三国志で徐栄という男を知っている人が何人くらいいるでしょうか?
多くの方が知らないのではないかと思います。
ちなみに、反董卓連合軍が結成された時に、董卓軍として戦い曹操と孫堅を破るなどの活躍を見せています。
董卓の配下では、呂布や胡軫が陽人の戦いでは、仲違いなどを起こし華雄が戦死するなどの事件も起こしていますが、徐栄はきっちりと仕事をこなしています。
因みに、三国志演義では夏侯惇に徐栄は呆気なく討ち取られていますが、史実ではありません。
三国志で数多くの名将と呼ばれる人たちが出てきましたが、曹操と孫堅の両方に戦で勝利を収めた事があるのは徐栄だけではないかと思います。
これだけでも名将だという事が分かるはずです。
余談ですが、呂布配下の高順や董卓配下の徐栄などは、曹操の部下であれば、かなりの活躍をし歴史に名を残した様に感じています。
曹操配下の徐晃、張遼、楽進、于禁、曹仁、張郃などにも匹敵する様な功績を挙げた可能性もある様に感じています。
ただし、仕える主君を間違えると、能力があっても実力を発揮できない典型の様にも感じました。
今回は徐栄が優れた将軍だと知って欲しいと思い記事にしてあります。
尚、三国志の正史をベースとした漫画である蒼天航路で徐栄が登場し「論ずるに術がござらん。」の言葉は、一部では人気を博している様です。
三国志演義の徐栄はパッとしない。
董卓軍の華雄の場合は、正史だとパッとしないのに、三国志演義だとやけに活躍します。
その反対に、三国志演義だと全く活躍しないのに、正史だとやけに活躍するのが徐栄です。
三国志演義では、董卓は虎牢関の戦いに敗れて李儒の献策もあり長安遷都を決めます。
洛陽を焦土化して、長安に行くわけですが、それを曹操が追撃戦を行おうとします。
袁紹や袁術などの連合軍の大半は動かず、曹操だけが単独で追撃戦を行ったわけです。
しかし、董卓の軍師である李儒は、呂布を伏兵として配置し待ち伏せています。
この策が当たり曹操は大敗し、曹洪と共に死地から逃げようとするわけです。
その前に立ちはだかったのが、徐栄です。
必死に逃げる曹操と曹洪ですが、徐栄もしつこく追ってきます。
そして、曹操と曹洪が河を泳いで渡っても、徐栄は追撃を行い、曹操はもはや絶体絶命のピンチに陥るわけです。
ここで曹操は命を落とすのか・・・。と思った時に、曹操軍の夏侯淵と夏侯惇が助けに入ります。
徐栄は夏侯惇に槍で突かれて呆気なく命を落としています・・・。
三国志演義だと徐栄は明らかに、チョイ役として使われているわけです。
これに対して、史実の徐栄は中々の名将でもありますし、カッコいい人物でもあります。
曹操を破る
反董卓連合軍が結成された時に、曹操は鮑信と共に戦略上の要地である成皋を奪取しようとします。
成皋は楚漢戦争で項羽と劉邦も奪い合った地ですし、春秋戦国時代には韓の謀臣である段規が主君の韓康子に、成皋を取れば鄭を滅ぼす事が出来ると進言した重要拠点となります。
重要拠点である成皋に、董卓が派遣した将軍が徐栄です。
この二つの軍は滎陽県汴水で激突しましたが、徐栄が圧倒しています。
曹操軍の先陣であった衛茲も戦死していますし、同様に鮑信の先陣であった鮑韜も徐栄に討ち取られています。
曹操は馬を射られてしまい徒歩の人となり、鮑信も負傷するほどの激戦だったようです。
曹操は曹洪の力を借りて死地を抜けました。
軍が崩壊しなかったのは、鮑信が上手い具合に兵士をまとめて、敵に備えたからです。
これに対して、徐栄は曹操や鮑信は敗れたとはいえ、まだまだ士気が高く攻め落とせないと判断します。
さらに、下手に攻めると味方の被害が甚大になる事を恐れて、西に引き上げているのです。
