一部では孟嘗君は戦国四君最強だと言われている人物です。
孟嘗君は他の戦国四君である信陵君、平原君、春申君らよりも一世代上の人物でもあります。
一世代上の人物だけあり、他の戦国四君との絡みは最も少ないと言えます。
孟嘗君は薛の領主である田嬰の子であり、多くの食客を養った事で天下に名が広まった人物でもあります。
孟嘗君が宰相の時代に田斉は全盛期を迎えました。
しかし、斉の湣王は孟嘗君を疎むようになり、斉は燕の楽毅率いる五カ国からなる合従軍の前に敗れ去り大国の座から滑り落ちる事になります。
孟嘗君は戦国時代中期の代表的な人物だとも言え、鶏鳴狗盗や狡兎三窟など様々な故事を残した人でもあります。
ただし、孟嘗君は面白い故事や逸話があっても、何をした人なのかイマイチ分からないなどの意見もある様です。
尚、孟嘗君の本名は田文ですが、ここでは皆が聞きなれた孟嘗君の名前で話を進めていきます。
因みに、戦国時代の魏の武侯の時代に呉起と問答を行った田文という人物がいますが、魏の宰相になった田文と孟嘗君は別人です。
ただし、後に孟嘗君も魏の宰相になっています。
現在、春秋戦国時代を題材にした漫画キングダムが人気を博していますが、スピンオフで孟嘗君をやったら楽しめるのではないかとも感じています。
孟嘗君の誕生
5月5日に生まれる
史記の孟嘗君列伝には、孟嘗君が誕生した時の話があります。
孟嘗君の父親である田嬰には40人もの子がおり、身分の卑しい妾との間に生まれたのが田文であり孟嘗君となります。
孟嘗君は5月5日に生まれますが、父親である田嬰は「育ててはならない」と孟嘗君の母に命令しました。
現代の日本人の感覚であれば子供の日である5月5日に子供が生まれるのはめでたいと思うかも知れませんが、田嬰は孟嘗君を殺害する様に命じたとも言えます。
生まれたばかりの孟嘗君に、いきなり災難が降りかかったとも言えるでしょう。
しかし、孟嘗君の母親は田嬰の言葉を無視し、孟嘗君を育てました。
孟嘗君は後に食客を平等に扱った話もありますが、自身が身分が低い妾の子だった事から、下々の気持が分かり誠意を尽くしたのではないか?とも考えられています。
尚、孟嘗君は5月5日に生まれた事は分かっていますが、何年の5月5日に生まれたのかは分かっていません。
人は天から授かるのか戸から授かるのか
孟嘗君は成長しますが、母親は田嬰に孟嘗君を会わせました。
孟嘗君は聡明であり、孟嘗君の母親は「田嬰に合わせても問題ない」と判断したのでしょう。
田嬰は孟嘗君が生きていると知り「隠してまで育てたのは何故か」と孟嘗君の母親に向かい激怒しました。
ここで孟嘗君が「5月5日に生まれた子供を育ててはいけない理由」を聞くと、田嬰は「5月5日に生まれた子は背丈の高さが戸まで到達すると親を害する」と言われているからだと答えています。
孟嘗君は田嬰に「人間は天から授かるものなのか、戸から授かるものなのか」と問うと田嬰は言い返せなくなります。
孟嘗君は毅然とした態度で「命が天から授かるのであれば心配する必要はなく、戸から授かるのであれば、戸を高くするだけでよい」と答えました。
田嬰は言い返せなくなり「その話はやめよ」と述べるにとどまり、孟嘗君は許されたわけです。
孟嘗君の言葉を見ると、孟嘗君は機転が利き頓智ある性格だという事が分かります。
孟嘗君が田嬰を諫める
孟嘗君は暫くして父親の田嬰に「子の子は何と呼ぶか?」と問いました。
田嬰は当然の如く「孫」だと述べます。
