室町時代 鎌倉時代

太平記のあらすじを分かりやすく簡単に解説

2025年5月19日

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宮下悠史

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名前太平記
成立1371年ー1374年頃?
作者不明
ジャンル軍記物
時代鎌倉時代末期ー南北朝時代
コメント軍記物だが歴史的な資料でもある

太平記は鎌倉時代に後醍醐天皇が親政を始めた頃から、細川頼之が管領に就任するまでを描いた軍記物語です。

太平記は歴史書ではなく、物語であり謎の霊軍団が現れたりと、SFの要素も含んでいます。

作者不明ではありますが、太平記は1371年から1374年頃に成立したとも考えられており、史実に基づき歴史的な価値も高いと考えらえています。

太平記の内容を見ると戦乱の記録ばかりであり「太平」には思えないかも知れません。

しかし、戦乱もあれば太平もあるという考えから、平和への希求を籠めて「太平記」の名が付けられたとも考えられています。

戦乱の中にも太平の兆しがあり、太平記の名前になっているともされているわけです。

今回は太平記のあらすじを出来る限り分かりやすく解説します。

太平記の内容が分かる様に作成しました。

尚、記事の最下部に太平記の動画を作成してあり、視聴してみてください。

第一巻・正中の変

名君・後醍醐天皇

太平記は後醍醐天皇の御世から始まります。

後醍醐天皇は英名な君主であり、自ら裁判を行ったり関所を廃止するなど、経済を活性化しました。

太平記によると後醍醐天皇は民の心を掴み名君として描かれていますが、権力を頼り配慮に欠ける性格が建武の新政を失敗に終わらせたとあります。

太平記は後醍醐天皇を欠点はありながらも、名君に位置付けていますが、対照的に鎌倉幕府の北条高時は悪政を行っていたと記録しました。

後醍醐天皇は西園寺家から正室を貰いますが、興味を持ったのは皇后に仕える阿野廉子だと太平記に記録されています。

後醍醐天皇の皇子は16人いたとありますが、尊良親王は和歌に優れ、宗良親王は仏門に進み、護良親王は覇気があり後継者として期待されましたが、幕府に意向で延暦寺に入りました。

1322年に皇后の懐妊の祈祷が行われていますが、、中身は倒幕の計画だったと言います。

日野資朝は味方になる者か敵になる者かを区別する為に、無礼講を開く事になります。

酒池肉林の無礼講

倒幕の計画を練る為の無礼講が行われますが、身分を問わずの大宴会であり、貴族も僧侶も正装を脱ぎ捨て羽目を外しました。

さらに、美女たちも宴会に加わり、薄絹だけを纏い参加者に酌をさせたと言います。

御馳走として山海の珍味ばかりを豪勢に並ばせ、美酒を振舞い歌い戯れたわけです。

しかし、後醍醐天皇は宴会の間中、北条高時及び鎌倉幕府打倒の密謀を張り巡らせていました。

後醍醐天皇の酒池肉林はあくまでもカモフラージュであり、幕府の目を隠れて討伐の謀議に夢中になっていました。

後醍醐天皇も無礼講を怪しまれる事を恐れ、学者の玄恵法印に抗議させたりもしています。

情報漏洩

後醍醐天皇の討幕派の中に土岐頼員なる人物がいました。

土岐頼員の妻の父親は六波羅探題の役人である斎藤利行だったわけです。

土岐頼員はあれこれと考えますが、妻に後醍醐天皇による倒幕計画を漏らしてしまいました。

妻は後醍醐天皇の計画が成功すれば、父親が死に、失敗すれば夫の土岐頼員が亡くなる事になると悟ったわけです。

妻はどうにか父と夫を助けようとし、父親の斎藤利行に倒幕計画を打ち明けますが、斎藤利行は幕府に密告し、後醍醐天皇の計画が露見しました。

正中の変の終焉

後醍醐天皇の陰謀が露見した事で、側近の日野資朝や日野俊基が逮捕されました。

後醍醐天皇は事態を憂慮し、釈明の誓紙を幕府に送りますが、北条高時の前に斎藤利行が誓紙の内容を読み上げようとすると、突如として鼻血を出し七日後に亡くなったとあります。

この不可解が出来事により、鎌倉幕府も困惑したのか、日野俊基を釈放し、日野資朝を佐渡に島流しにしました。

ただし、後醍醐天皇は無罪となり、罪を問われてはいません。

太平記の第一巻は正中の変がメインになっていると言えるでしょう。

尚、近年の研究では正中の変で後醍醐天皇は、本当に関わっていなかったのではないかとも考えられる様になっています。

第二巻・元弘の変の始まり

倒幕派の処分

後醍醐天皇による正中の変は露見しますが、後醍醐天皇は倒幕を諦めたわけではありませんでした。

さらに、護良親王は比叡山に入りますが、学問を行わず武芸に励み、鎌倉幕府打倒を夢見る事になります。

1330年になると再び後醍醐天皇による倒幕計画が露見しました。

幕府は円観、文観、忠円らを逮捕し、島流しにするなどしています。

歌人の二条為明も拷問に掛けられていますが、見事な歌を詠み鎌倉幕府の役人を感動させ無罪となりました。

日野俊基は忠円が自供した事で、鎌倉に連行される事になります。

日野資朝と日野邦光

この時代は両統迭立であり、持明院統では北条高時に処分を急がせる事になります。

長崎高資は後醍醐天皇の配流、護良親王の流刑、日野俊基及び日野資朝の処刑が最適だとしました。

鎌倉幕府では二階堂貞藤の反対もありましたが、北畠具行、日野俊基、日野資朝の処刑が決定しました。

日野資朝は佐渡で処刑の話を聞かされますが、子の日野邦光は父に会いたいと願い佐渡に渡る事になります。

しかし、日野資朝は既に処刑されており、父の死を聞き復讐を誓った日野邦光は、父を斬った本間三郎が寝ている時を見計らって襲撃し討ち取っています。

日野邦光は山伏の助けを得て越後に逃れました。

笠置山城に籠城

護良親王は後醍醐天皇に奈良に向かう様にと進言しました。

さらに、後醍醐天皇の替え玉として、花山院師賢を比叡山に入れています。

比叡山の僧たちは花山院師賢を後醍醐天皇だと勘違いし、多いに士気を挙げる事になります。

しかし、花山院師賢は途中で後醍醐天皇ではない事がバレてしまい、比叡山の僧兵たちはやる気を失くし逃げ去りました。

後醍醐天皇は吉野に向かいますが、到達するのは難しいと判断し、笠置山に入る事になります。

これにより笠置山城の戦いが勃発しました。

太平記の2巻では元弘の変が勃発したと言えるでしょう。

第三巻・楠木正成の登場

後醍醐天皇が楠木正成を知る

笠置山で籠城していた後醍醐天皇ですが、不思議な夢を見て楠木正成の存在を知ります。

後醍醐天皇は笠置寺の僧である成就房律師を呼び「楠木」という者がいないかと聞くと、河内の金剛寺の西に楠木正成なる者がいる事が分かりました。

後醍醐天皇は直ぐに楠木正成を招く事になります。

楠木正成の策

楠木正成は後醍醐天皇から倒幕の計略を聞かれると「武力と謀略」が必要と答えました。

楠木正成は一度の合戦の勝敗で判断せず「戦いに敗れても楠木正成が生きていれば何とかなる」と伝えました。

後醍醐天皇は楠木正成の言葉に満足した事は、言うまでもないでしょう。

この楠木正成の用兵術が後醍醐天皇の倒幕への道を切り開く事になります。

楠木正成の挙兵

六波羅探題は7万五千騎の大軍を、後醍醐天皇が籠城する笠置山に向ける事になります。

笠置山守備軍が奮戦する中で、楠木正成が赤坂城で挙兵しました。

六波羅探題は鎌倉幕府の中枢に援軍要請を行うと、北条高時は20万7千6百余騎の大軍を差し向けたとあります。

笠置山を包囲する幕府軍の中に陶山義高なる者がおり、風雨が激しい中での夜襲を敢行し笠置山城が落城しました。

楠木正成は挙兵しましたが、笠置山城の戦いの方が先に決着がついてしまったと言えるでしょう。

後醍醐天皇は農民の姿となり、赤坂城を目指しますが、結局は捕虜となってしまいました。

光厳天皇の即位

六波羅探題は後醍醐天皇に三種の神器の引き渡しを求めますが、後醍醐天皇は断固として拒否しました。

後醍醐天皇は六波羅探題には三種の神器を渡さず、自ら六波羅探題に行幸し、持明院統に譲渡しています。

持明院統では光厳天皇が即位しました。

光厳天皇は鎌倉幕府の意向により即位した天皇だと言えるでしょう。

楠木正成の巧みな籠城戦

太平記によると幕府軍の三十万騎が赤坂城を包囲したとあります。

赤坂城を見た幕府軍は嘲笑しますが、楠木正成の用兵の前に苦しむ事になります。

楠木正成は兵を突撃させたかと思えば、城から大木や大石を落すなど奇策を武器に戦い幕府軍は苦戦しました。

さらに、城中から敵兵に熱湯が浴びせられるなど、容赦ない戦い方を見せたわけです。

楠木正成はなりふり構わずに勝ちに行ったと言えるでしょう。

赤坂城の戦いは楠木正成の独壇場であり、幕府軍は肉弾戦では勝てぬと判断し、兵糧攻めに切り替えたわけです。

楠木正成の偽装自害

楠木正成は兵糧の準備が万全ではなく、幕府軍の兵糧攻めに苦しみました。

楠木正成であっても、赤坂城を守り抜く事は出来ないと判断し、城からの脱出を試みる事になります。

ここで楠木正成は、自身の偽装自害という策を思いつきました。

楠木正成は大穴を掘り死体の山を築くと、風が強い夜を狙って赤坂城に火を放ちました。

こうした中で楠木正成は敵陣に紛れて撤退してしまったわけです。

幕府軍は大穴の焼死体を見て楠木正成が亡くなったと確信し、正成の死を讃えました。

しかし、実際の楠木正成は城を脱出し生き延びる事になります。

尚、元弘の変では桜山茲俊も備後で挙兵し後醍醐天皇に味方しましたが、笠置山城の戦いで後醍醐天皇が捕虜となり、赤坂城の戦いで楠木正成が自害した話を聞くと、勝ち目はないと判断し自害しました。

こうして元弘の変の前半生は楠木正成に翻弄されながらも、幕府軍が勝利した事になるでしょう。

太平記の3巻は楠木正成の登場がメインになっています。

第四巻・後醍醐天皇の隠岐への配流

後醍醐天皇の人望

笠置山城の戦いで後醍醐天皇が捕虜となっただけではなく、倒幕派の多くの者も捕虜となっています。

万里小路宣房は70ほどの老人でしたが厳しい取り調べを受け、子の万里小路藤房や季房などは常陸の国に流されました。

後醍醐天皇も隠岐に配流される事になります。

後醍醐天皇は千葉貞胤や佐々木道誉らに警護され隠岐に向かいました。

後醍醐天皇は隠岐配流に際し世尊寺行房、千種忠顕、阿野廉子を共にしています。

隠岐に流される後醍醐天皇を見た人々は「主君である天皇を流罪にするとは言語道断」などと述べ、涙を流す者までいた事が太平記に記録されています。

太平記の後醍醐天皇が如何に民に好かれていたのかが分かる話でもあります。

忠臣・児島高徳

備前国に児島高徳なる者がおり、後醍醐天皇に心を寄せて挙兵しましたが、楠木正成の死を聞くと静観していました。

児島高徳は後醍醐天皇が隠岐に流される事を知るや、奪還する為の作戦を考案していたわけです。

児島高徳は一族の者と待ち伏せし、後醍醐天皇の奪還を企てますが、幕府軍が道を変更した事で計画は失敗に終わりました。

後醍醐天皇が宿泊する宿を調べた児島高徳は、後醍醐天皇にしか分からない秘密の文言で励ます事を考えました。

(画像:児島高徳ウィキより

児島高徳は秘密の文書で春秋戦国時代の越王勾践に范蠡がいた様に、忠臣が現れると書いておいたわけです。

警護の者たちは児島高徳の暗号が読めませんでしたが、後醍醐天皇は文書を理解し多いに微笑んだ話があります。

隠岐に到着

後醍醐天皇は隠岐の佐々木貞清に預けられました。

配流先の隠岐に後醍醐天皇は到着しますが、身の回りの世話をする者は世尊寺行房、千種忠顕、阿野廉子の三名しかいませんでした。

後醍醐天皇の皇居は貧しいものであり、苦しい生活が待っていたわけです。

しかし、後醍醐天皇は倒幕の夢を諦めてはおらず、護良親王楠木正成も倒幕の機会を伺う事になります。

太平記の第四巻は後醍醐天皇と隠岐への配流がテーマとなっています。

第五巻・北条高時の奇行と護良親王の吉野入り

比叡山の怪事件

後伏見天皇の子である光厳天皇の御世になっていましたが、比叡山で怪事件がありました。

後醍醐天皇が皇室の繁栄を願い比叡山に灯明を作っていましたが、二羽の山鳩が乱入し灯明を消してしまったわけです。

しかし、鼬が現れ二話の鳩を食い殺して逃げてしまいます。

太平記では元寇の変の後半が始まる前に、怪事件があった事を書き示しました。

田楽師と妖怪

当時は田楽が流行しており、老若男女問わず多くの者が楽しんでいました。

鎌倉幕府の最高権力者である北条高時も田楽を毎晩のように楽しんでいたわけです。

ある夜に、北条高時は酒に酔い自ら舞を披露しました。

太平記によると北条高時の舞は四十過ぎの禿おやじの舞であり、風流も何もなかったと酷評しています。

こうした中で突如として田楽師の集団が宴会場に現れ、舞を歌いました。

余りにも優れた技術に北条高時の侍女が襖を開けて覗きますが、田楽師は人間ではありませんでした。

中には体に翼がある者までおり、化け物の集団だったわけです。

驚いた侍女は秋田城介に知らせると、秋田城介は武器を手に取り宴席に駆け付けますが、既に妖怪はいなくなっていました。

しかし、酔いつぶれた北条高時が寝ており、宴席は荒れ果てた状態となっていたわけです。

この話を藤原仲範が聞くと、天下が今にも乱れようとしており、天王寺の付近から動乱が起きると考えました。

太平記では鎌倉幕府滅亡の前に、乱の前兆となる怪事件が起きた事が書かれています。

北条高時の闘犬

北条高時は怪事件があってもめげる事無く奇行を繰り返しました。

ある日、庭で犬が多く集まり噛み合う姿を見て、闘犬に目覚める事になります。

何を思ったのか北条高時は税や年貢の代わりに犬を提供させ、富裕な公家などには闘犬を集めさせました。

犬には魚や肉が与えられ金銀交じりの綱をつけたりする犬や、錦の絹を纏った犬、輿に乗る犬まで現れたと言います。

錦の絹を纏った犬は鎌倉中を闊歩し、五千頭にまで達しました。

闘犬が多く行われ人々は武士の合戦という者もいれば、屍を奪い合う野犬の闘争と嘆くものもいたと言います。

弁財天の予言

北条氏の初代執権は北条時政です。

北条時政が江の島に行き夜になると弁財天が現れました。

弁財天は天道に背けば「七代以上は続かない」と述べ、大蛇となり海中に消えた話があります。

この時に大きな鱗が三つ落ちており、北条家の家紋は三鱗形としたと言います。

(北条氏の三鱗形:ウィキペディアより)

