郭嘉は正史三国志に登場する人物で、曹操の軍師と言っても差し支えないでしょう。
郭嘉は荀彧により曹操に推挙されると力を発揮し、高い先見性を持ち先を見通す事が出来た人物でもあります。
曹操は赤壁の戦いで呉の大都督周瑜に敗れますが「奉孝(郭嘉)がいれば戦いに負ける事はなかったであろう」と語った事でも有名です。
郭嘉は智謀の士ではありましたが、品行方正とは言えない人物でもあります。
しかし、曹操が最も気が合った群臣は郭嘉だったのではないか?とも感じています。
郭嘉は薄命であり若くして亡くなってしまったのが悔やまれる所です。
郭嘉は正史三国志では程郭董劉蔣劉伝に郭嘉伝があり、下記の人物と共に収録されています。
郭嘉の生い立ち
正史三国志や傅子の記録によると、郭嘉の字は奉孝であり豫州潁川郡陽翟県の出身だとあります。
郭嘉は若い頃から頭脳明晰であり先を見通す目を持っていました。
郭嘉が生まれた後漢末期は混乱の時代でしたが、郭嘉は20歳の頃より姓名事跡をくらまし、密かに英傑たちと交わりを結び俗世間との交わりと断ったと言います。
郭嘉の生まれは170年であり、霊帝が崩御し董卓が実権を握る頃には、上記の様な生活をしていたのでしょう。
こうした事から多くの者は郭嘉の事を知らず、見識を持った人だけが郭嘉を知る所となったわけです。
それでも、傅子によれば郭嘉は20歳の時に司徒の役所に召し出されたとあります。
郭嘉は名士層の人間であり、司徒の役職に入る事が出来たのでしょう。
袁紹の元を去る
董卓打倒の為に連合軍が結成されましたが、董卓が長安に遷都すると、関東の地では群雄割拠状態となりました。
こうした中で、郭嘉は袁紹に会いに行くと、袁紹は郭嘉を礼遇する事になります。
しかし、郭嘉は袁紹が天下を治めるべき器量ではないと判断し、郭図と辛評に次の様に述べました。
※正史三国志 郭嘉伝より
郭嘉「知恵者と言う者は主君の人物像をはっきりと見定めるものです。
それを行うからこそ、全ての行為は安全に進み功業を打ち立てる事が出来るのです。
袁公(袁紹)はいたずらに人に遜っており、周公の態度を真似しています。
しかし、人の本質を見定めてはおらず、色々な行いはしますが肝心な部分が疎かであり、策略を好んでも決断力がありません。
それ故に、協力して何を救い天下に覇業を打ち立てるのは難しい事です」
郭嘉は郭図と辛評に「袁紹は使える値がしない人物だ」と述べた事になります。
郭嘉は袁紹の元を去る決断をしました。
潁川郡の名士の多くが袁紹に仕える中で、郭嘉は袁紹の元を去っており、明らかに異端な行動を取った事になるでしょう。
尚、郭嘉と郭図は姓が同じであり、親戚の関係だったのではないか?とする説もあります。
鍾繇の親戚の郭援も郭嘉の一族ではないか?とも考えられています。
曹操に仕える
潁川出身の戯志才はその策謀を高く評価されていましたが、早くに亡くなってしまいました。
※正史三国志 郭嘉伝より
戯志才が世を去ってから、計略について相談できる者がいない。
汝・潁には優れた人材が多いが、戯志才の後を継ぐ者はいないだろうか。
曹操は荀彧に戯志才に匹敵する人物を訪ねたわけです。
荀彧は郭嘉を推薦し、曹操は郭嘉を召し出し天下の情勢について話しました。
ここで曹操は郭嘉が優れた人物だと見抜き「私に大業を為させるのは、まさしくこの人だ」と述べています。
郭嘉も退出すると「あの人こそが私の主君だ」と語りました。
曹操は郭嘉を高く評価し、郭嘉もまた曹操を生涯の主君だと定めたのでしょう。
曹操は郭嘉を喜び直ぐに司空軍祭酒に任命しました。
曹操と袁紹
曹操は袁術、呂布などの群雄と戦いますが、袁紹の勢力には遠く及ばない状態であり、袁紹は公孫瓚を滅ぼす最終段階に入っていました。
曹操は献帝を擁してはいましたが憂慮し「袁紹は天子に対し不遜な行動を取っているが力では太刀打ちが出来ない」と郭嘉に相談しました。