さらに、田嬰は「孫の孫」は何というか?と田嬰は「玄孫」だと答えました。
孟嘗君は「玄孫の孫」はなんというか?と問うと田嬰は「分からない」と回答出来ませんした。
そこで、孟嘗君は次の様に述べました。
※史記孟嘗君列伝より
孟嘗君「父上は斉の宰相として三王に仕えて来ましたが、その間に斉の領地は一向に拡がってはいません。
しかし、父上の私財は万金となりましたのに、門下には一人の賢人もいないのです。
『将の門には将がおり相の門には必ず相がいる』と聞きますが、後宮は華やかであるにも関わらず、士は粗末なものすら得られてはおりません。
妾や下僕でさえ肉を食べているのに、士は糟糠さえも食する事が出来てはいないのです。
父上は蓄財を重ね名前も分からない様な子孫の為に残そうと考えているのでしょうか。
これにより国が傾く事を忘れてはおられるのでしょうか」
孟嘗君は父親の田嬰の生活態度に対し、かなりきつい諫めを行ったと言えます。
尚、上記の孟嘗君の言葉から出た三王は「斉の威王、斉の宣王、斉の湣王」の三王を指すとする説と「斉の桓公、斉の威王、斉の宣王」を指す説があります。
個人的には田嬰が仕えたのであれば、後述した斉の桓公、斉の威王、斉の宣王を指すと感じています。
孟嘗君に痛烈に批判された田嬰ですが、逆に孟嘗君の賢さを知り礼遇する様になり、家の事を見させ賓客を接待させました。
孟嘗君は田嬰の食客達を纏める立場にもなったのでしょう。
因みに、史記の孟嘗君列伝の話だと田嬰は士を大事にせず人を見る目が無かった様にも見えます。
しかし、孟嘗君は迷惑な食客である斉貌弁をやめさせる様に、田嬰に説いたのに、田嬰は従わなかった話があります。
後に斉貌弁は田嬰の窮地を救っており、斉貌弁に関しては孟嘗君よりも田嬰の方が人を見る目があったと言えるでしょう。
薛公となる
孟嘗君が家宰となると、多くの賓客たちが集まる事になります。
賓客たちは孟嘗君の宣伝を各国で行い孟嘗君は諸侯の間で名声を得る事になります。
諸侯の方から田嬰に使者を派遣し、孟嘗君を後継者にする様に要請しました。
田嬰が諸侯の要請に応じ、後継者に田文(孟嘗君)を指名しました。
田嬰が亡くなると、孟嘗君が後継者となったわけです。
孟嘗君は田嬰の薛の領地を引き継いだ事で、薛公とも呼ばれる事になります。
40人も兄弟がいて身分の低い妾腹の子である孟嘗君が、遂に薛の領主となりました。
尚、中国では妾の子の長子には「孟」がつけられるわけであり、孟嘗君は妾腹の子の中での長男だったのではないかとも考えられています。
食客を集める
食客数千人
孟嘗君は薛公となるや諸侯の賓客を招きました。
孟嘗君が呼び入れた者の中には罪人まで含まれていたとあります。
実際に司馬遷が薛の地を訪れた時に「粗暴な者が多かった」とあり、孟嘗君が犯罪者まで養ってしまった事は本当なのかも知れません。
孟嘗君は天下の士を集める為に、家財を傾けるほどの費用を使い厚遇しました。
これにより孟嘗君の食客達は数千を超えたとする話もあります。
尚、戦国四君の元には食客が3千人いたとも言われていますが、三千というのは実数ではなく「非常に多くいた」とする比喩だとされているわけです。
それでも、孟嘗君の元には百を超える食客がいたとされるのは確実視されています。
因みに、戦国時代初期では蘇秦や張儀など各国の王に自説を述べる者が多かったわけですが、孟嘗君の時代の頃から諸子百家の人々は王ではなく一段下の臣下に説くようになったとも伝わっています。