しかし、既に北条高時は九代目の当主であり、北条高時の奇行は滅亡の予兆にもなっているわけです。

護良親王と機転

護良親王は般若寺に隠れていましたが、興福寺の侍法師が五百の軍で般若寺を攻撃しました。

護良親王は死を覚悟しますが、ここに蓋の蓋が開いたものが一つあり、櫃の閉じたものが二つありました。

これを見た護良親王は蓋の空いた櫃の中に入り、経を被り隠れる事にしたわけです。

興福寺の兵が入って来ますが、櫃の閉じた二つだけを調べて、護良親王が隠れている蓋が空いた櫃を調べませんでした。

兵士達は去りますが、護良親王は直ぐに移動し、蓋が閉じた櫃の中に入る事になります。

護良親王は敵が再び戻って来るのではないかと予測したわけです。

兵士達は怪しみ再び寺に入り、蓋が空いた櫃を調べますが、護良親王はいないと判断し外に出て行ってしまいました。

護良親王は命拾いをし摩利支天や十六善神に感謝し、涙を流したと言います。

熊野と護良親王

護良親王は奈良から少数の共を連れて山伏の姿となり熊野を目指しました。

その途中で護良親王は夢のお告げにより、十津川にルートを変える事になります。

この地の有力者である戸野兵衛に会いました。

護良親王は戸野兵衛と会うと、話している相手が護良親王だとも知らずに、熊野周辺に隠れるのは危険だと述べました。

十津川の地は平家の嫡孫である平維盛も隠れ住んだ場所だと告げたわけです。

護良親王は戸野兵衛が味方だと判断し、正体を打ち明けると、喜んで迎えいれられ御所まで建ててくれます。

護良親王は戸野兵衛の叔父にあたる竹原入道の娘を寵愛し、十津川で半年ほど暮らしました。

その後に、十津川も熊野別当に怪しまれる様になり、護良親王は高野山を目指す事になります。

吉野で挙兵

護良親王は吉野を目指しますが、道中は苦難の旅でもあったわけです。

村上義光(よしてる)と合流しますが、玉置の荘司により妨害され、圧倒的に不利な戦いを強いられました。

ここで紀伊の野長瀬六郎と七郎が三千の兵を率いて現れた事で、護良親王は戦いに勝利しています。

槙野城に入りますが、地の利を得る事が出来ず、吉野金峰山寺を味方にし、愛染明王を祀った砦を築きました。

三千の兵を率いて護良親王は吉野で挙兵する事になったわけです。

ここにおいて元弘の変の後半戦の突入する事になります。

これが太平記の第五巻であり、北条高時と鎌倉幕府の滅亡を予言する奇怪な話と、護良親王の挙兵がメインになっています。

第六巻・楠木正成と倒幕の狼煙

天王寺の戦い

鎌倉幕府は楠木正成が亡くなったと考えており、湯浅宗藤を配置していました。

楠木正成は赤坂城を急襲し一気に赤坂城を奪還しています。

楠木正成は和泉や河内に転戦し住吉・天王寺に本陣を置く事になります。

藤原仲範の予言が的中したかの様に、天王寺から乱が始まったと言えるでしょう。

六波羅探題の軍が天王寺を攻撃しますが、楠木正成の策に嵌り大敗しました。

ここで幕府軍の宇都宮公綱の軍が楠木軍に迫ってきますが、楠木正成は兵の損耗を危惧しわざと退却しています。

宇都宮公綱が天王寺に無血で入ると称賛されていますが、楠木正成の軍が戻って来た事で、宇都宮公綱は兵を引きました。

聖徳太子の未来記

元弘二年(1332年)に楠木正成は天王寺に参詣しました。

この時に楠木正成は天王寺に伝わる聖徳太子の「未来記」を見たいと所望しています。

楠木正成が未来記を読むと、95代の天皇の事が書かれてあり、95代の天皇が後醍醐天皇であり、隠岐からの帰還を確信しました。

聖徳太子の未来記は楠木正成に勇気を与えたとも言えるでしょう。

幕府軍八十万

護良親王や楠木正成により西国では反幕府の動きが加速しました。

これに驚いたのが北条高時であり、三十万七千騎の軍を援軍として派遣したとあります。

さらに、中国、四国、甲斐、信濃の武士なども加わり、総勢八十万騎にもなったと太平記は記録しました。

幕府軍八十万は赤坂、吉野、千早城を攻撃する様に動き出したわけです。

上赤坂城が落城

北条治時が上赤坂城を八万の兵で攻める事になりました。

この時に先駆けをしようとした幕府軍の人見光行と本間資貞が壮絶な戦死となり、息子の本間資忠が父と同じ場所で自害し「忠孝の勇士」と称えられる場面もありました。

しかし、上赤坂城の平野入道は奮戦し、幕府軍は苦戦を強いられる事になります。

ここで幕府軍は山裾の水源を発見し、上赤坂城を水攻めにしました。

平野重吉は水攻めに苦しみ偽装降伏の道を選択しています。

平野重吉にしてみれば、捲土重来のチャンスを待つ事にしたのでしょう。

しかし、幕府軍により処刑され獄門に懸けられました。

上赤坂城は落城したわけです。

太平記の第六巻は楠木正成の挙兵と幕府軍が大軍で鎮圧に取り掛かる話となっています。

第七巻・楠木正成の奮戦と後醍醐天皇の隠岐脱出

吉野落城

二階堂貞藤は六万の大軍で護良親王がいる吉野を攻撃しました。

七日間に渡り激戦が繰り広げられますが、一進一退の攻防が続いたわけです。

幕府軍に金峰山寺の岩菊丸なる僧がいました。

岩菊丸は地理に明るい兵を集めて、城の後方から突撃を敢行しました。

これにより護良親王の軍は大混乱に陥り、戦線を維持できなくなったわけです。

護良親王も覚悟を決めますが、村上義光が護良親王の名を名乗り自害した事で、護良親王は無事に脱出する事が出来ました。

尚、村上義光の子である村上義隆も敵を防ぎ自害しています。

護良親王は吉野が落城した事で高野山を目指しました。

千早城の戦い

幕府軍は楠木正成が籠城する千早城を攻撃しました。

太平記によると赤坂、吉野の軍も加わり増援部隊もあり、100万の大軍になったとあります。

これに対し楠木勢は千人にも満たぬ兵数でした。

幕府軍は楽勝ムードでしたが、楠木正成の巧妙なゲリラ戦術の前に翻弄される事になります。

幕府軍は正面から攻めては損害ばかりが大きく出ると考え、千早城に兵糧攻めを仕掛けました。

幕府軍は兵糧攻めに切り替えた事で兵士達は、双六をするなど遊びだしたわけです。

これを見た楠木勢の士気が低下しますが、楠木正成は藁人形の奇策を使い敵を引き付けて散々に打ち破りました。

幕府軍は千早城に再び攻撃を仕掛けたりもしますが、そのたびに楠木正成の軍略に嵌り死体の山を積み上げたわけです。

護良親王も野武士らに命令し軍用道路を焼くなど、幕府軍の兵站を断つ等しています。

これが功を奏し幕府軍は戦線離脱する者が続出し、10万にまで数が減ったと言います。

新田義貞と綸旨

鎌倉幕府の軍の中に上野の武士である新田義貞がいました。

太平記では八幡太郎義家の十七代目の子孫であり、清和源氏の総本家筋にあたる名門だと書かれています。

新田義貞は北条高時の行状などから、鎌倉幕府の滅亡を予見していました。

新田義貞は船田義昌を呼び寄せて鎌倉幕府打倒を考えている事を打ち明ける事になります。

ここで船田義昌は「自分が護良親王を探し出し令旨を貰ってくる」と述べました。

ここで船田義昌は護良令旨を手にしたと思ったのですが、中身は後醍醐天皇の命令書である綸旨だったわけです。

新田義貞は綸旨に喜び病気になったと申請し、上野に戻り鎌倉幕府打倒の為に動く事になります。

倒幕派の拡大

赤松円心が播磨で挙兵しました。

赤松円心は兵庫の北に摩耶城を築城し京都の六波羅探題打倒に動き出します。

四国からも伊予の土居、得能が長門探題の北条時直を破りました。

楠木正成が驚異的な粘りを見せる中で、倒幕の動きが加速されてきたわけです。

後醍醐天皇の隠岐脱出

後醍醐天皇は隠岐に配流されていましたが、佐々木義綱により諸国の情勢を伝えました。

佐々木義綱は後醍醐天皇に隠岐からの脱出を進めたわけです。

後醍醐天皇は半信半疑でしたが、佐々木義綱に女官を与え忠誠を誓わせ出雲に向かわせ、自分を迎えに来るようにと命じました。

佐々木義綱は出雲の塩冶高貞を誘いますが、幽閉してしまい隠岐に還そうとはしませんでした。

佐々木義綱が幾ら待っても戻らなかった事で、後醍醐天皇は自ら脱出を試し見る事になります。

後醍醐天皇は夜になると千種忠顕らと共に御所を出ました。

千種忠顕が船頭を見つけ後醍醐天皇の事を語ると、船頭は喜び船を全力で漕ぐ事になります。

隠岐守護の佐々木清高は後醍醐天皇が行方を晦ました事を知ると、急いで追跡しました。

船頭は後醍醐天皇と千種忠顕を船底に隠し、その上に乾いた魚を積み重ね、その上には船乗りたちが乗りました。

佐々木清高の追手の船が後醍醐天皇の乗った船を調べますが、見つける事は出来なかったわけです。

追手の船は去りますが、暫くするとまた別の船が迫ってきました。

ここで後醍醐天皇は仏舎利を一粒取り出し波に乗せると、龍神の力なのか風向きが変わり、追手の船は別の方向に流れて行ってしまいます。

こうして後醍醐天皇は隠岐を脱出し、伯耆の名和の港に辿り着く事が出来ました。

船上山の戦い

後醍醐天皇は伯耆の国に辿り着きますが、ここで千種忠顕名和長年を知りコンタクトを取りました。

名和長年は弟の名和長重らと共に、一族で後醍醐天皇に味方する事を約束しています。

名和長重は後醍醐天皇を背負い船上山に登りました。

幕府方の佐々木清高と佐々木昌綱が南北から船上山を攻撃しました。

船上山の戦いが勃発しますが、名和長年の活躍もあり、佐々木昌綱は戦死し佐々木清高は敗走しています。

後醍醐天皇が船上山の戦いで勝利した事を知ると、周辺の武士も集まり、佐々木義綱と塩冶高貞も後醍醐天皇の元に馳せ参じました。

これが太平記の第7巻であり見せ場は楠木正成の千早城の戦いと、後醍醐天皇の隠岐を脱出する話となっています。

第八巻・

六波羅軍と赤松軍の戦い

各地で倒幕の動きが拡がりますが、六波羅探題は赤松円心の摩耶城を攻撃しました。

しかし、赤松円心の用兵術は巧みであり、六波羅探題の軍は敗れ京都に迫ります。

桂川を挟み六波羅軍と赤松軍で矢を放ちますが、赤松円心の子の赤松則祐が奇襲攻撃を仕掛けています。

六波羅軍は敗れ赤松軍が京都に侵攻すると、京の都は大混乱となりました。

持明院統の光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇らは六波羅館に移る事になります。

京都で六波羅探題の軍は態勢を立て直し河野九郎、陶山次郎の活躍により赤松軍を撃退しました。

尚、太平記によると、この時に偽首を出す者があり、赤松円心の首が五個も並んだ話があります。

赤松軍は戦いには敗れましたが、山崎や八幡に陣を置き京都への物流を停止させました。

六波羅探題の軍は態勢を立て直した赤松軍を攻撃しますが、撃退されています。

比叡山が倒幕に加担

護良親王は比叡山に働きかけ、味方になる様に要請しました。

比叡山では倒幕に舵を切り、近国の兵士も合わせると10万を超える大軍となり、京都に侵攻したと言います。

しかし、比叡山の軍は大軍を頼りとした事で油断しており、六波羅探題の軍に散々に打ち破られ撤退しました。

四月三日合戦

元弘三年(1333年)四月三日に赤松軍は再び京都に進軍を開始しました。

これが四月三日合戦と呼ばれる事になります。

しかし、形勢は幕府軍が有利であり、赤松円心は多くの精鋭を失い落胆して八幡・山崎の陣まで戻る事になります。

赤松円心は手痛い一敗を喫したと言えるでしょう。

千種忠顕と六波羅軍の戦い

後醍醐天皇は京都での戦いで敗北した事を知ると心を痛め、自ら戦勝祈願の祈祷と行っています。

後醍醐天皇は赤松円心を助ける為に、千種忠顕を派遣しました。

千種忠顕の参謀として児島高徳をつけたわけです。

千種忠顕は赤松円心と連携をしようとせず、単独で京都を攻撃しました。

六波羅軍との間で激戦が繰り返されますが、戦い自体は引き分けに終わっています。

ただし、千種忠顕の軍は損耗が激しく苦しい状態となります。

児島高徳の憤慨

千種忠顕は本陣を後退させようとしますが、児島高徳は踏みとどまる様に要求し、援軍を請う事になります。

千種忠顕は一度は峰の堂に踏みとどまりますが、夜襲を恐れ夜のうちに撤退してしまいました。

児島高徳は朝になると峰の堂にいるはずの千種忠顕がいない事を悟り、憤慨した話が残っています。

児島高徳は峰が堂に向かい錦の御旗を回収し、丹波に向かう事になります。

太平記の八巻は赤松円心と千種忠顕の戦いがメインとなっています。

第九巻・足利尊氏の裏切りと六波羅探題の滅亡

足利尊氏が寝返りを決意

鎌倉に後醍醐天皇が船上山から討伐軍を京都に向かわせるとする情報が入りました。

総大将は名越高家に決定し、有力御家人を招集しましたが、その中には足利尊氏もいました。

足利尊氏(高氏)は病に掛かっていましたが、北条高時は何度も催促を行ったとあります。

足利尊氏の病気は完全に癒えておらず、北条得宗家よりも自分の方が清和源氏の出身で高貴な血統だと憤ったわけです。

君臣の礼儀が北条高時には無いと判断し、足利尊氏は後醍醐天皇に味方し六波羅探題を攻撃してやろうと密かに決意しました。

この時点ではまだ、足利尊氏の裏切りを見抜いた者は誰もいなかったと太平記には記録されています。

足利尊氏の裏切り

足利尊氏は一族郎党、妻子まで連れて上京しようとしますが、北条高時は尊氏の行動を怪しみました。

北条高時は誓書の誓いを要求し、妻の赤橋登子と子の竹若丸、千寿王(足利義詮)を鎌倉に残す事になります。

足利尊氏は弟の足利直義と共に鎌倉を出発しました。

足利尊氏の心は既に鎌倉幕府には無く、船上山にいる後醍醐天皇に寝返りを伝える密書を送る事になります。

後醍醐天皇は足利尊氏を喜び、倒幕の勅命を与えました。

こうした中で名越高家が戦死し、足利尊氏が裏切り、篠村に布陣すると多くの武士が集まり、京都を包囲する事になります。

京都に入る足利軍は出発の時は2万でしたが、五万に膨れ上がったと伝わっています。

六波羅探題の滅亡

六波羅探題は防備を固めますが、足利尊氏の攻勢に耐えきれず近江を目指し落ち延びて行きます。

こうした中で六波羅探題の長官の一人である北条時益が早々と命を落としました。

六波羅北方の長官である北条仲時光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇の共をして京都を出る事になります。

六波羅探題は関東を目指しますが、途中で後光厳天皇が左肘に矢を受け負傷する場面もあったわけです。

糟屋宗秋中吉弥八の奮戦もあり、近江の番場まで六波羅勢は到着する事になります。

しかし、ここで六波羅勢は助からない事を悟り集団自決しました。

四百人ほどが自害したと伝わっており、北条仲時の自害を以て六波羅探題は滅亡したと言えるでしょう。

楠木正成が籠る千早城を囲んでいた幕府軍ですが、六波羅探題の滅亡を聞くと撤退に移りました。

ここで落武者狩りや追撃もあり、多くの者が亡くなったわけです。

太平記九巻は足利尊氏の裏切りと六波羅探題の滅亡が題材となっています。

第十巻・鎌倉幕府の滅亡

鎌倉が大騒ぎとなる

鎌倉の方では足利尊氏が裏切ったとする情報がまだ入ってはいませんでした。

こうした中で足利尊氏の妻の赤橋登子や竹若、千寿王が姿を消す事になります。

赤橋登子や竹若、千寿王が消えた事で鎌倉は大騒ぎとなり、足利尊氏が裏切ったとする情報も鎌倉にもたらされました。

竹若は鎌倉幕府の役人に発見され、最後を迎えています。

足利尊氏の裏切りは鎌倉幕府に衝撃を与えたと言えるでしょう。

新田義貞の挙兵

新田義貞は上野に戻っていましたが、北条高時は新田義貞に巨額の軍資金を要求しました。

新田義貞は激昂し北条高時の使者を斬り、激怒した北条高時は新田義貞と脇屋義助の討伐を命じています。

こうした中で新田義貞の一族は一致団結し、反幕府を鮮明にしました。

鎌倉は大騒ぎとなる中で、新田義貞は生品明神の社前で挙兵し、鎌倉幕府打倒に動く事になります。

新田義貞が挙兵した時は、150騎しかいなかった話があります。

こうした中で千寿王が合流すると、次々に兵士が集まり3万騎近くにまで膨れ上がりました。

新田義貞を総大将とする軍は、鎌倉に向けて進軍する事になります。

小手指原合戦

新田義貞の軍は小手指原で幕府軍と戦闘に及び、小手指原の戦いで勝利しました。

北条高時は、さらなる軍を新田義貞にぶつける事になります。

新田軍は戦いに敗れる事もありましたが、大多和義勝が援軍として現れ息を吹き返しました。

新田義貞や脇屋義助は勢いを取り戻し、北条泰家の軍を撃破し、鎌倉に進軍しています。

新田軍が鎌倉市街に乱入

新田義貞は勝利を挙げた事で、軍勢は60万を超えたと太平記には記録されています。

兵力で圧倒する新田義貞と、地の利を生かして守ろうとする幕府軍の戦いが始まりました。

新田義貞は極楽寺方面に出撃しますが、稲村ケ崎に海神の龍王を祈り太刀を海中に投げ入れています。

太刀を海に投じる新田義貞wikiより

これにより稲村ケ崎が干上がり、新田義貞はここを通り鎌倉の市街地に乱入したわけです。

新田軍が突如として鎌倉の中心部に現れた事で、鎌倉は大混乱となりました。

長崎円喜の寵臣であった島津四郎は降服しています。

北条高時も身の危険を感じ館から身を引きました。

大仏貞直は脇屋義介の軍に突撃を仕掛けますが、壮絶な戦死を遂げました。

金沢貞将も討死し、忠臣として名が通っていた狩野重光に至っては財宝を奪い逃走しようとしますが、バレて打ち首となっています。

鎌倉幕府の中枢では自害する者や敵に突撃を仕掛ける者。何とか助かろうとする者で混乱していたと言えます。

北条時行の脱出

北条泰家の家来に諏訪氏出身の諏訪盛高がいました。

この諏訪盛高が亀寿(北条時行)を逃し、信濃に向かう事になります。

北条時行は後に諏訪頼重と共に中先代の乱を引き起こす事になります。

兄の北条邦時は五大院宗繁に預けられ鎌倉を出る事になりました。

北条一門の集団自決

北条一門の者たちは東勝寺にいましたが、鎌倉幕府の滅亡を確信すると長崎高重が切腹しました。

これに様々な将兵が切腹し命を落としています。

北条高時も家臣の自害を目にし、切腹し世を去りました。

東勝寺で多くの者が命を落とし使者は八百名を超えたと太平記は伝えています。

太平記の十巻は鎌倉幕府の滅亡を以って終わるわけです。

第十一回・後醍醐天皇の京都還幸と各地の北条氏の滅亡

北条邦時と五大院宗繁

五大院宗繁は北条高時の寵臣でした。

しかも、五大院宗繁の妹と北条高時の子が北条邦時という親密な関係にあったわけです。

北条高時は嫡子である北条邦時を五大院宗繁に託しました。

北条高時は北条邦時と五大院宗繁に、北条氏の再興を願ったのでしょう。

しかし、北条氏の滅亡後に五大院宗繁は自らの為に、北条邦時を敵に売り処刑させています。

新田義貞も敵の総大将の子という事もあり、北条邦時を処刑しないわけにはいきませんでした。

新田義貞は北条邦時が見つかり一安心しましたが、世間のバッシングもあり五大院宗繁を許そうとはしなかったわけです。

五大院宗繁は逃亡しますが、助けてくれる者はおらず餓死したと太平記は描きました。

後醍醐天皇の京都還幸

鎌倉幕府及び六波羅探題が滅びると、船上山にいた後醍醐天皇は京都に還幸しました。

この時に、京都は危険と判断し反対する意見もありましたが、後醍醐天皇は自ら吉凶を占い還幸を決定したわけです。

文官らも武装して馬に乗るなどし、京都に向かいますが、播磨に着くと赤松円心の親子らが後醍醐天皇を迎えました。

後醍醐天皇は赤松父子の功績を認め禁門の警護を命じています。

さらに、新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼし関東を平定したとする使者を派遣し、多くの者が新田義貞を讃えました。

