名前 | 臧洪(ぞうこう) 字:子源 |
生没年 | 生年不明ー196年 |
時代 | 三国志、後漢末期 |
勢力 | 張超→袁紹→独立勢力 |
年表 | 191年 東郡太守となる |
画像 | 三国志珍人物伝人物アイコン23 |
臧洪は徐州広陵郡射陽県の人であり、正史三国志や後漢書に伝がある人物です。
正史三国志では呂布と共に臧洪伝として収録されています。
一緒に収録されている呂布は丁原や董卓、劉備など裏切りを続けましたが、臧洪は忠義の烈士というべきであり、呂布と性格は真逆と言ってもよいでしょう。
臧洪は最初に反董卓連合を結成する様に進言した人物でもあり、一時は反董卓連合の盟主にもなっています。
後に臧洪は主君の張超と別れてしまいますが、張超が曹操に攻められると袁紹に救援を出す様に要請しました。
ここで袁紹が援軍を出さなかった事で、臧洪は袁紹と対立し反旗を翻しますが、結局は破れています。
張超とは君臣の関係を超えた主従関係があったと見る事も出来ます。
臧洪の態度は烈士と呼ぶに相応しく、人間性も立派でしたが、正史三国志でもインパクトがありますが、知名度が低いのは三国志演義で登場しない事が大きい様に感じました。
尚、臧洪は後漢書では虞傅蓋臧列伝に臧洪伝があり、下記の人物と共に収録されています。
虞詡 | 傅燮 | 蓋勲 | 臧洪 |
張超に仕える
臧洪の父親の臧旻は中山太守などを歴任し名声がありました。
臧洪は生まれつき体格や容貌が優れており、堂々とした態度で立派だったと伝わっています。
後の臧洪は孝廉に推挙され、郎となります。
正史三国志によれば当時は三署の郎から、県庁を任命するのが慣例であり、趙昱、劉繇、王朗などを共に県令となった話があります。
臧洪は即丘の県令となりました。
しかし、臧洪は霊帝の末年になると、官位を捨てて帰郷し、広陵太守の張超の招聘を受け功曹となります。
張超は臧洪を高く評価し、信頼する事となります。
張超と臧洪は気が合う部分も多くあったのでしょう。
反董卓連合
挙兵を促す
董卓は何進の死後に実権を握ると、少帝を廃し後に殺害し献帝を即位させました。
董卓が後漢王朝の朝廷を牛耳り、董卓の専横が始まる中で臧洪は張超に次の様に進言しています。
臧洪「殿(張超)は代々に渡り、天子の御恩を受け兄弟そろって大きな郡を任されています。
しかし、現在の大室は危機に見舞われており、賊臣の首がまだ獄門に掛けられてはおりませぬ。
今こそ、天下の烈士が立ち上がり、ご恩に報いる為に命を捧げる時でございます。
現在、郡の境界はまだ安泰であり、官民ともに裕福です。
ここで太鼓を打ち鳴らし、兵を集めれば2万の軍勢を手に入れる事が出来ます。
この軍勢で国賊を誅殺し、天下の為に口火を切る事こそが、偉大なる正義となります」
臧洪は張超に天子への恩を返す為に、正義の挙兵をする様に要請しました。
臧洪が張超に挙兵を促した事が、反董卓連合の始まりとなります。
反董卓連合と言えば、三国志演義のイメージが強く袁紹や曹操が呼び掛けて作った様に思うかも知れませんが、史実では臧洪が決起人だと言えるでしょう。
張邈を誘う
張超も臧洪の言葉に共感し、董卓打倒の為に動く事になります。
張超は兄の張邈を仲間に引き入れる為に臧洪と共に、陳留に向かいました。
張邈も反董卓の意思があり、臧洪や張超の言葉に納得し打倒董卓の仲間となります。
張邈はこの時に臧洪と話してみて、張超と同様に臧洪を高く評価しました。