こうした時代の流れもあり、孟嘗君の元に多くの食客が集まったとも言えるでしょう。
孟嘗君の心遣い
孟嘗君は貴賤の区別なく対等に接したと言います。
後に孟嘗君の食客には伝舎、幸舎、代舎と三段階に分けられていた事が分かりますが、食客と話をする時は身分の区別なく対等に扱ったという事なのでしょう。
孟嘗君は客と会う時は、帷の後ろには人が隠れており、客の出身地や親の事などを記録させたと言います。
孟嘗君は客を食客に加えると考えた場合に、客の親族に贈り物をして興味を引いたとあります。
孟嘗君は客に対し気遣いを忘れなかったわけです。
食客と対等
孟嘗君が夜に客を接待した時に、突如として灯りが消えてしまいました。
この時に客はわざと孟嘗君が灯りを消して、自分と違うものを食べているに違いないと邪推しました。
客は怒って孟嘗君の元を去ろうとしますが、孟嘗君は自分の食事を食客に見せると、同じものを食べている事が判明したわけです。
食客は灯りが消えたのは事故であり、孟嘗君に邪心はない事が分かりました。
孟嘗君を疑った客は、自らの行動を恥じ入り自害した話が残っています。
孟嘗君は客を選ぶ事をせず平等に待遇したわけですが、食客達は自分だけが特別に孟嘗君に目を掛けられていると感じたとあります。
妾に手を出す食客
戦国策の斉策に孟嘗君の妾に手を出した客の話が掲載されています。
ある者がこの事を孟嘗君に告げますが、孟嘗君は「美人を好むのは人間の情というものだ」と述べ放置しました。
1年ほどして孟嘗君は妾に手を出した食客に対し、自分は衛の君主と布衣の交わりをしていると述べ、馬車などの身支度を整え仕官の斡旋をした話があります。
孟嘗君が斡旋した食客は衛で重用されました。
後に斉と衛の関係がこじれると、衛は諸侯の軍を集結され斉を攻撃しようと企てました。
この時に、孟嘗君の食客であった男は孟嘗君への恩義を語り、衛の出兵を阻止したわけです。
この話を聞いた世間の者は孟嘗君は「禍を転じて福と為す」を行ったと賞賛しました。
尚、同じく戦国四君の平原君は士を軽く扱い妾を尊重し食客の半数が去った話がありますが、この逸話では孟嘗君は士を重んじた事で成果を挙げたと言えそうです。
因みに、孟嘗君の食客として史記にはなく戦国策のみに登場する食客としては、悪口の夏侯章や主君の足りないものを補おうとした田瞀・勝臀の様な人物もいました。
ただし、孟嘗君であっても嫌いな食客はおり、追い出そうとしましたが魯仲連に諫められた話もあります。
謎多き孟嘗君
ここまで孟嘗君の生まれた時代を見て来ましたが、ここまでは特に問題はありません。
しかし、司馬遷の史記であっても、東方の斉の歴史には混乱が見られ30年ほどのズレが存在するなども話もあります。
実際に斉の歴史を見ると、あちこちで年代的な違和感を感じる事が多いはずです。
孟嘗君が田嬰の後継者となった事は確実ですが、これが何年頃の話なのかイマイチはっきりとしません。
一説によると斉の宣王の時代だったと伝わっています。
紀元前318年頃に蘇代の策で燕王噲を翻弄し、宰相の子之の権限を大きくしました。
子之が燕王の様に振る舞い危機を覚えたのが太子平であり、太子平と子之の抗争は武力衝突にまで発展し燕は大混乱となったわけです。
孟子も進言もあり、斉は太子平を助けるふりをして燕を占拠してしまいました。
斉は騙し討ちをして燕に恨まれるわけですが、これに孟嘗君が関わっていたのではないか?とする説もあります。
