室町時代

宇都宮公綱は坂東一の弓矢取りと讃えられた名将

2024年11月6日

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宮下悠史

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宇都宮公綱は鎌倉時代末期や南北朝時代に活躍した人物です。

宇都宮氏の一族は鎌倉幕府からも厚遇されていました。

こうした中で後醍醐天皇の倒幕運動が活発になり足利尊氏新田義貞が後醍醐方に寝返った事で鎌倉幕府は滅亡しています。

宇都宮公綱は幕府軍として戦いましたが、楠木正成をして「坂東一の弓矢取り」と言わしめた程の武将です。

後醍醐天皇は建武の新政を行いますが、宇都宮公綱は重用された事が分かっています。

建武政権は中先代の乱を決起に崩壊へと向かい宇都宮公綱も一時的に、足利尊氏に降伏しました。

しかし、宇都宮公綱は後醍醐天皇が吉野に逃れると南朝を支持するなど、一貫して忠義を貫いています。

宇都宮氏の家中は分裂しますが、宇都宮公綱は最後まで南朝を支えたと言えるでしょう。

今回は坂東一の弓矢取りの異名をとった宇都宮公綱を解説します。

尚、宇都宮公綱の生涯を題材にした動画も作成してあり、記事の最下部から読む事が出来ます。

宇都宮公綱の誕生

宇都宮公綱は宇都宮貞綱の子として1302年に生まれました。

母親は鎌倉幕府の第六代執権である北条長時の娘とされており、最初は宇都宮公綱ではなく「宇都宮高綱」と名乗っていた事が分かっています。

宇都宮氏は宇都宮明神の検校を行った一族であり、源頼朝の鎌倉幕府設立にも大きく関与していました。

鎌倉時代の宇都宮氏は有力御家人だった事は間違いないでしょう。

宇都宮公綱の祖父である宇都宮景綱や父親の貞綱は幕府の引付衆にも名を連ねています。

数代前の宇都宮頼綱は藤原定家とも深い親交があり、小倉百人一首の成立にも関わった人物とされています。

宇都宮公綱も幕府の引付衆になるなど、順調に出世をしていたわけです。

南北朝時代のキーマンとなる足利尊氏も鎌倉幕府と深く関わっており、宇都宮公綱とは既にお互いを知っていた可能性も高いと感じました。

しかし、宇都宮公綱の鎌倉幕府有力御家人という順風満帆のレールは、倒幕を目指す後醍醐天皇により方向転換を余儀なくされます。

元弘の変の始まり

1331年に後醍醐天皇や護良親王は倒幕の為に挙兵を行いました。

後醍醐天皇が挙兵した直ぐ後に、楠木正成も赤坂城で兵を挙げています。

これが元弘の変の始まりとなりますが、鎌倉幕府では討伐軍の大将として大仏貞直を派遣しました。

大仏貞直の軍中には宇都宮一族の名が見られ、これが宇都宮公綱なのではないかとも考えられています。

幕府軍は笠置山城の戦いで勝利し後醍醐天皇と宗良親王を捕虜とし、赤坂城も開城しました。

これにより倒幕は護良親王や楠木正成を中心に行われる事になります。

坂東一の弓矢取り

後醍醐天皇は隠岐に流されますが、楠木正成が住吉・天王寺の近辺で挙兵しました。

楠木正成の用兵術は巧みであり、六波羅探題の軍勢は完敗しています。

この時に既に宇都宮公綱の武勇は天下に鳴り響いていたのか、六波羅探題は楠木正成の討伐を宇都宮公綱に任せています。

宇都宮公綱は自らの手勢だけを率いて楠木正成の鎮圧に向かいました。

太平記では、この時の宇都宮公綱が黒駒に乗った逞しい武士として描かれています。

楠木正成は寡兵で戦いを挑み「一人も生きては帰らぬ」と言わんばかりの宇都宮軍を見て「宇都宮は既に坂東一の弓矢取りなり」と述べたわけです。

楠木正成は南北朝随一の名将とする評価もありますが、宇都宮公綱を高く評価しました。

