楊端和の史実の実績を紹介します。
漫画キングダムでは女性キャラとして描かれていますし、気が強くて美人で綺麗なお姉さんという感じがします。
さらに、山界の死王として、山の民を率いて秦王政(嬴政)や李信などと共に戦っているわけです。
成蟜の乱でも活躍していてますし、李牧が匈奴相手に大勝して警戒するべき人物だと秦王政に伝えたのも楊端和です。
春申君・李牧・龐煖らが5国からなる合従軍(楚・趙・燕・魏・韓)の軍勢で函谷関を攻めて、さらに精鋭を持って蕞の戦いが行われたわけです。
蕞(地名)においては、李信らの武将だけではなく、昌平君、介億らが奮戦し、秦王政も自ら援軍に来ますが、絶対絶命のピンチに陥ってしまいます。
函谷関の戦いでは、合従軍の大軍を相手に汗明や臨武君、成恢などを討ち取り優位に戦いを勧めたにも関わらず、秦軍は思いもよらぬ苦戦を強いられる事になります。
敗戦かと思われた時に、楊端和が強力な山の民を引き連れて援軍に来た事で形勢は逆転して、合従軍は撤退する事になりました。
これを見ると、キングダムの楊端和はかなり役どころがいいキャラだと感じています。
ただし、ガッカリするかも知れませんが、これらの記述は史記や戦国策、諸子百家、資治通鑑などの書物にはない記述です。
今回は、史実の楊端和のお話です。
秦の将軍として信陵君と戦ったり、趙・魏・韓との戦いにおいて、絶大な功績を挙げた蒙驁(もうごう)が紀元前240年に死去しますが、その後から楊端和は史書に登場してきます。
蒙驁が死んだ事で、将軍に任ぜられたのが楊端和だったのかも知れません。
尚、史書などでは楊端和が女性だったと言う記述は全くありません。
魏を攻めて衍氏を抜く
魏の衍氏を抜いた記事が、司馬遷が書いた史記などに初めて楊端和が登場する記録です。
これが紀元前238年にあたり、秦王政(始皇帝)が即位してから、9年目の出来事になります。
同じ年に、秦は魏の垣と蒲陽も奪っていますが、将軍の名前が定かではありません。
もしかしてですが、楊端和が垣と蒲陽を落として、さらに衍氏を陥落させた可能性もあるでしょう。
史書の記事では、わずか1行しか文字がなく、楊端和がどのような戦い方をしたのかも分かっていません。
ただし、楊端和が魏の衍氏を抜いた年に、秦では嫪毐の乱が起きたわけです。
秦王政の母親である趙姫に気に入られた嫪毐(ろうあい)は、長信候となり嫪国まで建国して大変な権勢を誇る事になりました。
嫪毐が秦王政を排除しようとして、嫪毐の乱を起こした年でもあります。
嫪毐の乱自体は、昌平君や昌文君などが鎮圧し嫪毐は処刑される事になったわけです。
紀元前238年というのは、秦の内部では政局が不安定になっていました。
政局が不安定になっている中で、楊端和は魏の城を陥落させるなどしている事になります。
これを考えれば、楊端和は優れた将軍と言えるのかも知れません。
ただし、既に魏は東部も秦の領土となり東郡にされてしまっていますし、国力の差がありすぎて秦に対抗する事が出来ないような状態だったのでしょう。
それを考慮すれば、名将とは言い難いかな?という感じもします。
魏が政局が安定していない秦に対しても破れてしまう辺りは、滅亡が近いとか魏の全盛期であった文侯や武候の頃の見る影もない状態に見えます。
ちなみに、秦末期の時代に、趙高が秦の宮廷を牛耳っていましたが、外では章邯が陳勝・項梁・劉邦・項羽などと戦っています。
その時は、王離(王賁の子)が趙で項羽に敗れた事で、章邯が項羽に降伏してしまい秦の滅亡が決定的となっています。
嫪毐の乱の時は、秦を滅ぼしてやると息巻く王がいなかったのと、嫪毐の乱が短期間で終わった事、秦に対して攻撃を仕掛ける勇気ある諸侯がいなかった事、秦に対する民衆の不満も極度に達していなかったのでしょう。
