王齕(おうこつ)の史実の実績などを紹介します。
史実の王齕は、韓・魏・趙などの三晋の国々と戦った記録が残っている将軍です。
王齕は、長平の戦い頃から将軍としての存在が史記などで確認する事が出来ます。
キングダムでは、名前だけは秦の六大将軍の一人として名前が挙がっているわけですが、史実の実績に関して言えば、蒙驁の方が上ではないかと個人的に思っています。
しかし、全く功績が無かったわけではなく、強国である秦の国力を背景に功績を挙げた将軍とも言えるでしょう。
今回は、王齕の史実の戦績などを中心にしたお話です。
尚、王騎のところでも書きましたが、王齕と王騎は同一人物説があります。
その辺りは、王騎の記事で解説しています。
生涯の戦績を見てみると、それなりにしぶとい将軍だったのではないか?とも思えました。
長平の戦いが起きる
春秋戦国時代を通じて最大の戦いと呼ばれているのが、長平の戦いです。
戦国時代の中期は、斉と秦の二強時代でした。
しかし、斉の湣王は燕の昭王の恨みを買い、楽毅率いる合従軍により壊滅的な打撃をくらい大きく国力を落としています。
楽毅が燕の後継者である燕の恵王との確執から趙に亡命し、斉の田単が燕に奪われた土地を全て奪還しますが、斉は弱体化してしまいます。
斉が脱落した事で、秦の一強時代に突入していく時代です。
戦国七雄の一国である韓はひょうたんの様な形をした国土を持っていましたが、ひょうたんの「くびれ」の部分である野王の城を秦により陥落されています。
これにより韓の北部は孤立してしまいます。
韓は北部の広域である上党郡を秦に入れようとしますが、上党郡の太守である馮亭が一計を案じて、趙に上党郡を割譲してしまいます。
韓としては、趙が上党郡を貰いうければ、秦は怒って趙を攻めるから、韓は秦の災いを脱却する事が出来ると言う策です。
趙の孝成王は迷うわけですが、平原君の意見を採用して、廉頗に上党郡を接収させる事にします。
これに対して激怒した秦が趙を攻めますが、ここにおいて長平の戦いが始まったわけです。
秦は大将として、王齕を任命しています。
王齕が廉頗を相手に連勝
長平の戦いが始まりますが、趙の将軍として任命されたのは廉頗です。
廉頗と言えば、戦国時代でも5本指に入るほどの戦上手だと言えます。
知名度で言っても、王齕よりも廉頗の方が圧倒的に上でしょう。
しかし、戦いが始まると秦軍に勢いがあり王齕は、廉頗率いる趙軍を何度も破っています。
ただし、決定的な勝利をしたわけではなく、局地戦で勝ったという事です。
秦軍の勢いが強いと判断すると、廉頗は土塁で守りを固め出撃しなくなります。
王齕は、たびたび趙軍を挑発し、戦いを挑もうとしますが廉頗は応じません。
王齕が攻めあぐねる
王齕は、戦いの序盤でこそ連勝して勝利を得ますが、決定打を打つことが出来ない状態です。
廉頗は、守ってばかりいて、まともに戦おうとしません。
見方によれば、王齕が優勢に戦いを進めたとも言えますが、実際には、守りを固めた廉頗の前には攻めあぐねている状態だったのでしょう。
廉頗が攻撃をしなかった理由ですが、秦兵の疲れを待ったとも言われていますし、外交上の転換を期待したとも言われています。
しかし、長平の戦いを見ると、趙の孝成王と廉頗は連携が上手く取れていないようにも見えますし、外交の転換を期待するのは難しい状態だったように思えます。
楚や魏を相手に外交もしていますが、鄭朱(趙の貴族)を秦に入れるだけで巧みな外交とは言えませんでした。
当時は、趙の重臣である藺相如が重病であり、巧みな外交が出来なかった可能性もあります。
それを考えると、廉頗は秦兵の疲れを待っていた説の方が有力かな?とは感じています。
しかし、廉頗にとってみれば、刎頸の交わりを結んだ友である藺相如が重病で、宮廷にいないと言うのは不安要素だったはずです。
