが何年位の事なのかは不明ですが、董卓は192年に亡くなっており、李傕らが支配した長安に張導がいったのかも知れません。
この時に張導は爵位を賜わり、袁紹の元に戻りました。
しかし、袁紹は爵位を得て戻ってきた張導を問題視する事になります。
袁紹は張導が「子孫に伝える資格を得た」という理由で処刑しました。
さらに、臧洪の手紙の中では張導の一族が皆殺しにされたとあります。
袁紹が何故、張導に対し厳しい態度を取ったのかは不明ですが、張導はこれにより最後を迎えました。
袁紹は功績のあった麹義に対しても、厳しい態度を取っており、自分の言う事を聞かなくなる事を問題視し、処刑という選択肢を使ったのではないか?とも考えられています。
尚、過去に劉表配下の韓嵩が朝廷に行った時に、官位を貰って帰った事を問題視し、劉表は韓嵩を獄に繋いでいます。
それを考えると、当時の群雄は朝廷から臣下が官位を授けられるのを、かなり嫌がっているとも言えるでしょう。
因みに、臧洪は西暦196年に亡くなっており、それよりも前に張導は亡くなった事になります。
尚、張導は149年に鉅鹿太守になった記録があり、袁紹に処刑された時は、かなりの高齢だったのではないか?とも考えられています。