そのため、楊端和も政情が安定していなくても、魏の衍氏を抜く事が出来たのだと考えています。
逆に、諸侯が一致団結して、合従軍で攻め込み全ての諸侯が本気で戦えば、案外、秦の統一は無かったのかも知れません。
ただし、合従軍の様な諸侯連合は、楽毅などの成功例もありますが、基本的には連携が悪いのか失敗例も多いんです・・・。
鄴攻めで功を立てる
楊端和は鄴攻めにも将軍として参加しています。
鄴攻めでは、王翦が総大将で桓騎と楊端和は副将として参戦したのでしょう。
秦は10人中2人だけを残す精鋭部隊だけにした戦いで、趙に挑んだわけですが、この精鋭部隊が閼与、鄴、遼陽などの城を落としています。
史書によると、桓騎が鄴を陥落させて、王翦が閼与を落としたとあります。
紀元前269年の閼与の戦いでは、秦の胡傷が趙の趙奢に敗れていますが、見事にリベンジした事になります。
楊端和がどのような活躍をしたのかは分かりませんが、その他にも9城を落とした記述があるので、ここで活躍したのかも知れません。
尚、漫画キングダムでは、楊端和を総大将とする軍は犬戎の軍と戦闘を行った事になっています。
原泰久先生は、山の民と犬戎の異民族対決を考え出したのだと思いますが、そのような事実は史書にはありません。
犬戎は、西周王朝を申公らと共に滅ぼした事でも有名ですが、春秋時代に秦の穆公の時に、勢力の大半を削がれています。
さらに、その後は匈奴の一部になったりしたりして行方不明になっているわけです。
秦の統一が決定的となっているこの時期であれば、犬戎は見る影もないような集団になっていた事でしょう。
秦の将軍である楊端和と戦ったとしても、犬戎の残党では歯が立たなかったのではないか?と私は考えています。
キングダムですと、朱海平原において李牧と王翦が戦った事になっていますが、これも史実ではありません。
李牧は、この時期は北方の長官として匈奴に対して睨みを利かせていたはずです。
話を戻しますが、秦は鄴攻めに関しては大成功を収め、趙の南部と西部の交通を遮断する事に成功し、大戦果を挙げています。
韓は既に、要地である成皋を秦に摂られていますし、魏も東部を奪われるなど滅亡が近づいています。
それに続き、趙も鄴攻めにより漳水(しょうすい)沿岸の城を落とされた事で国土が半分以下になってしまい滅亡が見えて来たわけです。
鄴攻めには、楊端和も将軍として参加しているわけで、功績を挙げた事は間違いないでしょう。
趙を滅亡させる
楊端和は、紀元前229年に趙の都邯鄲を攻めています。
紀元前230年に秦の内史騰が韓の首都である新鄭を陥落させて滅亡に追い込んでいます。
戦国七雄の一角が滅びたわけで、秦の天下統一が加速されている時代です。
さらに、秦は王翦、楊端和、羌瘣を派遣して、趙都邯鄲に軍を進めています。
鄴攻めから、邯鄲を攻めるまでに7年の歳月があるのですが、この間に楊端和が何をしていたのかは分かりません。
王翦も鄴攻めから7年間は、戦争に出た記録がないので、何をしていたのかはよく分からないのが実情です。
記録が無いだけで、どこかの戦場で明け暮れていたのかも知れません。
それか征服した土地の行政に当たっていた可能性もあるでしょう。
それか、この当時は秦王政の周りには昌文君だけではなく、尉繚(うつりょう)や李斯、趙高などもいたわけで、法律の勉強などもしていた可能性もあるのかも知れません。
趙との最後の戦いである邯鄲の戦いですが、趙は李牧と司馬尚を大将として、秦に対して反撃してきたわけです。
キングダムでいう三大天のうち二人が将軍として、王翦、楊端和、羌瘣と対峙しています。
しかし、秦の首脳部は既に、趙の佞臣である郭開を買収していて、趙の幽穆王に李牧と司馬尚を讒言する事で排除する事に成功しました。
李牧がいない趙が、秦の相手になるはずもなく、新たに将軍となった趙葱と顔聚を破り幽穆王を捕らえる事に成功しています。