足利尊氏と新田義貞で京都・鎌倉を平定し武功を評価されています。

千早城の戦いで奮戦した楠木正成も後醍醐天皇を迎え讃えられていますが、楠木正成は「全ては天皇の文武の徳によるもの」と謙遜しました。

後醍醐天皇は二条の宮殿に還幸し、足利尊氏を治部卿とし弟の足利直義を左馬頭とし厚遇しました。

鎮西探題の滅亡

後醍醐天皇は鎮西探題の北条英時を攻め滅ぼそうと出陣の準備をしました。

しかし、九州の菊池氏、少弐氏、大友氏から使者が京都にやってきて、既に鎮西探題を打倒したとする報告を聞いたわけです。

ただし、菊池氏は最初に鎮西探題と戦いましたが、少弐氏や大友氏は鎮西探題に味方しています。

菊池氏は戦いに敗れましたが、九州に鎌倉幕府の敗報が届くようになると、少弐氏や大友氏は一転して鎮西探題を攻撃し滅ぼしています。

長門探題の北条時直は幕府軍の援軍に駆け付けようとしましたが、京都、鎌倉、九州で幕府軍が敗北した事を知り、少弐氏や島津氏に降伏しました。

北条時直は降服し赦免されるも、あえなく病没しています。

鎌倉幕府滅亡と北陸

越前牛原の地頭である淡河時治は六波羅探題が敗れ去った報告を聞くと、家臣らの逃亡が相次ぎ平泉寺の僧兵による攻撃を受けます。

淡河時治は逃亡する事になりますが、五歳と六歳の子供が行き場を訪ねますが、乳母と入水自殺を行い淡河時治及び妻も自害しました。

北条氏の越中守護の名越時有は、弟の有公や甥の貞持の三人は武士を招集しますが、六波羅探題が陥落した話を知ると、部下達が反旗を翻しています。

名越時有、有公、貞持の三名は捕虜になる事を恥とし、妻子を船に乗せて上で船を沈め世を去りました。

名越時有の城に残った部下達も一斉に切腹しています。

船が沈没した付近を通った船が、猛火に邪魔され遭うにあえない夫婦の妄念に苦悶する男女の亡霊を見たと言います。

近畿の幕府軍

六波羅探題が陥落した話を聞くと、楠木正成が籠る千早城を包囲していた幕府軍は撤退に移りました。

撤退時に幕府軍の多くの者が討ち取られましたが、京都に侵攻する可能性もあり、危険視されていたわけです。

後醍醐天皇は近畿の落武者となった幕府軍に追討命令を出しますが、近畿の幕府軍は僧の姿となり降伏しました。

鎌倉幕府の中枢にいた大仏高直、大仏貞直、長崎高貞らは処刑され、二階堂貞藤は一旦は赦免されていますが、後に危険人物だと認定され処刑されました。

太平記によると各地で同時に戦いが起きてから、僅か四十三日で北条氏は滅亡したと書かれています。

十二巻・建武の新政

建武政権の人事など

後醍醐天皇による建武の新政が始まりますが、護良親王が征夷大将軍の座を要求しました。

護良親王と足利尊氏の間で不和が生じていましたが、後醍醐天皇は倒幕の功労者である護良親王を征夷大将軍に任命しています。

後醍醐天皇は新しい宮殿を建てるために、無益な紙幣を発行したり、武士に対して過剰な賦役を課した事から、世間の顰蹙を買いました。

筑紫、河内、伊予などで北条氏の残党による反乱が勃発し、多くの武士が京都に集まるなど、中々に平和はやって来なかったわけです。

太平記によると建武の新政が行われると公家が多いに重用され、武家の赤松円心などは不満を持ちました。

後醍醐天皇の寵臣である千種忠顕は派手な生活から、人々の顰蹙を買っています。

後醍醐天皇の近しい立場にあった文観は島流しにされましたが、建武政権で復活しました。

ただし、文観は私利私欲に奔ったと太平記は語っています。

隠岐広有は紫宸殿の上に「いつまで、いつまで」と建武政権の多面を予言するかの様な鳥がおり、射殺した事で五位に任ぜられました。

この鳥は頭は人の様で体は蛇体、くちばしの先に鋸の様な歯が生えていたと言います。

神泉苑は真言密教の雨乞いの霊場でしたが、霊威を失っているとして、朝廷では修復しました。

護良親王の失脚

護良親王は部下が狼藉を行い足利尊氏が捕縛し、罪状を高札に掲げられた事もあり、足利尊氏を敵視していました。

足利尊氏も護良親王を危険視しており、後醍醐天皇が寵愛する阿野廉子と結託し、護良親王の帝位簒奪を後醍醐天皇に告げています。

後醍醐天皇は激怒し、護良親王を幽閉してしまいました。

これにより護良親王は失脚しています。

護良親王は帝位簒奪のつもりなどなく、足利尊氏を恨むと同時に自分の運命を呪いました。

護良親王は潔白を証明する為の嘆願書を出しますが、取り次ぎ役の公家が面倒を嫌い、後醍醐天皇に届けなかったわけです。

足利尊氏の弟の足利直義は鎌倉におり、護良親王の身柄は直義に預けられました。

足利直義は護良親王を厳重な監視下の上で、二階堂の土牢に閉じ込めています。

太平記の十二巻は建武の新政と護良親王の失脚がテーマになっています。

第十三巻・中先代の乱

万里小路藤房の出家

太平記によると建武元年(1334年)に塩冶高貞から、駿馬が献上されました。

献上された駿馬の風貌から万里小路藤房は「不吉」と判断し、駿馬よりも仁政を心掛ける様に、後醍醐天皇を諫めています。

しかし、後醍醐天皇は諫言を聴き入れる事をせず、これをみた万里小路藤房は出家しました。

西園寺公宗の後醍醐天皇暗殺計画

建武二年(1335年)になると、西園寺公宗は後醍醐天皇の暗殺計画を進める事になります。

西園寺公宗は北条泰家と謀を企てていました。

北条泰家は北条高時の弟でもあります。

西園寺公宗は床に仕掛けをし、罠が作動すると床が抜け落ち、並べてあった刀で後醍醐天皇を刺す計画だったわけです。

ただし、西園寺公宗の計画は露見し、名和長年により処刑されました。

尚、西園寺公宗の妻の日野名子は妊娠中であり、この子が西園寺実俊であり、西園寺家を復活させています。

北条時行の挙兵

建武政権では後醍醐天皇の皇子である成良親王を鎌倉府の頂点におき、足利直義に補佐させていました。

成良親王はまだ子供であり、鎌倉府の実質的なトップは足利直義だったと言えるでしょう。

1335年7月に北条時行と諏訪頼重が挙兵し、五万騎の大軍で鎌倉を襲いました。

足利直義は鎌倉を守り切る事ができず、成良親王と共に鎌倉を脱出する事になります。

護良親王の最後

足利直義護良親王を危険視していました。

足利直義にとって護良親王は、北条時行よりも危険な相手だと考えていたわけです。

護良親王は土牢に入れられていましたが、足利直義は淵辺義博に命じて殺害させました。

足利直義に護良親王殺害の勅許があったわけではなく、独自の判断で殺害を命じたと言えます。

尚、淵辺義博は護良親王の首を取りますが、藪に捨ててしまった話があります。

足利尊氏の関東出陣

鎌倉を北条時行に奪われてしまった足利直義は、京都に使者を派遣し状況を説明しました。

後醍醐天皇は足利尊氏を鎌倉に派遣しようと考え使者を向かわせています。

足利尊氏は朝廷に対し征夷大将軍の位を望みました。

関東八カ国の支配権や論功行賞が行える権利を要求したわけです。

後醍醐天皇は関東八カ国の支配権は認めますが、征夷大将軍の位は保留しました。

さらに、足利尊氏には自らの名前の一文字である「尊)の文字も与えています。

この記事では分かりやすい様に最初から「尊氏」の文字を使っていましたが、実際には、これまでは足利高氏と名乗っており、後醍醐天皇の一字拝領により「尊氏」に改名しています。