この事からも徐栄に冷静な判断力があった事が分かります。
もちろん、この後に夏侯惇が登場して、徐栄は刺されたという事もありません。
徐栄はこの後に孫堅とも戦う事にもなります。
孫堅軍も破る
反董卓連合軍には孫堅も参加していましたが、董卓は孫堅に対してはかなり警戒をしていたようです。
かつて、董卓は張温の配下として、陶謙らと共に西方の韓遂を鎮圧した時に、活躍を見ていたのか連合軍の中で格別に孫堅を警戒していました。
孫堅は張角が引き起こした黄巾の乱でも、朱儁が孫堅を抜擢し活躍しています。
董卓にとって危険人物である孫堅に対して、董卓は徐栄に戦う様に命じています。
この時に、徐栄は電光石火の先制攻撃を企画して見事に孫堅軍を破っています。
孫堅は戦上手で有名な男でしたが、徐栄に対しては大敗北を喫する事になりました。
尚、三国志演義では華雄に追われた孫堅の身代わりになって、孫堅配下の祖茂が死んだ事になっていますが、実際に祖茂が身代わりになったのは徐栄に敗れた時です。
三国志の登場人物でも戦上手として有名な曹操と孫堅の両方を破ったのは徐栄一人ではないかと思っています。
それだけに、三国志演義での扱いは勿体なく思いました。
尚、曹操と違って孫堅は敗走しましたが、態勢を立て直して陽人に籠り抵抗しています。
陽人の戦いでは、董卓は胡軫と呂布に孫堅討伐を命じますが、呂布が味方の胡軫に偽情報を流したために、華雄が犠牲になっています。
胡軫の人望の無さから呂布が足を引っ張り結果として、華雄は討死したとも言えるでしょう。
徐栄の最後
徐栄は董卓の配下として活躍はしましたが、董卓にどこまで忠誠心があったのかは不明です。
ただし、正史での董卓は呂布と女性関係で仲違いした事で亡くなっています。
三国志演義では王允が連環の計で貂蝉を使い、呂布と董卓の関係を裂き、呂布が董卓を殺してしまうなどドラマチックに描かれています。
史実でも董卓は呂布により命を落としますが、賈詡に知恵を授かった李傕と郭汜が長安に攻めてきました。
胡軫は元々、諸将からも人望がないような人物で、戦いが始まるとあっという間に破れて降伏してしまいます。
この胡軫の弱さ?があっては、徐栄も実力を発揮出来なかったのか、徐栄の軍も破れて指揮官である徐栄も戦死する事になりました。
胡軫を将軍に選ぶ辺りは王允の人選ミスだとも考えられます。
実際に、胡軫の軍がすぐに後退を初めてしまった為に、徐栄の軍の兵士が動揺して連鎖的に敗れたようです。
胡軫が寝返ったとする話もあります。
それか、李傕と郭汜には策略家の賈詡が付いているので、なにかしらの計略に嵌った可能性もあるでしょう。
しかし、徐栄にして見れば自分一人を将軍にしていれば勝っていたと思ったかも知れません。
徐栄の最後はやるせない気持ちがあったようにも感じます。
徐栄は曹操や孫堅を破った事から名将だという事は分かりますが、死ぬのが早すぎたのか有名どころではありません。
光栄の三国志シリーズでも、最近は能力値が上がって来たように感じますが、過去はザコ武将扱いでした・・・。
尚、三国志の時代に遼東で独立国を作った公孫度を遼東太守に推薦したのは徐栄です。
公孫度は異民族討伐などにも成果を上げた戦上手だったわけですが、徐栄は高く評価しています。
徐栄を見れば三国志には、隠れた名将がいる事がよく分かるのではないかと思います。
だけど、徐栄は上司や同僚に恵まれなかったような気がします・・・。
真の名将になるためには、主君や組織なども大きく関係していると思いました。
あと、史実の徐栄を考えてみれば三国志演義の扱いは悪いとしか言いようがないでしょう。
史実の徐栄は老獪さも持った名将です。