名前 | 趙岑(ちょうしん) |
生没年 | 不明 |
登場 | 三国志演義 |
画像 | ©コーエーテクモゲームス |
趙岑は三国演義に登場する人物であり、正史三国志や後漢書、資治通鑑には登場しません。
そうした事情から、趙岑は三国志演義の架空のキャラクターだと考えられています。
趙岑は華雄の部下として、汜水関の戦いに登場しますが、汜水関の戦いは三国志演義の架空の戦いでもあり、趙岑は羅貫中が創作した架空の人物だとする可能性は極めて高いです。
趙岑は三国志演義では華雄と共に登場し、華雄が敗れて董卓が李儒の進言により長安遷都を実行すると、汜水関を開けた記録があります。
この時には趙岑が汜水関を守る大将になっていた様ではありますが、この後の記録がなく、これ以降は登場しません。
今回は三国志演義に登場する架空の人物である趙岑を解説します。
華雄配下として出陣
黄巾の乱が終わり何進が殺害されると、少帝と陳留王(献帝)を保護した董卓が実権を握りました。
それに対し、董卓打倒の為に動いたのが曹操や袁紹であり、反董卓連合を結成して洛陽に攻め上る事になります。
董卓陣営では誰が迎え撃つのかの軍議となり呂布が名乗り出ますが、結局は華雄が汜水関で迎え撃つ事となります。
華雄は出陣しますが、次の記述があります。
董卓は華雄に騎兵、歩兵、五万を与え李粛、胡軫、趙岑らと、夜のうちに関に向かい敵に当たらせる事とした。
これが趙岑の初登場であり李粛や胡軫と共に、華雄の部下として汜水関に向かった事が分かるはずです。
連合軍と華雄が汜水関の付近で戦い、華雄は鮑信の弟の鮑忠を討つなど活躍しました。
胡軫も五千の兵で出撃していますが、孫権配下の程普に討ち取られています。
孫堅は程普、黄蓋、祖茂の助けもあり善戦しますが、袁術が兵糧を送らなかった事で華雄に敗れました。
華雄は兪渉、潘鳳を打ち破る活躍を見せますが、趙岑の活躍をみせる描写は無く、華雄の武勇だけが目立つ展開となります。
汜水関を任せられる
趙岑の上司である華雄は暴れ回りますが、劉備配下の関羽に討たれました。
華雄の敗北を知った董卓は、15万の兵で李儒、呂布、張済、樊稠で虎牢関に向かわせ、李傕と郭汜には5万を与え汜水関に向かわせる事になります。
これにより趙岑は李傕や郭汜と共に汜水関を守る事になったのでしょう。
董卓は汜水関を守る将軍には「出撃してはならない」と命令し、守りを固める様に命じました。
これにより趙岑は連合軍と戦う必要もなくなり、汜水関の中に籠る事となります。
虎牢関の戦いでは呂布が武安国、穆順を破り公孫瓚を追い詰めますが、劉備、関羽、張飛の攻撃を受けて関の中に引き返しました。
こうした中で、董卓は李儒の進言により長安遷都を強行し、李傕と郭汜も洛陽の住民を長安に移す作業に入ります。
李傕と郭汜が洛陽で任務にあたった時点で、趙岑が汜水関の守備の責任者になったはずです。
董卓は洛陽を焦土と化し放棄しますが、次の記述があります。
※三国志演義より
董卓の武将趙岑は、董卓が洛陽の都を放棄したとみるや、汜水関を明渡した。
趙岑が董卓に命令されて汜水関を明渡したのか、自分の意思で明渡したのかの記述は存在しません。
董卓が無事に洛陽から引き上げたと考え、汜水関を明渡したとみる事も出来るはずです。
趙岑が汜水関を明渡し、孫堅が汜水関を通り洛陽に行き玉璽を見つける流れへと物語は進んでいきます。
因みに、趙岑はこれ以降に物語には登場せず、ここでフィードアウトしました。
趙岑が何の為に創作されたキャラクターなのかはイマイチ不明です。
ただし、反董卓連合軍は多くの諸将が参戦した事になっており、董卓軍もそれなりの軍勢や将軍の名前を挙げる必要があり、架空の趙岑なる人物が創作されたのかも知れません。
この辺りは、三国志演義の著者である羅貫中で無ければ正確な部分は分からないはずです。