鎌倉を奪還

足利尊氏は関東に軍を進めると連戦連勝であり、北条時行から鎌倉を奪還しています。

北条時行の軍の指揮官たちは自害しますが、顔の皮を剥いで自害しており、誰が誰なのか分からない状態でした。

自害した者達の中の一人が北条時行ではないかと考えられ、足利尊氏は関東を制圧しました。

ただし、北条時行は死んではおらず生きていたわけです。

太平記の十三巻は中先代の乱が中心になっていると言えるでしょう。

第十四巻・近畿での戦いと足利と新田の対立

足利尊氏と新田義貞の対立

太平記によると新田氏と足利氏は共に清和源氏の出身の一族だとあります。

足利尊氏は関東を平定しますが、調子に乗り足利征夷将軍を名乗りました。

さらに、足利尊氏は自らの家臣に新田一族の領地を取り上げ、恩賞として与えました。

こうした時期に足利尊氏謀反の噂が、後醍醐天皇の耳に届く事になります。

後醍醐天皇は真相の解明を命じますが、足利尊氏は新田義貞討伐を求める奏上をしました。

新田義貞も足利尊氏の行動に我慢できず、尊氏・直義兄弟の護良親王殺害の罪を奏上しています。

後醍醐天皇は足利と新田の言い分を朝廷で評議しました。

坊門清忠が「新田義貞の言っている事が真実なのか関東に確認すべき」とする意見を出しています。

後醍醐天皇は坊門清忠の意見に従いますが、直ぐに護良親王の御付きの女性が上洛し、事の真相を詳細に報告しました。

これにより護良親王を殺めたのは足利兄弟だという事が明るみとなり、関東討伐が行われる事になります。

討伐軍の総大将に尊良親王が選ばれ、新田義貞を大将軍に任命し関東に派兵する事になったわけです。

新田義貞の関東討伐により建武の乱が始まったと言えるでしょう。

矢矧、鷺坂、手越の合戦

新田義貞の鎌倉遠征が関東に知れ渡る事になります。

この時に足利尊氏は自分は後醍醐天皇に反旗を翻すつもりはなく、征伐されるなら出家すると言いだしました。

尊氏は戦うつもりがなく、弟の足利直義が軍を率いて鎌倉を出る事になります。

新田義貞は弟の脇屋義助と協力し矢矧川の戦いで足利直義を破りました。

さらに、鷺坂、手越と足利軍に連勝し、足利直義は遂に鎌倉まで撤退したわけです。

逃げ帰った足利直義ですが、兄の足利尊氏は出家する直前の状態でした。

家臣らは一計を案じ「出家しても死刑に処する」とする偽の勅命を出し、足利尊氏は驚き出家を取りやめています。

足利尊氏が軍を指揮する事になると、多くの武士が集結しました。

箱根竹ノ下の戦い

1335年12月に足利直義が箱根を守り、足利尊氏が竹ノ下を守り新田軍に備えました。

これが箱根竹ノ下の戦いです。

新田軍は新田義貞が箱根に向かい、尊良親王及び脇屋義助が竹ノ下に軍を進めました。

箱根方面では新田義貞が足利尊氏に対し優勢に戦いを進めています。

新田軍の先陣を務めた菊池武重が奮戦し、箱根方面は新田勢が優勢だったわけです。

しかし、竹ノ下方面では尊良親王の軍内で、大友貞載や塩冶高貞が寝返った事もあり、足利軍が大勝しました。

竹ノ下方面で新田勢が大敗した事で、新田義貞は尾張までの後退を余儀なくされています。

この時に新田勢の兵力は十分の一にまで落ち込んだと言います。

各地て反朝廷色が強くなる

箱根竹ノ下の戦いで新田義貞は敗れますが、讃岐の高松頼重からは細川定禅に敗れ、敵は近日中に上洛するとの知らせがありました。

備前にいた児島高徳からも佐々木信胤、田井信高らが細川定禅の調略により、福山城に籠り朝廷軍を破ったとする報告があったわけです。

丹波の碓井盛景が摂津に逃れ、赤松円心が裏切ったとする伝令もありました。

さらに、加賀、越前、伊予、長門、周防、備後などで朝敵が放棄したとする急報が入って来ました。

新田義貞は尾張にいましたが、後醍醐天皇は京都に戻る様に指示し、新田義貞は急いで上洛しています。

大渡・山崎合戦

足利氏を支持する軍が四国や山陰から京都を目指し、関東からも足利尊氏の大軍が上洛する事になります。

新田義貞が京都を防衛する事になりますが、勢多に名和長年、宇治に楠木正成、山崎に脇屋義助を向かわせました。

新田義貞は自ら大渡で防備を固める事になります。

大渡の戦いでは足利尊氏は八十万もの軍勢を揃えましたが、川底の乱杭により渡河できず苦戦する事になります。

こうした中で細川及び赤松の軍が到着し、山崎で脇屋義助の軍が敗れました。

足利尊氏は京都防衛軍を破り石清水八幡宮まで軍を進めています。

後醍醐天皇の比叡山還幸

足利尊氏は京都を守り切るのは困難と判断し、後醍醐天皇を比叡山に遷す事としました。

後醍醐天皇は三種の神器を持ち、比叡山に還幸する事になります。

名和長年は撤退する前に御所に向かいますが、荒れ果てており涙を流した話があります。

足利尊氏は八十万の兵で京都に入りますが、後醍醐天皇だけではなく持明院統の皇族すらもいなかったわけです。

こうした中で三木一草の一人である結城親光が足利尊氏に偽装降伏を行い、命を狙いました。

しかし、足利尊氏は結城親光を疑っており、自身で面会せず大友貞載に対応させています。

結城親光は作戦がバレたと悟り、大友貞載を道連れにして世を去りました。

これが太平記の十四巻であり、足利尊氏と新田義貞の戦いがメインになっていると言えるでしょう。

第十五巻・足利尊氏の九州落ち

北畠顕家の上洛

後醍醐天皇は延暦寺を拠点とし、北国や奥州からの援軍を待つ作戦に出ました。

後醍醐天皇は陸奥将軍府の北畠顕家に上洛命令を出していたわけです。

足利尊氏は三井寺を拠点とし、細川定禅を入れました。

延暦寺と三井寺は対立しており、寺社の対立が武家の対立構造と合致する事になります。

奥州から北畠顕家は猛スピードでやってきて東坂本に到着しました。

三井寺合戦

奥州軍が到来した事で、天皇方では新田義貞北畠顕家らと作戦会議を行っています。

朝廷軍の作戦は明朝に三井寺を、総攻撃にする事で決定しました。

三井寺に配置された細川定禅は、朝廷軍が攻めて来る情報を得ており、援軍要請をしますが、足利尊氏は敵を舐めており、兵を送らなかったわけです。

朝廷軍は三井寺に総攻撃を仕掛けると、新田四天王の活躍もあり、大勝しました。

新田義貞の猛攻

三井寺合戦で新田義貞は勝利しますが、手を休める事無く足利軍を追撃しました。

戦いに敗れた足利軍は三条河原にいた足利尊氏の本軍に雪崩れ込む事になります。

ここにおいて足利軍80万対新田軍2万の戦いが始まったわけです。

足利軍は混乱しており、新田軍は機動力を生かして敵を蹴散らし、足利尊氏は絶望し三度の自害を試しみました。

新田軍は足利尊氏を追い詰めますが、日没となってしまった事で追撃をやめ、足利尊氏は命拾いをしています。

しかし、細川定禅が四国勢を率いて新田郡に奇襲を仕掛けた事で、新田軍は坂本まで後退し、足利尊氏が再び京都に入る事になります。

朝廷軍優勢

朝廷軍に大智院宮の軍勢が到着しました。

大智院宮の到着で朝廷軍は士気が上がり、京都への総攻撃を決定する事になります。

朝廷軍は十万三千の軍で京都を攻撃し、市街地を放火しました。

朝廷軍は優勢であり新田義貞は単騎で敵陣に入り、足利尊氏を探しましたが見つける事は出来ませんでした。

太平記では足利尊氏は強運で見つける事が出来なかったと書かれています。

やがて日没となり、楠木正成の進言もあった事から、東坂本に入りました。

足利尊氏は逃走していましたが、朝廷軍が去った事を知ると、再び京都に戻る事になります。

楠木正成の策

楠木正成は撤退する時に、朝廷軍の名将たちが戦死した事で、全軍総退却したかの様に装いました。

足利尊氏楠木正成の策に嵌り、油断が生じて兵力を分散させてしまいました。

朝廷軍は足利尊氏が策に引っ掛かった事を悟ると、一斉に攻撃し足利軍を敗走させています。

足利尊氏は丹波路を通り退却しました。

足利尊氏は持明院統の光厳上皇の院宣を願い薬師丸を使者とし、正統性を経て後醍醐天皇に対抗しようとしたわけです。

朝廷の錦の御旗が足利軍には無かったと言えるでしょう。

豊島河原合戦

足利直義は戦力を回復させており、北畠顕家新田義貞と豊島河原合戦が勃発しました。

足利直義は朝廷軍に対し日没まで互角に戦いますが、楠木正成が援軍として現れると状況は一変します。

楠木正成は迂回を行い奇襲により、直義の軍を散々に打ち破りました。

足利直義は兵庫まで退却しますが、新田勢は追撃の手を緩めなかったわけです。

足利軍の援軍として大友、厚東、大内の水軍が現れ、朝廷軍にも土居、得能の水軍が味方しました。

戦いとなりますが、朝廷軍に勢いがあり勝利しました。

足利尊氏の九州落ち

足利尊氏は何度戦っても朝廷軍には勝てず、気力も失っていました。

これを見かねた大友貞宗は、九州まで落ち延び味方の少弐貞経と共に戦力を回復させ、大軍となり京都に攻め上る様に献策しました。

足利尊氏は九州に向かう事にしますが、兵たちが一斉に船に乗ろうと、殺到しています。

足利軍の船は200艘しかありませんでしたが、兵の数は20万騎以上おり、地獄絵図が展開される事になります。

ある者は船にしがみつき、また別の者は転覆を畏れ、しがみついた見方を斬り殺すなどしました。

足利尊氏は涙を流し九州に落ち延びる事になり、その裏では新田義貞が数万の捕虜と共に京都に凱旋しています。

新田義貞は憂いがなくなり、喜びが大きくなり、夢と現実が混ざり合った様な世の中になってしまったと太平記は伝えています。

後醍醐天皇は比叡山から京都に戻ると、新田義貞及び脇屋義助の官位を上げ、建武の年号は不吉とし延元に改めました。

これが太平記の15巻であり、京都合戦と足利尊氏の都落ちがメインになっています。

第十六巻・足利軍の逆襲と湊川の戦い

多々良浜の戦い

足利尊氏は九州に到着しますが、既に少弐貞経菊池武敏に討たれており世を去っていました。

多々良浜の戦いが勃発し、足利軍は僅か二百五十騎でしたが、菊池軍は五千の軍勢だったと太平記は伝えています。

しかし、菊池の大軍は多々良浜の戦いで、足利尊氏に敗れました。

菊池軍は数は多かったわけですが、足利軍に寝返る者が続出した事で、勝負を決したわけです。

足利尊氏は九州の大部分を支配下におく事になります。

新田義貞と赤松円心の戦い

新田義貞は尊氏の追討に手間取っており、この間に西国、四国、九州の諸将が足利方に味方しました。

後醍醐天皇は奥州に北畠顕家を戻らせ、新田義貞には足利尊氏の追討命令を出しています。

足利尊氏に味方する赤松円心は、播磨守護の辞職の辞令を頂きたいと朝廷に述べ、時間稼ぎを行いました。

この間に、赤松円心は堅固な城を築き防備を固めてしまったわけです。

新田義貞は騙された事を悟り、赤松円心が籠城する白旗城を昼夜問わず攻め立てますが、落とす事は出来ませんでした。

児島高徳は新田義貞に陽動部隊を出す様に進言し、船坂山を攻略しました。

これが決起となり、朝廷軍は中国地方に勢力を広めていく事になります。

足利尊氏の上洛

多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏に、赤松則祐が上洛を勧めました。

足利尊氏は大宰府を出発し、安芸の厳島に到着しますが、ここで光厳上皇の院宣を授かります。

これにより足利尊氏は朝敵ではなくなり、大義名分も手に入れた事になります。

足利尊氏は足利直義に20万の兵を率いさせ陸を進行させ、自らは七千五百余りの船団で海から上洛軍を率いました。

ここで足利尊氏は観世音菩薩と山鳩の吉兆があり、勝利を確信したわけです。

足利直義は30万の大軍となり福山城を陥落させました。

新田義貞は危機感を抱き摂津まで後退し、戦闘を行おうとしますが、新田軍が兵庫まで後退した時には、10万いた兵が2万人にまで激減しています。

楠木正成の戦略

新田義貞は兵庫まで後退し、状況を後醍醐天皇に報告しました。

後醍醐天皇は楠木正成を呼び、共同で足利軍を迎撃する様に勧めています。

楠木正成は後醍醐天皇が比叡山に還幸し、足利尊氏を京都に入れた上で、新田軍と楠木軍で挟撃する作戦を進言しました。

しかし、坊門清忠が後醍醐天皇が比叡山に入る作戦に猛反対しています。

楠木正成の戦略よりも、天皇の面子を守る事が優先され、合戦は京都の郊外で行う様になったわけです。

楠木正成は状況を判断し、異論を唱えても無駄とし、五百騎ほどを率いて新田義貞がいる兵庫に向かいました。

桜井の別れ

楠木正成は最後の合戦になると感じており、桜井の宿で嫡子の楠木正行を呼び寄せました。

太平記には、この時の楠木正行が11歳だったと伝わっています。

ここで楠木正成は楠木正行に別れを告げて、戦場に行く事になります。

これが桜井の別れであり、太平記に名場面になっています。

新田義貞と楠木正成

楠木正成新田義貞がいる兵庫に到着しました。

楠木正成は後醍醐天皇の言葉を新田義貞に告げ、酒杯を傾けながらの軍議となります。

新田義貞は楠木正成と酒を交わし、お互いの想いを吐露しました。

足利の大軍の前に、兵力で朝廷軍は圧倒的に劣っており、絶望的な兵力差の前で戦いが行われる事になります。

経島合戦

兵庫の海に足利尊氏の大船団が現れました。

さらに、陸には足利直義の大軍五十万騎がいたわけです。

楠木正成は湊川の西で七百の兵を率いていました。

総大将の新田義貞は和田岬に本陣を置き、足利尊氏の水軍の上陸を阻止するべく動きました。

ここで尊氏軍の一隊が経島から上陸しようとしますが、脇屋義助の軍に敗れています。

これを見た足利尊氏の本隊が動き出し、大軍を上陸させる事になります。

湊川の戦い

足利尊氏と細川定禅は、大軍を生かし新田軍と楠木軍の分断に成功しました。

これにより朝廷軍の敗色が濃厚となりますが、楠木正成は正面にいる足利直義の本隊に突撃を仕掛けたわけです。

楠木正成及び弟の楠木正季の軍は決死の覚悟で突撃しますが、遂に兵の数は七十三騎にまで激減してしまいました。

楠木兄弟は自刃を決意し、お互いに刺し違えて亡くなっています。

軍神と呼ばれた楠木正成は湊川の戦いで命を落としたわけです。

足利尊氏は楠木正成の首を妻子の元に送り届けますが、楠木正行は思わず自害しようとしてしまい母親に止められた話が残っています。

新田義貞は4万の兵で足利軍30万を相手に奮戦していましたが、結局は戦いに敗れました。

新田義貞は小山田高家が犠牲になった事で、生き延びる事が出来たわけです。

足利尊氏と光厳上皇

新田義貞が敗れた事で、後醍醐天皇は再び比叡山に入る事になります。

持明院統の後伏見法王、花園上皇、光厳上皇も比叡山に移る事になります。

ただし、光厳上皇だけは足利尊氏に院宣を発行しており、再び帝位に就く可能性が残っており東寺に入りました。

足利尊氏は光厳天皇の行動に喜び東寺を皇居とし、皇位の継承を行っています。

足利尊氏は大きな権力を手中に出来る直前まで来ていたわけです。

ここまでが太平記の16巻であり、メインは京都合戦と湊川の戦いだと言えるでしょう。

第十七巻・比叡山の戦い

比叡山を包囲

足利尊氏は圧倒的な戦力を武器に、比叡山を包囲し後醍醐天皇を屈服させようとしました。

しかし、新田義貞がよく守り戦いは膠着状態となります。

新田義貞が出撃し尊氏軍に戦いを挑む場面もありましたが、上手くは行きませんでした。

こうした中で足利尊氏と新田義貞の一騎打ちが行われそうな場面もありましたが、結局は足利尊氏が優勢となって行きます。

朝廷軍の名和長年も世を去りました。

後醍醐天皇の涙

足利尊氏は密かに後醍醐天皇とコンタクトを取り、後醍醐天皇との和睦を打診しました。

足利尊氏は後醍醐天皇に歯向かうつもりはなく、討ちたいのはあくまでも新田義貞だと語ったわけです。

後醍醐天皇は足利尊氏の策謀に気付かず、和議を受け入れ比叡山を降りて京都に向かう事になります。

比叡山を降りる最中に堀口貞満と出会い、堀口貞満は涙を流し後醍醐天皇に新田氏を見捨てない様にと訴えました。

新田義貞が到着すると後醍醐天皇は、足利尊氏のいる京都に還幸するのは、策略だったと告げました。

後醍醐天皇は涙を流し、事前に連絡しなかったのは、策の漏洩を畏れた為だと伝えています。

後醍醐天皇は皇太子の恒良親王を新田義貞に預ける約束をし、皇位も譲り北陸に向かう様に述べています。

この光景を見た多くの武士が涙を流したと言います。

新田義貞の北陸下向

後醍醐天皇は足利尊氏と和睦し、比叡山から京都に移りました。

新田義貞は恒良親王、尊良親王、息子の新田義顕、弟の脇屋義助及び、義治と共に北陸に下向しています。

この時に室町幕府では持明院統の光明天皇を擁立し、光厳上皇が治天の君となっていました。

後醍醐天皇は偽者の三種の神器を光明天皇に渡しています。

しかし、後醍醐天皇は花山院に幽閉されました。

こうした中で新田義貞は豪雪の中を北陸に移動する事になります。

ここでも多くの犠牲を出しました。

新田義貞は金ヶ崎城に入りますが、分散戦略を取り嫡子の新田義顕を越後、脇屋義助を杣山城へ移動させています。

足利軍の大軍が金ヶ崎城を包囲し、激戦が繰り返される事になります。

ここまでが太平記の十七巻となっています。

第十八巻・金ヶ崎城攻防戦

後醍醐天皇の吉野入り

花山院に幽閉されていた後醍醐天皇ですが、刑部大輔景繁が密かに諸国の様子を後醍醐天皇に告げていました。

後醍醐天皇は形勢逆転できる見込みがあると判断し、女装を行い御所を出る事になります。

後醍醐天皇は吉野を目指しますが、この時に怪奇現象があった事を太平記は記録しました。

後醍醐天皇の元に楠木正行なども集まり、後醍醐天皇は吉野に入る事になります。

瓜生勢の活躍と尼公

瓜生保は足利に属する斯波高経に従い金ヶ崎城の攻撃に参加していました。

しかし、弟の重、照、義鑑房は南朝に味方し杣山城に籠っていたわけです。

瓜生保は弟たち三人が脇屋義治も配下として、杣山城で奮戦している事を知ると、瓜生保は斯波高経の陣から離脱し、杣山城の弟たちに合流しました。

高師泰が脇屋義治の軍を攻撃しますが、奇襲により大打撃を受けています。

斯波高経は脇屋義治の軍に対抗する為に、新善行寺城に籠城しますが、瓜生一族が果敢に攻めた事で落城しました。

脇屋義治の軍に勢いがついた事で、金ヶ崎城の後方支援も行う様になります。

