戦国四君は、斉の孟嘗君、趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君の4人を指します。
この4人は戦国時代中期から後期にかけて存在した人物で、食客を3000人集めたと言う事でも有名です。
尚、食客3000人と言うのは、「食客がたくさんいた」という意味らしく、本当に3000人の食客がいたのかは定かではありません。
食客を多く雇う力が臣下にある事を考えると、強国のための中央集権化が進んでいない事を指すと考える人もいます。
しかし、戦国四君は強国である秦に対して、活躍した4人とも言えます。
ちなみに、戦国四君のが活躍した時代は、主に秦の昭王の時代です。
尚、春申君はキングダム(原泰久先生の漫画)でも、合従軍を率いて総大将として李牧と共に、函谷関を攻めるなどの場面があったため、比較的知名度は高いかと思います。
春申君が関わった紀元前241年の函谷関の戦いや連動して動いたとみられる、龐煖の蕞の戦いに関しては既に記事にしてあるので、興味があれが読んでみてください。
ここでは、戦国四君をまとめてみて、有能な部分や無能?だと感じる部分などを紹介します。
孟嘗君は無法者の親分だった?
戦国時代の中期は、斉と秦の2強時代だったわけですが、その時代に斉の宰相として活躍したりしたのが、孟嘗君です。
尚、孟嘗君とは死後に呼ばれた名前であり本名は田文です。
斉の王族でもあります。
孟嘗君が宰相をしていた時代は、斉は強国であった事は間違いありません。
しかし、孟嘗君がどのような政策をしたのか?などは、分かっていません。
史記を書いた司馬遷には、孟嘗君列伝がありますが、鶏鳴狗盗など食客の話しになっていて、具体的な孟嘗君の活躍などは出て来ません。
ただし、斉・韓・魏の連合軍を率いて、秦を攻めて函谷関を破り土地を割譲させるなど、秦を相手に奮戦した記録が戦国策にあります。
斉・韓・魏の合従軍で斉軍の実戦指揮をしたのは匡章ですが、合従軍は孟嘗君の呼びかけで結成した事もあり、孟嘗君の武威は天下に鳴り響きます
尚、春秋戦国時代を通して函谷関を破ったのは、孟嘗君が組織した紀元前298年の合従軍のみとなります。
後に食客である、馮驩(ふうかん)の活躍もあり、魏の宰相となっています。
燕の楽毅が五カ国からなる合従軍を率いて斉を破り、斉の湣王が亡くなった時には、既に孟嘗君は魏に移っています。
尚、孟嘗君の食客には、乱暴者が多かったようです。
孟嘗君は、犯罪者などまで食客にしてしまった為に、領地である薛は非常に無法者が多かったと司馬遷は語っています。
孟嘗君の最後は、薛で独立勢力のようになっていたようですが、死ぬと息子たちが跡目を争い、その隙に斉と魏により滅ぼされたとあります。
これを考えれば、後継者選びでは失敗したと言わざるを得ないでしょう。
ただ、戦国四君の中では、筆頭は孟嘗君だと考える人も多いです。
戦国四君でランク付けをされた場合に、1位は信陵君か孟嘗君だと評価する人も多いのが特徴です。
尚、戦国四君の信陵君、平原君、春申君と比べるてみると、孟嘗君だけは一世代前の人物とも言えます。
平原君が戦国四君の中で最も無能?
平原君は、戦国四君の中で最も無能とされる事が多いです。
無能とされてしまう原因ですが、長平の戦いにおいて、上党の地の割譲する案を受ける事に賛成してしまった事が挙げられます。
もちろん、長平の戦いは平原君だけが原因で負けたわけではありません。
しかし、きっかけを作ってしまったのは平原君だとも言えるでしょう。
他にも、後に信陵君の食客となる毛公と薛公の二人を馬鹿にする事を言い、最終的に信陵君に冠を取り頭を下げています。
さらに、信陵君に食客の半分が移ってしまうという屈辱も味わっているわけです。
孟嘗君には、県の一つを壊滅状態にされていますし、春申君の食客に比べると、平原君の食客は待遇が悪かったなどもあります。
他の戦国四君のメンツに比べると、どうしても評価を下げられてしまうのが平原君です。
ただし、平原君は失敗も多いのですが、部下に諫められて改善したり、趙奢の実力を認めて兄である恵文王に推挙したりもあります。
史記には、3回宰相の位を罷免されたが、3度返り咲いたともあり、司馬遷も一定の評価をしていたのでしょう。
尚、平原君の子孫は、趙の滅亡と共に滅んだとあるので、それを考えれば戦国四君の中で終わりが一番まともなのは平原君だとも言えます。
その点は評価するべきでしょう。
信陵君が戦国四君最強の男なのか?
