龐煖(ほうけん)は趙の悼襄王の時代の将軍であり、燕の将軍である劇辛を破ったり春申君の合従軍に参加し、蕞の戦いでは秦の咸陽の間近まで侵攻しています。
龐煖は漫画キングダムで有名になった事もあり、武神とか武の求道者的など、バーサーカーの様な人物を思い浮かべる人が多い様に思います。
しかし、史実の龐煖は王騎や麃公、摎を倒したとか、羌瘣と一騎打ちをし、李信に討ち取られたなどの記述は存在しません。
史実の龐煖は、趙の全盛期である武霊王の時代に名前が登場し、悼襄王の末年まで名前が見えます。
それを考えると、龐煖はかなり長寿だった様にも感じます。
ただし、武霊王に進言した龐煖と悼襄王の時代に、合従軍を率いた龐煖は別人であり、龐煖二人説も存在している状態です。
尚、戦国時代で龐姓の人物で、魏の恵王に仕えた龐葱や、馬陵の戦いで田忌や孫臏に敗れた龐涓がいますが、龐煖がその子孫の可能性もある様に思います。
趙の武霊王に進言
鶡冠子(かんかつし)によれば、龐煖が趙の武霊王に進言した話があります。
趙の武霊王に意見した龐煖と、趙の悼襄王の時代に名前が見える龐煖が同一人物であるならば、若き日の龐煖の姿と言う事になります。
趙の武霊王は、龐煖に「100戦100勝するよりも、戦わずして勝つ事が最善だと言われている。その事について述べて貰いたい。」と投げかけます。
それに対して、龐煖は「本当に優れた人物は戦いを望まず謀略上策する。」と述べたわけです。
さらに、龐煖は敵の家臣団の切り崩しが次策であり、戦いは下策だと述べます。
趙の武霊王が、上策に対して尋ねると、龐煖は次の様に答える事になります。
龐煖「まずやるべきは、敵の君主を驕らせて欲望のままに行動する様に仕向け、功績が無い物に爵位や褒美を与える様にする事です。
刑罰に関しても明確な基準を決めず、君主の機嫌が良ければ重罪も許され、君主の機嫌が悪ければ、些細な罪でも罰する様にさせます。
この様な状態になれば、必然と国が乱れます。
さらに、賢臣を遠ざけ、君主のご機嫌取りばかりを重用させる様に仕向けるのです。
敵国の法律を厳しくさせ、自分は慎ましい人物だと嘯く様にさせます。
これが謀略であり上策です。
趙の武霊王は、龐煖に対して、次策も述べて欲しいと言います。
龐煖「次策は臣下をかき乱す事を言います。他国の大臣に賄賂を贈り君主から臣下を離反させる事で国を乱します。
賄賂を受け取った大臣らは、「王の為」だと偽り、忠臣の振りをして君主を間違った方向に歩ませます。
君主が暴虐で臣下が賄賂漬けであれば、戦う前から滅びたも同然です。
最後に下策の軍隊を派遣する事で、衰えた国を制圧します。」
趙の武霊王は、龐煖の言葉に納得しますが、龐煖はさらに次の様に述べます。
龐煖「過去に越王勾践が呉王夫差を破ったり、晋の六卿で最大勢力であった智氏に趙、魏、韓が勝利したのも、謀略を重視したからです。
世間のものは、「大国は戦えば必ず勝ち、小国は滅びる」と言いますが、
実際には、強大なはずの殷の紂王に弱小のはずの周の文王が勝利しております。
これが戦わずして勝つと言う事です。現在の世の中を見るに、戦いばかりを好む者が多く謀略が足りていません。」
これが国を滅ぼす原因なのです。
龐煖の言葉に武霊王が感化し「国家の存亡は、自分の在り方にある。」と答えた話があります。
武霊王は、胡服騎射なる軍事改革を行い中山国を滅ぼしています。
武霊王と言えば、胡服騎射ばかりに目が生きがちですが、謀略も駆使して中山国を滅ぼしたり領土を拡げた可能性もある様に思います。
因みに、趙の武霊王は趙何(恵文王)と、公子章の後継者問題で失敗し、沙丘で餓死しています。