※傅子より
郭嘉「劉邦と項羽は同じ力ではなかった事は公(曹操)も知っての通りです。
高祖(劉邦)が勝っていたのは智力だけでしたが、項羽は強かったのに最後は捕らえられました。
私が密かに思うに袁紹には10の敗北の種があり、公には10の優位な点があります。
袁紹の兵は強大ですが、打つ手はありません。
郭嘉は曹操に袁紹よりも勝っているから、最終的には勝てると述べたわけです。
郭嘉は袁紹と曹操を比較して、次の点に着目しました。
道・・・袁紹は面倒な礼式作法を好むが、曹操は自然な姿に任せている。
義・・・袁紹は天子に歯向かうが、曹操は天子を奉じて天下を従えている。
治・・・袁紹は政治に締まりがないが、曹操は厳しく取り締まっている。
度・・・人を信用しきれず血縁関係を重視する袁紹よりも、能力主義の曹操の方が優れている。
謀・・・袁紹は策謀の議論はするが実行に移せないが、曹操は方策が見つかればすぐに実行に移し変化に対応する事が出来る。
徳・・・袁紹は議論を好み外見ばかりを飾り立てるが、曹操は功績によって判断し誠実さを重視している。
仁・・・袁紹は目に見える惨状しか対処出来ないが、曹操は目に見えない事も対処できる。
明・・・袁紹の臣下は讒言で混乱するが、曹操の道義で統御している。
文・・・袁紹は物事がはっきりとしないが、曹操は礼を以って推し進め法を以って正す。
武・・・力と兵力だけを頼りとする袁紹よりも、少数でも用兵と作戦で曹操は巻き返している。
郭嘉は曹操に道・義・治・度・謀・徳・仁・明・文・武の点で袁紹に勝っていると述べたわけです。
曹操もここまで言われると思わず笑ってしまい「其方の言う事に耐えられるほどの徳を私は持つ事が出来るのだろうか」と述べました。
袁紹が曹操に勝っている人間的な部分を述べた後に郭嘉は、次の様に戦略を示しています。
郭嘉「現在の袁紹は公孫瓚を攻撃している最中です。
彼が遠征している隙に、呂布を討つべきでしょう。
呂布を捕まえずに、袁紹が侵攻を始め呂布が味方すれば、大きな害が生まれます」
郭嘉は曹操の人間的な部分を褒めただけではなく、戦略的な意見も述べたわけです。
曹操は郭嘉の言葉に納得しました。
実際に曹操は袁紹が公孫瓚を攻めている最中に、呂布や袁術を滅ぼす事になります。
呂布討伐
郭嘉伝によると、曹操は呂布を討伐し三度呂布の軍を破ったと記録されています。
呂布は撤退し下邳に籠城し守りを固めました。
下邳の戦いでは曹操軍の疲弊も激しく、曹操は撤退も考える様になります。
しかし、曹操の軍師とも言える郭嘉と荀攸の二人が揃って撤退に反対し、踏みとどまる様に主張しました。
郭嘉は次の様に述べています。
昔、項籍(項羽)は70余も戦い一度も負けなかったのに、勢力及び命を失い国は滅びました。
項羽が滅んだ理由は、武勇を頼みとし策謀に欠ける部分があったからです。
現在の呂布は戦いで打ち破られ消沈しており、内外で確固たる信念が欠落しています。
呂布の威力は項羽に及ばず、項羽以上に困憊しているのです。
勝ちに乗じて攻撃を仕掛ければ、必ずや捕虜にする事が出来ます。
現在の呂布は疲弊した項羽以上に与しやすい相手だと曹操は述べた事になります。
曹操は郭嘉の進言を受け撤退を取りやめました。
この後に荀攸が水攻めを考案し実行すると、城内は団結力を失い宋憲、侯成、魏続らが陳宮を捕縛し投降しています。
さらに、呂布も降伏し、曹操は呂布、陳宮、高順らを処刑しました。
郭嘉と劉備
過去に徐州で劉備は呂布の攻撃を受けて曹操の元に逃げてきました。
劉備に関する郭嘉の言葉が魏略と傅子で正反対になっており両方を紹介します。
魏略
魏略によると、劉備が曹操の元に逃げて来ると、曹操は劉備を豫州牧に任命し重用しました。
ある人が、曹操に向かって「劉備は英雄の資質を持っており、今のうちに始末しないと大変な事になる」と述べたわけです。