趙の悼襄王の元の太子であった趙嘉が代に逃げて代王となりますが、紀元前228年は趙都邯鄲が陥落した事で、事実上の趙の滅亡となります。
楊端和は、趙を滅亡させるのにも活躍したわけです。
王翦の副将として、活躍したのでしょう。
王翦の緻密な戦い方を、現場で実践出来る人材が楊端和だったのかも知れません。
楊端和の最後
楊端和ですが、趙の都である邯鄲を陥落させてからは、史書に登場しなくなります。
王翦の副将として従軍したのであれば、邯鄲攻略の翌年には、燕と代の連合軍を易水の西で破った事になります。
さらに、燕の都である薊を王翦は攻略していますので、それに従ったのかも知れません。
尚、燕を攻略した時に、李信が燕の太子丹を斬った話もあります。
燕太子丹は、秦王政に荊軻という刺客を送り付けた事でも有名な人です。
その後、王翦は一度は引退しますが、李信と蒙恬が敗れると、秦の全軍を率いて楚の項燕と戦いますが、そこでも楊端和の記録がないわけです。
記録がないだけで、実際には戦場で活躍したのかも知れませんが、趙を滅亡させた段階で将軍を引退したのかも知れません。
可能性は少ないと思いますが、流れ矢に当たったなどで、邯鄲の戦いで死んでしまった可能性もあるでしょう。
キングダムでの楊端和を予想するとすれば、趙を滅ぼした段階で山に戻り平和に暮らしたというのが自然に感じます。
個人的に面白いと感じるストーリーがあるとすれば、匈奴の単于の嫁となり冒頓単于を生んだとかになったら、面白いかなとは思いました。
その可能性は極めて低いですし、史実では男だと思われますので、そういう事はしないでしょう。
しかし、楊端和の史実での最後は気になる所です。
司馬遷の著した史記では列伝の中の人物であっても、最後がどうなったのか分からない人も多いわけです。
その辺りがモヤモヤしてしまうわけで、もう少し情報収集してくれたらなと考えています。
楊端和と楊貴妃
楊端和は、キングダムでは先に言ったように女性キャラとなっています。
これに関してですが、唐の玄宗の后となった楊貴妃をモデルにしたのかな?とも考えた事があります。
楊貴妃は絶世の美人とされていますし、楊性で有名な人と言えば楊貴妃が上がるのではないかと思います。
三国志の楊修なる魏の曹操に仕えた武将も存在しますが、楊姓で有名な人物といえば楊貴妃に譲らなければならないでしょう。
尚、楊貴妃は安史の乱において、玄宗皇帝が部下の進言で殺さなければならなくなってしまい、自殺を命じて生涯を終えています。
傾国の美女として、有名な人物です。
楊貴妃が有名なので、同じ楊性の楊端和を女性にする事で、キングダム作者の原泰久先生は話を盛り上げようとしたのかな?と感じた事もありました。
この辺りは、私の想像でしかなく、原泰久先生に聞いてみないと分からない所でもあります。
繰り返しますが、事実の楊端和を見ると女性という記述や山の民や異民族だったという記述も一切ありません。
普通で考えれば、秦で登用された男の将軍なのでしょう。
秦の六代将軍に任命される
漫画キングダムのオリジナル設定で、秦の六大将軍なるものがあります。
秦の昭王の時代に活躍した将軍である白起、王騎、司馬錯、王齕、胡傷、摎に戦争の自由を与え秦の六将としていた話です。
秦王政(嬴政)が秦の天下統一の為に、六大将軍(最後の一人は未定)を復活させ王翦、蒙武、桓騎、騰らと共に楊端和も選ばれています。
キングダムの世界では楊端和が既に秦の最高峰の将軍に任命されている事になります。
史実でも楊端和は趙を攻めた記述もあり、趙の滅亡までは活躍が残っている事もあり、今後も期待したいと思います。
尚、別記事で記載しますが、史実では楊端和と摎が同じ一族、もしくは同一人物の可能性もある様に感じています。