宇都宮公綱の軍勢は少なくとも決死の勢いがあり、楠木正成は戦えば損害が大きくなると考え、天王寺から兵を退かせています。

楠木正成が撤退した事で、宇都宮公綱による天王寺制圧が完了し天下に武名を鳴り響かせました。

しかし、宇都宮公綱はあくまでも寡兵であり、楠木正成が大量の松明を使い大軍に見せかけて戻って来た事で、京都に撤退しています。

楠木正成と宇都宮公綱の間で戦闘の様なものは起きなかったと考えられています。

ただし、宇都宮公綱も楠木正成も多いに武名を高めました。

楠木正成と宇都宮公綱の双方が相手を警戒した結果として、戦いにならなかったとも言えるでしょう。

太平記では戦闘を回避した宇都宮公綱と楠木正成を良将だと評価しています。

千早城の戦い

楠木正成は幕府軍を翻弄しますが、最終的に千早城に籠城し、護良親王が吉野に籠りました。

護良親王の吉野は陥落し、幕府軍は大軍で千早城を攻めますが、楠木正成の前に大敗北を喫しています。

幕府軍は千早城の戦いで敗れると再び宇都宮公綱に出撃を命じています。

宇都宮公綱は配下の紀清両党(紀・清原氏の武士団)を率いて千早城攻めに加わりました。

名将と言われた宇都宮公綱であっても千早城の掘り際までしか近づく事が出来ず、千早城の戦いは膠着状態となります。

楠木正成に籠城されてしまえば、宇都宮公綱であっても容易に崩す事は出来なかったのでしょう。

鎌倉幕府の滅亡

幕府軍は楠木正成が籠る千早城を落す事が出来ず、幕府軍の士気は日増しに低下しました。

こうした状況の中で後醍醐天皇も隠岐から伯耆に移り、幕府軍の足利尊氏までもが寝返り上野では新田義貞が倒幕に舵を切る事になります。

後醍醐天皇に味方した足利尊氏は六波羅探題を陥落させ、新田義貞も鎌倉を陥落させ北条高時も自刃し、鎌倉幕府は滅亡しました。

宇都宮公綱は幕府軍として参加していましたが、六波羅探題が陥落し鎌倉幕府も滅んでしまったわけです。

幕府滅亡時に宇都宮公綱は一之木戸般若寺の守備をしていましたが、後醍醐天皇の綸旨があり上洛する事になります。

既に宇都宮公綱の名は天下に知れ渡っており、後醍醐天皇も宇都宮公綱を重用する事になります。

因みに、鎌倉幕府が滅亡するまでの名は、北条高時から一字拝領した宇都宮高綱の名を使っていましたが、この頃から宇都宮公綱と名乗る様になりました。

太平記に六波羅探題の滅亡後に、後醍醐天皇の共奉人数の中に「宇都宮五百騎」たいたとする話がありますが、時系列で考えると宇都宮公綱はまだ幕府軍の一員だったと考えられています。

後醍醐天皇に従っていた宇都宮五騎は別の宇都宮氏の者だったのではないかともされています。

後醍醐天皇の厚遇

1334年に後醍醐天皇による建武の新政が行われていますが、宇都宮公綱は雑訴決断所に配属されています。

雑訴決断所には楠木正成や足利家の執事である高師直も配属されました。

さらに、宇都宮公綱は加賀の国司にも任命されています。

建武の新政で国司となった武士は足利尊氏や新田義貞など、誰が見ても分かる程の大きな功績を挙げた者であり、鎌倉幕府の滅亡まで幕府軍だった宇都宮公綱にしては大きすぎる程の恩賞だったと言えるでしょう。

宇都宮氏と加賀国の接点もなく、後醍醐天皇が如何に宇都宮公綱に期待したかが分かる話でもあります。

1334年10月に後醍醐天皇の中宮珣子内親王が御着帯の儀を行っていますが、宇都宮公綱は那智如意輪寺で観音御誦経を奉仕しました。

武士の奉仕の面子が足利尊氏、新田義貞、結城親光、佐々木道誉、高師直らの名前が見られますが、多くの武士が奉仕したわけではなく、宇都宮公綱が建武政権で高い立場にいる事が分かるはずです。

