荊軻と言えば、始皇帝(秦王政)をあと一歩まで追い詰めた刺客でもあります。
荊軻の場合は、燕の太子丹(燕丹)の願いを聞き入れて、秦に乗り込み、始皇帝を暗殺する直前まで行った事実があります。
実際に、史記刺客列伝にも掲載されていて、史実の話でもあるわけです。
しかし、荊軻の場合は刺客になってからが有名であり、それまでの前半生は知らない人が多いのではないでしょうか?
春秋戦国時代や秦の始皇帝の漫画や小説などを読んでも、太子丹に刺客の依頼をされた後の事しか書かれていない事が多いです。
そこで、今回は史記のあらすじに沿って、荊軻が刺客になる前や、どの様にして秦王政に近づいたか?などを解析したいと思います。
読み進めれば荊軻がどの様な性格の人物なのかも分かる事でしょう。
それと同時に、始皇帝暗殺に失敗した理由も見えてきます。
尚、上記の画像は横山光輝先生が1974年に書いた刺客伝という漫画の荊軻のです。
この記事を書くまで、お恥ずかしながら、こういう漫画が存在している事を知りませんでした・・・。
余談ですが、荊軻は原泰久さんが描く戦国七雄の戦いを題材にした漫画であるキングダムでも必ず登場する事になるでしょう。
衛の出身
史記の刺客列伝によると、荊軻は衛の出身だと記録があります。
ただし、祖先は斉であったと記載があるので、斉から衛に移り住んだのでしょう。
衛はどんな国?
衛という国を簡単に解説しておきます。
衛は周王朝を開いた武王の弟である、衛康叔が始祖にあたります。
殷から周に王朝が変わる時に、誕生した新しい国です。
春秋戦国時代に入る前の西周王朝時代の末期に、衛の武公が登場して国力を高める事に成功しています。
衛の武功は名君と言っても良い人物で、周の幽王が申公や犬戎に殺害されてしまいますが、周を助け平王を洛陽に入れる事にも活躍しました。
しかし、春秋時代に入ると衛の懿公が鶴を愛しすぎてしまった為に、国を滅ぼしてしまいました。
それでも、春秋五覇の一人である斉の桓公が国を復興したわけです。
衛の文公の時代は国力が増幅しましたが、晋の文公(重耳)に睨まれるなどしています。
国力は衰えていき、戦国時代に入ると魏の属国のような状態でした。
弱小国に衛はなっていたわけですが、衛の元君に荊軻が進言した記録が史記にあります。
衛の元君に進言を却下される
既に、超弱小国で戦争を行う事も出来ないような国である衛の元君に、荊軻がどの様な進言をしたのかは分かっていません。
弱小国が生き残る為に、何をすればいいのか?とか、そういう事を元君に説いたのではないか?と個人的には思っています。
一説によれば、荊軻は生まれ故郷である衛で、官僚になるために、衛の元君に自説を進言したとも言われています。
しかし、衛の元君は荊軻の進言を聞き入れることはなかったようです。
ここにおいて、荊軻は生まれ故郷の衛で、活躍する夢も絶たれたのでしょう。
尚、余談ではありますが、秦を法治国家に変えた商鞅も衛の公族の出身です。
そのため、衛鞅と呼ばれたりもするわけですが、商鞅も衛では用いられる事はありませんでした。
衛という国は、新しい事に対する反発する空気があった国なのかも知れません。
荊軻は喧嘩に弱かったのか?