武霊王は、龐煖からは敵国を乱す様に進言されましたが、実際には自分で国を乱してしまったとも言えるでしょう。
尚、龐煖の言葉に武霊王は感銘を受けた様ではありますが、武霊王の時代に龐煖が将軍になった記述は存在しません。
因みに、龐煖が謀略を駆使するとしたやり方は、秦王政に李斯や尉繚が他国の王と大臣を離間させる様に進言した話もあり、趙よりも秦で活発に行われたとも言えるでしょう。
趙は佞臣である郭開の言葉を信じ、李牧を処刑し司馬尚を庶民に落した事で、国は滅んでいます。
趙の恵文王と孝成王の時代
龐煖の名は、趙の恵文王と孝成王の時代には出て来ません。
恵文王の時代はキングダムでいう三大天の時代とも言えるでしょう。
さらに、趙には楽毅や田単などの名将も加わる事になります。
孝成王の時代は、長平の戦いで秦の将軍である白起が、趙括の大軍を破るなどの事件が起きています。
その後に、王齕、王陵、鄭安平などが趙の首都である邯鄲を包囲しますが、趙の宰相である平原君、魏の信陵君、楚の春申君など戦国四君の活躍により救われています。
ここでも龐煖が何をしていたのかも分からず、記録がありません。
しかし、趙の悼襄王の時代になると、龐煖の名前が突如現れます。
龐煖が将軍となる
趙の悼襄王が即位すると、将軍を廉頗から楽乗に変えてしまいます。
怒った廉頗は楽乗を攻撃し、楽乗は逃亡してしまい、廉頗も魏に出奔する事になります。
この様な時期に、龐煖は将軍となりますが、趙の悼襄王と龐煖に関しては、次の話があります。
悼襄王「君主は何をするのが最適だと思うか。」
龐煖「賢臣を登用するべきです。殷の伊尹、斉の管仲、越の范蠡などの名臣を用いた国は栄えております。
自分のお気に入りの臣下ではなく、名臣を用いるのが肝要です。
ここで注意しなければいけないのが、名臣であっても、名が知られているとは限りません。
扁鵲と魏の文侯の話が伝わっており、扁鵲は伝説的な名医ではありますが、扁鵲よりも二人の兄の方が腕は上だと言うのです。」
悼襄王「どういう事じゃ。」
龐煖「扁鵲の一番上の兄は、もっとも腕はありますが、相手が病気に掛かっていると気が付く前に、治してしまう為、名が知られていないと言います。
次兄は少し体調が悪くなると、察知して治療してしまい、扁鵲はいよいよ体調が悪くなってから手術を行ったそうです。
魏の文侯は扁鵲の言葉を悟り「国の病が大きくなってから、名臣を用いても手遅れだ。」と言ったとされています。」
悼襄王は龐煖が優れた人物だと認め「龐煖先生が趙にいれば、儂を傷つける事は誰も出来ない。」と述べた話が伝わっています。
悼襄王の時代に趙軍を率いる代表的な将軍が龐煖だと言う事を考えると、趙の悼襄王は龐煖をかなり気に入った様に思います。
尚、趙の悼襄王の曽祖父が武霊王であり、龐煖が悼襄王の時代に将軍になったとすれば、少なくとも50年は経過している事になり、かなりの老体で将軍になったと言えるでしょう。
趙の武霊王の時代と悼襄王で年月が離れすぎている事から、龐煖という同名の人物が二人いた説が出るわけです。
劇辛との戦い
龐煖が将軍となった事が、燕に伝わる事になります。
燕の劇辛は、燕の昭王の時代に「隗より始めよ」の政策により、趙から燕に移った武将であり、趙にいた頃は龐煖と仲が良かった話があります。
燕王喜は、劇辛に龐煖の事を訪ねてみます。
すると、劇辛は次の様に答えています。
劇辛「龐煖など至って与しやすい相手です。」
この言葉を聞いた燕王喜は、劇辛を将軍とし、趙軍と戦わせる事になります。
龐煖と劇辛は戦場で戦うわけですが、結果で言えば、龐煖が大勝し、劇辛は燕軍2万を失う敗北を喫する事になったわけです。
劇辛は、龐煖を侮り敗北したと言ってもよいでしょう。