後醍醐天皇が宇都宮公綱を厚遇した事は間違いないでしょう。

箱根・竹ノ下の戦い

建武政権2年目である1335年になると信濃で北条時行が諏訪頼重と共に挙兵し、鎌倉を占拠してしまいました。

これが中先代の乱です。

鎌倉将軍府の足利直義は敗走し窮地に立たされると、兄の尊氏が後醍醐天皇の許可も取らずに出陣に乱を平定してしまいました。

後醍醐天皇は足利尊氏に対し京都へ戻って来るように命じますが、足利兄弟は論功行賞を始めてしまい後醍醐天皇は新田義貞に鎌倉攻撃を命じています。

この時に、宇都宮公綱も新田義貞の軍に加わっていた事が分かっています。

鷺坂や手越河原の戦いで宇都宮公綱は功績を挙げました。

新田軍は足利直義や高師泰らは破りましたが、足利尊氏が自ら兵を率いてやってくると形勢が逆転する事になります。

箱根・竹ノ下の戦いが勃発しますが、宇都宮公綱は箱根で戦い奮戦し功績を挙げています。

太平記では『名を重んじ命を軽んずる千葉、宇都宮、大友、菊池が兵ども』とあり、宇都宮公綱率いる兵士の勇猛さが分かる記述となっています。

しかし、竹ノ下の戦いで脇屋義介ら新田軍が足利尊氏に敗れ勝敗は決しました。

この時に宇都宮公綱は新田義貞に「葦数・墨俣」にまで兵を後退させる様に進言しています。

宇都宮公綱の進言により新田義貞は撤退しますが、足利尊氏は追撃を行い近畿まで兵を進めました。

足利尊氏に降伏

新田義貞は近畿で足利尊氏を迎撃しますが、宇都宮公綱は新田義貞と共に大渡・山崎で戦っています。

しかし、山崎で戦いに敗れ新田義貞は後醍醐天皇に比叡山に入る様に要請しました。

新田義貞は京都に退きますが、この時に宇都宮公綱は足利尊氏に降る事になります。

新田義貞は足利尊氏に連敗しており、宇都宮公綱は足利尊氏に味方する事になったのでしょう。

ただし、宇都宮公綱の心は足利尊氏ではなく後醍醐天皇にあったとも感じています。

足利尊氏の期待

足利尊氏は京都を占拠しますが、奥州から凄まじい速さで北畠顕家率いる奥州軍がやってきました。

奥州軍には関東の者も多く含まれていたと考えた足利尊氏は、次の様に述べています。

※戎光祥出版・南北朝武将列伝南朝編91頁より

「なに、関東からの軍勢がなにほどのものか。とくにその殆どは宇都宮紀清両党のものだろう。

その主人の公綱が今はこちら側にいると聞けば、すぐにこちら側に参じるだろう」

上記の言葉が真実だとすれば、足利尊氏は宇都宮公綱を信用しており、強力な戦力だと考えていた事になるでしょう。

太平記では尊氏の予想した通り奥州軍の中にいた宇都宮勢は主である宇都宮公綱の元に行った話があります。

しかし、北畠顕家が率いる奥州軍の到着により新田勢を勢いを盛り返し、楠木正成の軍勢と共に足利軍を追い詰めて行く事になります。

宇都宮公綱は足利勢の一員となっていましたが、神楽岡で城郭を構えて戦闘を行った記録がありますが、戦いに敗れています。

足利尊氏は赤松円心の進言もあり、石橋和義を抑えとするなどし九州に落ち延びて行きました。

足利尊氏は九州に向かいますが、宇都宮公綱は同道せず再び新田義貞に味方する事になります。

宇都宮公綱は新田勢の一員として手島河原での戦闘に参加し、新田義貞による赤松円心攻撃にも船坂山の戦いに参陣した記録があります。

湊川の戦い

九州に逃れた足利尊氏は短期間で復活し、少弐頼尚、大友氏泰、宇都宮冬綱、島津貞久ら九州の守護達を引き連れて上洛しました。

この時の尊氏軍は細川和氏らにより四国勢も加わり圧倒的な大軍となり、京都を目指したわけです。

湊川の戦いでは足利尊氏は新田義貞楠木正成と対峙する事になります。

湊川の戦いでは戦力の違いから新田義貞や楠木正成は敗れました。

