
| 名前 | 趙正書 |
| 成立 | 漢の武帝の前期?? |
| コメント | 史記とは違った始皇帝の最後が記録されている。 |
趙正書は史記とは違った始皇帝の最後が書かれている事が注目されています。
史記では始皇帝は扶蘇を後継者に指名しますが、胡亥、趙高、李斯が結託し、遺命を偽り胡亥を後継者にした事になっています。
しかし、趙正書では始皇帝(秦王政)が自ら胡亥を後継者に指名して亡くなっています。
史記では始皇帝が亡くなると趙高の暴政が始まりますが、趙正書では胡亥が自ら中心になって暴政を行った事になっています。
さらに、趙高の最後も章邯が殺害した事になっており、史記とは全く違った歴史が記録されており、注目を集めている状態です。
趙正書の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴できる様になっています。
趙正書について
趙正とは何か
今回の題材である「趙正書」 は、漢武帝の前期、つまり史記よりもやや古い時代に成立したと考えられています。
名前から「戦国時代の趙の歴史書」と誤解されがちですが、実際には秦王政(始皇帝)の伝記です。
なぜ「趙正」なのかというと、姓が嬴(えい)で氏が趙であり、男性は氏で呼ぶのが一般的だったため、秦王政は 「趙政(趙正)」 と呼ばれていた可能性があるためです。
実際、戦国七雄の趙王家も嬴姓趙氏であり、秦と趙は祖先を同じくする一族でした。
このため、一部の研究者は始皇帝の本当の名前は「嬴政」ではなく「趙政(趙正)」であると主張しています。
史記の原本でも「政」ではなく「正」と書かれていたという説もあり、「正月に生まれたから正と名付けた」という伝承もあります。
始皇帝が焚書で「趙の歴史書」を焼かなかった理由
始皇帝は統一後に焚書坑儒を行い、他国の歴史書を徹底的に焼きました。
しかし、秦と趙は同族であったため、趙の歴史書だけは焼かれなかったとされています。
司馬遷も史記の中で「秦と趙の記録は手元にあった」と述べています。
そのため、藺相如・廉頗・趙奢・李牧といった趙の名将たちの活躍が後世に伝わったのは、趙側の記録が残っていたからと考えられます。
一方、斉・燕・魏・韓・楚などは記録が抹殺され、史料が極端に少なくなったとされています。
一次資料として有名な睡虎地秦簡でも、秦が敗北した記録はほとんど残っていません。
これは当時の記録文化として、自国に不利な情報は残さないという傾向が強かったためです。
そのため、史記の記述も「秦側の史料に依存した部分」が多く、秦に都合の悪い事実は欠落している可能性があります。
趙正書の特徴
趙正書では、始皇帝は 皇帝を名乗っていません。
あくまで秦王のままであり、その最期も史記とは異なる描かれ方をしています。
つまり、趙正書は「秦王政の別伝」であり、史記とは異なる秦の崩壊像を伝えているという点が非常に重要です。
また、他の書物では始皇帝を呂不韋の子とする説に基づき、「呂政」と書く例もあります。
趙正書が描く秦王政(始皇帝)の最期
趙正書における秦王政の最期は、史記とは大きく異なっています。
史記では、病にかかってから巡行に出て、巡行中に病状が悪化し、沙丘で死去したことになっています。
しかし趙正書では、まず「天下巡行」に出て、その途中、白人(柏人)で病にかかり、病状が重くなり、白泉へ向かう途中で倒れたことになっています。
つまり、趙正書では旅が原因で病にかかったとされ、史記とは因果関係が逆になっています。
趙正書では、秦王政は白人で病に倒れ、涙を流しながら次のように語ったとされています。
秦王政「天命は変えられぬのか。
私はこれほど重い病にかかったことがない。
私は天命を視るに五十で死ぬのであろう。
十四で立ち、三十七年経っている。
すでに亡くなる年に達していたのに、その月日を知らなかった。
天下を巡行して気を変え、天命を変えようとしたが叶わなかった。
病は重く、死も近い。
日夜を問わず急ぎ進め、後を振り返るな。
私が病であることを群臣に知らせてはならない。」
史記の秦王政は強気で冷徹な印象が強いですが、趙正書では弱気で人間的な姿が描かれています。
この違いは非常に興味深い点です。
史料上の地名の問題
趙正書には 白人(柏人)と白泉という地名が登場します。
白人(柏人)は現在の河北省邢台市付近とされ、漢の高祖・劉邦が暗殺されかかった場所としても知られています。
白泉については、史料上、正確な場所は不明です。
