紀元前241年の函谷関の戦いのお話です。これが最後の合従軍となります。
戦国四君最後の一人である、楚の春申君が主導した合従軍ですが、秦軍により敗北しています。
春秋戦国時代を題材にした漫画である原泰久先生のキングダムでも、一大イベントとして扱われていました。
司馬遷が書いた史記の函谷関の戦いは内容が簡潔であり、春申君が楚、趙、魏、韓、燕の軍勢を率いて函谷関を攻撃し敗れたと記述があるだけです。
これだけだと、春申君が率いる諸侯連合である合従軍が、なぜ敗れたのか分かりません。
しかし、史記の趙世家などを見ると、紀元前241年には趙の龐煖も合従軍を率いて秦の蕞を攻めている事が分かります。
同年に行われた事から函谷関の戦いと、龐煖の蕞の戦いは連動していたとも考えられるはずです。
ここでは、史実では函谷関の戦いがどの様な内容だったのかを解説致します。
尚、史実では函谷関の戦いで李牧が作戦を発案した記述は存在しません。
函谷関の戦いが起きる前
函谷関の戦いの前年である紀元前242年に秦が魏に対して攻勢を強め東郡を設置しています。
秦は魏の信陵君が亡くなった事で、蒙驁に命じて魏に攻め込んだわけです。
東郡という名前からすると、函谷関の東ではないか?と思うかも知れません。
しかし、実際の東郡は東にある斉に近い場所です。
蒙驁が魏の東部を奪った事で、合従の同盟は南北に分断されたとする資料もあります。
斉と秦が国境を接し、趙と魏は国境を接する国では無くなってしまいました。
これに焦った諸侯が戦国四君最後の一人となった春申君の主導で合従軍を結成したのではないでしょうか。
尚、函谷関の戦いの2年後に当たる紀元前239年に、魏が趙に鄴(ぎょう)を割譲した記述があります。
魏は秦に東郡を設置された事で、魏の最北端にあった鄴が孤立し、趙に割譲を余儀なくされたのでしょう。
尚、紀元前236年には秦による鄴攻めが行われ、趙は国土が半分になっています。
函谷関の戦いの作戦
先にも述べた様に、紀元前241年の函谷関の戦いでは、趙の龐煖も合従軍を率いて蕞(さい)を攻撃しています。
ここに函谷関の戦いの謎を解くポイントがあると思いました。
蕞の地は、現在の兵馬俑であり秦の首都である咸陽に近く、秦の奥深くまで攻め込んでいる事が分かります。
さらに、史記の趙世家の記述では、龐煖は趙、楚、魏、燕の精鋭を率いて蕞を攻撃しているのです。
これを考えると、春申君は囮の軍で函谷関を攻める姿勢を見せ、龐煖が各国の精鋭を率いて秦の都である咸陽を抜く作戦だったのではないでしょうか?
春申君は函谷関の前には布陣しましたが、函谷関を攻める気はなかった可能性もあります。
攻撃的な秦軍
春申君率いる楚、趙、魏、韓、燕の合従軍は秦軍と戦う必要はありませんでした。
春申君は攻める素振りだけを見せていればよかっただけです。
春申君の方も秦を上回る兵力を有していた為、秦軍が函谷関から出て攻めて来るとは思わなかったのかも知れません。
史記の始皇本紀で秦の恵文王と秦の武王の記述の所で、秦軍が函谷関の門を開いたが諸侯は攻撃しなかった話があります。
函谷関の門が開いても、攻撃しなかった諸侯に秦軍が攻撃を仕掛けて合従軍を破った記述があるのです。
秦の恵文王や秦の武王の時代の記述になっていますが、これが紀元前241年の最後の合従軍の記述になってはいないでしょうか?