王齕が白起の副将となる
趙の孝成王の元に流言が舞い込んできます。
「秦が本当に恐れているのは、趙括が将軍に任命される事だ」という情報です。
秦の昭王や范雎は廉頗が相手では、勝利する事が出来ないと判断しての流言とも言えます。
しかし、これを信じた趙の孝成王は、廉頗を更迭し趙括を将軍に変更します。
秦の昭王も、将軍を王齕から白起に変更したわけです。
王齕は、白起の副将となっています。
白起ですが、既に韓・魏・趙・楚などの国々に大勝していて、斬首した人数は50万人ほどいたわけです。
当時では、名将として名は広まっていましたし、趙括が警戒しないように、総大将の変更は内密に行われています。
王齕が白起を大将にする事に対して、文句を言った記録もありませんし、文句を言うようであれば、副将にはせずに国に帰らせたはずです。
それをしなかったのは、白起の手腕を高く評価していたのと、柔軟な人物だったからなのかも知れません。
もしくは、王齕は白起の下で戦争の駆け引きなどを学んでいた可能性もあるでしょう。
趙兵40万人を生き埋めにする
趙括が総大将となると、出撃命令を出し秦軍に対して攻撃を掛けます。
趙軍は40万の兵士がいたと言われていますので、大軍を利用して秦軍を揉みつぶそうとしたのかも知れません。
しかし、白起はわざと負けた振りをして、退却しますが伏兵で退路を断つ戦略に出ます。
これにより趙括は孤立してしまい、補給も出来なくなり兵士は飢えてしまいます。
最後は、秦に突撃を仕掛けますが、大敗して趙括は戦死し残りの趙兵は降伏したわけです。
白起は、降伏した趙兵40万を生き埋めにしたとも言われています。
この40万人の生き埋めに対して、王齕が賛成したのか反対したのかは記録が残っていないので分かっていません。
長平の戦いで勝利した秦ですが、趙が蘇代を使者として秦に向かわせています。
秦の宰相である、范雎を巧みに説き和議を結ばせています
尚、白起がこの和議が不満で范雎と不仲となっています。
王齕が皮牢を取る
長平の戦いの翌年に、王齕が趙の武安君を破り皮牢を取ったとする記述があります。
ただし、これには説があり長平の戦いの時に、白起が別動隊として王齕に皮牢を攻めさせたという話もあります。
趙に対する陽動作戦として、王齕に皮牢を攻めさせた説です。
尚、趙の武安君を打ち破った事になっていますが、武安君が誰なのかは分かっていません。
秦の武安君は白起ですが、趙の孝成王時代の武安君が誰なのかは分からない状態です。
後に、秦や燕との戦いで活躍した李牧も武安君になっていますが、時代がかなり違うので李牧だとは考えられません。
しかし、長平の戦いの時か翌年に、王齕が手柄を立てた事は間違いないでしょう。
邯鄲を抜けず
長平の戦い後に、秦は再び趙を攻めています。
一度は講和はしましたが、長くは続かなかったようで、秦は趙を攻めたわけです。
趙は、長平の戦いで40万人も斬首されていますし、野戦で抵抗する事は出来ずに、首都である邯鄲で籠城戦を行っています。
秦は最初に、王陵を総大将として邯鄲を攻めたわけですが、攻めあぐねてしまい一向に陥落させる事が出来ません。
秦の昭王は、長平の戦いであれほど大勝したわけなので、趙を簡単に打ち破れると思っていたのかも知れません。
秦の昭王は、王陵を更迭して、将軍に王齕を任命しています。
ここで、王齕が長平の戦いの時の白起になれれば良かったのですが、趙は宰相である平原君を中心に一致団結して守っていた事もあり、攻めあぐねてしまいました。
白起が自害する
王齕が邯鄲を攻めても、一向に落とす事が出来ないため、秦の昭王は白起に出陣させようとします。
しかし、白起は范雎と不仲になっていますし、出陣を辞退しています。
怒った昭王は、白起を庶民に落とし追放しますが、途中で自害させています。