史記を読んでみると、荊軻は口論となり喧嘩になった話が残っています。
しかし、この時の態度を見ると弱腰の様にも見えるわけです。
蓋聶に脅される
荊軻ですが、楡次で蓋聶と剣術論で揉めた話が史記に書かれています。
史記によれば荊軻は、読書と剣術を好んだとありますので、剣の腕のそこそこあったのではないかと考えられます。
蓋聶は、怒って荊軻を睨みつけると出て行ってしまったそうです。
ある人が荊軻を再び席に戻そうとすると、蓋聶は次のように言ったとされています
蓋聶「荊軻を睨み付けて脅したから、きっと立ち去ったはずだ!残っているはずがない」
荊軻を見に行ってみると、既に馬車で楡次を立ち去っていて、いなかったとされています。
史記を読むと、この時に蓋聶が脅しつけた事を得意げに語る様なシーンもあります。
これを見ると、荊軻は少し弱腰なのかな?とも感じてしまいました。
それか、韓信の股くぐりの様に、無用な争いを避けたのかな?とも感じたわけです。
深く考えれば、秦の荘襄王の2年に蒙驁(もうごう)が趙を攻めて楡次・新城・狼孟など37城を落とす大戦果を挙げています。
蓋聶と言い争った年が何年かは分かりませんが、楡次は秦と趙の最前線に当たる様な土地で、不穏な空気も流れていて、蓋聶もいる楡次にいる理由もないと判断して逃げた可能性もあるでしょう。
この辺りは、本人でないと分からない部分でもあります。
尚、戦国時代に合従の元祖とも言える蘇秦は、淮南子によると「徒歩の人」とあります。
しかし、蓋聶の元を荊軻が去った時に、「馬車で去った」と記述があり、これを考えると、荊軻は全くの貧乏人ではなく、馬車に乗れるだけの財産は持っていたはずです。
資産家では無かったかも知れませんが、蘇秦よりはお金を持っていたのでしょう。
尚、荊軻は斉の名族である慶氏の出身とする説もあります。
魯句践から逃げ出す
楡次を去った荊軻ですが、趙の都である邯鄲に行ったとされています。
邯鄲は堅城として有名ですし、安心感もあったのかも知れません。
しかし、ここで魯句践なる人物とすごろく遊びをしていて、揉めた記録があるわけです。
この時に魯句践が切れて、荊軻を怒鳴りつけると逃げ出したとする話があります。
これ以降は、魯句践と荊軻は顔を合わせる事は無かったようですが、荊軻が秦王であった嬴政(後の始皇帝)の暗殺に失敗した事を知ると次の様に述べています。
荊軻が剣に熟練してなかったのは、惜しい事だ。だが俺も荊軻を見抜けなかったのは、残念な事だ。
昔、俺は荊軻を怒鳴りつけた事があったが、荊軻の方も俺の事を大した奴だとは思わなかっただろうな。
これを考えると、荊軻は相手が平常心であると相手の顔色など考えずに、議論をするが相手が切れてしまうと、安全な場所に身を隠す人なのかも知れません。
魯句践は荊軻に対して、逃げたと思い口ばかりで度胸が無い人だと思っていたのでしょう。
しかし、燕太子丹の為に、刺客になった事を聞いて度胸が無かったわけではなく、魯句践と争っても何の利益もないと思って立ち去ったと考えを改め事がわかります。
荊軻が逃げたのは、度胸がないとばかりは言い切れない部分もあります。
高漸離と知り合う
趙の都・邯鄲を去った荊軻ですが、北方の燕に移動した事が分かっています。
燕では犬殺し(名前は不明)と筑(楽器の名前)の名手である高漸離と仲が良くなったとされています。
毎日の様に、犬殺しと高漸離の3人で酒を飲んだ話があります。
酒の興が高まってくると、高漸離が筑を打ち鳴らし、荊軻が歌い場を楽しんだとあります。
しかし、その後、泣き出したとする記述が史記にあるわけです。
泣き出した理由は、もちろん、本人でないと分かりませんが、荊軻は衛で官僚を目指したとも言われていて、もっと名を挙げたいと思っていたが、民間で埋もれている自分に対して、涙が出てきたのかも知れません。