龐煖と劇辛の戦いは、史記だと結果のみが書かれており、どの様な戦いだったのかも分かってはいません。
史記も趙が燕を攻めて龐煖と劇辛が戦ったように書かれる個所もあれば、逆に燕が趙を攻めて龐煖と劇辛が戦ったような記述もあります。
龐煖と劇辛が戦った事は間違いなさそうですが、どちらが宣戦布告し攻撃を仕掛けたのかは不明です。
尚、史記の老子韓非子列伝では、趙には「劇子の教えがあった。」と記述があり、劇辛は趙では名が通っていた武将だったのかも知れません。
それに対して、龐煖は大器晩成型の将軍だったとも考える事が出来ます。
因みに、劇辛の「与しやすい」は「親しみやすい」とも考えられていて、龐煖は気さくで親しみやすい人物だったのではないか?とする説もあります。
蕞の戦い
紀元前241年の蕞の戦いは、龐煖最大の見せ場と言ってもよいでしょう。
龐煖が趙、楚、魏、燕の精鋭を率いて、秦の奥深くまで攻め込んだ戦いです。
前年に龐煖が燕を破った事で、和睦の条件として燕が合従軍に参加する事になった可能性もあります。
さらにいえば、紀元前241年は楚の春申君が楚、趙、韓、魏、燕からなる合従軍を率いて、函谷関を攻めた話しがあります。
これを考えると、春申君率いる合従軍の函谷関の戦いと、龐煖の蕞の戦いは連動していたと考えるべきでしょう。
龐煖の軍は趙、楚、魏、燕の精鋭から構成された記述が、史記の趙世家にあり、春申君の軍は囮であり函谷関に秦軍を釘付けとし、龐煖率いる合従軍が秦の首都咸陽を落とす作戦だった様に感じます。
史記の記述では、龐煖は寿陵に陣を布いた話があります。
寿陵は、現在の秦王(秦王政)が生前から作り始めた陵墓の事であり、現在の始皇帝陵である兵馬俑の辺りだと考えられます。
現在の地図だと、咸陽と兵馬俑は60キロほどしか距離が無く、龐煖の軍はかなり奥深くまで合従軍を率いて攻め込んだ事になります。
しかし、史記によれば龐煖の合従軍は蕞を抜く事が出来ずに、撤退しています。
函谷関の戦いで春申君が敗れた事で、秦の奥深くで孤立する事を恐れ、蕞から撤退した様にも感じました。
春申君列伝に、函谷関の戦いで合従軍が敗れた事で、春申君が楚の考烈王の信頼を失った話があり、春申君は何かしらの失態を犯したと感じるからです。
龐煖は蕞から撤退した後に、意地を見せ軍を斉から秦に移動させ、斉の饒安を抜く活躍を見せています。
史記では、龐煖の記述は、ここで終わりですが、韓非子では蕞の戦い以降も名前が登場する為、函谷関の戦いや蕞の戦いで敗れはしましたが、趙の悼襄王には一定の評価はされ将軍の位を剥奪されなかったのでしょう。
尚、史記では蕞の戦いの後に、慶舎や傅抵を平邑と東陽に配置した記述があり、趙の悼襄王が秦軍に備えて将軍を配置したのでしょう。
悼襄王時代の趙の代表的な将軍は、北にある代の長官をしている李牧、趙の中央軍を率いる龐煖、東西を守る慶舎と傅抵と考える事も出来ます。
鄴の戦い
龐煖は北方にある燕の貍と陽城を攻撃し、大暴れしたわけです。
しかし、ここで秦は王翦、桓齮、楊端和の三将に命じて、趙の首都邯鄲の南にある鄴を攻撃させる事になります。
趙は不意を衝かれる形となり、龐煖に鄴の援軍に行くように命じます。
しかし、趙の最北端から最南端である燕に行くには、時間が掛かり王翦、桓齮、楊端和らが龐煖の援軍が到着する前に、鄴を陥落させてしまったわけです。
龐煖の史書における最後の記述は、韓非子にある鄴に間に合わなかった話となります。
龐煖の最後
龐煖の最後は、記録がなくよく分からないのが現状です。
秦の鄴攻めの年である紀元前236年は、趙の悼襄王が亡くなった年でもあり、それに伴い龐煖も将軍を辞めたか、更迭されたのかも知れません。