曹操も劉備を高く評価していた事から、郭嘉に相談しました。
郭嘉は次の様に答えています。
確かに、劉備は英雄としての資質をもっております。
それでも、公(曹操)は剣を持ち正義の兵を起こし人々の為に暴虐を取り去ろうとしているのです。
誠意を貫き信義に頼って英傑を招いても、尚、不十分でないかと心配します。
現在の劉備には英雄としての評判を備えており、危機に際し我が君を頼ったにも関わらず、殺害するとなれば、賢者を殺害したと悪評が立ちます。
悪評が立てば智謀の士は猜疑心を抱き心を変えて別の主君を選ぶ事になります。
そうなれば、公は誰と手を組み天下を制すつもりなのでしょうか。
一人の男を排除する事で、却って四海の内の期待をくじく事になるのです。
安危のきっかけになる事は察知すべきです。
魏略の記述によれば、郭嘉は劉備を処する事に対し、天下の評判を気にして反対しているわけです。
魏略に記述を見ると、郭嘉の言葉を聞いた曹操は笑って「其方はよく理解している」と郭嘉を褒めた話しとなっています。
傅子
傅子でも劉備が曹操の元を訪れ降伏すると、曹操は劉備を豫州牧としました。
さらに、曹操は劉備を賓客に対する礼式で待遇したとあります。
劉備を重用する曹操に対し郭嘉は、傅子だと次の様に述べた事になっています。
劉備は人並み外れた才能があり、人々の心を上手く掴んでおります。
部下の関羽や張飛は万人を相手に出来る英雄であり、劉備の為なら決死の働きをするのです。
私が見たところ劉備は人の下に立つような男ではなく、その計略は予測できません。
古の人は「1日敵を野放しにすれば数代の禍になる」と述べています。
早く処置をなさるべきです。
魏略では郭嘉は劉備を庇っている様にも見えますが、傅子では早めに始末する様に進言しているわけです。
さらに、劉備配下の関羽や張飛を「兵1万に匹敵する」とばかりに高く評価している事が分かります。
傅子の記述によると、この時に曹操は献帝を奉戴し天下に号令を掛けていた事から、英雄を招き入れ信義を明らかにしようとしており郭嘉の進言を受け入れる事が出来ませんでした。
後に袁術は袁紹の勢力に合流しようとしますが、曹操は劉備に袁術討伐を命じています。
曹操が劉備に袁術討伐を命令した事を知ると郭嘉と程昱は車で駆け付け、次の様に述べています。
郭嘉・程昱「劉備を野放しにすれば変事が起きます」
郭嘉と程昱は曹操を諫めました。
しかし、劉備は既に袁術討伐に出発しており、引き留める事は出来ませんでした。
案の定、劉備は反旗を翻し曹操と敵対する事になります。
傅子では「曹操が郭嘉の進言を採用しなかった事を後悔した」で締められています。
この様に魏略と傅子で反対の言葉述べられており、どちらが正しいのかは不明です。
ただし、郭嘉も最初の内は劉備を警戒しなかったが、段々と劉備の危険性が明らかとなり、曹操に劉備を排除する様に進言した可能性もあると感じました。
孫策の死を予言
孫策は袁術から兵を借り受けると、劉繇、厳白虎、王朗と次々に群雄を倒し短期間で江東の大部分を制圧してしまったわけです。
孫策は曹操が袁術と官渡で激突する話を聞くと、長江を渡り北伐を行い許昌を攻撃しようと画策しました。
小覇王と呼ばれた孫策が攻めて来ると知ると、多くの者が驚き恐怖しますが、郭嘉は次の様に予想しています。
※正史三国志 郭嘉伝より
孫策は江東を制圧したばかりであり、殺害した者は全て英雄豪傑であり部下に死力を尽くさせるのに長けていたものばかりです。
それなのに孫策は軽く考え警戒を怠っています。
例え百万の軍勢を持っていたとしても、野原を一人で行くのと変わりありません。
仮に刺客が孫策を襲ったとしても、たった一人であっても十分に相手になれる事でしょう。
私の見た所によれば、孫策は必ずや匹夫の手に掛かり命を落します。
郭嘉は孫策の不用心な性格から、孫策が命を落すと予言した事になります。