一説では「甘泉(かんせん)」と同一視されることもありますが、確証はありません。
秦王政は白泉へ向かおうとしますが、病が重くなり、行列を進めることができなくなったと記されています。
史記との違いが示すもの
趙正書の描写は、史記とは異なる秦王政像を示しています。
史記では皇帝としての威厳を保ちつつ死去し、沙丘の変につながる政治的混乱が強調されています。
一方趙正書では、天命を恐れ、涙を流す人間的な秦王政が描かれています。
また、皇帝号を名乗らず、あくまで「秦王」のままとなっており、さらに死の直前の心理描写が詳細です。
この違いは、史記が秦の公式記録に依存していたのに対し、趙正書は趙側の伝承を含む可能性があるという点と深く関わっています。
秦と趙は同族であり、趙の記録は焚書を免れたため、史記とは異なる伝承が残ったと考えられます。
趙正書が描く「死の直前の秦王政と李斯」
趙正書には、死期が迫った秦王政(趙正)が丞相・李斯と馮去疾を呼び寄せる場面 が記録されています。
秦王政は、自分の子(胡亥)の頼りなさを心配し、自分が死んだ後に大臣たちが権力争いを起こし、主君を害することを深く恐れていました。
その際、秦王政は次のように語ったとされています。
秦王政「牛馬が戦えば蚊や虻はそのことで死ぬ。
大臣が争えば民が苦しむ。
我が子への憐れみと民のことを、私が死んでも忘れないでほしい。」
史記では見られない、弱気で人間的な秦王政の姿がここに描かれています。
李斯は、楚の卑しい身分から取り立てられた恩を語り、秦王政が行った政治改革に深く感謝します。
万民を教化し、兵制を整え、政務を正し、大臣を尊び爵位を与えた。
その結果、秦は天下を併有するに至ったのだ、と述べます。
この李斯の姿は、史記の「奸臣」像とは異なり、忠臣としての李斯が描かれています。
胡亥の後継者指名
そして趙正書では、秦王政はこれを正式に認め、胡亥を後継者に指名したと記されています。
ここに史記との決定的な違いがあります。
史記では、趙高が暗躍し、李斯と胡亥を抱き込み二世皇帝に据えたことになっています。
一方、趙正書では、趙高は登場せず、秦王政が自ら胡亥を後継者に指名しています。
つまり趙正書では、趙高の陰謀は存在せず、李斯は忠臣であり、胡亥は正統な後継者という、史記とはまったく異なる政治像が描かれています。
秦王政はこの後まもなく亡くなり、胡亥が即位します。
趙正書では秦王政の死を「王死して」と記しており、皇帝(始皇帝)としては扱われていません。
これは非常に重要な点です。
もし趙正書が正しいなら、秦王政は「皇帝」を名乗っていないことになります。
その場合、最初に皇帝を名乗ったのは劉邦(漢の高祖)ということになり、中国史の根本的な理解が変わる可能性すらあります。
もちろん、これは趙正書の伝承に基づくものであり、史記や他の史料とは異なるため、そのまま歴史的事実とすることはできません。
しかし、始皇帝の称号の成立・皇帝制度の起源・秦王政の自己認識を考える上で、非常に興味深い史料です。
胡亥の即位と恐怖政治の始まり(趙正書)
趙正書では、胡亥が即位すると同時に自らの意思で強権的な政治を開始した と描かれています。
胡亥は即位後、次のような行動を取ります。
史記では「趙高に操られた愚かな皇帝」として描かれますが、趙正書では胡亥は自ら積極的に暴政を行おうとした人物として描かれています。
胡亥を諫めた人物 ― 子嬰
ただし、趙正書では胡亥と子嬰の血縁関係は明確にされていません。
子嬰は、戦国時代の三人の失敗例を挙げて胡亥を諫めます。
これらを踏まえ、子嬰は次のように述べます。
子嬰「軽い気持ちで統治してはならず、 勇気だけで将軍を任じてはならない。
弱き者が強き者に勝つには、上下の調和により心を一つにせねばならない。」
さらに、胡亥の政治を厳しく批判します。
「今の国内は危機的状況である。
外には闘士がいるのに、内では宗族や忠臣を殺そうとしている。
節操のない者を取り立てれば、群臣は互いに疑い、 外の闘士の心も離反する。
このようなことはあってはならない。」
趙正書でも、子嬰は史記と同じく節度ある賢臣として描かれています。
子嬰の諫言にもかかわらず、胡亥は扶蘇・蒙恬・宗族を殺し、暴政を続けてしまいます。
趙正書では、胡亥は罪人となっていた趙高に恩赦を与え、自らの意思で郎中令に取り立てたと記されています。
つまり趙正書では、胡亥こそが暴政の中心人物として描かれています。