宇都宮公綱も新田軍として生田の森で戦っていますが、敗北を喫しています。

宇都宮公綱であっても圧倒的な戦力差を覆す事は難しかったのでしょう。

比叡山に籠城

後醍醐天皇は再び比叡山に入る事になりますが、この中には宇都宮公綱もいました。

京都では激戦が繰り広げられ、足利軍は近江の坂本も攻撃していますが、宇都宮公綱の奮戦が光り足利軍を撃退しています。

戦いに勝利した勢いで宇都宮公綱らは京都を攻撃しますが、今度は敗れました。

足利尊氏の方では光厳上皇の院宣を獲得したり、建武式目の準備をするなど室町幕府成立の為に動く事になります。

こうした中で後醍醐天皇と足利尊氏の間で和議が結ばれ、後醍醐天皇は比叡山を下山する事になります。

新田義貞は恒良親王や尊良親王と共に北陸を目指しますが、宇都宮公綱は後醍醐天皇と共に比叡山を降りました。

屈辱の狂歌

後醍醐天皇は花山院に幽閉されてしまいますが、宇都宮公綱は特に幽閉されたわけでもなく、自由の身となります。

一つの話として宇都宮公綱が勢いを失くし、足利家の方でも監視も配置せずに、逃げようと思えば、いつでも逃げれる状態にしていました。

室町幕府にとってみれば宇都宮公綱は警戒すべき相手ではなくなっていたのかも知れません。

さらに言えば、暫くの間、本国の下野に宇都宮公綱は帰っておらず、本国で芳賀氏が勢力を強めていた事と関係している可能性もあります。

後醍醐天皇は幽閉されたままとなりますが、宇都宮公綱は逃げる事もせず、何もしない様な状態が続く事になります。

宇都宮公綱の態度に対し、次の狂歌が歌われました。

南北朝武将列伝南朝編92~93頁より

あれだけ後醍醐に重用されておきながら、敗れて入京してからは、いつでも動けるはずなのに何の行動も起こそうとしない。

宇都宮公綱にとってみれば屈辱の狂歌でもあったわけです。

それと同時に宇都宮公綱の臥薪嘗胆の時代だったとも言えるでしょう。

宇都宮公綱の忠義

1336年12月に後醍醐天皇は花山院を脱出し、吉野で南朝を開きました。

これにより室町幕府が推戴する北朝と合わせて南北朝時代が始まる事になります。

1337年になると宇都宮公綱が紀清両党五百騎を率いて吉野にやってきました。

宇都宮公綱は後醍醐天皇への忠義を忘れたわけでは無かったわけです。

後醍醐天皇は宇都宮公綱を四位少将に任命しています。

後醍醐天皇は宇都宮公綱の忠義の心に感動し高位を与えたのでしょう。

宇都宮家の分裂

1337年に後醍醐天皇の要請により、北畠顕家率いる奥州軍が再び上洛する事になります。

しかし、宇都宮公綱の本拠地である下野では、芳賀禅可が宇都宮公綱の子である加賀寿丸を擁立して足利尊氏に味方したわけです。

加賀寿丸が後の宇都宮氏綱となります。

北畠顕家の上洛戦では芳賀禅可を破ると、芳賀禅可は奥州軍に従いますが、直ぐに足利義詮に与しました。

宇都宮氏綱を奉じた芳賀禅可は奥州軍の追撃も行っており、この時点で宇都宮家は分裂してしまったと言えるでしょう。

北畠顕家の奥州軍は青野原の戦いで土岐頼遠らを破りますが、石津の戦いで高師直に敗れています。

北畠顕家は戦死しました。

この時に奥州軍の南部師行も戦死しています。

さらに、北陸で斯波高経と戦っていた新田義貞も不慮の事故で命を落とし南朝は苦境に立たされる事になります。

宇都宮公綱も南朝の武将として奮戦したと思われますが、史料が無く活躍は不明です。

しかし、宇都宮家も分裂しており大した兵士を動かせなかった可能性も高いと言えます。

南朝の大船団崩壊

後醍醐天皇は頼みとしていた後醍醐帝三傑も失いますが、大船団を組織し南朝の重臣を親王と共に地方に送り込む策に出ました。