実際に孫策は許貢の養っていた食客により命を落しました。
この話が真実であれば、郭嘉の予見力は神の如きものとなるはずです。
ただし、裴松之は「最高峰の智者でなければ、人が何年に死ぬのかは予測できるはずもない」と述べており、孫策が許を攻撃する際に亡くなったのは偶然だと述べています。
尚、当時の孫策は江東を平定したと言っても安定した運営を行えていたわけでもなく、献帝がいる許昌への進撃は難しかったのではないか?とも考えられています。
孫策の北伐は陳登を討つためだと考えた方が自然だとも感じました。
劉備討伐
傅子によれば、徐州で乱を起こした劉備に曹操は早急に征伐したいと考えた話があります。
曹操は軍議を開きますが、多くの者が曹操が劉備を攻撃している隙に、袁紹が虚をつくのではないか?と心配しました。
曹操はためらって決断が出来ず、郭嘉に相談すると次の様に述べています。
※傅子より
郭嘉「袁紹の性格は優柔不断であり、素早く動く事は出来ないでしょう。
劉備は兵を起こしてから日が浅く人々を心服させる事が出来てはいません。
今、劉備を攻撃すれば必ず破る事が出来ます。
これは存亡の好機であり逃してはなりません」
郭嘉は袁紹が優柔不断で決断は出来ないから、その隙にさっさと劉備を片付けてしまえばよいと述べた事になります。
この時に袁紹陣営では田豊が袁紹に曹操を攻撃する様に進言しましたが、袁紹は袁尚の病気を理由に出陣せず、怒った田豊が杖を地面に叩きつけた話があります。
劉備の方でも攻めてきた曹操に対抗する事が出来ず、結局は袁紹の元に逃亡しました。
ここでも郭嘉は卓越した予見力を発揮した事になるでしょう。
ただし、裴松之は武帝紀では計略を決め劉備討伐を決断したのは曹操という事になっており、傅子との差異を指摘しています。
実際の所は、今となっては曹操の考えで劉備を急襲したのか、郭嘉の進言により動いたのかは分からない状態となっています。
仲間割れを待つ
曹操と袁紹の間で官渡の戦いが起きますが、曹操が辛勝しました。
袁紹が202年に没すると、曹操は黎陽にいる袁譚と袁尚を攻撃しました。
この時に曹操は袁譚や袁尚に連戦連勝しており、将軍達は徹底的に袁氏の軍を破る様に進言しています。
しかし、郭嘉は別の考えを持っており、次の様に述べました。
郭嘉「袁紹は二人の男子を可愛がってはおりましたが後継者を定めませんでした。
郭図と逢紀が遺児たちの謀臣となっており、その間に必ずや争いが起き離れ離れになる事でしょう。
事を急げば袁譚と袁尚は団結しますが、緩めれば互いに争う事になります。
南方の荊州にいる劉表を攻撃する素振りを見せて、彼らの変化を待つべきなのです。
変化がはっきりとした時点で攻撃を仕掛ければ、一気に平定する事が出来ます」
郭嘉は目の前の敵がいなくなれば袁譚と袁尚は互いに袁氏の後継者を主張し争いだすと考えました。
さらに、郭嘉は郭図や逢紀の性格も知っており「争いが起きないはずがない」と考えたのでしょう。
実際に荊州では曹操に味方した張羨や桓階が乱を起こし劉表と戦っていました。
ここで曹操は張羨らを助けるかの如く、南方に兵を向けたわけです。
曹操の軍が西平に到着した頃になると、袁譚と袁尚は冀州の主権を巡って争い始め袁譚が袁尚に敗れ平原に敗走しました。
ここで袁譚は郭図の策を採用し辛毗を派遣し、曹操に降伏を願い出る事になります。
曹操は袁譚を救い郭嘉は曹操と共に審配が守る鄴を平定しました。
さらに、曹操は南皮にいる袁譚を攻撃し冀州を平定する事になります。
これらの功績により郭嘉は洧陽亭侯に封じられました。
袁譚は世を去りますが、袁煕と袁尚は烏桓を頼り北方に落ち延びています。
人物を多数招聘
傅子によると河北が平定されると、曹操は青州、冀州、幽州、并州の名が知れた人物を多数招聘したとあります。
曹操は河北四州の招聘した人物を段々と臣下として使い始め省事・掾属としました。
