街亭の戦いの戦いと言えば三国志の諸葛孔明の第一次北伐において、最重要な戦いとも言われています。
実際に、諸葛亮は何度も北伐の軍を起こして、魏と対峙するわけですが、一向に成果を上げる事が出来ませんでした。
人によっては、街亭の戦いが尾を引き北伐は失敗に終わったと考える専門家もいます。
事実、諸葛亮は南征においては、順調に進み孟獲も降伏させています。
南征において、「城を攻めるのは下策、心を攻めるのが上策」と進言したのが、街亭の戦いで蜀の先鋒の司令官となった馬謖です。
今回は、街亭の戦いにおいて、蜀の馬謖と魏の張郃が、どの様にして戦ったのか解説いたします。
尚、自分の中では街亭の敗退の理由は、馬謖と王平の相性が悪すぎたと言うのもあるような気がしてなりません。
上記の画像は横山光輝先生の漫画三国志における、馬謖が山に陣を設ける事を決断したシーンです。
この後の敗北を予期できずに、自信満々で山に陣を敷く馬謖を読み取る事が出来ます。
馬謖とはどのような人物なのか?
街亭の戦いの前に、簡単に馬謖がどのような人物だったのか紹介します。
馬謖は、「馬氏の五常」と呼ばれていて、荊州では有名な名士だったようです。
ちなみに、馬謖の兄は馬良で「馬氏の五常白眉最も良し」とも言われていて、賢い兄弟の中でも、さらに馬良が一番賢いとも言われていました。
馬良に関しては、夷陵の戦いで戦死していて、街亭の戦いの時には、既に死亡しています。
馬良ですが、兵法書などを好み、諸葛亮と意見を交わし始めると、夢中になってしまい二人で深夜まで語ってしまったと言われています。
時には、馬謖は諸葛亮でさえも論破してしまう事もあったのでしょう。
諸葛亮は馬謖の事を高く評価していて、自分が亡き後は後継者に馬謖がなるとも考えていたようです。
しかし、現場で生きて来た劉備のような人間から見ると「馬謖は口では大きい事を言っているが、とても実行は出来ない。重要な任務を任せてはいけない」と言っています。
劉備が夷陵の戦いに陸遜に負けて、永安にいた時に諸葛亮への遺言として劉備は忠告したわけです。
しかし、諸葛亮は劉備の言葉を聞き入れずに馬謖を重用し続けています。
尚、兵法書を好み弁が経つのは、春秋戦国時代に長平の戦いで白起に敗れた趙括に非常によく似ています。
趙括は、長平の戦いで破れた事で白起に趙の兵士が40万人も生き埋めにされたとも言われています。
趙奢(趙括の父親)も自分の息子に対して「兵法を暗記しているだけで実践では使えない」と評しています。
張郃とはどのような人物なのか?
張郃は、元は韓馥の部下だったわけですが、後に袁紹に帰順しています。
張郃は袁紹の部下として、公孫瓚征伐において大活躍しています。
官渡の戦いにおいては、田豊や沮授などと同じように、即戦回避路線を主張していました。
しかし、結局は郭図らの意見が採用されて、曹操と短期決戦を挑んでいます。
官渡の戦いで淳于瓊が攻撃された時に、郭図の案で曹操の本営を攻撃しましたが、失敗に終わっています。
この時に、郭図が自分の責任を張郃に擦り付けた事で、帰る場所を失い曹操に降伏しました。
曹操は、張郃の降伏を喜び配下としています。
後に、曹操軍として数多くの功績を挙げる事に成功し、楽進、李典、張遼、徐晃らと並ぶ、曹操軍における代表的な将軍となっています。
街亭の戦いの頃には、30年以上も活躍している超ベテラン将軍となっていました。
戦いの経験値でいえば、馬謖を圧倒している状態です。
張郃は、諸葛亮も恐れる程の実力も秘めています。
孟達が蜀に寝返る
街亭の戦いの前を見ると、孟達が魏を裏切り蜀に寝返っています。
孟達は過去に劉封と仲違いをして、魏に寝返えり、これにより漢中の東部は魏の版図になっていました。
当時の魏の皇帝である曹丕は、孟達を気に入り重用しましたが、曹丕が亡くなると孟達の立場が微妙になってきます。
