龐涓は戦国時代に魏の恵王に仕えた武将であり、史記の孫子呉起列伝に名前が登場する人物です。
史記によれば孫臏とは同門であり、孫臏との戦いのクライマックスである「龐涓この樹の下にて死せん」の話は劇的に描かれています。
龐涓は孫臏の才能を妬み足切りの刑に処する事に成功しますが、命を奪う事が出来ず、孫臏を仕留めなかった事で桂陵の戦いで破れ、馬陵の戦いでは命を落とす事になりました。
今回は孫臏のライバルでもあり、先に述べた様に「龐涓この樹の下にて死せん」の言葉でも有名な龐涓を解説します。
尚、上記はコーエーテクモゲームスの龐涓の画像ですが、明らかに龐涓の最後のシーンを描いた事が分かるはずです。
因みに、春秋戦国時代末期を題材にした漫画キングダムに龐涓と、読み方が同じである趙の龐煖がいますが、別人なので注意してください。
孫臏と龐涓の話はドラマチックに描かれており、キングダムでも番外編などで描かれる可能性がある様に感じています。
兵法を学ぶ
史記によれば龐涓と孫臏は共に兵法を学んだとあります。
この記述から、孫臏と龐涓は同じ師の元で兵法を学んだという事が分かります。
ただし、孫臏は孫武の子孫だとする記述があり、孫臏の家は兵法の大家であり、そこに龐涓が学びに来たのではないか?とする説もあります。
孫臏の家に龐涓が兵法を学びに来たのであれば、孫臏と龐涓の師は孫臏の父親なり、一族の誰かという事になるはずです。
物語の中では蘇秦と張儀同様に、孫臏と龐涓も鬼谷子に学んだとする話もありますが、史書に孫臏と龐涓が鬼谷子に学んだと書かれてはおらず、創作の可能性が高いとも言えます。
しかし、史記から読み取る事が出来るのは、龐涓は仕官する前から孫臏を知っていたという事です。
魏の恵王に仕える
龐涓は魏の恵王に仕官する事になります。
当時は魏が戦国七雄の中で最も強く、魏王は天子気取りだった話もあり、龐涓は「仕えるなら強国がいい」と考えたのかも知れません。
さらに言えば、出世の見込みの無い様な小国よりも、仕えるなら大国の方がよいと考え、立身出世を夢見て大国の魏に仕えた可能性もあるはずです。
龐涓も段々と功績を挙げて来たのか、魏の恵王に意見を述べる事が出来る立場へと出世していったのでしょう。
この時に、龐涓は同門であった孫臏の事を思い出したのか、孫臏を呼び寄せる事になります。
孫臏を招く
史記によれば龐涓は自分の才能が孫臏に劣ると考えており、その才能を妬み抹殺する為に呼び出した事になっています。
史記だと龐涓は自分の出世への妨げになると考え、今のうちに孫臏を消してしまおうと思った様な書き方をしているわけです。
ただし、龐涓がどの様な名目で孫臏を魏に呼び寄せたのかも書かれておらず、不明な部分もあります。
孫臏は魏で足切りの刑に処されてしまい、額には黥を入れられてしまいました。
史記ではこれが孫臏と龐涓の因縁の始まりとなります。
ただし、史記だと孫臏が刑罰を受けたのは、龐涓が陥れたからだとしていますが、龐涓がどの様な理由で孫臏を罠に落としたのかは記載がありません。
作家の宮城谷昌光氏は「足切りの刑」は私刑ではなく、国家が行うものだと述べ、足切りの刑を行うには、孫臏が魏の法律を犯す必要があるとも述べています。
それを考えると、龐涓は好意で孫臏を魏の恵王に推挙する為に招いたが、孫臏が魏で事件に巻き込まれてしまい、足切りの刑に処されてしまった可能性もあるとする考えも示しています。
魏では孫臏を外に出さない様にしたかの様な記述がありますが、孫臏は後に脱出し田忌に才能を認められ、斉の威王の師となり、龐涓の前に立ちふさがる事となります。
邯鄲を陥落させるも
紀元前354年に龐涓は魏軍を率いて、趙の首都邯鄲を包囲しました。
魏軍に攻撃を受けた趙の成侯は、斉の威王に援軍要請をしたわけです。
斉では宰相の鄒忌と段干朋の意見が割れますが、斉の威王は趙への救援を決めます。
斉の威王は孫臏を将軍に任命しようとしますが、孫臏が辞退した事で、田忌を総大将、孫臏を軍師として趙への派遣しました。
この戦いが龐涓と孫臏の初戦となります。
斉軍は西に向かって進撃しますが、孫臏は囲魏救趙の策を進言し、斉軍は趙の邯鄲ではなく、魏の大梁に向かい進撃を始めます。
