名前 | 龐羲(ほうぎ)、龐義と記載される事もある。 |
生没年 | 不明 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
勢力 | 後漢王朝→劉焉→劉璋→劉備 |
年表 | 194年 劉循、劉闡らと益州に逃れる |
214年 劉備の益州平定 | |
219年 劉備を漢中王に推挙 | |
画像 | 三国志14(コーエーテクモゲームス)能力値は最下部に記載 |
正史三国志に伝はありませんが、蜀書に記述があります。
龐羲は劉焉と親しかった事で、劉循や劉闡を助けた人物とも考えられています。
龐羲は劉璋時代を巴西太守として務め上げ、劉備が益州の主となるや左将軍司馬になった記述もあります。
劉備が漢中王になる時には、龐羲も推挙した話が正史三国志に残っています。
龐羲は益州に長くおり、疑われる事もありましたが、時代を上手く潜り抜けた人物の様にも感じました。
今回は劉焉、劉璋、劉備に仕えた龐羲を解説します。
尚、龐羲の「羲」はよく見ると正義などで使われる「義」ではありません。
しかし、三国志演義などでは、龐義の文字が使用されていたりもします。
劉焉の益州独立計画
正史三国志の劉焉伝によれば、龐羲と劉焉は先祖からの付き合いがあったと記述されています。
龐羲の前半生を語る上で、劉焉はキーポイントになる人物です。
朝廷は劉焉を益州刺史に任命し、劉焉は三男の劉瑁を連れて益州に向かいますが、馬相の乱は賈龍により鎮圧されています。
後の事を考えると、劉焉は益州に行く時に、龐羲に家族の事を依頼しておいた様にも感じました。
劉焉は益州に入ると、張魯に兵を与えて漢中を占拠するなど、独立の動きを見せます。
劉焉の孫たちを救う
後漢王朝では大将軍の何進が宦官に殺され、董卓が実権を握る事になります。
董卓は劉焉に貢物を要求しますが、劉焉は朝廷に貢物を献上する事をしなかったわけです。
こうした劉焉の態度は、朝廷に対し不信感を抱かせる事となり、龐羲は劉焉の家族に危険が迫っていると感じた様に思います。
董卓が呂布や王允により命を落とすと、王允らは董卓軍の残党である李傕や郭汜に敗れました。
李傕や郭汜が実権を握りますが、劉焉は都の混乱をチャンスと考えたのか、馬騰らと結託し長安を襲撃しようと画策しています。
しかし、李傕にバレてしまい、劉焉の子である劉範や劉誕らは殺害されています。
この時に、龐羲が機転を利かせ劉焉の孫たちを連れて益州に避難しました。
この孫たちに当たるのが、劉璋の子である劉循や劉闡だったのではないか?とも考えられています。
巴西太守時代
娘が劉循の妻となる
劉焉は息子たちを失い、失意の中で発病し世を去り、劉璋が後継者として益州刺史となります。
劉璋には兄の劉瑁がいますが、趙韙の進言もあり、劉璋が立ったと伝わっています。
劉璋は自分の子らを助けた龐羲に深く感謝したのか、長男の劉循の妻を龐羲の娘としました。
劉璋と龐羲は昔から、顔なじみだった話もあり、劉璋は家族を救ってくれた龐羲に恩義を感じたのでしょう。
巴西太守となる
劉焉の時代に張魯が漢中を支配しましたが、張魯は漢中で独立してしまいました。
劉璋は張魯を討伐する為に、龐羲を大将にして張魯討伐を行いますが、上手くはいきませんでした。
さらに、張魯は国境である巴西に兵を多く配置しています。
劉璋は張魯に対抗する為に、龐羲を巴西太守にした話があります。
龐羲が張魯討伐に失敗しても、劉璋の龐羲に対する信頼は揺るがなかったのでしょう。
ただし、正史三国志に龐羲は権力を得た事で、振る舞いが横暴になった様な記述もあり、劉璋と不仲になったとあります。
劉璋の疑いを招く
正史三国志の楊戯伝によれば、巴西太守になった龐羲は多くの守備兵が必要と考え、私兵を多く集めた話があります。
龐羲は巴西を守備する為に、必要な事だと思ったかも知れませんが、この行為を劉璋に讒言した者がいました。
「龐羲が兵を集めよからぬ事を企んでいる」と劉璋に伝えた者がいたのでしょう。
龐羲は劉璋に罰せられるのではないか?と恐怖し、反乱を企て仲間を増やそうと考えます。
龐羲は程畿を味方にしようと考えました。