しかし、足利勢の反撃により瓜生一族も戦死する者が多く出た事で、桝山城に戻りました。

瓜生兄弟の母親に尼公がおり、兄の瓜生保は戦死したが、弟三人は生きて殿を守ると涙ながらに酒の酌をしています。

尼公の気丈な一言に敗戦の空気が一掃され、新田軍は再び士気を取り戻す事になります。

金ヶ崎城の落城

足利方に包囲された金ヶ崎城では、苦しい戦いが続けられていました。

瓜生保が戦死し後方支援が断たれ、食料も乏しくなり釣りをしたり海藻を食べたりして、飢えを凌ぐまでになっていたわけです。

しかし、飢餓が頂点に達した事で、皇族の馬を食べたり、名のある武士たちの馬を食べて飢えを凌ぐまでになっていました。

落城が迫った時に、新田義貞や脇屋義助が金ヶ崎城を脱出し、杣山城に向かう事になります。

杣山城で金ヶ崎城の支援策を考えますが、足利軍が10万に対し新田勢は五百しかおらず、結果は明らかでした。

既に新田勢は死人の肉を食べる様にまでなっていました。

金ヶ崎城では軍馬も食べ終わり飢餓に苦しんでいる様を足利勢は察知し、総攻撃を仕掛けたわけです。

新田軍の由良と長浜が総大将の新田義顕に状況を説明すると、新田義顕は尊良親王の元に向かう事になります。

新田義顕は自害を覚悟したと告げますが、尊良親王はその作法を問いました。

尊良親王の言葉を聞いた新田義顕は自害してみせると、同じ刀で尊良親王も自害し、それを見ていた者達も続きました。

ここにおいて金ヶ崎城は落城したわけです。

恒良親王の最後

恒良親王は気比斉晴が小舟で蕪木の浦の漁夫に預けますが、気比斉晴は城に戻り亡くなっています。

足利軍は恒良親王を捕虜としました。

足利軍は新田義貞と脇屋義助の首が見つからなかった事で、恒良親王に訪ねています。

恒良親王は新田義貞と脇屋義助は自害し火葬にしたと、偽りの情報を伝えたわけです。

恒良親王は幽閉される事になります。

比叡山の危機

金ヶ崎城が落城すると、幕府の威勢が多いに強まり、後醍醐天皇を助けた比叡山が危機に立たされました。

足利方の考え方一つで比叡山は廃寺に追い込まれる可能性もあったわけです。

室町幕府内で比叡山の最終処分を決める会合の中で、玄恵法印が現れました。

玄恵法印は比叡山の歴史を解き、場にいた人々に教えを諭したわけです。

玄恵法印により足利尊氏直義は考え方を改め、比叡山は救われました。

ここまでが太平記の十八巻であり、金ヶ崎城の攻防戦がメインになっています。

第十九巻・北畠顕家最後の戦い

足利尊氏の征夷大将軍就任

朝廷の人事で足利尊氏が正三位大納言になると共に、征夷大将軍に任ぜられました。

足利直義も四品宰相となり、副将軍に任ぜられています。

ここにおいて、足利一門の栄華が花開いたと太平記は伝えました。

恒良親王の最後

金ヶ崎城は落城しましたが、新田義貞や脇屋義助は生きており、再起を図る事になります。

新田義貞や脇屋義助は杣山城から反撃を始め、足利尊氏は越前国府に軍を派遣しますが、膠着状態となりました。

延元三年(1338年)二月に鯖江宿で脇屋義助が包囲されますが、新田義貞が自ら救援に現れて救っています。

新田勢は越前の国府を陥落させました。

越前国府の陥落に激怒した足利尊氏は、国府陥落の責任は恒良親王の虚言にあるとしました。

恒良親王が新田義貞と脇屋義助は亡くなったと嘘の情報を伝えており、越前国府陥落の責任は恒良親王にあるとしたわけです。

成良親王と共に幽閉されていた恒良親王は毒と知りつつ七日間飲み続け、世を去っています。

尚、北条高時の次男である北条時行は、中先代の乱の後に諸国に潜伏していましたが、吉野に密使を送り後醍醐天皇に謝罪しました。

後醍醐天皇は北条時行が足利尊氏打倒を考えている事を知り赦免し、足利尊氏を討伐する勅命を与えています。

北畠顕家の二度目の上洛

奥州にいた北畠顕家は後醍醐天皇にが吉野で南朝を開き、新田義貞が北陸に下向した話を聞く事になります。

こうした中で北畠顕家は鎌倉を攻める決断をしました。

鎌倉にいた足利義詮は利根川で対峙しようとしますが、北畠顕家の軍に敗れています。

北畠顕家の軍は新田義興や北条時行の助けもあり、軍はさらに強大となりました。

北畠顕家は鎌倉を攻略し、こうした一連の戦いの中で斯波家長も戦死しています。

北畠顕家は京都を目指し東海道を進みますが、敗れた足利勢が奥州軍を追う展開となりました。

奥州軍の奮戦

奥州軍は追ってくる足利軍八万を青野原の戦いで破りました。

室町幕府の中枢では奥州軍の青野原の戦いでの勝利に慌て、黒血川に布陣させています。

奥州軍は10万を超えていましたが、足利軍は1万ほどしかおらず、奥州軍は圧倒的に有利な状況でした。

しかし、北畠顕家新田義貞との合流を拒み、伊勢方面から後醍醐天皇がいる吉野を目指す事になります。

太平記によると北畠顕家は功績を新田義貞に横取りされると危惧し、新田勢との合流を拒んだと言います。

吉野に入った北畠顕家は、桃井軍と戦いますが、敗れています。

この時に弟の北畠顕信が敗残兵を集めて、八幡山に入り籠城しました。

室町幕府では高師直に八幡山の北畠顕信を破る為に、出陣させています。

北畠顕家の最後

幕府軍の高師直は大軍で八幡山を包囲し、自身は天王寺方面に出撃しました。

北畠顕家の軍には連戦の疲労があり、兵の数も少なく敗戦が濃厚となります。

北畠顕家は吉野の後醍醐天皇の元まで辿り着こうと考え、自ら武器を手に取り奮戦しますが、戦いには敗れ戦死しました。

石津の戦いで北畠顕家は亡くなり命を落としたと言えるでしょう。

北畠顕家戦死の報告を受けた吉野朝廷では、公家も含め多くの者が落胆したと伝わっています。

太平記の十九巻は北畠顕家の奮戦と戦死がテーマになっています。

第二十巻・新田義貞の最後の奮戦

新田義貞の復活

一度は金ヶ崎城の戦いで危機的な状況に陥った新田義貞ですが、復活し越前の大半を手に入れました。

幕府軍を率いる斯波高経は黒丸城に籠城しますが、苦しい戦いが続く事になります。

越後の新田一族が越前の新田義貞を支援する為に向かい越中や加賀での戦いに勝利しましたが、加賀で兵糧の現地調達を行いました。

この現地調達が略奪になってしまった部分があり、新田勢は評判を落とす事になります。

援軍を得た新田義貞は黒丸城攻略の準備を始めますが、こうした中で後醍醐天皇から、八幡山に籠城する新田義興、北畠顕信を救援する様にとの勅命が届いたわけです。

新田義貞は天皇直筆の勅命に感激し、作戦を進行し京に向かう事にしました。

石清水八幡宮の炎上

新田義貞は八幡山への救援を優先させようとしますが、児島高徳が策を献じました。

児島高徳は比叡山に連絡を入れ、新田義貞が比叡山に本陣を置くのが上策としたわけです。

過去の京都合戦で兵站を断たれて敗れた反省から、越前と加賀に補給部隊を残す事も進言しています。

新田義貞は児島高徳の策を受け入れ、比叡山に協力を求めました。

新田義貞はこれにより、八幡山の救援は弟の脇屋義助に任せています。

脇屋義助が京都に迫っている話を聞いた足利尊氏は、高師直に撤退命令を出しました。

高師直は八幡山を陥落させずに、帰京するのも口惜しく、石清水八幡宮を放火しています。

予期せぬ出来事に混乱したのか、八幡山の軍は河内に撤退し、脇屋義助は敦賀まで進軍していましたが、撤退に移りました。

大蛇になった新田義貞

脇屋義助が戦わずに戻って来た事で、新田義貞は再び斯波高経を討つために足羽城に進軍しました。

斯波高経は脇屋義助に兵を割き上洛軍を起こした隙に、防備を固めていたわけです。

平泉寺は斯波高経に味方し、祈祷を行いました。

この祈祷から七日後に新田義貞は不思議な夢を見る事になります。

夢の中で新田義貞が大蛇となり、斯波高経が数十里も逃亡しました。

斯波高経が逃亡している事から、吉兆だと喜びますが、斎藤道献は新田義貞の死を予言する事になります。

大蛇となった新田義貞は臥竜であり三国志諸葛孔明を現わし、斯波高経の逃亡は司馬仲達の逃亡を指すとしたわけです。

五丈原の戦いの最後でもある「死せる孔明生ける仲達を走らす」を引き合いに出したと言えます。

新田義貞が亡くなり、斯波高経が逃亡する事を予言した夢だったという事になるでしょう。

新田義貞は燈明寺に布陣し、藤島城を攻撃しました。

平泉寺の僧が奮戦し、勝負は中々につかなかったわけです。

新田義貞の最後

藤島の戦いは僧兵の頑強な抵抗もあり、決着が直ぐにはつきませんでした。

こうした中で新田義貞は、五十騎ほどを率いて、藤島城の様子を見に行く事にしたわけです。

この時に偶然にも新田義貞の五十騎と、幕府軍の三百ほどの細川出羽守の兵が遭遇戦となります。

細川軍は弓や盾を持っていましたが、新田義貞の軍は丸腰状態でした。

部下達は新田義貞を守り逃がそうとしますが、新田義貞は駿馬に鞭を入れて敵陣に突撃を仕掛けています。

こうした中で新田義貞の眉間に矢が刺さり最後を迎えました。

鎌倉幕府を滅ぼした英傑である新田義貞は思わぬ所で、命を落としたわけです。

新田義貞と勾当内侍

新田義貞の首は氏家重国が取り、鎧や太刀などと共に黒丸城に送られました。

斯波高経は遺体が後醍醐天皇直筆の手紙も持っており、名刀・鬼切、鬼丸を所持していた事から新田義貞だと判断されました。

新田義貞の首は獄門に懸けられる事になります。

妻の勾当内侍は、新田義貞の菩提を弔う道に入りました。

勾当内侍は美人で有名な女官であり、新田義貞は彼女への情愛から失策を繰り返したとも言われており、傾国の美女とも呼ばれています。

新田義貞を失った新田勢は三万の兵士が二千にまで激減しており、脇屋義介、義治の親子は七百騎で越前国府に撤退しました。

結城宗広の地獄落

楠木正成北畠顕家新田義貞を失った南朝は、ジリ貧状態となります。

こうした中で結城宗広が義良親王と南朝の重臣を奥州に派遣し、地方からの挽回策を進言しました。

南朝の五百艘ほどの船が伊勢を出発しますが、暴風雨により伊勢の神風浜まで押し戻されています。

船は難破しましたが、こうした中で結城宗広が病に掛かりました。

結城宗広は結城親朝に「朝敵の首を墓前に備えよ」と遺言し亡くなっています。

太平記では、この後に結城宗広の様々な問題行動を指摘し、無間地獄に堕ちた事が語られています。

これが太平記の第二十巻であり、新田義貞の最後の奮戦がメインになっています。

第二十一巻・後醍醐天皇の崩御と塩冶高貞の最後

室町幕府内での驕り

南朝では既に後醍醐帝三傑が世を去り、危機的な状況となります。

僅かに脇屋義助や新田義興らの復活が期待出来る程度になったわけです。

逆を言えば室町幕府に余裕が生まれる事になります。

高氏や上杉氏などに驕りが見える様になり、公家を嘲笑し、公家らは武士に対し委縮したと伝わっています。

佐々木道誉とバサラ

こうした時期にバサラで有名な佐々木道誉が問題行動を起こしました。

佐々木道誉は三百ほどの兵で妙法院の御所を放火しています。

佐々木道誉は流罪にされますが、派手なバサラを貫き通し反省の色は見せませんでした。

ただし、山門の強訴を受けており、佐々木道誉の子の佐々木秀綱は堅田で山法師に討たれ、その弟の佐々木秀宗は野武士に殺害されました。

孫の佐々木秀詮と氏詮は朝敵としみなされ、世を去りました。

後醍醐天皇の崩御

後醍醐天皇は1339年8月に病に掛かり病床に臥していました。

衰弱する一方であり、回復の傾向はみられず後醍醐天皇も最後を悟る事になります。

後醍醐天皇は新田義貞や脇屋義助の忠義を讃える言葉などを述べ、左手に法華経の第五巻を持ち、右手には御剣を握り崩御したと伝わっています。

多くの者達が後醍醐天皇との別れを惜しんだと太平記は記録しました。

後村上天皇の即位

後醍醐天皇が崩御した事で、義良親王が後村上天皇として即位しました。

吉野で後村上天皇は三種の神器の譲受のみの即位となったわけです。

南朝では北畠親房が政務を行い、脇屋義助や北畠顕信には、南朝の為に邁進する様に伝えました。

脇屋義助の奮戦

脇屋義助は新田義貞の遺志を受け継ぎ、黒丸城を狙っていました。

畑時能の奮戦もあり、斯波高経は加賀まで撤退する事になります。

これにより黒丸城は落城し、脇屋義助は兄の新田義貞の雪辱を果たしたと言えるでしょう。

ただし、最終的に脇屋義助は越前で敗れ美濃に移りました。

塩冶高貞の妻

塩冶高貞の妻(北の方)は美人として名が通っていました。

これに興味を持ったのが高師直であり、侍従に命じて一夜の相手を懇願しました。

しかし、北の方は断りますが、高師直は諦めきれず兼好法師に恋文まで書かせています。

兼好法師の恋文作戦も通用せず、高師直の苛立ちは募りました。

高師直は北の方の入浴シーンを覗く暴挙にまで出ています。

ここで高師直は塩冶高貞を失脚させ妻を奪おうと考えました。

高師直は塩冶高貞を讒言した事で、塩冶高貞は危機感を募り出雲に向かいました。

高師直は追手を出しますが、北の方が追手に追いつかれてしまい自害しています。

塩冶高貞は出雲まで辿り着きますが、妻の自害を聞くと馬上で腹を切り高師直を呪いました。

高師直は悪行が積もって破滅したと太平記は伝えています。

これが太平記の第二十一巻であり、後醍醐天皇の崩御だけではなく塩冶高貞の最後までを描いています。

第二十二巻・脇屋義助の最後と四国攻防戦

畑時能の最後

室町幕府は北陸に大軍を派遣し、遂に杣山城が陥落してしまいました。

越前南朝は壊滅的な打撃を受けますが、畑時能は僅か27人で鷹巣城を死守する事になります。

畑時能には犬獅子と呼ぶ軍犬がおり、闇夜に敵陣に忍び込み敵情を知らせてくれたわけです。

犬獅子の活躍もあり、畑時能の軍は強く多くの夜襲を成功させてきました。

畑時能と敵対した者は夜襲を恐れ貢物を持ってくる者も現れたと言います。

こうした中で幕府は大軍で鷹巣城を攻撃しました。

畑時能は斯波高経を最後の相手と決め、戦場で暴れまわり矢を受け、戦死しています。

脇屋義助と四条隆資

脇屋義助は越前から美濃に移りますが、美濃でも敗れ吉野に戻ってきました。

後村上天皇は脇屋義助の帰還を喜び恩賞を与えようとしますが、洞院実世は「戦いに敗れて落武者になった者に恩賞を与えてはならない」と諫止しています。

洞院実世の言葉に異を唱えたのが、四条隆資であり、孫子や太公望を例に出し反論しました。

四条隆資は脇屋義助が敗れたのは、脇屋義助の戦略が悪かったわけではなく、後醍醐天皇が色々と介入した事が原因だと述べたわけです。

四条隆資の言葉に洞院実世も返す言葉がなく、退席しています。

佐々木信胤が南朝に降る

南朝は伊予へ脇屋義助の派遣を決めました。

しかし、道中は敵ばかりであり、四国の伊予まで行けるのか問題があったわけです。

こうした中で室町幕府の佐々木信胤と高師秋が騒動を起こす事になります。

大貴族に使える者の中に浮気な御妻という女性がいました。

御妻と高師秋が男女の関係となり、深い仲となったわけです。

後に高師秋は伊勢守護となり、現地に向かおうとしますが、御妻を連れて行こうと考えました。

しかし、御妻は同行を嫌がり、高師秋と共に伊勢に向かおうとしませんでした。

高師秋は無理やり御妻を連れ出し、伊勢に向かう事になります。

高師秋は道中で輿の中を確認すると、御妻がおらず、八十歳の御婆さんがいました。

太平記の描写では歯が一本もない老婆だったと書かれています。

驚いた高師秋は老婆を殺害しようとしますが、老婆は「田舎で骨休めする為に御妻に勧められて輿に乗った」と泣きじゃくりました。

高師秋は御妻の行方を探しますが、御妻は佐々木信胤と深い仲になっていたわけです。

高師秋は激怒し、佐々木信胤の命を狙い、身の危険を感じた佐々木信胤は南朝に降伏しました。

男女関係のもつれから、佐々木信胤は南朝に鞍替えしたと言えるでしょう。

脇屋義助の最後

脇屋義助は四国の総司令官に任命され、伊予を目指しました。

熊野水軍や佐々木信胤の協力もあり、伊予国今張浦に入る事になります。

脇屋義助の活躍により、四国では南朝の勢力が活発になりました。

勢いが乗った四国南朝ですが、脇屋義助が発病から僅か七日間で亡くなる事態となります。

室町幕府では脇屋義助が亡くなると好機だと考え、大軍での攻勢を強めました。

細川頼春が大舘氏明の世田城を攻撃すると聞くや、南朝の軍は寡兵で敵を破り逃亡しています。

大舘明氏は自害しますが、家来の豪勇の士と謡われた篠塚伊賀守は悠然と敵陣を突破し、退却したとあります。

太平記の二十二巻は脇屋義助の最後と南北朝時代の四国での戦いがメインになっています。

第二十三巻・楠木正成の霊と土岐頼遠の牛車襲撃事件

大森盛長の霊剣

楠木正成を自害に追い込んだ武士で、大森彦七盛長なる人物がいました。

功績により大森盛長は裕福な身となったわけです。

大森盛長は美女が鬼になったりする不思議な体験をしており、能舞台で楠木正成を名乗る者まで現れました。

楠木正成は忠臣霊団なるものを率いており、大森盛長の霊剣を後醍醐天皇の命令で取りに来たと告げます。

大森盛長が拒否すると、楠木正成は捨て台詞を吐き、海の方へ消えて行ったと言います。

しかし、楠木正成の霊は再び現れ、霊剣の献上を迫りました。

楠木正成は七柱の敗亡霊と共におり、霊となった後醍醐天皇、護良親王新田義貞、平忠正、源義経、平教経らを紹介しています。

大森盛長は凄まじい光景を目撃しますが、他の者には何も見えない状態でした。

大森盛長は左右の者に「あれが見えないのか」と訪ねると、霊は姿を消す事になります。

大森盛長は霊剣は足利尊氏に献上すると述べ譲りませんでしたが、大森盛長はおかしな行動を取る様になり、一族に監禁させられてしまいました。

奇妙な現象が大森盛長の所で多発しますが、最後は大般若経の法力で退散させています。

後に、大森盛長も正常となり霊剣は足利尊氏に渡り、後に直義の愛蔵品となりました。

土岐頼遠の狼藉

北朝光厳上皇は仏事の帰りに牛車で移動していましたが、酒に酔った土岐頼遠や二階堂行春らと遭遇しました。

ここで二階堂行春は光厳上皇の行列だと気が付き馬を降りて礼を示しますが、土岐頼遠は不遜な態度を取り「なに。院だと、犬だと、犬なら射落としてやる」と、光厳上皇の牛車を襲撃しました。