三国志で劉備が、劉表の元にいた時に、髀肉の嘆という言葉がありました。
埋もれている事を劉備が嘆いたという事です。
荊軻の場合は、酒が入っていたのかも知れませんが、嘆くだけではなく、涙を流したとあるので、劉備よりも激情の人なのかも知れません。
しかし、荊軻と高漸離のやりとりのシーンは史記でも名場面と言えるでしょう。
燕の太子丹と知り合う
荊軻は燕の太子丹と知り合う事になります。
これが運命を決める出会いとなります。
太子丹が秦王政に復讐を誓う
太子丹は秦王政と幼馴染だったわけです。
太子丹と秦王政は、幼き日に共に趙の首都である邯鄲に行き人質生活を送り共に遊んだ仲でした。
太子丹が成人となり秦に人質に行きますが、秦王政は太子丹は冷遇します。
秦王政の態度に恨みを抱いた太子丹は燕に無断で帰国してしまいます。
太子丹は秦王政への恨みを晴らす為に、傅役の菊武に相談しますが、菊武は自分にはどうする事も出来ないと燕の処士である田光を紹介しました。
田光は太子丹に会うと荊軻を推薦する事になります。
田光と荊軻
田光は太子丹に会った後に、荊軻の家を訪れ、自分が太子丹に荊軻を推薦したと伝えます。
荊軻も田光の要請を受け太子丹と会う事を約束します。
この時に田光は、太子丹に言われた「他言なさらぬ様に」の言葉を気にして自刃しています。
荊軻は太子丹と面会した時に田光の事を伝えると、太子丹は驚き悲しんだ話が残っています。
荊軻が刺客となる
太子丹は荊軻に会うと、荊軻に刺客になってくれる様に要請します。
荊軻は自分が刺客になる様に言われるとは思ってはいなかった様で、驚いた話があります。
荊軻は太子丹に断りを入れますが、太子丹の熱意に負けて刺客になる事を了承しました。
太子丹は引き受けてくれた荊軻に対し、美女やご馳走を与え大いに持て成した話があります。
太子丹の狙いとしては、荊軻が秦王政を暗殺する事で、秦の内部は揉める事になると考えたようです。
秦の大臣である昌平君や昌文君、李斯などの心が乱れ、外にいる将軍である王翦、桓齮、李信、楊端和、羌瘣が疑心暗鬼となり内部と外部で秦は崩壊すると考えたのでしょう。
太子丹の焦り
荊軻は刺客になる事を引き受けましたが、太子丹は一行に秦に向かおうとしません。
そうこうしているうちに、秦は趙を滅ぼし、秦と燕は国境を接する事になります。
趙は郭開の讒言を信じ趙の幽穆王が李牧を処刑した為に滅亡したとも言えます。
秦の禍が燕に迫っているのに、動こうとしない荊軻に太子丹は焦りを覚えます。
太子丹は荊軻に話を聞きに行くと、荊軻は自分の「太子様にお会いしようと考えていた」と話す事になります。
太子丹は秦王政を信用させる為に、燕の肥沃なる地である督亢の地図と樊於期の首を持たせて欲しいと願ったわけです。
太子丹は督亢の地図は構わないが、「樊於期は秦王政の怒りを買い自分を頼って来た者だから考えなおして欲しい。」と言います。
荊軻は太子丹が樊於期を処刑する事が出来ないと悟り、自ら樊於期を説得する事になります。
樊於期を説得
樊於期は、秦王政の怒りを買い家族を処刑され燕に逃亡してきた秦の将軍です。
太子丹は義侠の精神を持ち、樊於期は天下に頼る者もなく自分を頼って来た者だから見棄てる事は出来ないと考えていました。
荊軻は樊於期と会うと次の話をしています。
荊軻「現在、秦王政は樊於期将軍の首に莫大な懸賞金を掛け、樊於期将軍の妻子や一族は皆殺しにされ財産は没収。現在の状況をどの様に思っているのでしょうか。」
荊軻の話を聞くと樊於期は天を仰ぎ涙を流し、次の様に語った話があります。
樊於期「儂は、それを思うと心が痛くてどうしようも無くなってしまう。しかし、私は無策でありどうする事も出来ないのです」