そこに目をつけた諸葛亮が、孟達をうまく調略したのでしょう。
しかし、孟達は魏の司馬懿の電光石火の攻撃の前に準備が整わずに敗北しています。
司馬懿の動きが余りにも早く、諸葛亮は援軍も送る事が出来ませんでした。
諸葛亮は、孟達と連動して魏に攻め込み北伐をする方針だったようですが、司馬懿により早くも暗雲が立ち込めてしまいます。
しかし、諸葛亮は北伐の軍を強行させています。
諸葛亮が馬謖を大抜擢
諸葛亮が北伐を始めるにあたって、馬謖とかなり意見交換をして作戦を考えたはずです。
南征の前に諸葛亮は、馬謖を数年に渡る議論を繰り返したという言葉があるので、北伐でも馬謖と諸葛亮は、かなり議論した事は間違いないでしょう。
諸将と軍議をする前に、諸葛亮と馬謖で作戦は既に決まっていたのでしょう。
しかし、形だけとはいえ、諸葛亮は軍議を開いています。
諸葛亮は、斜谷に趙雲と鄧芝の囮部隊を向かわせて、自分が率いる蜀軍の本隊には、祁山を攻めるように考えていました。
祁山を落とせば涼州の一部は孤立し、蜀の領地となると考えたようです。
さらに、北伐を続けて街亭を支配下にしようとする案がありました。
実際に、諸葛亮は、祁山を攻めると一部の郡県は蜀に寝返っています。
しかし、この諸葛亮の案に反対をしたのが魏延です。
魏延が長安を攻める様に進言
魏延は、趙雲たちに囮部隊として、斜谷道を進撃させる事は反対しませんでした。
しかし、魏延が自ら兵を率いて、長安を急襲したいと意見したわけです。
魏の首都は洛陽ですが、長安は張良の進言により漢の高祖劉邦が都したり、董卓が遷都した事でも重要な都市だと分かります。
普通であれば、守りは固そうな気もするわけですが、魏の将兵は敵は長安には攻めてこないと思っているから、奇襲で落とせると進言しました。
さらに、長安を守っているのが、夏侯楙(かこうぼう)で生まれつき武略が欠けるなど、正史三国志でも酷評されている人物です。
夏侯楙はお金儲けが大好きで、それでいて弟たちを無駄に叱責したりしていた事から、恨みを買っている様な人だと言えます。
さらには、曹叡(魏の明帝)は、後に夏侯楙の統率力に疑問を持ち解任しています。
人望もなく武勇もゼロのような夏侯楙であれば、自分が5000の軍で攻めれば、魏延は勝てると考えたのでしょう。
自分の中では、魏延の長安急襲策は面白いと感じました。
ただし、長安を急襲するのは、蜀の拠点である漢中から魏の拠点である長安まで400キロの道のりと秦嶺山脈を越えて行かなければならない事もあり、兵站などを考えると現実的ではないとする意見もあります。
魏延の長安急襲策が成功するのであれば、魏の超重要拠点である長安を奪い魏の首都である洛陽まで進撃する事も出来たのかも知れません。
長安急襲策は難易度も高いですが、成功すれば呉の北上も誘発し魏は崩壊していた可能性もあるでしょう。
やらせてみたら、どうったのかな~。と興味を持つ作戦です。
しかし、諸葛亮は、こういう戦略を好まずに却下しています。
諸葛亮としては、祁山を確実に落として魏の涼州への道を遮断し、涼州を手に入れたいと考えたのでしょう。
魏延が積極策だとすれば、諸葛亮は消極策の様にも見えます。
実際には、安定、天水、南安の三郡が魏に背き蜀に味方たした為、諸葛亮の計画はかなりうまく行ったと言えるでしょう。
諸葛亮の作戦は馬謖と語り合い、じっくり考えた作戦だったはずです。
出来る限り可能性が高い方法で、魏の領土を奪おうと考えたのでしょう。
馬謖を将軍に任命する
諸葛亮は、趙雲らを囮として自らは祁山を攻めています。
これに対して魏は不意を衝かれる事になり、動揺が走ります。
先の述べた様に、孤立する事を恐れたのか、諸葛亮の調略が上手くいったのか天水・南安・安定の三郡は魏から蜀に寝返っています。