しかし、斉の正確な年表がはっきりしておらず、本当に孟嘗君が様々な出来事に関わっていたのかは不明な部分もあります。
垂沙の戦い
楚の懐王は秦の張儀に振り回され続けましたが、秦の昭王が即位すると秦は楚に対し友好の姿勢を見せます。
この時に楚では太子の横(後の楚の頃襄王)を人質として出しますが、太子横は秦で問題を起こし楚に逃げ帰ってきたわけです。
太子横の背信行為に激怒した秦は韓、魏、斉と共に楚を攻撃しようとしました。
しかし、斉・韓・魏では秦を信用する事が出来ず、斉・韓・魏だけで楚を攻撃しようとしています。
合従軍は纏まりの悪さを指摘される事が多いのですが、まとまりを良くする為に斉・韓・魏の軍の総帥として孟嘗君を立てました。
天下に信望があった孟嘗君を中心に斉・魏・韓の合従軍が結成されたわけです。
ただし、実際に孟嘗君が戦場に行ったわけではなく、斉軍は匡章、魏軍は公孫喜、韓軍は暴鳶が率いました。
これが紀元前301年に勃発した垂沙の戦いとなります。
垂沙の戦いでは連合軍が楚の唐眜を討ち取り大勝しました。
孟嘗君が組織したとされる斉・韓・魏の合従軍は強く、戦国時代を見ても1,2を争う程の破壊力を秘めていたと言えるでしょう。
垂沙の戦いの辺りから天下の目は秦の宰相である魏冄、胡服騎射を採用する事になる趙の武霊王、斉の孟嘗君の三名に集まる事になります。
蘇代の諫め
垂沙の戦いが行われた頃に、秦の宰相である樗里疾が亡くなりました。
秦の昭王は新たに宰相を立てようと思っていましたが、ここで興味を持ったのが孟嘗君だったわけです。
秦の昭王は孟嘗君に対し余程の興味が湧いたのか、自分の弟である涇陽君を田斉への人質とし、斉王へ孟嘗君を向かわせる様に働き掛けました。
秦は楚の懐王を幽閉したり背信外交を常としており、多くの者が孟嘗君を諫止しますが、孟嘗君が聞き入れる事はありませんでした。
蘇代が泥人形と桃の木の人形を例に取り話をすると、孟嘗君は納得し秦へ行くのを断念したわけです。
蘇代の言葉で一度は秦への入国を断然した孟嘗君ですが、主君である斉の湣王が涇陽君を斉へ受け入れたのか、結局は秦に向かう事になります。
鶏鳴狗盗
孟嘗君は食客らを引き連れて秦に向かいました。
秦の昭王は孟嘗君との会談が実現すると大いに喜び宰相にしようとした話があります。
実際に孟嘗君を秦の宰相に任命した話もありますが、途中で気が変わりあべこべに孟嘗君を殺害しようとしました。
因みに、秦の昭王は孟嘗君を宰相にしようとしたとありますが、実際には秦と斉の外交を円滑化させる為に、客卿に任命しようとしたのではないか?と考えられています。
孟嘗君は斉から薛の領地を認められているのであり、薛の領地を放棄して秦の宰相になるというのは考えにくいとする説もあります。
ただし、蘇秦の様に六国の宰相を兼ねたり、孟嘗君の父親でもある田嬰が斉と魏の宰相を兼ねていた話もあり、孟嘗君が秦の宰相となるのは、ありえない話でもない様に感じました。
孟嘗君は危機に陥りますが、食客の泥棒の名人と鶏の鳴き声が上手い食客により助けられ、函谷関を抜け秦を脱出する事になります。
この話が鶏鳴狗盗の逸話となりますが、鶏鳴狗盗の逸話に関しては、既に記事にしてあります。
趙の一県を滅ぼす
孟嘗君は函谷関を抜けて斉へ逃げ帰りますが、途中で趙の平原君が孟嘗君を迎えようとしました。
趙にも孟嘗君の名声は響いており、多くの者が孟嘗君の魁偉な姿を期待したわけです。
しかし、観衆は実際の孟嘗君を見ると小男であり、薛公(孟嘗君)は思っていた様な人物ではないと、嘲笑いました。