斉軍が大梁に向かっている事を知った龐涓は、邯鄲に猛攻を加え、後に難攻不落と呼ばれる邯鄲を陥落させる事に成功しました。
しかし、龐涓にゆっくりとしている暇はなく、急いで軍を還し魏の大梁に向かいます。
孫臏は龐涓の動きを読んでいたかの如く、桂陵で待ち構えており、魏軍を多いに打ち破りました。
孫臏と龐涓の第一ラウンドは孫臏の計略が的中し、斉軍の勝利となったわけです。
桂陵の戦いだけを見ると龐涓はいい所もなく、敗れた様にも見受けられます。
しかし、龐涓は桂陵の戦いの前に、邯鄲を落城させる手柄を挙げている所にも注目すべきではないかと感じています。
この時の邯鄲がどれ程の守備力を持っていたのかは未知数ですが、後に邯鄲は長平の戦い後に秦の王齮、王齕、鄭安平などが包囲しますが、趙の孝成王や平原君が鉄壁の守を見せ落とす事が出来ませんでした。
趙の孝成王の時代の邯鄲籠城戦では、魏の信陵君や楚の春申君の援軍があったとは言え、趙軍は長平の戦いでは白起により45万もの兵が失われていたわけです。
それにも関わらず、秦軍は邯鄲を落城させる事が出来ませんでしたし、秦と趙の最終決戦でも李牧が守る邯鄲に、王翦は手を焼きました。
趙の幽穆王が郭開や韓倉の讒言で李牧を処刑してしまいますが、それでも王翦は邯鄲を陥落させるのに数カ月を擁しています。
秦末期の反乱でも章邯は邯鄲に籠城されると厄介だと考え、邯鄲の城壁を徹底的に破壊し住民を移した話があります。
これらの事例を見れば、邯鄲は伝統的な堅城だった事が分かるはずです。
それを考慮すると、龐涓は邯鄲を落城させているわけであり、戦いでの采配に関しては、決して凡将ではなかった様に思いました。
ただし、龐涓が邯鄲を落とした事で、趙の首脳部は危機感を抱き、邯鄲を鉄壁の守備とすべく改修した可能性もある様にも感じます。
尚、龐涓は邯鄲を陥落させていますが、3年後に魏は趙に邯鄲を返還しました。
桂陵の戦い後に魏と斉の関係が悪化した事で、魏としては趙との友好を復活させる為に、邯鄲を返還したのかも知れません。
龐涓この樹の下にて死せん
桂陵の戦いで敗れた龐涓ですが、次に名前が登場するのが紀元前342年の馬陵の戦いとなります。
史記によれば魏軍は太子申が上将軍となり次将の龐涓と共に、韓を攻撃しました。
魏軍への援軍として趙軍が参戦した話があり、魏と趙の連合軍は韓に侵攻し、韓は斉に援軍要請をする事になります。
斉では田忌、田盼、田嬰らを将軍に任命し、孫臏を軍師としています。
斉軍は桂陵の戦いの時と同様に、魏の重要都市である大梁を目指しました。
魏軍は前回と同じ過ちを踏まない様に準備をしたのか、斉軍が大梁に向かっても動じず、斉に向かった話があります。
ここで斉軍を魏軍が追いかける形となり、太子申と龐涓は斉軍を追いました。
孫臏は奇計を持って対抗し、日ごとに竈の数を減らしていったわけです。
斉軍を追いかける魏軍は竈の数が減っている事を知り、斉軍の兵士は次々に逃亡したと考えました。
ここで龐涓は自ら騎兵を率いて斉軍を猛追する事になります。
龐涓は隘路である馬陵を通過しますが、この時には夜中になっており、そこには大きな樹木を発見する事になります。
龐涓は木に何かが書いてある事を知り、松明を付けて覗き込むと、次の様な言葉が記載されていました。
龐涓この樹の下にて死せん
龐涓が樹木を見たのと同時に、大量の弩から矢が発射され魏軍は次々に討ち取られて行きます。
龐涓は孫臏の策だと悟り、次の様に述べました。
孫臏「遂に豎子に名を成さしめてしまった」
龐涓は言い終わると自害し、魏軍は総崩れとなり太子申も捕虜となり馬陵の戦いは斉軍が大勝しました。
尚、魏軍は翌年に商鞅が率いる秦軍に公子卬が敗れた事で、戦国七雄最強国の座から転げ落ち、時代は秦・斉の二強時代に突入します。
龐涓の死は魏の凋落の始まりと見る事も出来るはずです。
馬陵の戦いを見るに、普通の戦いではありえない程に劇的な話になっていますが、竹書紀年では孫臏や龐涓の名が無く、代わりに斉では田肦、魏では穣疵が馬陵で戦った事になっています。
穣疵と龐涓が同一人物だとする話もありますが、不明な部分も多いです。