牛車は壊れ公家たちは外に逃げ出すなど、土岐頼遠は北朝の治天の君である光厳上皇に対し狼藉を働いたわけです。

足利直義は土岐頼遠の狼藉を聞くと激怒し、土岐頼遠は六条河原で処刑しました。

世間の者達は足利直義の行動を褒め称えたと太平記は記録しています。

土岐頼遠事件の影響

京の都に四十歳ほどの貧乏公家がいました。

それでも、貧相な牛車を持っており、移動する時に使っていたわけです。

京都の街には権勢に驕る傲慢な武士も多くいました。

この日に、二、三十騎ほどの武士たちが、我が物顔で京の街を闊歩していたわけです。

ここに貧乏公家の牛車が通る事になります。

武士たちは牛車を見ると「土岐頼遠が命を落とした院に違ない」と考え、慌てて下馬し、地面に頭を付けて恐れおののきました。

貧乏公家の方も「土岐一族に違いない」と考え、牛車から飛び降り急いで跪いています。

この日は北野天満宮の縁日で多くの人々がおり、この光景を見た人々は多いの嘲笑したと言います。

太平記の二十三巻は楠木正成の霊が出て来たり、笑い話も入っていたりと特異な回でもあると言えるでしょう。

第二十四巻・京都の平和と天龍寺供養

平穏な京都

1338年までに楠木正成北畠顕家新田義貞ら南朝の名将が亡くなっており、後醍醐天皇も1339年に崩御しました。

こうした事もあり、南朝は大人しくなり、戦争の数が激減し京都は平穏になります。

しかし、戦乱により出費が抑えられ、朝廷の行事が行われなくなるなどの問題もあったわけです。

天龍寺と光厳上皇の機転

夢窓疎石が足利直義に天龍寺の建立を進言しました。

国家の混乱は後醍醐天皇の憤りの激しさが原因であり、菩提を弔うべきだと述べたわけです。

足利尊氏も夢窓疎石の言葉に納得し、天龍寺を建立する事になり、1345年に完成しました。

天龍寺供養は光厳上皇も臨席資する事になります。

しかし、比叡山は国家を護持できるのは、山門のみであるとし、北朝の朝廷に天龍寺を破壊する様に要請しました。

北朝の朝廷では坊城常顕は「比叡山の態度は言語道断」としましたが、日野資明は朝廷と山門の協力の歴史を考えるべきだと主張し、比叡山に理解を示しました。

三条通冬は禅宗(天龍寺)と天台宗(延暦寺)で、宗教論争を行うべきだと指摘しています。

二条良基は「室町幕府の判断を仰ぐべき」とする意見を出し、一同を納得させています。

問題を丸投げされた足利尊氏と直義は天龍寺と延暦寺がいがみ合うなら、武力で排除すると力で抑え込もうとしました。

要求を却下された比叡山は怒り、光厳上皇に天龍寺供養に臨席しない様に要請しました。

光厳上皇は供養に翌日に詣でると院宣を出し、問題を収束させています。

光厳上皇の機転により、比叡山も強訴しませんでした。

天龍寺供養

1345年に天龍寺供養が行われ、足利尊氏直義は豪華な行列を作りました。

行列に従った者として、太平記には次の名前が挙げられています。

山名時氏武田信武小笠原政長戸次頼時
土屋範遠東常顕佐々木秀定佐々木氏綱
大平義尚粟飯原清胤吉良満貞高師兼

さらに多くの武士が行列に加わり、天龍寺供養は盛大に終わる事になります。

翌日には花園上皇と光厳上皇が天龍寺に行きました。

尚、太平記は天龍寺が、二十年間の間に二度も焼失した事も伝えています。

児島高徳の活動

三宅高徳(児島高徳)は備前の児島におり、脇屋義治と共に倒幕計画を企てていました。

丹波の荻野朝忠を味方とし計画を勧めますが、幕府に見つかってしまい荻野朝忠は降服しています。

そこで、児島高徳は幕府の首脳陣の暗殺を試み、諸国から南朝の味方してくれる者を募りました。

しかし、この計画も露見し壬生の隠家を襲われ、児島高徳と脇屋義治は美濃に落ち延びて行く事になります。

壬生の隠家に潜んだ武士たちの中で、香勾高遠だけが生き延びた話があります。

太平記の第二十四巻は天龍寺供養がメインになっており、派手な軍事衝突などは鳴りを潜める事になります。

第二十五巻・高僧霊団と楠木正行の挙兵

崇光天皇の即位

貞和四年に後伏見上皇の孫で、光厳天皇の子である崇光天皇が即位しました。

新たな天皇が即位されると大嘗祭を開いたりするわけですが、ここで斑な犬が男児の頭を加えて座っているという奇妙な事件がありました。

役人が箒で追い払おうとしますが、犬は棟木の上に行き西の方に向かって三度吠えたと言います。

多くの人が不吉に思い大嘗祭の中止を求めますが、崇光天皇や光明上皇が祭儀の継続を求めた事で幕府は諸国に新米を求めました。

太平記では、民は困窮しており、非難を買ったと記録しています。

高僧霊団現る

愛宕山・比叡山の方向から空より輿がやってきました。

輿に乗っていたのは、後醍醐天皇の外戚である峰僧正春雅がおり、左右には知教上人や忠円僧正がいたとあります。

彼らの風貌は並大抵ではなく鋭い眼光に、脇からは翼が生えていたと言います。

さらに、護良親王が天台座主の時代の姿でおり、峰僧正春雅は一騒動起こしたいと述べました。

こうした中で足利直義が持戒厳守の堅物だとの自惚れた話となり、護良親王が直義の妻である渋川殿の腹の中に男児として入り生まれる事になります。

さらに、妙吉の事にも言及し、峰僧正春雅が妙吉の心と入れ替わり、邪悪な政策を推し進める様に告げました。

忠円僧正は高師直高師泰の心に入り込み上杉と畠山を滅ぼすと断言しています。

数日後に足利直義の夫人が病に掛かり、後に出産する事になります。

1347年の6月8日に男児を出産しますが、これが如意丸であり、この時の渋川氏は40歳を超えての高齢出産でした。

藤井寺合戦

貞和三年(1347年)に楠木正行は25歳になっていました。

父親の楠木正成の十三回忌でもあり、五百程の軍勢を率いて住吉・天王寺方面に進撃しました。

足利尊氏は楠木正行が挙兵した話を聞くと、細川顕氏に三千ほどの兵を与え河内方面に向かわせる事になります。

細川顕氏は合戦にはまだ時間があると考え、藤井寺で休憩していましたが、楠木正行の軍に急襲されました。

細川顕氏の軍は寄せ集めでしかなく、楠木勢を押し返す事が出来ずに京都に撤退しています。

これが太平記の藤井寺合戦です。

壇ノ浦に沈んだ宝剣

藤井寺の戦いが行われていた頃に、安徳天皇と共に壇ノ浦に沈んだ宝剣が見つかったと太平記は記録しています。

これが本当であれば草薙剣が発見された事になるでしょう。

発見者は円成という山法師であり、海岸で剣の様な光体を拾ったと言います。

大神宮に届けると、子供に神が掛かり「これこそが三種の神器だ」と喋り出しました。

宝剣は朝廷に還される事になりますが、足利直義が日輪の上に宝剣の立つ夢を見たと言います。

円成は葛葉の関を恩賞として得ますが、後に非合理だと非難され、葛葉の関の所領は興福寺に返還されました。

住吉合戦

藤井寺の戦いで勝利した楠木正行は、京都方面に向かって進軍を開始しました。

幕府では山名時氏と細川顕氏に六千の兵を与え、住吉や天王寺に向かわせています。

楠木正行は住吉で敵を破れば、天王寺に駐屯する幕府軍は戦わずに撤退すると考えました。

寡兵の楠木軍に対し幕府軍は4つに軍を分けて迎撃する態勢をとります。

これを見た楠木正行は軍を一つにまとめ、軍を集中させ全面突破する作戦に変更しています。

楠木軍の和田源秀、阿間了願が敵陣に突入し大暴れしました。

幕府軍の大将の一人である山名時氏は重傷を負い京へ敗走しています。

第二十六巻・楠木正行の奮戦と高僧霊団の暗躍

後村上天皇と楠木正行

住吉合戦楠木正行の攻撃により、山名時氏の軍で淀川の橋から転落した者が多くいました。

寒水に入ってしまった兵たちを、楠木正行が救った話があります。

楠木正行の温情に感じ入った武士たちは、四条畷の戦いで楠木勢として戦いました。

室町幕府では楠木正行を討伐する為に、高師直高師泰を司令官に任命し、圧倒的な大軍を揃え八幡に集結する事になります。

楠木正行は幕府の大軍の前に死を覚悟し、弟の楠木正時と共に吉野を訪れました。

後村上天皇は楠木正行を褒め称えはしましたが、生きて帰ってくる様に命じています。

しかし、楠木一族は決死の覚悟で挑み如意輪堂に苗字を書き辞世の歌を残して、吉野を出ました。

四条畷の戦い

高師直は八万の軍勢で楠木正行を潰しに来ました。

南朝の四条隆資の軍勢が囮となり、楠木正行の軍が高師直の本隊に突撃を掛ける事になります。

楠木正行は一度は高師直を討ち取ったと思いましたが、影武者であり、勝機を逃しています。

再び楠木正行は高師直の本陣に攻撃しますが、楠木勢は三千ほどしかおらず、幕府軍の大軍の前に疲労困憊状態となります。

それでも、楠木正行は高師直の近くまで軍を移動させますが、須々木四郎の弓隊により、次々に矢が放たれ、楠木正時は眉間と喉に矢が突き刺さったと言います。

楠木正行も膝頭などに矢を受け、最後を悟り楠木正時と刺し違えて最後を迎えました。

吉野炎上

高師直はこれを機に南朝を根絶やしにしようと考え、吉野にまで軍を進めました。

後村上天皇は賀名生にまで軍を後退させています。

吉野に到着した高師直は、皇居や仏閣などを焼き払いました。

聖地の吉野が高師直により焼かれてしまったわけです。

高氏兄弟の横暴

高師直の兄弟らは四条畷の戦いと吉野を陥落させた事で、仁義を無視し驕る様になります。

高師直は落ちぶれた公家の娘たちを囲い、前関白の妹を宮中から盗み出し、身籠らせて子供を出産させました。

高師泰は墓地を破壊し土地を奪い、難癖をつけて人を殺害するなど、やりたい放題だったわけです。

高師直の兄弟を妬んだ上杉重能や畠山直宗らは、足利尊氏に讒訴しました。

足利直義は禅宗に傾倒しており、夢窓疎石の弟子となっていました。

夢窓疎石の弟子である妙吉を足利直義は重用していましたが、妙吉は高師直の兄弟を中傷しています。

上杉重能や畠山直宗も妙吉と共に、高師直らの悪態を足利直義の耳に入れました。

妙吉の讒言

妙吉は足利直義に「高師直が天皇や上皇は必要ない。そんなものは木か金属で造ればいい」と述べていると告げています。

さらに、妙吉は周の武王や古の故事を例に出し、足利直義を説得しました。

妙吉は高師直の兄弟を討ち、上杉重能や畠山直宗を執事に任命し、息子の如意丸に天下を治めさせるべきだと説いたわけです。

太平記では如意丸の中身は護良親王であり、高僧霊団が暗躍し始めた事になっています。

足利尊氏の子である足利直冬が中国探題に任命され、民の信頼を得たとあります。

それに対し、高師直と高師泰の中身は高僧霊団の一味に成り代わっていました。

第二十七巻・高師直の逆襲

田楽と事故

1349年の正月から天変地異が幾つか発生し、天下大乱の予兆を告げました。

こうした中で四条河原で大規模な田楽が開催され、足利尊氏や二条良基などが参加しています。

こうした中で観覧席が壊れ、大混乱となる事件が発生しています。

謎の山伏が瞬間移動で現れるなどもあり、世の中は不穏な空気も流れる事になります。

北条高時も田楽に嵌り鎌倉幕府を滅ぼしており、歴史は繰り返すと感じた者も多かったわけです。

雲景と愛宕山の山伏

羽黒山伏の雲景が都の見物をしていると、愛宕山のある山伏により愛宕山の頂上に案内されました。

ここには崇徳上皇の霊がおり、、悲運に見舞われて世を去った者達集まっていたわけです。

この集団の中には後醍醐天皇や護良親王もいました。

ここで雲景は霊たちの中心人物である愛宕山の太郎坊に、今の世の中が如何に間違っているのかを聞かされる事になります。

雲景は後醍醐天皇の治世が長く続かなかった理由を尋ねると、民を慈しむ徳の配慮が少なかったからだと答えました。

さらに、現在の北朝の天皇たちは、足利尊氏の言いなりだと指摘しています。

雲景は天下太平について尋ねると、突如として火が上がり辺りを包み、逃げようとした瞬間に現生に戻りました。

雲景は魔界での体験を後世に伝え、未来記(予言書)として、朝廷に提出しています。

高師直の御所巻

上杉重能と畠山直宗の讒言を信じた足利直義は、高師直の暗殺を企てました。

しかし、内通者が出た事で失敗に終わっています。

これ以後の高師直は政務に参加せず、逆襲の機会を待つ事になります。

こうした中で京都で戦の噂が流れ、高師直は大軍を集めました。

足利尊氏は直義を将軍御所に呼び寄せますが、高師直は御所巻を行っています。

足利尊氏や足利直義は高師直に上杉重能と畠山直宗を配流する約束をし、両軍の対決は回避されました。

足利尊氏の子で足利直義の養子になっていた足利直冬は、中国探題として備後に赴任していました。

足利直冬は高い評価を得ていましたが、高師直は足利直冬を急襲する様に命じています。

一早く情報を察知した足利直冬は九州の肥後に逃れました。

足利直義の失脚

高師直の御所巻により、足利直義は失脚しました。

代わりに鎌倉にいた足利義詮が上洛し、政務の中心となります。

足利直義は出家しますが、訪ねて来る人もいませんでしたが、玄恵法印だけは高師直の許可を得て会っています。

畠山直宗と上杉重能は流罪となりますが、高師直により最後を迎えました。

第二十八巻・足利直義と南朝

三つ巴の戦い

1350年に北朝では観応に改元しました。

室町幕府では足利尊氏義詮が表抜きはトップでしたが、裏に潜んでいたのは高師直高師泰の兄弟だったわけです。

足利尊氏から九州にいる足利直冬を討てとする命令がありましたが、裏に高師直がいると判断され、従う者はいませんでした。

九州の足利直冬の方は、少弐頼尚に迎え入れられ、足利直冬は多くの支持者を集めています。

この頃の日本は南朝、室町幕府、足利直冬の三勢力に別れて争う構図となっていました。

三つ巴の戦いになったとも言えるでしょう。

足利直冬に味方した三隅兼連が石見で挙兵しますが、高師泰が苦戦しながらも討伐に成功しました。

こうした中で高師直は足利尊氏に足利直冬討伐を強要し、九州征伐に向かう事になります。

足利直義の挙兵

足利尊氏高師直が出陣する前夜に突如として、足利直義が行方不明となりました。

高師直は足利直義による暗殺計画があるのではないかとも疑いますが、大した事にはならないと考え九州に向かって出陣しています。

足利直義は大和に逃れると、ここで挙兵しました。

足利直義は光厳天皇の院宣を獲得し、錦の御旗を掲げ鎮守府将軍となり、高師直打倒に動く事になります。

しかし、一つ間違えれば、南朝の和田氏や楠木氏から攻撃を受ける危険があり、直義を悩ませました。

足利直義は南朝への降伏を決断し、降伏文書を南朝の朝廷に送る事になります。

足利直義の南朝降伏

足利直義の降伏文書を南朝では受け取りますが、朝廷で議論となります。

洞院実世は南朝が吉野で朝廷を開く事になってしまったのは「足利直義が原因」とし、降伏の受け入れに反対しました。

しかし、二条師基は直義の降伏を受け入れ利用するべきだと、直義の受け入れに賛成しました。

ここで北畠親房が「直義の降伏は偽り」としながらも、天皇親政を実現し天下に威徳を示せば、逆臣は征伐できると、直義の受け入れに賛成しています。

ここで、北畠親房の案が通り、足利直義の南朝降伏は認められたわけです。

第二十九巻・

桃井直常が京都を占拠

足利直義が南朝の武将になると、和田、楠木など大和の周辺から次々と兵が集まりました。

京都を守っていた足利義詮は危機感を抱き、備前にいた足利尊氏に急使を送っています。

足利直義は尊氏が返って来る前に京都を手中に収めようと、軍を派遣しました。

越中からは桃井直常が直義派として駆け付け、足利義詮は京都を退散しています。

足利義詮が京都を離れた事で、桃井直常が京都に入りました。

秋山光政と阿保忠実の一騎打ち

足利義詮足利尊氏の軍に逃げ込みました。

足利尊氏は軍を三つに分けて京都に進軍する事になります。

幕府軍と桃井直常が京都で戦う事になりますが、桃井直常配下の秋山光政と高師直配下の阿保忠実で一騎打ちがあったと太平記には記録されています。

秋山光政と阿保忠実の一騎打ちは名勝負であり場を盛り上げましたが、戦い自体は桃井直常が撤退する事になりました。

光明寺城の戦い

足利尊氏は桃井直常に勝利した事から、味方が次々に集まると考えていました。

しかし、足利尊氏の部下の多くが足利直義に寝返ってしまう事態となります。

足利尊氏は京都の近郊では勝てないと判断し、西国に移動しました。

石塔頼房が播磨の光明寺城に入ると、足利尊氏は高師直と共に攻め立てました。

しかし、光明寺城を攻撃する幕府軍の士気は低く、石塔頼房の軍は寡兵であっても士気が高い状態だったわけです。

こうした中で空から高師直の一族の滅亡を予言するかの様な歌が天から落ちてきました。

多くの者が高師直の破滅を予言する歌だと考えますが、本心を隠し吉兆だと告げています。

打出浜の戦い

足利尊氏は光明寺城を抜く事が出来ず、足利直義の石塔頼房への援軍が近づいていた事から、光明寺城から撤退を決意しました。

足利尊氏と高師直は足利直義と打出浜で決戦となります。

この時の高師直軍に在籍していた者で、聖徳太子が登場する夢を見た者が二人いました。

聖徳太子の軍が高師直と高師泰を滅ぼす夢であり、太平記では高師直・高師泰の破滅を予見させる出来事となっています。

打出浜の戦いで足利尊氏と高師直は足利直義の前に大敗を喫しました。

足利直義は兄の足利尊氏に危害を加えるつもりはなく、高師直と高師泰の出家を条件に和議が成立しています。

高師直と高師泰の最後

高師直高師泰は関東執事である高師冬を頼ろうとしました。

しかし、高師冬は既に上杉憲顕に敗れ甲斐で自害していました。

高師直は観念し、足利直義への降伏を受け入れ、足利尊氏よりも遥か後方を歩き京都に向かう事になります。

この道中に高師直と高師泰の二人は上杉能憲により、命を落としました。

太平記はこの後に、高師直の一族が次々に討たれ滅亡したと書き示しています。

これが太平記の二十九巻であり、高氏一族の滅亡にて終わる事になります。

第三十巻・足利直義の最後と正平一統

八相山の戦い

足利尊氏直義義詮の三人は和睦しました。

しかし、お互いの信頼関係は崩壊しており、臣下の派閥抗争と合わせて不穏な空気が流れる事になります。

足利直義は藤原有範の進言もあり、北陸に移動しました。