諸葛亮の動きに対して、魏の皇帝である曹叡は危機感を抱き、自ら長安に向かっています。
長安に向かった理由は、前線からの自分の命令の伝達スピードを上げるためと言えるでしょう。
さらに、夏侯楙を解任して、曹真には趙雲らと戦わせ、張郃には街亭方面に進軍させています。
諸葛亮は、街亭を勢力圏に入れるために、将軍を任命するわけですが、ここにおいて馬謖を大抜擢しています。
蜀軍の多くの武将らは、戦場の経験豊富な魏延か呉懿(呉壱)が選ばれると思っていたようです。
諸葛亮が馬謖を任命した事で、諸将は驚いたという話が伝わっています。
馬謖は、これまでに将軍(総大将)として戦場に行く経験はなかったのではないかと思われます。
調べてみても、将軍として戦争に参加した記録もありません。
さらに、街亭は重要な拠点でもありますので、馬謖では不安と言う声もあったのではないかと思われます。
しかし、諸葛亮は日頃の馬謖の言動を信じて、街亭に行かせる将軍に任命したのでしょう。
馬謖が先鋒に選ばれた理由
馬謖が先鋒に選ばれた理由ですが、諸葛亮が扱いやすいと考えたのかも知れません。
魏延は、先に長安を奇襲するように進言した事もあり、暴走すると考えた可能性もあります。
さらに、魏延は長安を急襲する策を進言した為に、却下された過去があります。
そのため手を抜いて戦う事も考えたのかも知れません。
諸葛亮と魏延は、史実でも余り仲はよくなかったようで、馬謖に手柄を立てさせたいと言うのもあったのでしょう。
馬謖と諸葛亮は北伐の作戦を綿密に計画したはずであり、練りあげられた作戦を実行するのは馬謖が最適だと考えた可能性もあります。
しかし、この決断により街亭の戦いで破れてしまい、第一次北伐は失敗に終わっています。
尚、諸葛亮は馬謖の副将として、ベテラン将軍で戦場の経験が豊富な王平を付けています。
因みに、諸葛亮のプランだと自分は祁山を落とすから、祁山を落とすまでの時間稼ぎとして馬謖を街亭に向かわせた説もあります。
諸葛亮は馬謖に功績を立てさせたかった事もあり、馬謖は張郃の足止めだけという楽な任務を馬謖に与えた説もある様です。
諸葛亮が祁山を陥落させ、馬謖軍と合流し魏を決戦を挑みたかった説となります。
しかし、どちらにしろ馬謖の失態により街亭の戦いで馬謖は張郃に敗れ失態を犯す事になります。
山頂布陣で戦う前から敗北が決まる
街亭に馬謖は向かうわけですが、敵将である張郃を迎え撃つための陣を山頂に築き始めています。
つまり、馬謖は山登りを始めてしまいました。
余談ですが、ネット上で馬謖の事を「Mrハイキング」と呼ばれる事もありますが、街亭の戦いで山登りを始めた事に由来しています。
これに対して、王平は猛反対するわけです。
しかし、馬謖は兵法書などを良く読んでいて、高い場所に布陣する地形の優位があると聞き入れませんでした。
張郃の足止めだけで十分なのに、山頂に布陣し魏軍を撃破しようとした説もあります。
馬謖と言う人は、兵法書には詳しいですし、諸葛亮を論破出来るほどの弁舌を持っているわけです。
そのため、王平が何を言っても聞き入れる事はしなかったようです。
しかし、王平は山の上にいる布陣では、負ける事を予想した為、しつこく何度も考え直すように進言しています。
麓に陣を移す事を主張し続ける王平に苛立ちを見せた馬謖は、王平の部隊のみを麓に降りる事を許可しています。
馬謖としては、王平が余りにも煩い為、山の麓に降ろした可能性も十分にあるでしょう。
尚、馬謖は先に戦場に到着して迎撃する体制を整えたわけですが、命令が複雑で諸将や兵士たちは理解に苦しんだとあります。
馬謖は知識を豊富に持っている為、総動員して魏を迎え討とうと考えたのでしょう。
しかし、兵士たちには伝わらず、混乱を極めたようです。