臧洪と親しい間柄であった兗州刺史の劉岱、豫州刺史の孔伷らも反董卓への賛同を得ます。
ここにおいて張邈、張超、劉岱、孔伷、橋瑁で最初期の反董卓連合が結成されたわけです。
盟主となる
張邈、張超、劉岱、孔伷、橋瑁で反董卓連合が結成されましたが、誰が盟主になるかの段階になると決める事が出来なかったわけです。
孔伷などは文化人の様な人であり、そもそも戦いには向いていなかった話もあります。
こうした中で、臧洪が盟主に推薦され、反董卓連合の盟主となりました。
臧洪は張超、張邈、劉岱、孔伷らと親密な間柄であり、能力も知れ渡っていた事で、皆が盟主に相応しいと考えたのでしょう。
臧洪は盟主に選ばれると、檀上に行き皿を手に取り血をすすり、次の様な誓いを立てました。
臧洪「漢王室は不幸に見舞われ、天下を統治する大権を失ってしまった。
賊臣董卓が混乱につけ込み、欲しいままに悪事を行っている。
董卓は天子に危害を加え、人民を虐待し国家は破滅し転覆する懸念がある。
兗州刺史の劉岱、豫州刺史の孔伷、陳留太守の張邈、東郡太守の橋瑁、広陵太守の張超らは、正義の兵を糾合し困難に立ち向かおうとしている。
およそ我らは盟約を結び、心を一つとし臣下としての忠節を尽くし、首を失い頭を落しても、二心を持つ事はない。
この盟約に背く者がいたならば、その命を奪い、子孫をも絶やす事であろう」
臧洪は気持ちが高ぶり、激情的な性格から涙を流しました。
臧洪の演説は見事なものであり、一兵卒に至るまで激しく感情を高ぶらせ、誰もが忠義を捧げようとしたとあります。
尚、臧洪の宣誓文ですが「臧洪の絶交書」と呼ばれ、文学の方ではかなり高い価値があるとされています。
下記の動画で國學院大學の宮内克浩氏の論文が紹介されていました。(4分30秒ころから)
宮内氏の見解によれば、臧洪の宣誓文は春秋時代に行われた晋の文公の践土の盟がベースになっているのではないか?と述べています。
さらに、践土の盟との違いも追及されており、臧洪の動画を視聴してみてください。
その後の反董卓連合
臧洪伝の記述を見ると、臧洪が反董卓連合の盟主となりましたが、次の記述が存在します。
※正史三国志 臧洪伝より
諸軍のうちには率先して進撃しようとする者がおらず、食料が底をついたので軍勢は解散した。
臧洪伝の記述をみるだけだと、臧洪も戦わずに兵糧が尽きて撤退したかの様な記述があります。
しかし、正史三国志の他の部分の記述を考慮すると、橋瑁が三公の文書を偽造し、諸侯に決起を促した事が分かります。
こうして袁紹や曹操などが反董卓連合に加わり、袁紹が改めて盟主になったと言うのが実情なのでしょう。
ただし、董卓軍と戦ったのは曹操と孫堅くらいであり、他の諸侯は進んで戦おうともしなかったわけです。
さら、董卓が洛陽を捨て長安に遷都した事で、反董卓連合は瓦解しました。
袁紹に認められる
袁紹は董卓が擁立した献帝を認めておらず、韓馥と共に皇族の劉虞を皇帝に立てようとしました。
劉虞の皇帝擁立案は曹操や袁術が反対しましたが、臧洪の主君である張超は賛成の立場を取ります。
こうした事情もあり、臧洪は北方の劉虞の元に使者として赴く事になります。
しかし、この時に劉虞は公孫瓚と戦っており、臧洪は使者としての役目を果たす事が出来ませんでした。
臧洪は河間まで引き返しますが、今度は公孫瓚と袁紹が戦っていたわけです。
袁紹は臧洪と会見すると、臧洪を高く評価し、この時に青州刺史の焦和が亡くなっていた事で、袁紹は臧洪に青州を治めさせようと考えました。