長平の戦いで共に戦った、王齕は白起の死を聞いてどう思ったのかは定かではありません。
しかし、絶大なる功績を挙げた白起が無残に自刃させられてしまう所を見て、何かしら思った事は間違いないと感じます。
功績を挙げないと、罪に問われたりする事も、頭にあったのではないかと思います。
ちなみに、白起は趙の邯鄲の守りに対して「隙が無いから陥落させる事は出来ない」と言っている様に、この時の趙は一致団結していて、とても強かったのではないかと感じます。
趙に援軍が来る
趙は滅亡の危機にあったわけですが、善戦しています。
それでも、民衆も苦しみ厳しい状態にあったわけです。
この状況を打開するために、平原君が使者として、楚に行くと嚢中の錐の逸話で有名な食客・毛遂の活躍により、合従の同盟を結び趙に援軍を約束させています。
楚は、戦国四君の一人で宰相をやっている春申君を総大将にして、趙の救援に向かわせています。
平原君は妻が魏の信陵君の姉だという関係を利用して、信陵君に魏に援軍を出す様に依頼しているわけです。
信陵君は国軍を動かして、趙を救おうとしますが、兄である魏の安釐王が許さなかった為に、魏の将軍晋鄙(しんぴ)の兵権を勝手に奪ってしまい趙の援軍に駆けつけています。
さらに、趙の宿場役人の子である李同は、決死隊を組織し秦に戦いを挑み、秦は度々敗れて陣を後退させています。
平原君は、全財産を投じて戦ったとも言われています。
魏の信陵君と楚の春申君の援軍が到着すると形勢は完全に逆転して、王齕はついに敗れて邯鄲を落とせずに撤収する事になります。
魏を攻めて大勝する
王齕は、邯鄲から引き上げる事になります。
しかし、このまま普通に破れて敗戦を報告すれば、昭王から罰せられて処刑される事も頭に浮かんだのかも知れません。
実際に、白起が自害させられていますので、不安が頭をよぎった可能性もあるでしょう。
邯鄲から撤収しますが、汾城郊外の秦軍と合流して魏を攻めています。
魏は、信陵君が晋鄙から兵権を奪い取ると、「親子で従軍する者は親をかえす。兄弟で従軍する者は兄をかえす。一人っ子の場合は家に帰って孝行するように」と宣言して、軍を少数にしています。
信陵君は、趙を救うと自分は魏の法律を犯したと言い趙に留まっていますが、兵士は魏に返したわけです。
この信陵君の動きは、魏の首脳陣も予想外であったはずです。
そのため、王齕が魏を攻めても上手く対処できなかったと思われます。
王齕の方は、敗残兵と汾城郊外の秦軍をまとめて、魏を攻めたわけです。
今度は、王齕の方が負ければ罪に問われて後がない状態だったせいか、魏を散々に打ち破り6千人を斬首し、2万人を黄河に沈めたとされています。
さらに、秦将である張唐の軍と合流して寧新中を落としたとあります。
邯鄲は、堅城として有名ですし、抜く事は出来ませんでしたが、敗戦の後にも関わらず見事に挽回したわけです。
王齕のしぶとさも発揮されたのでしょう。
尚、邯鄲の敗北後も、王齕は史実で名前が確認出来るため、処刑はされなかったようです。
ただし、10年ほど名前が登場しませんので、謹慎処分はあったのかもしれません。
それか、白起が死亡すると、秦の軍事は滞っている様にも見えますので、記録される程の活躍は無かったのではないかと思われます。
韓の上党を抜く
王齕は、荘襄王の末年である紀元前247年に、韓の上党を攻めて太原郡を設置したと記録があります。
ちょっと、これに関して分かりにくい部分があるのですが、長平の戦いの直前に韓は野王の城を落とされてしまったわけです。
これにより韓は北部の上党の地域は孤立してしまい、趙に割譲したはずです。
しかし、荘襄王が韓の上党の地を全て取り太原郡を設置した事を考えると、再び韓が取り返したと言う事なのでしょうか?