この時に、程畿の子である程郁が龐羲の配下にいたわけです。
龐羲は程郁を使者とし、程畿が自分の見方する様に要請しますが、失敗に終わります。
さらに、龐羲は程畿を脅し説得しようとしますが、程畿は楽羊の故事を出しきっぱりと断りました。
龐羲は程畿を仲間に加える事も出来ず、万策尽きたと考え劉璋に詫びを入れに行く事になります。
この時に、龐羲は劉璋に対し深く陳謝したとあるので、誠意を以って誤った謝ったのでしょう。
すると、劉璋は龐羲を許し罰しなかった話があります。
尚、劉璋は程畿の功績を認め、江陽太守に出世させています。
鄧芝が身を寄せる
龐羲は思うままに振る舞ったとする記述がありますが、正史三国志の鄧芝伝には、次の記述が存在します。
「鄧芝は巴西太守の龐羲が士を好むと聞き、彼の元に行き身を寄せた」
この記述を見ると、龐羲が評判がよかった様な事も書かれているわけです。
鄧芝は夷陵の戦い後に、諸葛亮の命令で呉に赴き、孫権と会見し、蜀と呉の同盟を復活させるなどの大功を挙げています。
しかし、鄧芝は人間的には難しい部類に入る人であり、難解な性格もしていたわけです。
鄧芝の様な人間を近くにおける龐羲を見るに、龐羲の度量の深さと言えるのかも知れません。
劉備時代
張松の言葉
劉備は荊州を領有すると、張松や法正ら益州の臣下たちと通じ合い、益州を奪い取ろうと画策しました。
張松は劉備を益州に入れる為に、劉璋に次の様に述べています。
「龐羲や李異は功績を誇り驕慢であり、外の勢力(曹操)に通じようかと考える様になっております。
豫州(劉備)の助けが無ければ、必敗の道を歩む事になるでしょう。」
張松は龐羲や李異が、曹操に寝返る可能性があると述べたわけです。
この時の曹操は赤壁の戦いには敗れましたが、北方を制圧しており、益州にも手を伸ばそうとしていました。
張松は龐羲や李異では頼りにならず、劉備の助けが必要だと述べた事になります。
張松の言葉を考えると、龐羲は最初から劉備に通じていたわけではない様に感じました。
ただし、西暦214年に劉備は劉璋から益州を奪いますが、劉循や張任、王累、厳顔、黄権らと違い、劉璋の為に奮戦した記録もありません。
劉備の配下となる
劉備が入蜀を完了させると、龐羲は劉備に仕える事になります。
劉備は龐羲を左将軍司馬に任命した話があります。
劉備は元の益州刺史である劉璋の一族を、荊州の公安に移そうと考えました。
この時に、龐羲は自分の娘婿である劉循を、蜀に残す様に進言したわけです。
劉備は龐羲の言葉を聴き入れ、劉循を成都に残した話があります。
劉備は北伐を行い、定軍山の戦いで夏侯淵を討ち漢中を平定しました。
劉備は遂に念願だった曹操から、領土を奪う事に成功したわけです。
曹操が魏王になっていた事もあり、劉備を漢中王にする様にと声が上がります。
正史三国志の先主伝によれば、劉備を漢中王に推挙した群臣の中に「司馬の臣龐羲」の名前があります。
これを考えると、龐羲も劉備を漢中王に任命する様に要請したのでしょう。
尚、これが龐羲の最後の記述となります。
龐羲がいつ亡くなったのかも記述がありません。
ただし、記録がないだけで劉禅の時代まで生き抜いた可能性はあるでしょう。
因みに、下記が龐羲と共に劉備を漢中王に推挙した面々となります。
龐羲の評価
劉焉の長安急襲策が失敗した時に、龐羲が劉焉の孫である劉循や劉闡を救ったのは、ファインプレーだと言えるでしょう。
後に馬超が韓遂と反旗を翻し、曹操に馬騰の一族が皆殺しにされてしまう事件がありました。
この時に、馬超は龐羲の様な機転を利かせてくれる人物がいる事を、願った可能性もある様に思います。
しかし、龐羲の様な人物は現れず、結局は馬氏は馬超と馬岱だけが残る事になっています。
後に馬超は劉備の元に帰参しますが、龐羲と会ったとしたら「自分にもこの様な人が欲しかった」と願った様に感じます。
龐羲の最大の見せ場は、劉循と劉闡を助けた事だと言えるでしょう。
龐羲は疑われた事もありましたが、乱世を上手に潜り抜けたと言えます。
龐羲の能力値(コーエーテクモゲームス)
三国志14 | 統率60 | 武力38 | 知力68 | 政治74 | 魅力62 |