義良親王、北畠親房、結城宗広伊達行朝らは東国を目指し、懐良親王らは九州を目指したわけです。

この時に、宇都宮公綱の子で若年の宇都宮氏綱が北条時行や新田義興と共に東国に向かった話が太平記にあります。

しかし、既に宇都宮家の本国である下野は芳賀禅可に抑えられており、宇都宮氏綱は既に下野にいたのではないかとも考えられています。

南朝の大船団は壊滅し義良親王らは吉野に戻り、結城親房や伊達行朝は常陸で奮戦する事になります。

尚、この時点では宇都宮公綱は吉野にいた事が分かっています。

後醍醐天皇の崩御

南朝の大船団崩壊で心が折れたのか、後醍醐天皇は1339年に崩御しました。

宇都宮公綱は足利尊氏に味方した事はありましたが、基本的には後醍醐天皇に忠義を尽くしたと言えるでしょう。

その後醍醐天皇の崩御は宇都宮公綱にとっては衝撃だったのかも知れません。

尚、後醍醐天皇の後継者は義良親王となり後村上天皇として即位しています。

後村上天皇が即位してから暫くすると洞院公賢の日記に、関東で下野の小山氏と常陸の小田氏が南朝として戦い宇都宮公綱も吉野から下野に移ったというものです。

しかし、北畠親房は高師冬や石塔義房との戦いで押され小田治久までもが北朝に与するなどしており、結局は吉野に戻っています。

宇都宮公綱も関東に行きはしましたが、戦果を挙げる事が出来なかったと考えられています。

微妙な立場

宇都宮公綱は本国である下野に戻りましたが、既に宇都宮氏綱が当主として奉られており、宇都宮公綱の立場は微妙なものとなります。

こうした中で幕府の中枢では足利直義高師直が争う観応の擾乱があり、足利直義は勝利しますが、今度は兄の足利尊氏と対立しました。

足利尊氏と直義の戦いである薩埵山の戦いが勃発しますが、この時に足利尊氏に味方した宇都宮氏綱が直義派の桃井直常を破り、尊氏の勝利に大きく貢献しています。

薩埵山体制が敷かれると畠山国清、河越直重、宇都宮氏綱は重用される事になります。

関東では北条時行、新田義興、上杉憲顕らが挙兵し足利尊氏と戦いますが、京都では足利義詮が北上した南朝の軍に敗れました。

この時に後村上天皇が児島高徳に命じて「新田義貞の一族や小山・宇都宮の一族に働きかけ東国を制する様に」と東国に向かわせた話があります。

児島高徳は東国で宇都宮公綱と出会い「東国静謐」を約束したと言います。

これを見ると息子の宇都宮氏綱が幕府方として戦っているのに、未だに宇都宮公綱は南朝の武将として活動している事になります。

しかし、宇都宮公綱に従う者は殆どいなかったのか、南朝が東国を制圧する事は出来ませんでした。

こうした中で1356年に宇都宮公綱は55歳で没しています。

不利な南朝を支え続けたと言えるでしょう。

宇都宮公綱の評価

南北朝時代を見ると多くの武士が自己利益の為に、南朝や北朝に揺れ動くシーンが何度も見られます。

こうした中で宇都宮公綱は形勢不利となっていた後醍醐天皇に忠義を尽くしたと言えるはずです。

確かに、新田義貞が形成不利になった時に、足利尊氏に味方していますが、これは一時的な事であり、成り行きで仕方なく味方したとみる事も出来ます。

下野の本国の家中が息子の宇都宮氏綱を奉じて室町幕府に味方しても、宇都宮公綱は南朝への忠義を貫いた様に見受けられるわけです。

南朝の忠臣と言えば楠木正成や楠木正行、北畠顕家が連想されがちですが、宇都宮公綱もまた忠臣だといえる事でしょう。

宇都宮公綱の動画

宇都宮公綱のゆっくり解説動画となっています。

尚、この記事及び動画は戎光祥出版の南北朝武将列伝をベースに作成してあります。

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