尚、諸葛亮は馬謖に対して、山頂に布陣してはいけないと戒めていたという話もあります。
それでも馬謖からして見れば、孫武の書いた孫子の兵法書にもある「一たび将軍として任命されれば、陣中では主君の命令にも従えない事もある」という言葉を考えて、諸葛亮の言う事も聞かなかったのかも知れません。
さらに、王平は反対しましたが、馬謖の側近と言うべき李盛、張休、黄襲などは賛成だったのでしょう。
張郃は勝利を確信して進撃する
馬謖が山頂に陣を構えた事を知ると、張郃は勝利を確信していたようです。
移動する途中に、川などもあり、普通であれば川を天然の要塞として考えて、陣を敷くはずなのに、やすやすと川も渡らせてくれます。
そして、山頂に布陣した馬謖がいるわけです。
張郃は、山頂にいる馬謖を見つけると、麓に柵や営塁を築き魏兵に防御を固めさせています。
さらに、山を四方向から包囲して囲んでしまったわけです。
張郃が、防御の準備をしている隙に、馬謖は電光石化の攻撃を仕掛ければ、勝てた可能性もあるでしょう。
しかし、馬謖は張郃の意図が分からずに、麓の魏軍を見守っていただけでした。
張郃は、防御が完成すると、蜀軍の水源を絶つ作戦に出ます。
この時に、山頂に水源があれば全滅する事はなかったのかも知れませんが、麓にしか水源がなかったのでしょう。
これを考えると、蜀軍は水の確保のために、わざわざ山の麓まで降りて汲みに行っていたはずです。
王平は、麓の近くに布陣していたはずであり、水源を魏軍によって絶たれたのは最初に気が付いたようです。
王平は急ぎ、馬謖に伝令を送り、水源を再び奪い返すように進言しています。
馬謖の妥当性を欠いた行動
馬謖は慌てて、水源を奪還するために動いたわけです。
しかし、その命令は妥当性を欠いたとありますので、兵士を上手く扱う事が出来なかったのでしょう。
さらに、最初に兵士に複雑な命令をしていて、兵士も理解に苦しんだために、伝達系統も異常を期していたと思われます。
この混乱した軍が水源奪還のために、魏の張郃に戦いを挑みました。
命令系統が混乱した事で、蜀軍の陣に穴が開いたり隙が出来てしまったのでしょう。
そこを張郃は見逃しませんでした。
馬謖の隙を突いて、攻撃を掛けると蜀軍は次々と崩れていくわけです。
馬謖としてみれば、山頂に布陣して圧倒的な優位にあると、思っていたにも関わらず、戦争がはじまると呆気なく敗れています。
この馬謖の戦い方と言うのは、劉備がいう「馬謖は口だけで役に立たない」に繋がるのでしょう。
口では凄い事を言えるのですが、実践をするのが現実的ではないと劉備は判断しての言葉だったはずです。
「前に進め!敵を蹴散らせ!」と言えばいいだけの所を、理屈っぽく色々と言ってしまった可能性もあります。
馬謖の撤退を張郃が追撃
蜀軍は完全に崩れるかとも思われましたが、蜀兵は山岳戦になれていた為か、初日の戦闘は何とか持ちこたえています。
水源は完全に張郃に握られていましたし、初日の大敗で勝てる要素は、見つからなかったはずです。
ここにおいて、馬謖は撤退する事を決断します。
しかし、張郃は馬謖が夜陰に紛れて、撤退する事を読んでいました。
そのため松明の準備なども行い、馬謖を追撃しています。
ここでも多くの戦果を張郃は挙げています。
撤退戦において馬謖は、何かしらの工夫をして全軍を上手く撤退させる事が出来れば、処刑されなかったのかも知れません。
実際に、斜谷道方面で戦った趙雲や鄧芝は敗北はしましたが、撤退は非常に上手だったわけです。
同じことを馬謖が出来ればよかったのですが、馬謖は兵を失い逃げるだけで、上手く対処する事が出来ませんでした。
蜀軍総崩れの中で王平だけは、陣太鼓を叩き伏兵がいるかの様に、魏軍を見せかけています。
張郃は、陣太鼓がなると伏兵を恐れて進撃をストップさせています。