これらは全て郭嘉の策略であったと記録されています。
郭嘉は様々な事で策を立てて進言したという事なのでしょう。
烏桓征伐
劉備の動き
曹操は北方に逃亡した袁尚及び漁陽、右北平、雁門の烏桓族を攻撃しようと考えました。
しかし、荊州の劉表の元には反曹操を掲げる劉備がおり、曹操が北方を遠征すれば劉備が北上するのではないか?と考えた者が多くいたわけです。
ここで郭嘉は次の様に述べました。
※正史三国志 郭嘉伝より
郭嘉「公(曹操)は威光を天下に鳴り響かせておりますが、蛮族たちは遠隔にいる事を理由に必ず防備を設けてはいません。
蛮族たちが防備を固めていない事を利用し、突如としてこれを攻撃すれば、撃破して勝利を掴む事が出来ます。
過去に袁紹は蛮族たちにも恩を施しており、袁尚と袁煕の兄弟は未だに健在です。
現在の公は河北四州の民を威勢で従えているだけで、徳を施してはいません。
ここで南征を行えば袁尚は烏桓の力を使い主君の為に命を投げ捨てる臣下を招き寄せる事になります。
蛮族がひとたび行動を起こせば民衆は蛮族に呼応し、それに従って蹋頓を叛逆に向かわせ高望みまでさせてしまう事になります。
この様な状態になれば、我は冀州や青州は我が方が領有する事は出来ないでしょう。
荊州の劉表は単に座って議論しているだけの人物です。
劉表は自分が劉備を制御するだけの能力がない事をわきまえておりますし、劉備を重く任用すれば制御出来ず、軽く扱えば劉備は働こうともしないはずです。
現在の状況であれば国を空にして遠征したとしても心配はございません」
郭嘉は劉表や劉備が動く事はないから、北伐を行っても大丈夫だと述べたわけです。
郭嘉が予想した様に劉表や劉備も動く事はしませんでした。
ここまで予見が当たるとなると、郭嘉が如何に凄い人材なのかが分かるはずです。
兵は迅速を尊ぶ
曹操は郭嘉や張遼らを引き連れて北方の易まで来ました。
ここで郭嘉は、次の様に曹操に進言しています。
郭嘉「兵は神の如き迅速を尊びます。
千里先の敵を急襲する為に輜重は重く、彼方の地に有利に辿り着く事は困難です。
そのうえ、奴らは攻めて来たと知れば防備を固めてしまいます。
輜重は留め置き軽装の兵に普通の倍の速度で進軍させ、不意の衝くのがよいでしょう」
曹操は郭嘉の進言を聞き入れ盧龍塞を出て真っすぐに烏桓の本拠地に向かいました。
烏桓の軍は曹操がやってきた事を知ると、慌てて迎撃の準備をして合戦となります。
白狼山の戦いでは張遼、曹純、徐晃などの活躍もあり曹操軍が勝利し、蹋頓は斬られ袁尚と袁煕は遼東に逃亡しました。
曹操は袁煕と袁尚の兄弟を追撃する様に考えますが、郭嘉は追撃する必要はないと述べます。
遼東の公孫康は袁煕と袁尚の首を斬り送って来た事で、北方は平定されました。
郭嘉の功績は極めて大きかったわけです。
郭嘉の最後
北方が平定された事で、曹操や郭嘉は柳城から撤退しますが、この最中に郭嘉が危篤状態となります。
北方遠征は強行軍だった事もあり、戦後にどっと疲れが来たのかも知れません。
実際に大戦後に亡くなる武将は多いです。
曹操は郭嘉が心配であり、曹操からの使者が入れ代わり立ち代わりに訪れる事になります。
しかし、回復する事はなく207年に郭嘉は38歳で世を去りました。
38歳であれば、まだまだ働き盛りであり郭嘉が薄明の天才にも感じます。
曹操は郭嘉の葬儀に臨席し、荀攸らの前で次の様に述べました。
※正史三国志 郭嘉伝より
曹操「諸君らは私と同年代じゃが、奉孝(郭嘉)が一番若かった。
天下が平定されれば、後事は任せるつもりだった。
それなのに中年で亡くなってしまったのは運命なのか」
曹操の言葉から郭嘉の死を悼むと同時に、後事を託そうとし如何に信頼していたのかが分かるはずです。
傅子によれば曹操は「悲しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝」と口ずさんだと言います。