信陵君は、魏の安釐王の弟です。
尚、信陵君は戦国四君最強に推す人が非常に多いと言えます。
孟嘗君などは、有名ではありますが具体的な実績が不明な点があるわけです。
それに比べると、信陵君は明らかな武功があります。
一つ目が趙の都である邯鄲が、秦に包囲された時に、援軍として駆けつけた時です。
二つ目の武功が、合従軍(魏・趙・韓・燕・楚)を率いて黄河の外で、蒙驁が率いる秦軍を破り函谷関まで、攻めていったわけです。
これにより信陵君の武威は天下に鳴り響いたとあります。
このように絶対的な功績がありますし、他の戦国四君は史記の列伝で、「孟嘗君列伝」、「平原君・虞卿列伝」「春申君列伝」としているのに、信陵君だけは「魏公子列伝」としてあります。
魏公子列伝とありますが、内容は明らかに信陵君だけを指しています。司馬遷も信陵君には一目置いていたと考えられます。
さらに、始皇帝や漢の高祖である劉邦も尊敬していた話もあり、四公子(戦国四君)最強は信陵君だと考える人が多いです。
ただし、信陵君は最後、アル中となり死んでいるので、その点はマイナスと言えるでしょう。
春申君が最後が悪すぎる
春申君ですが、最初は一通の手紙により秦が楚を攻めるのをやめさせたり、秦の人質だった頃の楚の太子(考烈王)を命を懸けて帰国させるなど、知力も胆力も優れた人物でした。
考烈王が即位すると、宰相となり20年以上にわたり楚の宰相となります。
その間に、魯を滅ぼしたりと活躍もしているわけです。
しかし、趙の龐煖と連動して合従軍を結成し、函谷関を攻めて失敗した頃から、考烈王との仲が冷え込んでいきます。
さらに、楚の考烈王の後継者に自分の子を据えようと、王位に色気を出した為に、李園によって討たれています。
司馬遷は、史記の太史公曰くの部分で「春申君老いたり」と悲しむように書いているわけです。
それを考えると、人生の終りに行くほど状況が悪くなるのが、春申君だと言えるでしょう。
戦国四君最強は誰か?
戦国四君の中で最強は誰か?と考えた時に、やっぱり、孟嘗君か信陵君となるでしょう。
信陵君は、史記の中では司馬遷が絶賛していて、始皇帝や劉邦なども尊敬していたと言うのは評価できると思います。
さらに、圧倒的な強国を誇る秦を相手に、2度も勝利した事も十分に評価出来るはずです。
ただし、情報通ぶってしまった為に、兄である安釐王に疑われて、魏ではほとんど政治に関与していないのは、マイナスポイントだと言えるでしょう。
それに比べると、孟嘗君は様々な国の政治に関わっている様にも見えますし、特に失敗をしたわけではありません。
他にも、斉・韓・魏の合従軍を率いて函谷関を破ったのも評価ポイントです。
函谷関を抜いた将軍は、孟嘗君と秦末期の周章くらいしか思い浮かびません。
楚漢戦争時代の項羽も函谷関は抜けて来ていますが、ほとんど守っていないような函谷関を破ったわけです。
それを考えると、孟嘗君の函谷関を破ったのは評価出来ます。
ただし、函谷関を破ったは、孟嘗君が指揮したわけではないとする説もあります。
そのため、評価ポイントとしては、しにくいようにも感じるわけです。
春申君ですが、宰相をやっている年月で考えれば、戦国四君の中でも1位だと思われます。
しかし、最後が食客であった李園に暗殺されるなどは、後味が悪すぎると思いました。
あと、函谷関の戦いで破れたのもマイナスポイントでしょう。
平原君ですが、マイナスの言動や行動も多いのですが、いつも必ず挽回しています。
さらに、天寿を全うしていますし、子孫も趙が滅亡するまでは続いたわけです。
終わり良ければ全てよし!という言葉がありますが、それで考えれば平原君が戦国四君の中でナンバーワンとなるでしょう。
しかし、実績や後世に残した影響で考えれば、やっぱり信陵君がナンバーワンで、次が孟嘗君、次が春申君、最後が平原君になるのかな?とも感じました。
尚、戦国四君ではありませんが、秦の荘襄王の時代から宰相になった呂不韋も戦国四君同様に、食客を集めた記録があります。
ただし、呂不韋の食客達は文化人も多く呂氏春秋を完成させる原動力になったとも考えられています。
戦国四君よりも頭一つ飛びぬけている人物が呂不韋なのかも知れません。