臧洪は頼まれると断れない性格なのか、青州を治める事となり、2年の間に盗賊たちを駆逐したとあります。
ただし、臧洪伝には書かれていませんが、この時に公孫瓚も田楷を刺史として送り込んでおり、青州は不安定だったはずです。
こうした中で、臧洪は成果を出したわけであり、優れた統治能力をを持っていたのでしょう。
袁紹は臧洪の統治能力の高さに感嘆し、東郡太守に転任させ、東武陽に住まわせたとあります。
この時には、臧洪は袁紹の臣下の様な形になっていたのでしょう。
張超の最後
曹操は徐州の陶謙を攻める為に、2度に渡り遠征を行っています。
この時に陳宮が不穏な動きを見せ許汜、王楷、張邈らが反旗を翻し、張超も呼応しました。
陳宮や張超らは呂布を兗州の主にするべく動きだします。
曹操陣営は夏侯惇や荀彧、程昱などは呂布に与しませんでしたが、兗州の大部分が呂布に靡きました。
曹操は一時は不利でしたが、盛り返すと呂布の勢力を追い詰め、呂布は劉備を頼って落ち延びていきます。
こうした中で、張超は雍丘で曹操に囲まれ、兄の張邈は袁術への援軍要請の使者となります。
この時に、張超は「臧洪だけが頼りだ。きっと救いに来てくれるであろう」と述べました。
しかし、袁紹と曹操は友好関係にあり、状況から行って袁紹配下にいる臧洪が助けにくる必要は限りなく低かったわけです。
多くの者が「臧洪はやって来ない」と考えますが、張超だけは「臧洪は天下の義士」だと述べ、臧洪を信じていました。
臧洪の方でも張超が曹操に囲まれ窮地に陥っている事を知ると、裸足で袁紹の元に駆け付け、涙を流し袁紹に兵馬を貸して欲しいと願います。
臧洪は必死で袁紹を説得しようとしますが、袁紹は首を縦に振る事はありませんでした。
袁紹から見れば、張超が勝手に曹操を裏切って危機に陥ったのだから「自業自得」だと考えたのかも知れません。
さらに言えば、臧洪の個人的な願いを、聞き入れる必要はないとか思ったのかも知れません。
袁紹は最後まで臧洪の出撃を許可せず、これにより張超は命を落し一族は皆殺しとなります。
この事から、臧洪は袁紹を恨み反旗を翻しました。
袁紹の降伏勧告
臧洪が兵を挙げると、袁紹は軍隊を出撃させ臧洪が籠る城を包囲しました。
臧洪の守は固く年が超えても、袁紹は城を落す事が出来なかったわけです。
そこで袁紹は臧洪と同郷の陳琳に手紙を書かせ、利害について教えを諭し恩義に背いたと非難する事となります。
臧洪は陳琳の手紙を返しますが、降伏に応じる気持ちはありませんでした。
臧洪の返書に関しては、下記の動画に詳しいです。(4分55秒のあたりから)
困窮する城内
袁紹は臧洪に降伏の意思がない事を悟ると、兵を増強して激しく攻め立てる事にしました。
臧洪が籠城する城内では食料が不足し、外からの救援もなく孤立無援の状態であった事から、臧洪は死を悟ります。
臧洪は官吏や兵たちを集めると、次の様に述べています。
臧洪「袁氏は無道を行い大それた事を考えている。
さらに、私の郡の将(張超)を助けなかった。
私は大義の上で死を免れる訳にはいかないが、貴方たちは何の因果もないのに禍を被ってしまった。
城が落ちないうちに妻子を連れて、城を出て欲しい」
臧洪は兵達に退去しても構わないと述べましたが、将軍、官吏、兵、人民は皆が涙を流し、臧洪と共にする事を誓いました。
しかし、城内の様子は日増しに悪化し、鼠を捕って食べたり、獣の筋や骨を煮て食べていましたが、それすらも出来なくなります。