荊軻「ここで一言で言える。燕の憂いを無くし、樊於期将軍の妻子の仇を討つ方法があるのですが」
樊於期「どの様な方法なのでしょうか?」
荊軻「私が樊於期将軍の首を持参し、秦王政に献上します。秦王政は喜んで私に会うでしょうから。私がその場で秦王政を刺殺するだけです。これが成功すれば燕は秦の禍から逃れる事が出来ますし、樊於期将軍の妻子の敵も討つ事が出来るでしょう「」
荊軻の話を聞くと、樊於期は心が晴れ次に様に話します。
樊於期「今日は本当に良い話が聞けた。儂の首一つで燕が救われ、家族の仇を討つ事が出来るなら安いものである。」
次の様に樊於期は言い残すと、その場で自刃したわけです。
樊於期の話を聞いた太子丹は、急いで駆け付け涙を流した話があります。
出発しない荊軻
燕の太子丹は督亢の地図や毒入りの匕首を準備しますが、荊軻が秦に出発しようとはしません。
太子丹は荊軻が秦に行く気がなくなったのではないか?と心配し、荊軻に会いに行く事になります。
太子丹は秦舞陽を荊軻のお供に用意したと言い荊軻に出発を急かす事になります。
荊軻は秦舞陽は単なる乱暴者であり、秦の宮廷では役に立たないと述べます。
荊軻は自分の信用できる友人を共にして、秦に行きたいと述べます。
秦の禍が迫っている事に焦る太子丹は荊軻に「命が惜しくなりましたか」の言葉を発し、太子丹の言葉を聞いた荊軻は秦舞陽を共にし秦に向かう事になります。
尚、荊軻は友人を待っていた事になっていますが、誰を待っていたのかは不明です。
余談ですが、荊軻の共となる秦舞陽は燕の昭王の時代に楽毅と共に燕の領土を大きく拡げる事になった秦開の孫でもあります。
易水の畔
荊軻は秦に出発しますが、易水の畔まで太子丹や高漸離など事情を知っている者は白装束に身をまとったと言われています。
易水の畔で高漸離が築を鳴らし荊軻が次の様に歌った話があります。
風蕭々(しょうしょう)として易水寒し。壮士ひとたび去って復(ま)た還(かえ)らず。
荊軻は馬車に乗り秦に向かいますが、1回も振り返る事はなかったとされています。
暗殺に失敗
荊軻は秦の首都咸陽に到着すると、秦王政の寵臣である蒙嘉に贈り物をし秦王政に面会を望みます。
秦王政は蒙嘉に事情を聴くと燕が督亢の地図と樊於期の首を持参した事に喜び、荊軻に面会を許す事になります。
荊軻は秦の王宮で秦王政と面会する事になりますが、荊軻のお供である秦舞陽が震えだし秦の群臣に怪しまれる事になります。
荊軻は秦舞陽に対し、燕の田舎者であるため、天子に謁見した事もなく恐れ震えていると誤魔化したわけです。
秦王政は荊軻に向かい「秦舞陽が持っている督亢の地図を見せてみよ」と言うと、荊軻は督亢の地図を出しますが、地図を見ていくと最後に匕首が姿を現す事になります。
匕首を手にした荊軻は刺客となり、秦王政に襲い掛かります。
秦王政は逃げますが、秦の法律で武器を持った者は殿上に上がれない事になっていた為、秦の群臣は動く事が出来ませんでした。
殿上では秦王政を荊軻が追い回す形となります。
侍医の夏無且が荊軻に薬箱を投げつけて命中させると、秦王政は剣を抜き荊軻を討つ事になります。
荊軻は秦王政に斬られて動けなくなりますが、最後の毒入りの匕首を投げますが秦王政には当たりませんでした。
荊軻は暗殺が失敗した事を悟ると、次の様に語っています
荊軻「事が成就しなかったのは、秦王政を脅し土地を諸侯に返還する約束をし、太子様(太子丹)に報告したかったからである。」
荊軻が言葉を言い終わると、秦の兵士達が荊軻を殺害する事になります。
かくして、荊軻の暗殺は失敗に終わる事になったわけです。
秦王政は荊軻の事件で命は落としませんでしたが、肝を冷やされた事は間違いないでしょう。
秦王政の人間不信が加速される