もしかしてですが、王齕が邯鄲で破れた時に、どさくさに紛れて韓が野王や上党の一部を秦から取り返したのかも知れません。
戦国時代の後期は、史記をみると、とにかく秦が圧倒的な強さを見ていて、他の六国は成すすべもなく敗れているように見えるわけです。
しかし、実際には局地戦などでは、勝利を収めていて、秦からちょくちょく領土の一部を取り返すなどもやっていた可能性もあります。
ただし、王齕が上党を韓から奪い太原郡を設置してからは、韓は取り返す事が出来なかったようです。
この時の韓は、要地である負黍も摎(きょう)将軍により落とされています。
国としてはボロボロの状態だったのでしょう。
それでも、王齕が太原郡を設置したのは、秦の天下統一に近づける功績だと言えます。
しかし、王齕は同年にまたもや信陵君に敗れる事になります。
信陵君率いる合従軍に敗れる
信陵君は、趙を救った後に、魏に帰る事が出来ない状態になっていました。
信陵君が、魏の法律を破り国軍を動かしてしまったからです。
しかし、信陵君がいない魏は、秦にとって格好のターゲットとなっていたようです。
魏の安釐王は、罪を問わない事を条件に信陵君の帰国を要請します。
しかし、信陵君は罪に問われる事を恐れて帰ろうとしませんでしたが、食客である毛公と薛公に諫言されて帰国を決意します。
信陵君が魏に帰ると、安釐王は上将軍に任命して、秦と戦わせる事にします。
信陵君は自分が上将軍になった事を諸侯に知らせると、趙・韓・燕・楚の4国は魏と合従する事になります。
魏を含めた5カ国連合軍が攻めて来るわけですが、秦は蒙驁と王齕を将軍として反撃させます。
しかし、信陵君の前に黄河の南で敗れ去り、秦軍は函谷関まで逃げなければならなくなってしまいます。
信陵君は、函谷関まで行くと退却する事にしますが、これにより武威は天下に轟かせているわけです。
一般的に、この戦いは信陵君に蒙驁が敗れたとする話が多く、王齕は蒙驁の副将だったのかも知れません。
しかし、戦いに敗れた事は事実でしょう。
王齕の最後
王齕の最後ですが、史記には記録がないので何年に死んだのかは分かりません。
しかし、王騎と王齕が同一人物説があり、それを採用するのであれば、始皇帝3年である紀元前244年という事になります。
どの様にして死亡したのかは一切分かっていません。
戦場で死んだのかも、病死したのかも不明です。
紀元前241年に楚の春申君が主導で行われた函谷関の戦いや蕞の戦いがありますが、この時には王齕は亡くなっていた様に思います。
ただ、キングダムで汗明のセリフとして、「王齕は第一陣の俺にあっさり敗れて、手ひどく傷を負い、情けなく秦の領地に逃げ帰った」という言葉があります。
しかし、史実では汗明が戦場に立った記録もないので、楚の汗明に敗れて秦に逃げ帰ったが、その傷が元で亡くなったという事は無さそうです。
王齕の最後については、一切不明だと言う事です。
秦は渋い武将が多い気がする
秦と言う国ですが、他の国に比べると渋い武将が多い気がします。
渋いと言うのは、玄人好みに地味に活躍する将軍の事を指します。
六将軍で言えば、白起は超優秀であり中国史上屈指の名将と言えます。
それに比べると、王騎、王齕、司馬錯、摎などは渋い将軍だと言えるでしょう。
尚、摎に関してですが、キングダムでは女性ですが、史実では男性のはずです。
胡傷に関しては、趙奢に激しく破られている為、名将とも渋い武将とも言い難いでしょう。
ただし、胡傷は魏冄、白起と華陽の戦いで趙、魏の軍に大勝している事もあり、全くの愚将というわけでもないでしょう。
しかし、他国に比べると、秦は玄人好みの将軍が揃っているように感じるわけです。
もちろん、6大将軍以外でも、蒙武、張唐、麃公なども史実では渋い武将と言えるでしょう。
秦の国力と兵の強さにより、合戦で勝利を収めやすい傾向があるのかも知れませんが、この辺りが秦の底力と言えそうです。
尚、胡亥が即位して趙高が丞相となり実権を握ると、蒙恬だけではなく将軍たちもかなり粛清を進めたのかも知れません。
渋めの武将がいなくなった事で、項羽や劉邦は秦を滅ぼせた可能性もあるでしょう。
キングダムで楚の臨武君のセリフで「楚は国土が広いから楚の将軍となるのは他国よりも難しい」と得意げなセリフがありました。
しかし、戦国時代末期の将軍たちを見ていると、将軍となり活躍するのが難しいのは、明らかに楚ではなく秦だと言えます。
王齕も名将とは言えないかも知れませんが、兵を率いるのに優れた将軍だと考えています。
さらに、邯鄲の戦いで負けても引き上げずに、転戦して戦う辺りはしぶとい武将とも言えそうです。