鄴の戦いの2年後である紀元前234年に、秦の桓騎と趙の扈輒が平陽で戦った記述があります。
平陽の戦いで、趙軍を率いているのが扈輒であり、龐煖が失脚したか、寿命で亡くなった事から、龐煖に代わり扈輒が将軍となり秦軍と戦った様にも感じました。
平陽の戦いでは、扈輒は桓騎に敗れ10万の兵を失った記述があり、かなり大規模な戦いだったのでしょう。
それを考えれば、龐煖は紀元前234年までには将軍位を解かれて、趙の幽穆王には用いられなかったと考える事も出来ます。
尚、龐煖の最後の死因に関しては、記録がなく病気で死んだのか、討死したのかもよく分かっていません。
原泰久先生が描く漫画キングダムでは、鄴の戦いの最後に、龐煖は李信に討たれた事になっていました。
キングダムはあくまで漫画ですが、龐煖が李信に史実でも討たれた可能性はゼロではない様に感じます。
李信は、王翦、羌瘣、楊端和が趙を滅ぼすと、秦王政に刺客である荊軻を送りつけてきた燕に攻撃を仕掛け、太子丹を討ち取った記述もあるわけです。
史実の李信は、年が若く勇壮だった記述もあり、それらを考慮すれば、李信が龐煖を討ち取ったとしても、おかしくは無い様に思います。
ただし、李信は太原方面に出撃していたとも考えられ、個人的には李信が龐煖を討つのは、無理があるとも感じています。
もちろん、史実では一騎打ちは滅多に起きない事も考慮するべきでしょう。
龐煖の最後は、謎がありよく分かってはいません。
龐煖二人説
龐煖が二人いたとする説が存在します。
趙の武霊王に進言した龐煖と、悼襄王の時代に合従軍を率いた龐煖は別人だと考える説です。
趙の恵文王と孝成王の時代に全く名前が出ない龐煖が、悼襄王の時代にいきなり名前が出るのは、違和感を感じます。
それを考えると、龐煖二人説もありではないかと感じました。
ただし、龐煖の事を考えると、劇辛の事も考える必要があります。
劇辛は、趙から燕に移った人物であり、龐煖と趙にいた頃は友人だった話が伝わっています。
劇辛は楽毅と共に斉を攻撃した記述があり、済西の戦いがあった、紀元前284年までには燕に入る必要があります。
劇辛が龐煖に敗れて亡くなるのが、紀元前242年であり、少なくとも42年の歳月があるわけです。
それを考えると劇辛もかなりの高齢で、龐煖と戦った事は十分に考えられ、龐煖は一人でもいいのかなとも感じています。
この辺りは、明確な記録があるわけではなく、何とも言えない部分でもあります。
尚、鶡冠子で龐煖は武霊王に進言した事になっていますが、鶡冠子の記述が間違いで武霊王ではなく、悼襄王であれば、話はもう少しスムーズに行くようにも思いました。
それでも、劇辛の記述も考えると、龐煖の年齢に関しては謎が多いと言えるでしょう。
三国志に龐統や龐徳など龐煖と同姓の人物が登場しますが、龐煖との関係は分かってはいません。
龐煖の書物
班固が書いた漢書の芸文志には、龐煖に関して次の記述があります。
龐煖二編 燕の将となった。
この記述を見ると分かりますが、過去には龐煖が著したとされる書物があった事が分かります。
ただし、始皇帝の焚書坑儒で焼かれてしまったのか、後の戦乱で失われてしまったのかは不明です。
しかし、過去には龐煖が著したとされる書物があった事は間違いなさそうです。
尚、ここで注目したいのは漢書には龐煖が「燕の将になった」とする記述がある所です。
多くの場合は、燕の記述は趙の間違いだと指摘されますが、燕の将となったのが本当であれば、龐煖が鄴攻めで救援に間に合わなかった時に、責任追及を恐れて燕に逃亡し、燕では将軍として受け入れたのかも知れません。
ただし、あくまでも想像の域を出ないとも言えます。