秦王政は趙の王都邯鄲にいた頃に、虐められていた話もあり父親が秦王ではなく商人出身で秦の宰相となった呂不韋の子である可能性もあり、人間不信になっていた話があります。
燕の太子丹を冷遇したのも人間不信から来た行動にも感じます。
荊軻の事があり、さらに荊軻の友人である筑の名手である高漸離も秦王政の命を狙う事になります。
高漸離の秦王政暗殺計画も失敗に終わりますが、秦王政は荊軻と高漸離の事件以来、他国人を二度と近づけようとはしなかったとあるわけです。
荊軻と高漸離の行動は秦王政が人間不信を悪化させる要因になった事は間違いないでしょう。
その後の燕
荊軻の暗殺が失敗すると、秦王政は激怒し王翦に命じて燕の首都である薊を陥落させる事に成功します。
秦が燕を責めると代王嘉も燕に援軍を出しますが、秦軍に敗れています。
代王嘉は燕王嘉に手紙を送り、「秦が燕を攻めるのは太子丹が原因」と述べる事になります。
燕王喜は太子丹に刺客を送った話もあります。
太子丹は燕王喜の刺客に討たれた話と秦の李信に討たれた二種類の話がありますが、どちらが真実なのかは不明です。
この後に、秦は楚の項燕や昌平君を破り楚を滅ぼし、燕に攻め寄せて来る事になります。
燕王喜は遼東で迎え撃ちますが、王賁や李信に敗れた事で滅亡する事になります。
王賁は返す力で代も滅ぼし、王賁、李信、蒙恬の軍は斉に侵攻し、斉王建が降伏した事で秦は天下統一する事になったわけです。
荊軻の暗殺失敗は燕の滅亡を決定づけただけではなく、秦の天下統一も決定づけた様に感じました。
荊軻は評価されていた
荊軻を振り返って考察してみたいと思います。
ここまでを見て来た中では、蓋聶や魯句践と喧嘩をしたりして、余り評価されていない様に思うかも知れません。
さらに、衛の元君にもあしらわれている様にも見えるわけです。
しかし、史記の刺客列伝の荊軻の部分を見ると、衛では慶卿と呼ばれ、燕では荊卿と呼ばれていたとあります。
「卿」の文字は大臣を指したりする事が多く、衛でも燕でも評価されていた事が分かります。
さらに、史記には次のような記述があるわけです。
荊軻は酒飲み連中とは付き合っていたが、その人柄は沈着で読書を好んだ。
荊軻で歴訪した国々では、どこの地でも豪傑、賢人、長者(人望がある人)と交わりを結んだ
これを見ると、荊軻は多くの人と交わりを結び評価されていた事も分かります。
さらに、燕の田光も荊軻の事を高く評価したとあります。
これを見ると荊軻が多くの人に評価されていた事が分かるはずです。
荊軻が刺客として失敗した理由
荊軻が刺客として、始皇帝を追い詰めながらも失敗した理由ですが、本人は死ぬ直前に下記の様に語っています。
事(暗殺)が成功しなかったのは、秦王を脅し生きて帰って太子(燕太子丹)に報告するつもりだったからだ
この言葉を信じるのであれば、荊軻は斉の桓公を脅迫して魯の土地を取り戻した曹沫を真似ようとしたのかも知れません。
もちろん、最後にうそぶいた可能性もあるでしょう。
しかし、荊軻の性格を考えてみると、刺客に向いてない所があるような気もするわけです。
刺客列伝に登場する刺客は、曹沫、予譲、専諸、聶政、荊軻の5人がいます。
このうち、相手を殺してしまったのは、専諸と聶政の二人だけです。
専諸は、伍子胥が公子光(後の呉王闔閭)に推薦されて呉王僚を暗殺しています。
専諸は、公子光が暗殺に成功したら、専諸の家族の面倒を見る事を約束すると、ためらわずに呉王僚を暗殺しているわけです。
聶政は、厳仲子の為に韓の大臣である侠累を暗殺する前に、人を殺している過去があります。
それに対して、荊軻の場合は、蓋聶と魯句践と言い争った時は、姿をくらましてしまっています。
荊軻は読書を好んだり豪傑と交わって評価されたとすれば、義侠の人ではあるかも知れませんが、刺客になるよりは大臣や宰相になりたかったのではないでしょうか?