足利尊氏と直義は既に対立しており、近江で八相山の戦いが勃発する事になります。

八相山の戦いは足利尊氏の勝利に終わりました。

薩埵山の戦い

足利直義は鎌倉に入る事になります。

足利尊氏は南朝に降伏し、関東の直義を討つために出陣しました。

駿河の薩埵山で戦いとなります。

この時の足利尊氏の軍は三千しかおらず、足利直義の軍は五十万いたと太平記は記録しています。

ただし、足利直義の軍は大軍ではありましたが、士気は緩んでいたとあります。

足利尊氏を支持する宇都宮氏が次々に勝利を重ね、薩埵山を目指しました。

宇都宮勢の進撃に焦った直義方は、慌てて尊氏軍を攻撃しますが、大きな損害を出す事になります。

宇都宮氏の軍が到着すると、直義軍を破り勝敗は決しました。

ここに来て、足利尊氏と直義の間で和睦が成立し、共に鎌倉に入る事になります。

足利直義の最後

足利直義は降服しますが、足利直義に従う臣下はいなかったとあります。

荒れた屋敷に住まわされ、悲しい知らせばかりが耳に入ってきたと言います。

太平記には滅入った様子の足利直義が描かれており、観応三年(1352年)に突如として亡くなっています。

急性黄疸で亡くなったと発表されましたが、実際には毒殺があったのではないかと噂されました。

太平記には足利直義は政治に熱心で仁義があったとしながらも、敗れた理由は足利尊氏との争いや護良親王殺害など、無慈悲な悪事の積み重ねにあったと記録しています。

南朝の京都奪還

足利義詮は南朝との交渉に入りました。

足利尊氏が京都に不在であり、義詮は南朝の攻撃を避けるための交渉に入ったわけです。

南朝では足利尊氏や義詮の降伏が直義を討つ為であり、本心ではないと悟っていましたが、京都奪還の為に受け入れていました。

北朝の重臣らは正平一統が成った事で、賀名生の皇居に向かい、山奥であるはずの賀名生が百花斉放になったとあります。

北畠親房が准后となりました。

南朝の後村上天皇が京都に還幸する事になり、文武百官が武装して京都を目指す事になります。

こうした中で天王寺で北畠顕能の軍勢が合流しますが、南朝では北畠顕能は単なる警備だと告げ誤魔化しました。

しかし、突如として北畠顕能が京都市街に侵入し、細川顕氏を敗走させ細川頼春は戦死する事になります。

南朝は楠木氏や和田氏の軍も加わり、京都を占拠してしまいました。

足利義詮は逃亡し京都奪還を企てる事になります。

北朝皇族の拉致

京都は南朝の軍が占拠しますが、後村上天皇は八幡に本陣を置きました。

京都での政務は北畠親房と北畠顕能の親子が担う事になります。

三種の神器は後村上天皇に渡されますが、これは後醍醐天皇が北朝の光厳上皇に渡した代用品でした。

北畠顕能は北朝の皇族たちに皇居を吉野に遷す様に伝え、崇光天皇、光厳上皇、光明上皇、直仁親王らが、粗末な輿で賀名生に向かう事になります。

第三十一巻・武蔵野合戦と八幡合戦

新田氏の挙兵

新田義貞の遺児である新田義興、新田義宗に脇屋義助の遺児である脇屋義治が挙兵しました。

後村上天皇は足利尊氏追討の綸旨を発行しています。

新田義興らに旧直義派も合流し大軍となりました。

旧直義派の石塔義房足利尊氏の暗殺を考え、息子の石塔義憲に打ち明けています。

石塔義憲は「二心を抱くのは武士の恥」とし一蹴しました。

石塔義房と石塔義憲は父子の恩義を断ち、別行動をする事になります。

太平記では暗殺計画が未然に発覚したのは「尊氏の武運が尽きない証である」としました。

新田勢10万と足利勢8万が対峙する事になります。

小手指原合戦

武蔵野小手指原で新田義興と足利尊氏の大軍がぶつかりました。

尊氏の寵臣である饗庭妙鶴丸が武蔵七党筆頭の児玉党に敗れた事もあり、小手指原合戦は新田勢の勝利となっています。

新田義宗は足利尊氏を追撃しますが、足利尊氏は石浜まで後退しています。

新田義宗は新田義興や脇屋義治が碓氷峠に向かったとする情報を得て、碓氷峠で待つ事になります。

当の新田義興と脇屋義治は仁木頼章や仁木義長により、負傷し東に逃亡しました。

鎌倉陥落

新田義興と脇屋義治は負傷しながらも、敵の本拠地である鎌倉攻撃を画策しました。

新田軍は石塔や三浦の軍勢とも合流し、戦力を回復させています。

新田軍が鎌倉に攻撃を仕掛けると、鎌倉公方の足利基氏は、足利尊氏の元に敗走しました。

尚、新田軍の中には北条時行もおり、念願の鎌倉を奪還した事になるでしょう。

碓氷峠の戦い

新田義宗がいる碓氷峠に後醍醐天皇の皇子である宗良親王が合流しました。

さらに、旧直義派の上杉憲顕も加わる事になります。

これが碓氷峠の戦いですが、勝者となったのは足利尊氏でした。

上杉憲顕配下の長尾弾正と根津小次郎は、足利軍の兵士になりすまし、足利尊氏に接近しました。

長尾弾正と根津小次郎は二騎で足利尊氏を暗殺するつもりでしたが、二人を知っている者がおり、正体を叫んだわけです。

これにより長尾弾正と根津小次郎は二騎で敵陣を突破し、上杉の陣地まで帰った話があります。

碓氷峠の戦いに敗れた事で、上杉軍は信濃に帰り、宗良親王は越後に向かいました。

足利尊氏は戦いで勝利した事で、次々に軍勢が集まり八十万にも達したと太平記は記録しています。

こうした足利尊氏の攻勢の前に、新田義興や脇屋義治の軍も鎌倉を放棄し、国府津山の方に退散していきました。

関東での足利尊氏及び南朝との一連に戦いを武蔵野合戦と呼びます。

八幡合戦

京都は南朝に占拠されていましたが、足利尊氏が武蔵野合戦で勝利した事を聞くと、足利義詮も京都奪還の計画を起す事になります。

足利義詮は東寺を拠点とし、南朝の北畠顕能は京都を出て八幡に陣を置きました。

足利義詮は赤松則祐の軍が到着すると、攻勢に出ました。

しかし、和田五郎や楠木正儀が奮戦し、膠着状態となります。

幕府はお得意の人海戦術で、大軍で八幡を包囲しました。

南朝は苦戦し和田と楠木を城外に脱出させ支援させますが、和田五郎は戦死し楠木正儀は積極的に動く事が出来ませんでした。

楠木正儀は父の楠木正成や兄の楠木正行の様な、覇気がないとまで言われています。

南朝の軍から脱走者も出始め、後村上天皇も夜陰に紛れて逃亡しました。

後村上天皇は吉野に戻り、八幡合戦は幕府軍の勝利となります。

第三十二巻・山名氏との戦い

後光厳天皇の即位

北朝の崇光天皇、光厳上皇、光明上皇、直仁親王が南朝に連れ去られた事で、室町幕府が推戴する天皇がいなくなってしまいました。

室町幕府では光厳天皇の第二皇子を後光厳天皇として即位させています。

大嘗祭も行いますが、天皇を指名する上皇や三種の神器なしでの即位となってしまいました。

山名氏の上洛戦

室町幕府の武将として戦った山名師氏は八幡合戦の恩賞の取り次ぎを、佐々木道誉に依頼しました。

しかし、佐々木道誉の対応が無礼であり、山名師氏は父親の山名時氏と共に南朝に寝返っています。

伯耆で挙兵した山名氏は南朝の軍と共に京都に侵攻しました。

足利義詮は後光厳天皇を東坂本に避難させ、防衛体制を布く事になります。

南朝と山名氏の軍が京都に侵攻してきました。

この戦いで足利義詮は敗れ去り、東坂本に撤退しています。

さらに、足利義詮は南朝の軍に急襲され、後光厳天皇を美濃に移しました。

しかし、山名軍は幕府の猛反撃があると考え、伯耆に撤退しています。

南朝の総大将・足利直冬

足利尊氏が鎌倉から帰還し京都を制圧しました。

足利義詮山名時氏を打倒する為に動きますが、山名時氏は「実力がある者」を立てなければ敗れると考えました。

ここで白羽の矢が立ったのが、九州から逃れていた足利直冬となります。

山名時氏は足利直冬に自軍の総大将になって貰う様に要請しました。

足利直冬は後村上天皇に、足利尊氏及び義詮の討伐を命じる綸旨を要請する事になります。

足利直冬の案に南朝の朝廷では洞院実世は賛成するも「短期的には成功しても、長期的には成功しない」とする意見も出ました。

南朝の朝廷では足利直冬が父親である足利尊氏を滅ぼそうとするのは、道理に反していると考えたわけです。

しかし、南朝の朝廷では結局は、足利直冬を総大将としての京都侵攻が決定しました。

名刀・鬼丸・鬼切

山名時氏は京都に侵攻しますが、足利家の名門である斯波高経も南朝を支持しました。

太平記によると新田義貞が亡くなった時に、鬼丸・鬼切という名刀を手にしますが、斯波高経は模造品を足利尊氏に渡しました。

実際の鬼丸と鬼切は斯波高経の元にあり、それがバレてしまった事で、足利尊氏は恩賞の削減をしたわけです。

こうした事情もあり、足利尊氏と斯波高経の間に溝が出来てしまい、斯波高経は南朝に鞍替えしました。

神南合戦

山名時氏が京都に侵攻すると、足利尊氏は京都を明渡し近江に移動しました。

足利義詮は播磨に移動する事になります。

足利義詮は神南(高槻市)まで進出し、山名時氏の軍と戦う事になります。

山名軍は士気が高く神南の峰を一気に駆け上がりますが、佐々木道誉や赤松則祐が奇襲攻撃を行い山名師氏は重傷となりました。

山名軍は幕府軍に敗北し撤退する事になります。

第三十三巻・破壊されつくした都と各地の出来事

足利直冬と神託

南朝の本陣は東寺にあり、足利尊氏と一進一退の攻防を繰り広げました。

しかし、幕府軍が街道封鎖を行い南朝の軍は補給困難となります。

足利直冬は八幡まで後退しますが、八幡神の神託があり「親を討つ子の祈願を受け入れられない」と出たわけです。

この神託を聞いた大将らは、勝機はないと考え諸国に撤退してしまいました。

京都は南朝の軍が撤退した事で、平穏を取り戻す事になります。

1357年には、崇光天皇、光厳上皇、光明上皇、直仁親王が吉野から京都に還幸しました。

荒廃した都

20年余りの戦乱により、京都はすっかりと荒廃してしまいました。

公家や武士らの住居は損壊し、2,3割ほどしか残らなかったと言います。

文和東寺合戦は市街戦でもあり、京都の荒廃を加速させたわけです。

荒廃した京都を見た者の中には、絶望し川に身を投げてしまった者すらいたと伝わっています。

当然ながら、破壊された京都での生活は難しく、餓死する者も多くでたと太平記は記録しました。

太平記は公家は困窮を極め、武士は栄華を極めた世に変貌したとあります。

武家の得た資金は横領した土地であり、略奪した民の財産にあり、天下の政道は地に堕ちました。

足利尊氏の最後

延文三年(1358年)に足利尊氏は背中に悪性の腫瘍が出来てしまいました。

多くの医師が将軍御所に集まり、古代中国の華佗や倉公の様な名医が調合し薬を作ったりもしますが、効果が出なかったと言います。

高僧らが集まり、様々な事をしますが、病状は日増しに悪化しました。

足利尊氏の体は衰弱し、遂に亡くなってしまったわけです。

足利尊氏は室町幕府の柱石でもあり、人々は「どうなってしまうのか」と不安になったと言います。

細川繁氏と崇徳天皇

1359年に讃岐で、崇徳天皇の怨霊軍が、幕府の細川繁氏を襲う怪異が発生しました。

細川繁氏は崇徳天皇の御領を犯した祟りにより、発病し苦しむ事になります。

その七日後には怨霊軍に攻撃され、首を取られました。

怨霊が天に消えると、元の体に戻りますが、間もなく亡くなったとあります。

筑後川の戦い

南朝の菊池武光は肥後を本拠地として、後醍醐天皇の皇子である懐良親王を擁立していました。

菊池武光は日向の畠山直顕を破ると、豊後の大友時氏を討つべく動く事になります。

菊池武光は少弐頼尚と阿蘇大宮司を誘いますが、幕府方として大宰府で兵を挙げました。

懐良親王と共に菊池武光は出陣し、少弐頼尚の軍と戦う事になります。

これが筑後川の戦いであり、筑後川を挟んで対峙しました。

筑後川の戦いは激戦となり、総大将である懐良自身が負傷するなどもありました。

最終的に勝利したのは南朝の征西府の軍でしたが、菊池氏らは肥後に撤退しています。

新田義興の最後

南朝の新田義興が越後から東国へと勢力を拡大するとの情報が入りました。

畠山道誓(畠山国清)は鎌倉公方の足利基氏と共に、竹沢右京亮を使い新田義興を亡き者にしようと画策する事になります。

竹沢の協力者になったのが江戸遠江守であり、策を用いて新田義興を殺害しました。

新田義興は自刃し最後を迎えたと記録されています。

尚、新田義興の怨霊により江戸遠江守が最期を迎えた話しも太平記には記されました。

第三十四巻・室町幕府の南朝征伐

畠山国清の関東出陣

足利尊氏が亡くなると、足利義詮が室町幕府の第二代征夷大将軍となっています。

この時に、29歳だったと太平記には書かれています。

足利義詮は南朝への攻撃を画策すると、関東執事の畠山国清が20万の大軍を率いて京都に向かいました。

当時は将軍の足利義詮と鎌倉公方の足利基氏の仲を心配する風潮があり、これらの風聞を利用し畠山国清が両者の仲を取り持とうとしたわけです。

天地人は南朝にあり

幕府軍は南朝を攻撃しようとしますが、当時の後村上天皇は河内を皇居としていました。

そこに、楠木正儀と和田正武の二人が参上し、幕府軍への対抗策を伝える事になります。

楠木正儀や和田正武は幕府軍は圧倒的に大軍ではあるが、天地人は南朝にあり恐れるに足らないと告げました。

それでも、皇居を金剛山の奥にある観心寺に遷す様に提案し、後村上天皇は皇居を移しています。

幕府軍の逆転劇

足利義詮畠山国清の軍が南朝を攻める為に出陣しますが、南朝は堅固な場所に陣し守りを固めました。

既に幕府軍の士気は緩んでおり、寺社仏閣に狼藉を働く者もおり、世間から顰蹙を買ったとあります。

幕府軍では畠山義深も紀伊に侵攻していますが、塩谷伊勢守の策略に嵌り戦いに敗れました。

ただし、塩谷伊勢守は深追いし過ぎて戦死しています。

紀伊で畠山義深が敗れた情報が幕府軍にもたらされると、紀伊に増援部隊が派遣されました。

幕府軍の芳賀公頼は決死の覚悟で、龍門を攻撃し勝利を挙げています。

南朝が劣勢となるや忠雲僧正の進言により、後村上天皇は厳しい修法を行いました。

こうした中で興良親王が乱心し、幕府方に寝返り皇居を焼き払う事件が勃発しています。

興良親王は父親が護良親王であり、母親が北畠親房の妹であり、南朝の皇族の一人でした。

反乱を起こした興良親王は敗北し、兵は四散し奈良に逃亡しています。

太平記では興良親王の行動を見て「これでは亡き父の護良親王も浮かばれない」とする言葉を残しています。

南朝の軍勢は内部では反乱があり、外部では幕府に押され次々に城が陥落し、赤坂城までもが抜かれてしまいました。

楠木正儀と和田正武も金剛山の奥に逃亡しています。

後醍醐天皇の霊夢

楠木軍が敗れた事で、南朝では滅亡寸前にまで追い詰められました。

ここである武士が妻子を京都に疎開させ、自らは出家すると申し去ろうとしますが、後醍醐天皇の御廟に参拝しました。

この時に、この者が夢をみたわけです。

夢の中では後醍醐天皇や日野資朝、日野俊基らが現れる異様なものとなりました。

後醍醐天皇に日野資朝らは既に、全国の朝敵どもを退治するのは楠木正成に任せてあると告げます。

さらに、菊池武時に命じて仁木義長を始末し、細川清氏は土居、得能が滅ぼし、畠山国清と畠山義深は新田義興が始末すると告げました。

日野資朝と日野俊基らの話を聞くと後醍醐天皇は、満足そうに答えたと言います。

ここで夢が冷めてしまったわけです。

この武士は夢の中の話を人々に話しますが、誰も信じる事はありませんでした。

しかし、幕府軍は南朝を追い詰めはしましたが、攻撃は行っておらず、軍を解散させています。

この様子から人々は仁木、細川、畠山の滅亡が近いと予感したわけです。

第三十五巻・仁木義長排除と政治鼎談

仁木義長の伊勢逃亡

延文五年(1360年)に南朝の軍を破った足利義詮が凱旋しました。

こうした中で、細川清氏畠山国清、佐々木道誉らが茶会でお互いの腹の内を述べています。

佐々木道誉は仁木義長を不忠者だとし、討伐を提案しました。

仁木義長は諸将から嫌悪されており、全員が一致し仁木義長の討伐が決定したわけです。

南朝の軍が攻勢に出たとする情報が入ると、仁木義長の打倒を考えている諸将は天王寺に入りました。

佐々木道誉らは南朝の討伐を目的としていませんでしたが、南朝の軍は幕府の大軍を見るや撤退に移る事になります。

しかし、仁木義長排除の計画は露見し、仁木義長は足利義詮を擁立し、反二木派と対峙しようとしました。

ここで佐々木道誉が機転を利かし、足利義詮を仁木義長の元から脱出させています。

この時の足利義詮は女装して脱出した事が太平記に書かれています。

足利義詮がいなくなった事を知った仁木義長は「戦えない」と判断し、伊勢に落ち延びて行く事になります。

仁木義長がいなくなると、反二木派の人々が京都に戻りますが、南朝では勝機と勘違いし再び大乱の兆しが現れたと太平記は語っています。

政治鼎談

南朝の日野僧正頼意は吉野を出ると、三人の風流ある人物に会う事になります。

一人は六十代の関東訛りがある元幕府高官の遁世者。もう一人は読書家の貧乏公家。もう一人は元僧官の法師だったとあります。

やがて儒者の気質がある公家が国民あっての国家だと説くも、現在は臣下が欲に支配され民を従属させようとするのが問題だと述べました。

公家の言葉を聞いた遁世者は正しい政道を行い、臣下は欲を捨て民の心を掴む重要性を説きます。

遁世者は北条泰時や北条時頼、北条貞時らを優れた為政者としました。

太平記には軍人や政治家たちの話だけではなく、世間から離れた様な人々の政治鼎談の掲載されています。

金銭の流通

青砥左衛門は夜に出勤する事がありましたが、燧袋に入れてあった十文の銭を取り損ねて滑川に落としてしまいました。

普通であれば諦めて通り過ぎるかと思いますが、近くにあった商人の家に従者を走らせて、銭五十文で松明を買わせたわけです。

松明を使い十文の銭を見つけ出したわけです。

この話を聞いた者が「十文を取るために五十文の松明を買った」と利益の損失だと笑いました。

しかし、青砥左衛門は笑った者を「民を思いやる心がない」とし苦々しく述べています。

青砥左衛門は十文の銭は直ぐに見つけねば滑川に沈み永久に無くなってしまうし、五十文で松明を買って明かりにしたのは、私が商人に五十文を支払えば、商人の利益になると答えました。