春申君は、まさか秦軍が函谷関を出て攻めてくるはずがないと、タカをくくっていたら、逆に攻撃を仕掛けて来て不意を衝かれて敗走した様に感じます。
春申君は、函谷関の戦い後に、楚の考烈王の信頼を失った記述があるので、かなり酷い負け方だったのかも知れません。
尚、函谷関の戦いで秦軍の総大将はベテランの蒙驁だった可能性もある様にも感じます。当時の秦軍では魏を破り東郡を設置するなどエース級の将軍が蒙驁だったからです。
漫画キングダムでは、函谷関の戦いで楚の臨武君が騰に討たれ、汗明も蒙武に討ち取られる話がありますが、史実では記録がありません。
非情に残念に感じるかも知れませんが、キングダムの函谷関の戦いで王翦が燕軍に見せた知略や桓騎の活躍なども史書には一切の記述がないのです。
龐煖が撤退
蕞の戦いでは、龐煖は勝利を得る事が出来ませんでした。
春申君が函谷関の戦いで敗れた事で、蕞を攻撃していた龐煖は秦の奥地で孤立する事を恐れ早めに軍を引いたのかも知れません。
蕞の戦い後に、史記からは龐煖の記述は消えますが、韓非子によれは燕を攻めた記述があります。
その為、龐煖は蕞を抜く事は出来なくても、趙の悼襄王の信頼を失う程の敗れ方はしなかった可能性があります。
史記では龐煖は蕞を落とす事は出来なくても、兵を斉に移し饒安を取った記述があり、趙の悼襄王に評価された事も考えられます。
尚、史記の趙世家の記述で、紀元前241年に慶舎や傅抵に平邑や東陽(黄河北岸の地)を守らせた話があり、函谷関の戦いに敗れた趙の悼襄王は秦の攻勢を抑える為に、慶舎や傅抵に平邑や東陽を守らせたのかも知れません。
春申君の凋落
函谷関の戦いの前まで春申君は魯を滅ぼしたり、長平の戦いに敗れた趙の首都邯鄲に援軍に行く等の活躍があったわけです。
趙の邯鄲籠城戦では、信陵君と共に秦の王齕を破る活躍を見せています。
しかし、函谷関の戦い後は、楚王に疎んぜられる様になり、楚の首都である寿春から離れて自分の領地である呉で政務を行った記録があります。
さらには、王位に色気を出した為に、李園により一族は滅ぼされる事になりました。
史記では「春申君老いたり」の記述がありますが、函谷関の戦いでの敗北がターニングポイントだったのでしょう。
悲哀に満ちた諸侯
紀元前241年の合従軍は、春秋戦国時代における最後の合従軍です。
春申君が敗れた函谷関の戦いを最後に、諸侯が合従軍を結成した記述はありません。
これ以後は、秦は次々に諸侯の領地を侵し、天下統一に向かっていきます。
趙は紀元前236年の鄴の戦いで敗れた事で、多くの土地を失ってしまいますし、紀元前230年には韓が滅亡し戦国七雄の中で最初の脱落者が出たわけです。
趙の李牧が秦の桓齮を破ったり、楚の項燕が秦の李信、蒙恬を破るなど活躍を見せますが、春秋戦国時代の終わりとあって悲哀に満ちた状態になっていきます。
圧倒的な秦の戦力の前に、諸侯が絶望的な戦いを強いられる様相となっています。
最後の希望であった合従軍が敗れた紀元前241年は、諸侯が束になって掛かっても秦には勝てない事が証明されたわけであり、秦の統一を決定づけた様に思いました。
諸侯の春申君に対する失望も大きかった様に思います。
難攻不落の函谷関
紀元前241年の函谷関の戦いでは、合従軍が敗れましたが、函谷関は難攻不落の要塞でもあります。
函谷関が出来たのは、戦国時代初期の秦の孝公の時代だとされています。
秦の孝公は商鞅を宰相に任じて法治国家の道を歩んだ人物です。
函谷関は秦の孝公の亡霊が守っていた話もあり、秦を守り続けたわけです。
ただし、秦の函谷関を破る事が出来た人物もいます。
秦が函谷関を抜かれたのは、紀元前298年に斉の宰相である孟嘗君が斉・魏・韓の合従軍を組織し秦を攻撃した時です。
合従軍を率いたのは、匡章(きょうしょう)ですが、孟嘗君が組織した合従軍は函谷関を破る事に成功しました。
因みに、函谷関を抜かれた秦の昭王は土地を割譲し、斉、魏、韓と和議を結んでいます。
次に函谷関を抜かれたのは、紀元前209年であり、始皇帝が崩御し二世皇帝胡亥や趙高の暴政が始まった頃の時代です。
陳勝配下の周文(周章)が函谷関を抜く活躍を見せます。
しかし、秦の首脳部は囚人兵で組織された章邯を討伐に向かわせ、周文もねばりを見せますが章邯に敗れてしまいます。
章邯の勝利は、陳勝の勢力を函谷関の外に押し戻した事になります。
尚、章邯の勝利により陳勝の軍は次々と敗走を始め陳勝呉広の乱は終焉を迎えました。ただし、反乱の首謀者が亡くなっても、項梁や項羽が楚の懐王を擁立するなど秦に対する反乱は続きます。
紀元前206年に劉邦が張良の計略により秦軍を破り、秦王の子嬰を降伏させ咸陽を陥落させますが、劉邦は武関から咸陽に入ったのであり、函谷関を抜いたわけではありません。
魏の信陵君や遊説家の蘇秦なども函谷関を攻めていますが、函谷関を抜く事は出来ずに撤退しています。
戦国時代から秦の滅亡までを通して、2回しか抜かれた事がない事を考えれば函谷関が如何に凄い要塞だったのかが分かるはずです。
それを考えれば、合従軍を率いているとはいえ、春申君には荷が重かったのかも知れません。
さらに言えば、合従軍は兵が多くても、諸侯の思惑もありまとまりが悪いなどの問題点もあったのでしょう。
函谷関の戦いの動画
函谷関の戦いを題材にしたゆっくり解説動画となっています。
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