実際に司馬遷の書いた史記では、燕太子丹に頼まれた時に、一国の太子が自分に頭を下げる姿に憐みを感じて引き受けたような記述があるわけです。
予譲、専諸、聶政の場合は、ターゲットの暗殺の為であれば手段を選ばない様にも感じます。
それに対して、荊軻の場合は人間的な優しさが感じます。
これが秦王政を前にした時に、躊躇いの気持ちとなって表れてしまい、刺客として失敗し殺されてしまったのではないでしょうか?
魯句践が荊軻の事を「剣に熟練してなかった」と評していますが、別の部分では剣術を好んだとも書いてあるわけです。
これを考えると、魯句践がいう「剣に熟練してなかった」というのは、最後の気迫や殺気が足りなかった事を指すのかも知れません。
逆に、専諸、聶政、予譲や東周列国志で慶忌の暗殺に成功した要離であればチャンスだとみれば、後先考えずに一気に暗殺してしまった可能性があるように思いました。
ただし、予譲の場合であれば最初から殺気があり過ぎて、気づかれてしまい失敗したようにも感じますが・・・。
もちろん、荊軻が暗殺に失敗したのは、相棒である秦舞陽が役に立たなかったのもあるかも知れません。
しかし、荊軻自身の気概にも欠けるような気がするわけです。
それを考えれば、疑われただけで自殺してしまうような、田光の方が刺客としては向いているような気もします。
因みに、秦の始皇帝は荊軻だけではなく、高漸離、張良(劉邦の軍師)にも命を狙われていますが、暗殺される事はありませんでした。
それを考えると、始皇帝は非常に運が強い人物だと言えるのかも知れません。
尚、司馬遷の史記に書かれている荊軻が秦王政に暗殺をしようとした話は、現場にいた夏無且と交遊があった公孫季功と董生から聞いた話とあり、かなり信憑性は高いと思います。
史記には司馬遷の時代に荊軻の事を世間では「天が粟を降らせた。馬に角が生えた」と言われていた話が掲載されており、荊軻が始皇帝の命を狙った事で絶大なる人気があった事が伺えます。
荊軻の始皇帝暗殺は失敗しましたが、成功していれば歴史を変えた可能性は大いにある事でしょう。
荊軻の肝と臆病者の貂蝉(物語)
三国志には異説があり、不思議な話が存在します。
貂蝉は親の仇である董卓の命を狙いますが、貂蝉の外見が悪く王允は悩みます。
王允が困っていると、華佗が現れ、墓地から西施の首を貂蝉に移植したお陰で、貂蝉は美人に変身しました。
しかし、王允は貂蝉には「度胸がない」と悩んだわけです。
ここで華佗は、貂蝉に荊軻の肝を探し出して、貂蝉に取り付けようとします。
荊軻は始皇帝を暗殺しようとした時に、五体バラバラにされてしまいますが、荊軻の肝だけは固くて砕く事も出来なかったわけです。
華佗は荊軻の肝を貂蝉に移植させると、貂蝉に荊軻の力がみなぎって来て、無事に呂布と董卓を仲違いさせて、親の仇を討つ事が出来たとされています。
荊軻は始皇帝の暗殺には失敗していますが、始皇帝を暗殺しようとした勇気ある人物として、認識されていた事で、この様なコミカルな話が出来たのでしょう。
参考文献:ちくま学芸文庫・史記 春秋戦国完全ビジュアルガイド