青砥左衛門は金銭の前では私も商人も何の差別もないと答えたわけです。

六十文の銭が一文も失うことがなく、流通させる事が出来たのだから社会貢献になったと告げました。

この話を聞いた人々は深く感動したと言います。

青砥左衛門は金銭の流通という本質を理解していた事になります。

太平の兆し

遁世者は賄賂を排除したからこそ、北条氏は八代まで天下を維持する事が出来たと告げました。

さらに、礼儀正しい人間を生真面目と馬鹿にする様な風潮であれば、真の太平は訪れないと結論づけています。

この話を聞いて公家も南朝の政道は五十歩百歩であり、期待外れに終わるとしました。

公家・武士双方に絶対の非はなく、全て因果応報の通りにあるとし、集まった三人は夜明けの神殿から姿を消しました。

この話を聞いていた日野僧正頼意も太平の兆しを予感したとあります。

第三十六巻・戦乱は終わらず

仁木義長の南朝降伏

伊勢に帰った仁木義長ですが、長野城に籠城するも兵の逃亡が相次ぎ苦しい戦いとなります。

こうした中で仁木義長は南朝への降伏を決断しました。

南朝では仁木義長の降伏を認めましたが、南朝の武者所の人々は幕府から南朝に降伏するのは、力を借りたいだけであり、目的が達成されたならば、直ぐに恩を忘れてしまうと囁き合った話が太平記にあります。

足利尊氏直義義詮直冬石塔頼房山名時氏など南朝に帰参した武将はいますが、全て本心ではないと悟っていたわけです。

仁木義長の南朝降伏は私利私欲の為であり「南朝に災禍を及ぼすだけ」と述べた人々もいました。

その反面で仁木義長を擁護する者がおり、託宣によれば仁木が悪行の処罰を免れているのは、前世の徳によるものであり、現世での悪行は来世で報いる事になるとしています。

仁木義長の南朝降伏は認められました。

天変地異

足利義詮の時代に大地震があった事を太平記は記録しています。

海山が崩壊し無数の死者が出たとあります。

他にも、真夏の大雪があり凍死する者が続出しました。

阿波で大津波があり、民家千七百家が消えたとあります。

この時期に二匹の龍が現れたり、弘法大師が南天に飛び去るなど、不思議な事が続きました。

九州と中国の情勢

足利義詮の時代に九州では懐良親王の九州征西府の勢いが強く、菊池氏が強大となっていました。

菊池武光が采配を振るう中で、大友氏や少弐氏が苦しい立場となります。

さらに、南朝の山名時氏が美作城を抜くなど、中国地方の大半を制圧しました。

この時期の中国、四国地方では菊池氏と山名氏が幕府への脅威となっていたわけです。

和田・楠木軍の摂津出兵

佐々木道誉が摂津守護の座を赤松光範から奪い取ってしまいました。

足利義詮に赤松光範の戦費調達などの問題点を指摘し、佐々木道誉は自ら摂津守護になったわけです。

赤松光範は佐々木道誉に激怒し、訴訟を起こしていますが、これを好機と見たのが和田や楠木などの南朝勢となります。

和田・楠木軍が摂津に向かって兵を進めると、佐々木道誉の孫の佐々木秀詮の兄弟が迎撃しました。

この時に楠木軍の陽動作戦に嵌った幕府軍は大敗を喫しています。

ここで楠木正儀は捕虜を手厚く保護した事で、感謝する武士が多かったと太平記は記録しています。

細川清氏の南朝降伏

細川清氏が南朝に降伏するという事件が起きています。

事の発端は細川清氏の子の名前が、足利の先祖の名にそっくりであり、天下簒奪の野望があると疑われたわけです。

政敵であった佐々木道誉は喜び、義詮を細川清氏が呪詛していたと告げる事になります。

足利義詮は佐々木道誉に細川清氏討伐の相談をしようとしますが、佐々木道誉は湯治に逃げました。

この数日後に細川清氏が三百の武装兵を率いて天龍寺詣を行うと、足利義詮は佐々木道誉との密談が発覚してしまったと焦る事になります。

細川清氏は危機を感じ備えますが、勝てる相手でも攻め込むのは臣下の道に反すると考え、若狭に落ち延びて行きました。

若狭も味方の裏切りがあり持ちこたえる事が出来ず、旧友の石塔頼房の伝手で南朝に降伏する事になります。

南朝の後村上天皇は細川清氏を南朝の武将として認めました。

細川清氏の降伏により南朝は勢いづく事になります。

畠山国清が反旗を翻す

足利義詮は南朝方の攻勢があっても、動じる事はありませんでした。

しかし、康安元年(1361年)に、関東で畠山国清及び畠山義深が鎌倉公方の足利基氏と対立し、伊豆で籠城したとする話を聞く事になります。

関東との幹線道路が封鎖され、戦乱が勃発すると京都が騒がしくなりました。

第三十七巻・南朝の京都制圧

細川清氏の京都制圧

細川清氏の南朝降伏により南朝は勢いを取り戻しており、京都奪還を企てました。

細川清氏は戦いで京都を取り戻そうと、進言したわけです。

後村上天皇は楠木正儀に京都奪還の是非を問うと「奪還は出来るが維持する事は出来ない」と答えました。

楠木正儀の意見は正論でしたが、南朝にとって京都奪還は悲願であり、細川清氏の策が採用される事になります。

幕府軍は京都を早々と明渡した事で、南朝の軍は易々と京都を占拠しました。

足利義詮は後光厳天皇と共に近江に避難し、京都奪還を狙う事になります。

佐々木道誉と楠木正儀

南朝の軍は都に入ると将軍の御所を焼き払っています。

佐々木道誉も都落ちしますが、その邸宅には見事な飾りつけを行い客人を出迎えるかの如くだったとあります。

楠木正儀が佐々木道誉の邸宅に入ると、僧が二人挨拶を行い持て成しました。

細川清氏は佐々木道誉を恨んでおり、屋敷を徹底的に破壊する様に述べていましたが、楠木正儀は風流に感動し邸宅の破壊をしなかったわけです。

世間の人々は佐々木道誉の対応に風流を感じ褒め称えたりもしましたが、楠木正儀の方は古狸の佐々木道誉に出し抜かれたと批判する者が多かったと言います。

南朝軍の都落ち

南朝では京都を制圧すれば、天下の武士たちは南朝に靡くと勘違いしていました。

しかし、各地の交通が遮断されており、幕府軍の方が先に京都に攻め上って来たわけです。

南朝の軍は持ちこたえる事が出来ずに、宇治、天王寺、住吉へと兵を引きました。

足利義詮は再び京都に戻る事になります。

楠木正儀が予想した通りの展開になったと言えるでしょう。

細川清氏は四国に渡れば何とかなると考え、阿波に向かいました。

大将の選定条件

太平記は軍の大将となるべき人物像も記載してあります。

過去に南朝では足利尊氏を討つために、直義直冬を総大将としました。

しかし、彼らは尊氏の弟や子であり、父兄の道に背いたために成功しなかったと言います。

足利義詮を滅ぼそうとするのに、臣下であった細川清氏を大将に任命しても、成功には無理があるとも太平記は述べています。

南朝に対して忠義を尽くしたのは新田義貞と脇屋義助の二人であり、新田義宗や脇屋義治以外に、大将たる器量のある人物はいないとしました。

畠山国清の敗北

畠山国清、畠山義深、式部大輔らは、伊豆に三城を築く籠城していました。

鎌倉公方の足利基氏は追討軍を派遣しますが、内紛もあり戦う事無く鎌倉に戻っています。

足利基氏は20万の軍勢で畠山国清の討伐に乗り出しました。

鎌倉公方の圧倒的な大軍の前に、畠山国清は何も出来ずに追い詰められていきます。

こうした中で畠山国清は、新田義興を始末してしまった事を後悔したと太平記にあります。

第三十八巻・幕府の勢力拡張

宮兼信の武

康安二年(1362年)に妖星が出現し、蒙古襲来が騒がれました。

昨年の大地震の余震も続き、大旱魃もあり餓死者が急増しています。

琵琶湖も干しあがり、民心は不安に陥りました。

山名時氏は備前・備中に進撃するも、いとも簡単に制圧してしまいました。

こうした中で備後では南朝方の富田軍が、宮兼信の城を攻略に向かう事になります。

南朝の武将になっていた足利直冬は禅僧を使者として、宮兼信の元に派遣しました。

足利直冬の目的は宮兼信を味方にする事です。

宮兼信は使者の禅僧と話をしますが、きっぱりと南朝に属する事を断わっています。

こうした中で宮兼信は史記の項梁が述べた「先んずれば人を制す」の言葉を出し、富田軍を急襲しました。

宮兼信は武勇に優れ富田軍や足利直冬は戦いに敗れています。

中国地方と北陸の南朝勢

山名氏の但馬攻略は失敗に終わっています。

幕府守護の仁木頼勝の防備は固く、兵站を繋ぐのも困難となり撤退しました。

南朝の桃井軍が信濃から越中や加賀に侵攻しますが、戦いに敗れた幕府軍が降伏に出向くと、桃井直常が留守だと判明しました。

降伏するはずだった幕府軍は好機到来と考え、降伏から夜襲に変更したわけです。

桃井軍は油断していた事もあり大敗し、桃井直常は出掛けた先の城に籠る事しか出来ませんでした。

斯波氏経の敗北

九州地方だけは幕府勢力が圧倒的に不利な状況であり、一色氏も九州から退去しました。

こうした中で幕府では斯波氏経を九州に送り込む事になります。

斯波氏経は九州に船で向かいますが、この時に船を見ると遊女が20人ほど乗っていました。

これをみた遁世者は遊女が士気を下げていると告げて、斯波氏経の敗北を予見しています。

斯波氏経は菊池軍との戦いとなりますが、長者原の戦いで少弐氏、大友氏の軍と共に敗れました。

太平記は菊池の兵が強く少弐、大友の兵が弱いわけではなく、大将である斯波氏経が大将の器ではなかったと評しています。

畠山国清の降伏

関東では畠山国清が、畠山義深と共に伊豆の修禅寺で幕府軍に抵抗していました。

足利基氏は温情ある降伏勧告を行っており、畠山国清は降服に応じています。

しかし、密告により命の危険がある事が判明し、清浄光寺に逃げ込み、そこからさらに吉野まで逃げ延びました。

楠木正儀を通して南朝への降伏を打診しますが、南朝では受け入れを拒否しています。

太平記では、畠山国清と畠山義深の兄弟は、窮死したと伝えました。

細川清氏と細川頼之

四国の讃岐では南朝の細川清氏と、北朝の細川頼之の同族同士の戦いとなります。

細川清氏のプランは四国で勢力を挽回させ、再び上洛する予定だったわけです。

細川清氏の前に立ちはだかったのが、細川頼之であり、備中から讃岐に兵を繰り出しました。

細川頼之は智謀を駆使し、細川清氏を誘い出し、討ち取る事に成功しています。

太平記では、これにより四国が平定されたと告げています。

和田と楠木が箕浦軍を撃破

南朝では細川清氏が四国で復活し、和田と楠木が合流し室町幕府打倒を目指す作戦でした。

しかし、細川清氏が戦死してしまった事で躓く事になります。

ここで和田と楠木は幕府と一戦し、南朝の気勢を挙げようと考えました。

和田と楠木は神崎の橋詰に向かう事になります。

この時に佐々木道誉が在京しており、守護代の箕浦軍が対峙する事になります。

しかし、箕浦軍は和田と楠木の軍勢の策に引っ掛かり大敗を喫しました。

和田と楠木は深追いをせず、そのまま撤退に移りました。

第三十九巻・太平の予感

大内・山名の幕府帰参

貞治三年(1364年)に南朝の大内弘世が、長年に渡り統治してきた周防長門が恩賞として、与えられる事を条件に幕府に帰参しました。

大内弘世は九州に軍を派遣したり幕府の為に動き、京都では金銭をばら撒くなどしており、人の値打ちは金銭で決まると皆を納得させた話も残っています。

こうした中で南朝の大勢力であった山名時氏山名師義の親子も統治している国を恩賞として保障される事を条件に、幕府に帰順する事になりました。

地道に功績を挙げて来た武士たちからは「一度敵になった方が厚遇される」と、不満をこぼした話があります。

仁木義長も幕府に帰順しましたが、恩賞も臣下もなく、閑人の身になってしまいました。

斯波高経の栄華

道朝こと斯波高経は、観応の擾乱で足利直義に味方したり、南朝に与したりもしましたが、足利義詮に贈賄を繰り返し室町幕府に返り咲いていました。

斯波高経は幕府に復帰すると、子の斯波義将が執事となり、裏では斯波高経が実権を握っています。

越前で斯波高経は興福寺の所領を一族郎党で分与し、興福寺からは訴訟を起こされて敗れました。

しかし、斯波高経は所領も多く家格も高い事から、執行する事が出来なかったわけです。

こうした事情もあり、興福寺と春日神社は強訴しました。

春日神社の新木が斯波高経の邸宅の前に、振り捨てられ、怪異な出来事も起こるようになり、斯波高経の屋敷は全焼しました。

春日明神の祟りとも言われましたが、斯波高経は意に介さず新築の家を建てる事になります。

斯波高経は武家の期待を裏切る政策を実施し、将軍御所の工事の遅延を理由に、荘園を没収したりもしています。

他にも、佐々木道誉の架橋工事が遅れると、自力で完成させてしまうなど、佐々木道誉の面目も潰したりもしてしまったわけです。

この頃の斯波高経は人生の絶頂期であり栄華の時代でもありました。

佐々木道誉の逆襲

佐々木道誉は斯波高経に報復の機会を伺う事になります。

斯波高経は足利義詮と共に佐々木道誉も将軍の御所の観桜会に誘いました。

佐々木道誉は同じ日に合わせて、人々の度肝を抜くような宴を自らやり遂げたわけです。

多くの者が佐々木道誉の方に行ってしまい、今度は斯波高経が面目を潰される事になりました。

さらに、佐々木道誉は諸大名と共に斯波高経を讒言し、斯波高経は罪状もなく越前に向かい杣山城で幕府軍を迎え撃つ事になります。

翌年に斯波高経が亡くなると、斯波義将は許され京都に戻る事になります。

太平記では斯波高経の破滅の原因は讒言にあったと述べています。

高麗使節

太平記によると、日本国内の40年以上も続く戦乱は国内だけではなく、海外の荒廃にも繋がったと記録しました。

倭寇は数千艘の船団を組み元や高麗の港を襲い、略奪や放火などの蛮行を繰り返しています。

高麗では日本に使節団を派遣しました。

高麗の使者との間で天龍寺で会談が行われ、春屋和尚らが外交文書の正式な発行を進言しています。

しかし、幕府では蛮行は四国や九州の一部の海賊の仕業だとし、厳刑を科す理由がないとし、返書を返しませんでした。

太平記と元寇

太平記では元寇に関しても述べており、文永の役と弘安の役に関しても記述されています。

二度の元寇で日本軍は武勇とは全く関りがない、暴風雨により元軍は壊滅したとあります。

伊勢神宮の加護により日本は守られたとしました。

日本では神功皇后三韓征伐を行いましたが、高麗は長年に渡り様々な物を献上しきており、倭寇が元や高麗で暴れるのは、前代未聞だとしています。

この様な状態では、いずれは日本が異国の侵略を受けると懸念された話が残っています。

光厳法皇と後村上天皇

太平記には光厳法皇が後村上天皇の元を訪れた話があります。

光厳法皇と後村上天皇は丸一日様々な話をしました。

時には光厳法皇が涙を流す場面もありましましたが、無事に会談を終了しました。

ここまで来ると太平記の中で、太平を予感せずにはいられなくなります。

第四十巻・天下は太平となる

後光厳天皇の歌会

北朝の後光厳天皇は朝廷行事の復興を目指す事になります。

皆の反対も押し切り歌会である中殿御会も行っています。

この最中に勅願寺の天龍寺焼失という情報が入りますが、歌会は中止せずに続けられました。

足利義詮・基氏の最後

貞治六年(1367年)に病により、鎌倉公方の足利基氏が亡くなりました。

太平記は、この時に28歳の若さだったと伝えています。

足利義詮が西国を見て、足利基氏が東国を見ていた事もあり、幕府内で不穏な空気が流れました。

さらに、1367年の終わりが近づいてくると、今度は足利義詮が亡くなってしまいました。

室町幕府の中枢である将軍と鎌倉公方の両方が亡くなる、ショッキングな年となってしまったわけです。

細川頼之政権の誕生

細川頼之は四国を担当していましたが、民からの信頼も厚く世論の評価も高かったわけです。

幕府内では10歳の足利義満を細川頼之が補佐する体制が好ましいとなりました。

こうした事情もあり、細川頼之が管領に就任する事になります。

細川頼之は武蔵守にもなっています。

細川頼之は評判通りの人物であり、足利一門の者達も細川頼之を尊重し、命令に背く事が無かったと言います。

こうして日本に平和な時代が訪れ、喜ばしい限りだと太平記は伝え終わる事になります。

ただし、南朝はまだ滅んではおらず、南北合一までには、さらに20年ほどの年月を必要としました。

太平記の動画

1巻から10巻まで

始り~鎌倉幕府の滅亡まで

11巻から14巻まで

鎌倉幕府滅亡後から建武の乱の始まりまで

15巻から21巻まで

後醍醐帝三傑の奮戦と後醍醐天皇の崩御

21巻から29巻まで

脇屋義助の奮戦から高氏一族の滅亡まで

30巻から40巻まで

※現在作成中です。

この記事及び動画は太平記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典(角川ソフィア文庫)をベースに作成しました。

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宮下悠史

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