趙の人々の行為に怒った孟嘗君は食客達を出動し、徹底的に破壊しつくし一県を崩壊させたとあります。
これを見ると孟嘗君と食客達の凶暴さが分かる様な気もします。
ただし、平原君は武霊王の子であり趙の恵文王の弟にあたる人物です。
この頃にはまだ子供であり、孟嘗君を招くほどの年齢ではなかったのではないか?とも考えられています。
孟嘗君は侠客の親分的な存在でもあったのかも知れませんが、趙の一県を滅ぼした真相は分からない部分が多いです。
秦への報復
函谷関を落す
孟嘗君が斉に戻ると斉の湣王は、孟嘗君を宰相に任命しました。
さらに、孟嘗君は魏と韓を誘い合従軍が結成される事になります。
斉・韓・魏の連合軍の総帥となったのが孟嘗君であり、斉軍は匡章が率いる事になりました。
298年から296年まで秦と斉・魏・韓の連合軍は戦い続けますが、遂に秦の函谷関が落ちる事態となります。
難攻不落と呼ばれた函谷関が孟嘗君や匡章の力で、遂に陥落してしまったわけです。
秦の孝公が建造したともされる函谷関ですが、秦が滅亡するまでに抜かれたのは孟嘗君の時と、秦末期に陳勝の将である周文だけでしょう。
信陵君も合従軍を率いて秦軍は破りましたが、函谷関は落とす事が出来ていません。
土地を割譲させる
この頃に孟嘗君は西周に使者を派遣し、兵及び食料を貸してくれる様に願い出たのでしょう。
西周の韓慶は孟嘗君に、秦に幽閉されている楚の懐王を釈放する様に働きかける様に進言しました。
韓慶は兵や食料を出したくない西周の為に動いているわけですが、楚の懐王の幽閉を解かし、秦から土地を割譲させれば斉の利益になると進言したわけです。
斉は楚の懐王を釈放させれば、楚の東方の地を得られるとも考えました。
孟嘗君は韓慶の意見を良しとし、韓慶を秦に入れました。
秦の昭王の方では楼緩に相談すると、楼緩は公子池に相談する様に進言しました。
公子池は暗に和睦を進め秦の昭王は土地を割く事を約束し、これにより孟嘗君は軍を引き上げたわけです。
尚、この時に孟嘗君は秦から割譲した領地を取らず、魏と韓に与えたとも考えられています。
ただし、秦は楚の懐王の釈放だけは認めませんでした。
馮驩は最強の食客
孟嘗君は斉の宰相として辣腕を振るいますが、この頃に馮驩なる人物が孟嘗君の食客に加わったと考えられています。
馮驩は剣を叩きながら「長剣よ帰ろうか」と歌った事で有名です。
後に馮驩は薛の地で借金の取り立てを行いますが、払えない者の証文を全て焼き払ったりもしています。
薛では孟嘗君が借金をチャラにしたと言う事で、拍手喝采が沸き起こりますが、孟嘗君は借金の取り立てで利益を得ることが出来ず納得はしませんでした。
しかし、それと同時に馮驩を責める様な事もしなかったわけです。
薛の領地に戻る
孟嘗君は天下に名が鳴り響いており、君主である斉の湣王よりも威名がありました。
こうした状況を斉の湣王は苦々しく感じており、讒言や田甲の事件もあり、孟嘗君は疑われている事を知り出奔する事になります。
過去に魏子の計らいで孟嘗君に恩義を感じていた者がおり、孟嘗君の身の潔白を証明する為に自刃しました。
孟嘗君の為に自殺した者が出ると世間の反響が凄まじかった様で、斉の湣王は状況に驚き再び宰相としようとしますが、孟嘗君は病気と称して薛に籠る事になります。
尚、薛に戻った孟嘗君ですが、この時に馮驩が過去に証文を焼いた事で薛での孟嘗君人気は凄まじく、領民は孟嘗君を暖かく迎えた話があります。