胡亥と趙高の暴政
胡亥は即位後、次々と強権的な政策を行います。
史記では「趙高の陰謀」とされる部分が、趙正書では胡亥自身の意思として描かれています。
胡亥を後継者に推薦した李斯も、胡亥と趙高によって処刑されます。
李斯の処刑は胡亥即位3年目の出来事とされています。
子嬰の再度の諫言
さらに、章邯の軍が外で戦っているのに兵糧が届かず苦しんでいることを指摘し、「忠臣を誅し、節操のない者を取り立てている。法を欲に変え、不義を天下に行えば、後に大きな咎めを受ける」と警告します。
さらに、章邯の軍が外で戦っているのに兵糧が届かず苦しんでいることを指摘し、「外で敵と戦い、内で臣下が争えば国は危うい」と警告します。
しかし胡亥は聞かず、李斯を処刑し、趙高を重用しました。
趙正書でも、子嬰は史記と同じく節度ある賢臣として描かれています。
趙正書には、章邯の軍(原文では「張邯」)が外で戦っているにもかかわらず、兵糧が届かず苦境に立たされていたことが記されています。
これは史記と一致する部分であり、秦の軍事崩壊の兆候が両史料で共通して描かれています。
趙正書では、李斯の死後の記述が簡略になりますが、非常に重要な点が記されています。
しかし、誰が胡亥を殺したのかは記されていません。
史記では趙高が胡亥を殺したとされますが、趙正書では沈黙しています。
章邯が趙高を殺す
胡亥の死後、趙正書には次のように記されています。
これは史記とはまったく異なる展開です。
一方趙正書では、章邯が秦国内に入り、趙高を殺したことになっています。
これは、事実上、章邯が秦の政変を収拾した形になります。
また、子嬰の最期については記されていません。
もし趙正書が正しいなら、秦を滅ぼしたのは項羽ではなく、章邯の行動が決定的だったという解釈すら可能になります。
もし趙正書が正しいなら、秦滅亡の構図は根本から変わる
趙正書の記述をそのまま採用すると、秦滅亡の主役が史記とは完全に入れ替わることになります。
● 史記の構図
● 趙正書の構図
- 胡亥は自ら暴政を行う
- 趙高は胡亥に取り立てられた罪人
- 李斯は忠臣
- 胡亥は誰かに殺される(犯人不明)
- 章邯が国内に入り、趙高を殺す
- 子嬰の最期は不明
- 章邯が秦の政変を収拾した可能性すらある
この違いは、秦末史の理解を根本から揺るがします。
趙正書の記述をそのまま採用すると、章邯は外で戦っていたが、胡亥が殺された後、「国に入って趙高を殺した」とあります。
つまり、劉邦が咸陽に入る前に、章邯がすでに関中にいた可能性があるということになります。
これは史記の構図と完全に矛盾します。
史記との整合性を取った解釈
史記と趙正書の整合性を取るなら、次のようなシナリオが考えられます。
1. 章邯は外で戦っていた
2. 胡亥が殺される
3. 章邯が関中に戻り、趙高を殺す
4. 章邯は子嬰を秦王に立てる
5. 章邯は再び兵を率いて項羽と戦い、敗れる
6. 劉邦が咸陽に入る
この流れなら、史記の「章邯は項羽に降伏した」という記述とも矛盾しません。
つまり、章邯は秦末のキープレイヤーであり、秦滅亡の中心人物だった可能性があるということになります。
一部の研究者は、司馬遷の時代でさえ秦滅亡の真相は不明であり、史記は「諸説のうちの一つ」を採用しただけである、また、趙正書は別系統の伝承を反映している可能性がある、と考えています。
秦末は記録が混乱しており、史記だけが絶対的な正史ではないという視点は非常に重要です。
趙正書の成立背景
趙正書の成立時期については、漢武帝期であるという説や、漢宣帝期であるという説があります。
特に興味深いのは、武帝が死に、8歳の昭帝が即位した状況と、賢い父(秦王政)と愚かな息子(胡亥)の構図が重ねられているという指摘です。
昭帝の時代は、霍光が幼帝を補佐し、大臣間の争いが激化したという政治状況でした。
つまり趙正書は、秦末の物語を借りて、漢の政治状況を暗示した“寓話的歴史書”である可能性もあります。
まとめ:秦末は史記だけでは語れない
秦末は謎が多く、史記だけでは全貌を理解できません。
趙正書は、史記とは異なる秦末像、胡亥の主体的暴政、李斯の忠臣像、
章邯の決定的役割、子嬰の不明な最期、皇帝号の不在(秦王政は「王死して」)
など、非常に重要な視点を提供しています。
趙正書のさらなる研究が進むことを期待したいと思います。
趙正書の動画
趙正書の動画となっています。