王平の陣太鼓は、張郃の追撃を振り返るのに大いに役立ったはずです。
しかし、蜀軍で唯一活躍した王平でさえも、諸葛亮の元にたどり着いた時には、ボロボロだった事でしょう。
馬謖も何とか蜀の漢中にたどり着きましたが、かなり辛い撤退だったはずです。
厳格な諸葛亮であれば、処刑される事も十分に分かっていた事でしょう。
諸葛亮は馬謖をかなり評価していた事から、「あれほど兵法に詳しい男が信じられない」という状態だったのかも知れません。
尚、諸葛亮は街亭の戦いで敗北した馬謖を処刑する決断をしています。
これが「泣いて馬謖を斬る」の故事に繋がっています。
因みに、馬謖は蜀の軍隊を置き去りにし、自分と側近だけを連れて逃亡してしまった説もあります。
軍隊を置き去りにして自分だけ逃げたのであれば、職務を果たさなかった事となり、処刑されて当たり前となるでしょう。
街亭の戦いで諸葛亮が後詰をしなかった理由
街亭の戦いで馬謖は破れるわけですが、馬謖を助けるために、諸葛亮が後詰(援軍)を送っても良かったのではないか?と思う人もいるかも知れません。
第一次北伐の時は、諸葛亮は祁山まで侵攻しています。
蜀が魏に攻撃を掛けるためには、斜谷道方面と街亭方面しかなかったのでしょう
諸葛亮がいる祁山は、斜谷道方面と街亭方面の中間の場所に位置していたようです。
漢晋春秋によると、斜谷方面で戦った趙雲や鄧芝は、曹真よりも兵は多かったが兵士は弱かったとされています。
これに関しては、斜谷方面はあくまでも囮であり、魏が騙されて攻めて来なければよかったはずです。
人数を多くして、敵に攻めにくくさせる狙いがあったのかも知れません。
囮であれば、敵が何もせずに動かないでいてくれた方が助かるからです。
そのため蜀軍の精鋭は、馬謖に率いられていたのでしょう。
曹真は数で劣りながらも、趙雲と鄧芝に戦いを挑み勝利しています。
ただし、趙雲と鄧芝は総崩れにはならずに撤退しました。
諸葛亮も馬謖の後詰を考えたようですが、曹真が斜谷道から進撃する情報が入ってきます。
諸葛亮は、曹真に背後を襲われて漢中に撤退が出来ない状態になる事を恐れ、馬謖の後詰は諦めています。
曹真が斜谷を進撃する情報が入らなかったら、諸葛亮は馬謖の後詰として張郃と戦っていた可能性もあるでしょう。
実際には、撤退が困難になる事を恐れて、軍を退く決断したわけです。
これにより第一次の北伐は完全に失敗した事になりました。
魏から領地も奪えていません。
ただし、天水にいた姜維が魏で裏切り者扱いされてしまい、蜀に降っています。
諸葛亮は姜維を大いに気に入るわけですが、これが唯一の収穫と言えるでしょう。
それでも、姜維は諸葛亮の死後に何度も北伐を実行しますが、蜀を疲弊させただけで、魏の領土を奪う事は出来ていません。
トータル的に考えれば、街亭の敗北だけではなく、諸葛亮の第一次北伐は完全失敗に終わっています。
諸葛亮も敗北した責任を取り、三階級降格して、右将軍となっています。
ただし、丞相としての役割はこなしていますし、執政の位を他の人物に譲ったわけでもありません。
そのため、形だけの降格とも言えます。
山頂に布陣してはいけなかった理由
馬謖は山頂に布陣したわけですが、水源の確保を怠った為に敗れています。
しかし、孫子の兵法書には「攻撃を掛ける場合は、高地から低地攻めるようにして、低地から高地に攻めてはいけない」と書かれています。
孫子の兵法書で考えれば、山の上に布陣するのも全くの見当違いと言う訳でもないでしょう。
馬謖も孫子の兵法書は読んでいたはずですし、暗記くらいはしていたのではないでしょうか?
なぜ孫子の兵法書にも書いてある高地を占拠したにも関わらず、敗れたかですが、全軍を山の上に移動してしまったのが問題だったのではないでしょうか?