因みに、馮驩は孟嘗君の為に狡兎三窟を行い魏や斉への使者となり孟嘗君を助けています。
薛に帰った孟嘗君ですが、隠居したわけではなく、蘇代の意向もあり秦の魏冄に手紙を送り呂礼を追い出すなどもしています。
孟嘗君は魏の宰相になった話もありますが、薛の領地で悠々自適な生活を送っていた可能性も高いです。
孟嘗君は諸侯の間で中立の様な勢力だったとあります。
この時の孟嘗君の権力は小さかったわけですが、天下に鳴り響いた威名が孟嘗君を守っていたとも言えるでしょう。
孟嘗君の最後
孟嘗君が斉の宰相を辞めてから10年ほどすると、燕の昭王が楽毅に燕、趙、秦、魏、韓の合従軍を率いさせ斉に大攻勢を掛けました。
済西の戦いで斉は楽毅に破れ首都の臨淄も陥落しました。
斉の湣王は楚の頃襄王が派遣した援軍の将である淖歯の裏切りにより命を落とす事になります。
孟嘗君は魏の相になった事もあり、どちらかと言えば合従軍側の人間で、合従軍の攻撃を受ける事も無かったわけです。
楽毅は斉を滅亡寸前まで追い詰めますが、こうした中で紀元前279年に孟嘗君は最後を迎える事になります。
孟嘗君の死因に関しては不明です。
孟嘗君が亡くなった年には、燕の昭王も亡くなっており、燕の恵王が即位すると楽毅は趙の恵文王の元に亡命しました。
即墨の田単は燕に取られた領地の大半を取り戻す事になります。
斉の襄王が即位しますが、そこには孟嘗君の姿はありませんでした。
史記には斉の襄王が孟嘗君を畏れて諸侯と和親したとあり、斉が復興された直後に孟嘗君は亡くなった可能性もあるはずです。
尚、史記には田文が亡くなり孟嘗君と諡したとあります。
孟嘗君は亡くなったわけですが、孟嘗君の子らが争いを繰り広げ、それに乗じて斉と魏が薛を滅ぼしました。
孟嘗君の名声で守られていた薛は、孟嘗君がいなくなれば直ぐに滅びたと言えます。
孟嘗君の後嗣は絶えたと史記には書かれています。
孟嘗君と司馬遷
司馬遷は孟嘗君の領地であった薛に現地調査に行った話がありますが、乱暴者が多く鄒や魯と文化が異なっていたと言います。
司馬遷自身も薛では、乱暴者が多く嫌な思いもしたのでしょう。
司馬遷が薛の人に乱暴者が多い理由を聞くと「孟嘗君が天下の任侠無頼漢を招いて6万余家もあったからだろう」と述べたと言います。
この話は司馬遷が薛の現地人から聞いた話であり、孟嘗君が天下の侠客を集めた事は事実に近いのでしょう。
司馬遷は孟嘗君列伝の最後に「孟嘗君が客を好み喜んだと言うが、虚言では無かった」と述べています。
司馬遷は薛で嫌な思いをしながらも、孟嘗君の人を好んだ話には敬意を表しているとも考えられるはずです。
孟嘗君は人を好み、刑罰で人を抑制しようとする漢の武帝と比較したのが司馬遷だったのかも知れません。
孟嘗君の評価
孟嘗君の評価ですが、非常に難しい部分があります。
孟嘗君列伝を見ると分かりますが、5月5日の逸話や鶏鳴狗盗など面白いと思える話しは存在します。
しかし、孟嘗君が斉の宰相となり、何をした人なのか?と言えば、分かり難い部分が多いです。
韓や魏と同盟して楚や秦と戦ったりもしましたが、将軍として戦場に行ったわけでも、どの様にして合従軍を組織したのかもイマイチ不明です。
こうした事もあり、孟嘗君の功績は非常に分かり難いと言えるでしょう。
ただし、孟嘗君の名が戦国七雄の中に鳴り響いていた事だけは事実であり、孟嘗君は何もしなかったわけでもありません。
多くの食客を雇い天下に名声を広めた人になるのかも知れません。