後に曹操が赤壁の戦いで巴丘において疫病が流行り、周瑜に敗れ軍船を焼いた時に、嘆息して次の様に述べました。
曹操「郭奉孝がいれば、儂をこんな目に合わせる事はなかったであろう」
曹操は赤壁の戦い後にも、郭嘉の死を惜しんだわけです。
上奏文
郭嘉が没すると、曹操は次の様な上奏文を奉りました。
軍祭酒の郭嘉は征伐に従って11年が経ち、重要な議論があると敵を前にして変化に対処してきました。
臣の策略がまだ定まらぬうちに、郭嘉の方では既に処置が出来上がっていたのです。
天下平定の事業において彼の計略の功績は高く評価すべきです。
不幸にして薄命であり事業を完成させる事は出来ませんでした。
郭嘉の勲功を思い出すと忘れる事は出来ません。
八百戸を加増し、以前の分と合わせ1千戸とすべきだと考えております。
郭嘉は貞侯と諡され、郭奕が後継者となりました。
郭嘉の孫に郭深がおり、曾孫に郭猟がいる事が分かっています。
郭嘉の性格
正史三国志の郭嘉伝の最後に、郭嘉の品行について書かれています。
郭嘉は品行方正に定まった人ではなかったらしく、陳羣は郭嘉を批判していたとあります。
郭嘉の品行がどの様に修まらなかったのかは不明ですが、一般的には女性関係だったのではないか?と考えられています。
曹操も女好きであり、その点は郭嘉と非常に気が合った様に感じました。
郭嘉の品行が定まらなかった事で陳羣は何度も郭嘉を起訴しますが、郭嘉は平然としており意に介さなかったとあります。
郭嘉は三国志でも随一と言える程の予見力を持っており、曹操が自分を罰しない事が分かっていたのでしょう。
曹操は品行が修まらない郭嘉をさらに尊重し、それでいて陳羣の公正さを愛しお気に入りだったわけです。
荀彧への手紙
傅子によれば、曹操は郭嘉の事を思い出して悼み次の様に述べた話が掲載されています。
郭奉孝は40にも満たない年齢だったが、11年間共に苦労し苦しみや悩みは全て被ってきた。
奉孝は道理に明るく世の情勢に対し行き詰まる事も無かった。
私は後事を彼に託そうと考えた程だったが、突如としていなくなるとは思いもしなかった。
悲痛な思いを心に悼ませている。
上奏して郭奉孝の子(郭奕)を加増し1千戸にしてやったが、死者にとっては何の利益があろうか。
追憶の感情は深く、郭奉孝こそが私の理解者だった。
天下の人で理解してくれる者は殆どいない。
この事を考えても残念至極であり、何とした事だろうか。
また、別の荀彧への手紙では、曹操は次の様に述べています。
奉孝に対する追惜の念が心から消えない。
奉孝が下した時事、軍事に対する判断は人智を超えていた。
また人間は病気を恐れるものだが、南方は疫病が多い事から常に「私が南方に行けば生きては帰れない」と述べていた。
それなのに共に計略について論じあうと、先に荊州を平定するのが妥当だと結論付けていた。
計略の判断が真心から出ての言葉であり、何としても功業を打ち立てようと考え、自らの命をも放棄したのだ。
人に仕える心として、これ程の者は他にはない。
私がこの事を忘れるはずがない。
曹操の荀彧への手紙の内容では、郭嘉に対する思いをストレートにぶつけている事が分かるはずです。
郭嘉の評価
郭嘉は品行は定まらなかった様ですが、洞察力で考えれば三国志でも随一ではないかと感じました。
特に失敗もしておらず、述べた事は次々に的中したと言えるでしょう。
曹操陣営の中核を成した軍師が郭嘉だと感じました。
郭嘉があと10年長生きしていれば、歴史はまた変わったのかも知れません。
曹操が最も信頼した人物としては夏侯惇が挙げられたりもしますが、郭嘉もかなり信頼していた事が分かるはずです。
性格的にも曹操と郭嘉は馬が合ったのでしょう。
郭嘉が天才的な頭脳を持ちながらも、薄明だったのは残念に感じました。