主簿が台所に米が三斗あるから、半分に分けて粥を作りたいと述べ、臧洪に献上したいと述べました。
臧洪はため息をつくと「私だけが食べる訳にはいかない」と言い、薄い粥を作りみんなですすらせています。
さらに、臧洪は自分の愛妾を殺害し、将兵たちに食べさせました。
配下の者達は臧洪の行動に、顔を上げる事が出来るものはおらず、皆が涙を流したとあります。
しかし、食料不足は深刻であり男女7,8千人が亡くなりましたが、離反した者は一人もいなかったとあります。
臧洪の最後
臧洪の奮戦空しく城は陥落し、臧洪は生け捕りにされ袁紹の前に連れて来られました。
袁紹は元々は臧洪を恨んでいたわけでもなく、諸将を集めると臧洪に次の様に述べています。
袁紹「臧洪よ。これ程までに強く反抗したのは何故だ。
今日こそは屈服してくれたであろうな」
袁紹は臧洪を許すつもりだった事が伺えます。
臧洪は地面に腰を下ろすと、目をかっぴらき、次の様に述べました。
臧洪「袁氏一族は漢王朝に仕え、四代に渡って五人もの三公を輩出している。
これは漢王朝から御恩を受けたと言ってもよいだろう。
それなのに王朝が衰弱しても助ける気もなく、機会が到来したとばかりに大それた事を考え出す。
さらに、良臣や多くの忠臣を殺害し、権威を打ち立てようと考えた。
儂は其方(袁紹)が張邈殿を兄と呼んでいたのを目の前で見ておる。
それが真実ならば、儂の主君(張超)は弟になるはずだ。
それなのに人(張超)が滅びるのを傍観した。
残念に感じるのは、儂の力が弱く刃を持ち仇を討つ事が出来なかった事である」
最後に臧洪は「何が屈服だ」と言い、袁紹に思いをぶつけました。
それと同時に臧洪が主君だと慕う人は、張超だった事が分かります。
袁紹は臧洪の能力や人柄を愛しており、許そうと思っていましたが、臧洪の気持を変える事が出来ないと悟ります。
さらに、臧洪が自分の為に働いてくれない事も理解し、袁紹は臧洪の処刑を決定しました。
過去に臧洪の配下だった陳容が、この場におり突如として、袁紹を罵ったわけです。
ここで陳容と袁紹は口論となり「臧洪と一緒に死のうとも、将軍(袁紹)と生きようとは思わぬ」と述べました。
これにより袁紹は臧洪だけではなく、陳容も処刑しています。
人々は臧洪と陳容が亡くなると、次の様に嘆いた話があります。
※正史三国志 臧洪伝より
なんという事だろう。1日のうつに二人の烈士が世を去ってしまうとは
臧洪と陳容の死を人々は悲しんだのでしょう。
尚、臧洪は呂布に援軍を依頼し二人の司馬を城外に出させ救援要請していました。
この司馬の二人が帰って来た時には、既に城は陥落しており、二名の司馬は敵陣に突入して討死しています。
主君が烈士であれば、部下もまた烈士が多かったのでしょう。
臧洪の評価
臧洪ですが、誰もが烈士だと認めるような人物だと言えるでしょう。
しかし、陳寿や徐衆が言う様に、柔軟性に欠ける部分があった様に思います。
張超の仇討がしたいのであれば、時期を見計らって行動を起こせばよかったと言うわけです。
時を見定め戦略を練り実行すれば、張超の敵討ちは、可能だったのかも知れません。
しかし、臧洪はそういう事を考えない様な不器用な男であったからこそ、張超や袁紹に愛されたのでしょう。
初期の反董卓連合も、臧洪が董卓打倒を叫んだ事で、集まったメンバーだと言えそうです。
臧洪の死は多くの者が悲しんだ事でしょう。