私は、街亭の戦いの現場に行き調査したわけでもありませんし、想像になってしまうのですが、兵の一部を戦略的に山を占拠するのであれば問題が無いのかも知れません。
山頂を取り勝った戦いと言えば、春秋戦国時代の趙奢と胡傷の戦闘を思い起こしてしまいます。
趙奢は許歴の進言もあり北山を抑える事で勝利しています。
しかし、この時に趙奢は全軍を率いて北山を取ったわけではありません。
兵の一部を北山に向けて進撃させて抑えたわけです。
さらに、戦っている最中に一部の兵士を北山に向かわせたのもポイントなのかも知れません。
北山を取った事で、上手く秦の後方もしくは、側面を突けたり、退路を封鎖した可能性もあります。
これを考えると、全軍を山頂に上げるのは問題ですが、兵站も抑えていて兵士の一部を山に布陣させるのは良い可能性もあります。
ただし、山に布陣する事のデメリットは兵站や水源確保意外にもあると思いました。
山の中ですと平地と比べると移動がしにくいなどが欠点となるはずです。
平地であれば右左に動く事は容易くても、山中であれば、部隊を右に動かしたり左に動かしたりするのは難しいでしょう。
馬謖の命令は複雑で、兵士は理解出来なかったような記述もあるので、複雑な命令でさらに、動きにくい山の中と言うのも、街亭の戦いの敗因に大きく関わっているはずです。
しかし、馬謖はそこまで考えずに、兵法書に高地を占拠する事の大事さが書かれていた為に、実行してしまったのでしょう。
尚、孫子の兵法書の欠点ですが、兵站については記載がありません。
項羽と劉邦の争いを見ると、戦争になると項羽は勝ってはいますが、兵站を繋げることが出来ずに撤退しなければ、ならない事も度々ありました。
しかし、漢の劉邦は戦いには、何度も破れていますが、関中にいる蕭何が兵站を上手くつなげた事で、結局は天下統一しました。
蕭何と言うのは、中国史上で初めて兵站の大事さを理解して、完璧な行動をした人なのかも知れません。
尚、兵站を繋げることは、道路が悪条件だったり天気に左右されたりして、難しかったようです。
実際に、諸葛亮も北伐で何度も兵糧が切れて撤退していますし、兵站に失敗した李厳は罰せられています。
諸葛亮の北伐は、そもそも兵站との戦いだったのかも知れません。
王平を副将にしたのが問題だった!?
街亭の戦いは、王平の言う事を聞かなかった馬謖に責任があるように思われています。
王平は街亭の戦いでの撤退戦でも活躍していますし、副将が王平であったのが、せめての救いだったとも言われています。
しかし、敗戦の理由の一つに馬謖と王平の相性の悪さがあるような気がしてなりません。
馬謖は、馬氏の五常でも有名な荊州の名士の出身です。
文字も読める事から、多くの書物に親しみ兵法を覚えています。
それに対して、王平は戦場で育ったと言われる位の現場人間なわけです。
王平は、文字が10文字くらいしか知らないような人物で、文字はほぼ読む事が出来ません。
実戦経験は豊富ですが、書物は一切読んでいないと思われます。
伝令を送る時も、口頭で言い書く人が別にいたという話が残っています。
王平は戦場においては詳しいけど、知識の豊富さで言えば馬謖には数段劣るはずです。
王平が山頂に布陣する事に反対した時も、馬謖は「戦いは高地が有利と言う事も知らないのか!」と思った可能性もあります。
名士の馬謖から見れば、王平は経験豊富ではあるが、見下していた部分もあるのかも知れません。
そのため、王平が水源を確保するために、進言しても取り合わなかったように思います。
それを考えると、諸葛亮は能力がありながらも、反発してしまう組み合わせを大将と副将に選んでしまったように感じました。
孫権の呉では、甘寧と淩統は、父親の因縁もあり仲が悪かったようです。
三国志演義だと仲直りしていますが、正史の三国志では最後まで仲が悪かったとされています。
しかし、孫権は甘寧と淩統が近くにいない様に、引き離して活用しています。
こういう配慮が、諸葛亮には足りなかったのかも知れません。
尚、蜀では、この他にも魏延と楊儀が仲が悪く反発もしていますし、関羽と黄忠も仲が良いとは言えないでしょう。
この誰と誰を組み合わせると、最高のパフォーマンスが出来るのか?というのは、責任者であればよく考えるべきなのでしょう。
日本では武将の組み合わせについては、武田信玄が秀でていたとも言われています。
能力のある者同士を組み合わせても、相性が悪ければ、パフォーマンスは低下するはずです。
この馬謖と王平の相性の悪さが、街亭の戦いでの最大の失敗点だったのかも知れません。